経営者の立ち位置ー資本との関わりー [思考・志向・試行]

当然ながら、経営者と労働者は、くくりとしては同じ労働者である。
だが、経営者は労働者を使う立場であり、その意味ではだいぶ異なる。

マルクスは、すべての人間が「資本」に使われるといった。それを「疎外」という。
その意味では、経営者も労働者も同じであるが、やはりそこにはギャップが有る。

経営者の立場からいえば、社員の仕事の捗りは非常に重要だ。
利益があがるかどうかが、社員の働きにかかっているからである。

一人では仕事がしきれないから、それを他人にやってもらう。
これが経営者の基本的スタイルである。喫茶店で言えば、マスターという経営者に、
アルバイトという社員がいるという形だ。マスターはオーナー兼である場合もあれば、
雇われ店長ということもある。これが経営者でも、自己資金か、多額の外部資金なのか
という事と等価である。

さて、経営者の目的は社員の単位あたりの時間における労働力を最大化することである。
ある側面できれば、なるべくやすい賃金で、長い時間を働いてもらい、生産してもらうことだ。
そのための手段は沢山あるようでいて、ほとんど選択肢がない。

1.賃金を払う。
2.褒める。
3.脅す。
4.その他(信仰心・尊敬・カリスマの利用)

である。ファミコンのコマンドみたいになってしまったが、他人を動かすには、何かしらの
動機づけが必要である。その根本は賃金だ。また、褒めるや脅すというのは、心理的な
戦略である。アメとムチというようなものかもしれない。そして、最後は人間関係的な
信頼などの手段である。

労働してもらうということの意義は、本来的には「誰かを満足させる」という事だ。
それ意外は、手段になる。多くの人は、企業体が利益をあげるために労働が必要だと
考えている事だろう。それは実際に事実なのだが、利益を上げることは企業にとっての
最大のポイントではない。利益をあげ続けなければ、「誰かを満足させる」事が
できなくなるという事なのだ。

よって、別に賃金がなくても人は労働することができる。その労働の志向性は、労働主体の
気分に依存する。だから、誰かを喜ばせるために、路上で歌をうたってもいいし、言葉を
かけてもいいし、料理を作っても良いし、家を掃除しても良い。これらは立派な労働である。
労働というと、苦しいこととか、嫌なことと連想してしまうのは、そもそも間違えである。

だが、現実的には労働は苦しいことである。なぜか? それは、金を得る手段として、
労働を行うためである。金を得るつもりのない労働こそ、本来の人の有り様である。
要は他人の生活のお手伝いというものになる。狩猟採集的生活において、大物を獲ったら、
それを持ち帰り、村人で分けたことだろう。その時に「金を得るつもり」で懸命に
なったわけではない。みんなの喜ぶ顔がみたい、自慢したいというような気持ちが先行
しているはずだ。人は本来的に、そういう事を喜ぶという本性を持つ。

ところが、現代の労働とは、金を得るためのものである。金を得るような事をしたという
ことは、誰かを満足させたという事でもある。その意味では、かつてと変わらないはずだ。
だが、現代の労働は細分化が進み、自己の労働行為が他者の満足を満たす瞬間に立ち会うこと
から遠ざかってしまった。結果として、自分の労働で誰が満足しているのか不明な状態に
おかれてしまうのだ。

面白いことに、賃金の額は、そのような不明瞭な労働に従事する人間ほど高いように相場が
設定されている。本来的な労働の有り様からかけ離れているほど、儲かるのである。不思議だ。
逆に、他者の満足が見える位置にいる労働者は、たいてい低賃金に苦しんでいる。これも
また不思議である。およそ、手間の量の差なのだろう、後ほど触れる。

このことからも、労働と賃金とは本来的に関係はないのだ。労働という仕組みの上に賃金と
いう体系があとから乗っかったという事であろう。賃金が労働を乗っ取ったともいえる。

賃金に乗っ取られた労働は、市場で取引されることになった。労働の質により競争が発生する。
同じ仕事をするのにかかった額が小さいほど、競争力を発揮する。本来、労働は比較不能なの
だが、労働を市場にのせた瞬間に記号化されたものに変換され、その評価が資本主義合理性
によって行われるために、効率性や合理性が最優先される労働が要求されるようになる。

端的に言えば、日本の鉄道のようなものだ。どんどん正確なダイヤになるように力学が
働く。それは市場からの圧力だからだ。ラーメン屋でも同じかもしれない。ますますうまい
ラーメンになるように力学が働く。

その時、大抵の労働の質は、かけた手間に比例する。必要な労働の質があるとして、その質の
基準は年々あがってしまう。それは競争が存在するからだ。では、質をどうあげるのか?
一つには手間をかけることである。同じコーヒーでも、アフリカの奥地から運んできたものと、
ベトナムの畑からとってきたものであれば、前者の値があがる。お米を作る場合でも、
手植えの畑と、機械で作った畑ならば、前者の方が単価がとれるだろう。生産物の多くは、
かけた手間によって質を担保する。

手間は必ずしも、時間に比例はしない。昭和時代の日本人はここを勘違いしている。
かつて多くの手間をかけるとは、時間に比例していた。だが、技術はそれを解消する。
そして、同じ時間の中に、もっと多くの手間を入れ込むことも可能となっている。
また、その手間もある程度アルゴリズムを取り出すことで、オートメーション化できる。
こうして、必要な労働の質を満たす、労働時間は減った。

ところがだ。資本主義の合理性からいえば、労働は常に市場にさらされている。
労働の質をあげるには、手間が必要であり、手間には一般的に時間が必要である。

もし職場において、合理化が進んでいない作業過程(例えば印鑑を押す)があると、
そこが律速段階になり、時間に対する手間の密度は下がってしまう。すると、時間は
かかっていても、手間が増えることはない。こういう部分が多ければ、時間があろうと
も、労働の質は向上しない。これがまさに日本の問題点であると指摘され続けて久しい。

合理化できる部分、そもそも労働になっているのかもわからない労働があるのに、
それをそのまま放置するのは、さまざまな面で問題を引き起こす。長時間労働に
なりがちなのは、手間の合理化が進まないからだ。

要するにこういう事だ。まず大枠で、資本は労働の効率化を促す。労働の質の向上が
つねにプレッシャーとして存在するわけだ。これを実現するには、手間をかけるほかない。
ところが、日本ではこの手間を加える手段が従来型で、人力な事が多いわけだ。新しい
やり方を使わないためである。この古いやり方でも手間を増やせば、労働の質はあがる。
すると、とにかく時間をかけることが労働の質をあげることになり、長時間労働の元凶
となる。

一方で、新しいやり方ならどうだろう? ITを導入して、手間を合理化・効率化すれば、
労働の質を短い時間で上げられる。なるほど、じゃあそれを導入してみるかと、体力の
ある企業は考える。ところがだ、2つの問題点が生まれてくる。一つは、空いた時間問題
であり、もう一つは能力問題である。

新しいやり方は、手間をかなり省いてくれる。ハンコを押さなくても良い仕組みにしたと
しよう。たとえばサイボウズの許可制のようなもの。ところが、効率化すると、時間が
生まれてくる。日本では労働時間という概念の中に、特定の労働量と質という観念がない
ので、常に仕事時間は8時間などと枠が定められている。結果として、効率化して空いた
時間は、他の仕事で埋められてしまうのだ。そうなると、労働時間は短くなることはない。
せっかく手間を労力を減らして追加できるようになったわけだが、その分、空いた時間で
他の手間を作り出すことになるわけだ。

こうなると更に問題が出てきて、かつての仕事が効率化して手間が減るということは、
新しい仕事が入ってくる事になる。これが常に起こると、仕事の経験が活かせる部分は、
つねに仕事の総体よりも小さいものになる。むしろそのように小さくならないと、仕事の
効率化の意味はない。小さくしておいて、新しい仕事を繰り込む。そう、すると常に
新しい仕事のやり方を理解し、できる能力が求められる。これがあらゆる分野で起こる
ために、仕事が細分化し、その求められる能力のハードルが上がっていく。誰でもできる
とは言えなくなってくるわけだ。

また新しい方法は手間を軽減するわけだが、その習得には多少の時間がかかる上に、能力に
柔軟性を必要とする。これは、原理的に日本型年功序列体系とぶつかり合う。仕事の総体
を理解し、全体を見渡せるからこそ、上司には多額の賃金が支払われる。少なくとも、業務
はこなせるという最低限のスキルの存在を認められている。ところがだ、新手法を学び、
取り入れ、有効に活用できるのは若者である。年寄りにも能力のあるものはいるが、全体で
みれば、どうしても適応力に差がある。すると、上司は徐々に能力的にお荷物化することに
なる。業務全体の流れを見渡せるけれど、ここの作業については何もわからないという人物
になるわけだ。それは新手法の導入のせいである。

一般に新手法こそが、労働の付加価値を高めている。その中身が理解できない上司に
果たして、業務評価ができるだろうか? また、経営方針を決めることができるだろうか?
経営者が右往左往するのは、新しいテクノロジーへの無理解であり、その習得困難さである。
使えない50代~60代。今後はそういう人物がどんどん増えてくる事になる。いや、
そういう人物だらけになっているのにも関わらず、何も対策をしないがゆえに、失われた
20年が存在する。日本はかつての高度成長期(40年代~70年代)の幻想のままでいる。


さて上記の、古い手法や新しい手法を眺めてみると、もうお気づきだろう。
労働の中に手間を増やす。従来手法のような非効率的な手間は長時間労働を生む。
また、一方で、効率化した手間は、新しい仕事を増やす。結果、長時間労働を生み出す。
要するに、どちらにしても、労働者は長時間労働を追い求められるわけだ。残念であろう。

どうして長時間労働なのかには前提があった事を思い出そう。そう、ことの発端は、
労働の質を高める事であった。労働の質を高めるには手間を増やすほかない。だからこその
長時間労働である。では、質を高める理由はなんだったかのか? そう、企業の利益の
確保である。競争が存在する世界では、同じものを作り続けていては、いずれ存続が
難しくなる。利益を確保しなければならないから、商品における手間’密度’を増やす
しかないのである。

要するに、大量生産品において利益をあげ続けるには、長時間労働が義務付けられているのだ。


上記を踏まえると、経営者は無理難題をこなさなくてはならない。理不尽な要求を労働者に
おしつけることになる。経営者は、利益を確保し続けるために、労働の質を確保したいわけだ。
現代社会では、仕事をITなどで効率化し、空いた時間でさらなる手間を生産物に押し込める。
つまり、労働者は常に、新しいことを学び続けろと。そして、仕事に適応し続けろと要求する
わけだ。だが、人は物理的実体であり、老化する存在である。つねに適応し続けられるわけ
がない。

すると、組織内では、徐々に適応できなくなる壮年の人々がいて、適応的な若者を必要とする。
上司ができない仕事を、若者がすることになるのだ。ところが日本は年功序列賃金が基本である。
ロイヤルティを確保するという面や、人間関係の安定化という意味でとても優れているが、
時代にはそぐわない。優秀な若者たちは思う。なぜ、この使えない上司が俺よりも多くの年収を
得ているのだろう?と。

若者を雇う時に、経営側は「あなたには適応的な能力を求めます。
常に新しい事を学んで、手間密度をあげる事に励んでください。上司はあなたの仕事が理解
できないかもしれません。その時は説得してください。優秀なあなたならできるはずです。
その対価として、社内で一番低い賃金を与えます。仕事が上司よりもできるけれど、低い
賃金なのは、仕方がない事です。日本ではそれが普通なので。私達は、あなたに”雇用”という
場を提供できます。それでまずは満足してください。」と明に暗に言ってるわけだ。

例えばDeep learning。これを理解し適応できる人間が高給で雇われるとニュースになった。
それは、上記の矛盾があるためだ。そして、海外などでは、そのような能力に対して給料を
与える事が普通である。はじめから高い給料を払ってくれるところにいくだろう。中国や
アメリカではありふれた事。

日本のもっぱら経団連の側の論理は、そもそも時代に対して矛盾が生じているのだ。
こうして、優秀な若者は、日本のろくでも無い企業体制にあきれて離職する。
そもそも、時代のお荷物になっている壮年連中を食べさせるために、若者が利用させられる
ということ自体が変であろう。結局、企業のピラミッド体制とは、もともと、ネズミ講的な
発想で作られた組織であり、長く居続ける事でようやく元が取れる仕組みというわけだ。

彼らの若い頃にも同様のことはもちろんあっただろう。だが、今ほどそのズレは大きくなかった。
それに、資本が要求する労働の質向上もまだまだ上限まで余裕があった。だが、この70年で
ぼちぼちサチっているのではないか。

少しまとめてみると、
・資本は、労働の質向上を常に要求する。
・労働者は能力を常に拡張することを求められる。
・経営者は、利益確保のために長時間労働を強いる。
・結果的に、組織内秩序は不安定化する。(世代間問題、長時間労働、評価の指針問題)


じゃあ、手も足も出ないのか。いやそれは違う。
問題の手当の手段はレベルによって異なるだろう。本質的な問題解決は、
資本による要求をどう解消するかである。かつてはマルクスやエンゲルスは「革命」と
いった。だが、現代においてそれは非現実的に思える。とはいえ、根本的な解消は
この要求をどう扱うかであろう。これは今後50年や100年単位で思考すべき事柄である。

そんな事をいっていたら、死んじゃうよって。そりゃまさにそうである。よって、
まずは食い扶持を確保するほかない。そのときに、上記のような事態に巻き込まれることを
可能な限り避けるにはどうしたらいいのか。

現状の仕組みの上で企業が生き延びるには、特殊な手間を作り出すほかない。
つまり、独自性である。他の企業がつくらないものを作る事。上記の設定では、競争の
存在が、結局、長時間労働をもたらした。それは手法の良し悪しに関わらずである。
ということは、その競争性を排除すればいい。

すると、例えば、各地に存在する名産というのは、それに相当する。その土地でだけ穫れる。
それ自体に価値を見出してくれる人が一定数いれば、売上を確保できるだろう。
それは町中の商店でも同じこと。同じ物品を売る商売、小売店がスーパーや、イオンなどの
巨大ショッピングセンターに対抗するのは、まず無理である。効率化や合理化への体力に
よって、かんたんに差がついてしまう。だが、同じものを多少高くても買う理由がある
としたら、何があればいいのか。例えば、人。名物おばあちゃんがいる、名物猫がいる。
そんなことだろうか。他と差異化をはかり、その無形にみえるサービスに力をいれることだ。

もっと単純には、独自製品をつくればいい。オリジナルな商品である。真似されにくいものが
ベターである。特許をつかって確保するのもいいけれど、結局購買するかは、独自性と
その商品の意味性にかかっている。これは流行りのイノベーションという言い方でもいい。
わずかな差でも、差がついていれば、長い目でみて、競争に打ち勝つ事ができる。

さらに単純なのは、ブルーオーシャンを目指すことだ。誰もやってない事を商売にすれば
いい。新しい技術や、考え方によって、生産されるもの。そういうものを作り出す事。

とはいえ、これらはすべて、資本の要求下における対処法に過ぎない。
我々はもっと大きな目で、資本の要求からこそ、離れてしまう方がいい。

長くなったので、このへんで一旦切り上げにする。ここでは労働者側の論理について
触れていないし、労働の社会問題についても触れていない。それらは次の機会に記したい。

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