つらつらと、社会構造について [思考・志向・試行]

コロナ禍によって、いよいよ、化けの皮が剥がれてきた。
政治にしても、経済にしても、いままでよくもまあ誤魔化してきたものだと呆れる。

政商というものが明治には存在していた。戦後の財閥解体後に、
国は結局、擬似的な政商である特殊法人などを作り出し、そこに予算をつけて、
民間に金を流した。それを基幹産業に振り向ける事で、日本は高度経済成長に乗っかる
事に成功したわけだ。

その成功体験を抱えた老人たちは、いまだにそれをやれば良いと考えている。

国の予算は一定にしか出せない。だから、手続き上、どこかに金を置いて、
そこから流していくしか無い。予算は一年おきに決まるからだ。
そういう手続きをする際に、中抜きが横行する。事務手数料として億円という額が
必要なはずがない。だが、その利権構造を知った人々は、税金にたかって生きることにした。
そうして、その金の流れが出来上がると、それが滞らないように国に働きかける。
議員は、彼らに便宜を図る事で票を得て、配った金から寄付というキックバックをもらう。

こういう図式を知っては憤慨するという日々をこの数年間、過ごしてきた。
正直に言えば、一介の庶民が憤慨しても、せいぜい数年おきにある選挙で自民党の対抗馬に
票を投じることくらいしか出来ないわけで、その不毛さもずっと感じてきた。

そうして、こういうニュースだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ae9ec2221565123c329fcd82e84940ed93108239
自分のやったことにケツもまくれないのなら、なぜ受け取る?
全くもって、潔くない。これを大人というのである。

若者よ、こういう事を恥知らずにやる事を「成長」とか「大人」というならば、
そんなものを目指す理由はなんだ? 考えたほうが良いだろう。

おそらくは氷山の一角に過ぎない。全国の議員は戦々恐々としているのだろう。
一方で、金をばらまくことで票が動くというのなら、民主主義もへったくれもないのだ。

結局、金だ。
そういう価値観の信奉者たちで溢れた日本では、民主主義は金権主義になり、
票とは見返りに過ぎないと分かる。そして、そういった金に無関係な人々は、
それがどうした?とばかりに無関心であり、その一方で、家のローンを気にしたり、
スーパーの安売りを気にしたり、ウェブで最安値を探したりする。なぜ、労働者の
対価が低いのか、ちっとも考えたことがない人々なのだから仕方がない。



もういい加減、目を覚ませ。
既存の体制が揺らいで、人々が考え直す事があればと思っていた所にコロナである。
じゃあ、人々が何を考えたのか。何も考えない。考えるわけがないのである。

山口氏はいう。
https://www.businessinsider.jp/post-215273

本当に価値ある仕事は、なにか。人々の暮らしを守る仕事だろう。
所が、実際に対価が大きいのはあってもなくても、大した事ない仕事だ。

宣伝広告やコンサルティング、PRなど。
社会人類学者のデヴィッド・グレーバーが言う「Bullshit Jobs」に金が動く。
もしいま、これらが全部なくなっても、生活において困ることはない。

でも、一次産業やそれを配送するシステムや小売店がなくなったら人々は困る。
水道や電気、ガスなどの供給が滞ったら、人々は困る。
そういう事態においては、高給取りは何も出来ないだろう。

人々は価値を問い直す必要があるのだ。

山口氏が提唱するような話は、一種の落とし所ではあるが、残念ながらそちらにはいかない。
既存の体制は、それこそ岩盤のように固く、社会を蝕み続けるのだ。どうもシステムとは
崩壊するまでは方向転換は難しいらしい。

現代は資本主義というシステムが大手を振って歩いている。拡大再生産。
資本は増殖し続ける。だが、数字上可能であっても、現実は上限が存在する。
結局、実態の経済と、金勘定の経済の間にどんどんと乖離が発生し、金だけが膨張する。

この社会システムの中では、誰もが拡大再生産の枠組みに飲まれていく。
それは資本家、経営者、労働者問わずだ。そこに人の意志が介在しないかのように、
社会システムがぐるぐると回っていく。そして資本主義は巧みに様々なものを飲み込む。

人々は幻想の中で、このシステムを維持する力に洗脳されてしまった。
そうして、常にシステムの常識の中を泳ぐ。
人としてどうあるべきかを脇におき、人はシステムの奴隷になってしまうのだ。

個人が絶望する時、実は同時に希望が発生している。
何かが閉じれば、何かが開くのだ。そういう仕組みになっている。
だが、気が付かない。気がつけない。


多くの人達は、既存の体制にはまり込む。なぜなら、そう生きた方が効率が良いからであり、
ラクに人生を過ごせるからだ。ところが、残念なことに今の時代は変化が激しい。
かつての大企業はいよいよ首が回らなくなってきた。あと50年もつメーカーはあるかどうか。
そういう時代である。

成長を失った社会において、年功序列や年金といったねずみ講的システムが持つはずがない。
少子化を問題という人達はいるが、実はそれは問題でもなんでもない。むしろ成長が永遠に
続くと妄想している方が異常なのだ。なんなら歳をとらないつもりなのか?と。

日本は内需の国だ。8割は内需である。ならば、国の経済を回したかったら、
まずは、減税だろう。もしくは給料アップである。しかし、それも意味があるのだろうか?
既存体制を維持するだけじゃないのか?

現状の資本主義において人々が豊かになることを基準にしたら何が必要なのか。
どういう風に富を分配するべきなのか。我々はシステムこそ問い直さないといけないのだ。
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仕事してるフリー中間管理職ー [思考・志向・試行]

完全に邪魔な存在だ。

おそらく、多くの企業で困っているんだろう。
小さな組織ですら、困る存在、それが中間管理職的存在である。

中間の人間の大問題は、仕事の直接的成果がない事だ。
自分で作業をするわけでも、新しいプロジェクトを作るわけでもない。
つまり、自分で「生成」することができない。

すると「生成」を他人に依存して、それを自分の成果とするというマインドが育つ。
本当は他人の仕事なのに、立場的に自分の仕事といいはる権利を有すると勘違いするわけだ。

狡猾な振る舞いとしては、一見すると自分に判断する能力や権限があるかのよう振る舞い、
実態としては、宮台真司流にいえば「任せてブーたれる」何もしない人である。

部下の仕事をチェックするという行為は、部下の仕事内容をチェックできるという
判断能力を有する事が担保されている時だけだ。他部署の結果を判断できることはない。
ただ意見するだけに過ぎない。

自覚がある中間管理職は別によい。しかし、無自覚な管理職が存在する。


日本のでかい組織にはおそらくこういう「任せてブーたれる」人間がゴロゴロいるんだろう。
そして、出てきた生成物に端からケチをつけて仕事をしているつもりになっている。
ケチをつけるなら自分で直せばいい。教育が必要なら、どうやればいいのか教えればいい。
ただそういうことだろう。

大抵の物事は正解がない。だから、ただ中管理職の人間のセンスや感覚で、物事が判断される。
自分で作り出さない人間には、その判断は常に曖昧なものになる。なぜなら、責任を取りたく
ないからだ。日和見主義で、なるべく叩かれないもの、行為を選ぼうとする。わざわざ挑戦して
失敗する理由がないためだ。自分は中管理職としての立場を守りたいだけであって、生成物を
良くしたいという考えは薄い。

こういう人間に囲まれた開発陣、とりわけ若者たちはその判断の保守性に飽き飽きするだろう。

そんなこんなしているうちに、中国やアメリカのグループに先を越されてしまった。
テクノロジーは常に若者の味方である。年寄りに物事の判断を任せていると、あっという間に
取り残されてしまう。残念だが、日本はそれを完全に体現してしまった。

大手メーカーには優秀な社員がいる。技術がある。だが、それらは決してスムーズに活用されない。
挑戦するよりも、自分の立場を確保するためだけに仕事をする人間たちで上層部が満ちているからだ。
これは構造上しょうがないのだろう。

これを是正するならば、失敗する事が管理職につくための条件にでもしない事には、
無理である。ほどほどを取り続ければ出世する、だとしたら、誰が新しいことをやるというのか。
インセンティブはそこには存在しない。するわけがない。

これをあまり「老害」とくくりたくはないが、日本はあらゆる場面で老害に出くわす。
若者が自由に挑戦し、物事をすすめていくという事に、あまりに保守的である。
そうして若者たちは、その能力を失っていく。そして気がついたら、かつての中間管理職へと
生まれ変わるのだ。そうして、今日も「任せてブーたれる」のである。

文句だけは一人前で、物事を判断しない人間に決断などない。
そういう人間は「大人」とは言わない。口を出すなら手も出せ。
それが中間管理職にいいたい事だ。それができないなら、意見にとどめ、部下に任せろ。
それが一番まっとうな組織である。


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狂ってる社会にー不適合ー [雑学]

人は変わる。そりゃそうだ。
少なくとも、地球規模の物理作用からみれば、人なんてあっという間に変化する。

ダーウィンの世界には、斉一説という概念があった。
土地がじわじわと変化するという話。今となっては当たり前だが、当時は
神が世界を作ったというのが常識。そこで自然が勝手に形を変えるなんて、
とんでもない概念だった。

ところが、それから200年であっという間に概念は変更された。
その程度に人は変わる。


ちょっと前にコーチングの人に会った。
彼らは、すぐに人を変えたがる。あたかもあなたは駄目だという事を
懇切丁寧に、美辞麗句を交えて話す人々だ。その方向性は、現代社会への適応だろう。

彼らの思想にものすごい抵抗を感じていて、私はとんでもなく頑固なんだと
思っていた。だが、そうではないと気がついた。

私は彼らのいうようには変わる気はないという事だけだったのだ。

人は変わる。私も変わる。だが、鋳型に押し込められていた事に気がついて
そこから抜け出たというのに、また押し込めてこようとする。全くわからんことだ。

どうも、私がいいたいことをまるで理解できない人がいるらしい。
社会とは、共同幻想だろうに。その幻想に生きるのはあなた方の勝手だから、
私は傍観する他無い。ただ、私をそれに巻き込むなと言いたい。

とはいえ、それは無理な話で、仕方がないから、私はそれに一部付き合う。

それにしても、現代日本は異常だと思う。世界的に異常かと思ったら、
世界に出ると案外普通で驚く。それくらいに日本は異常が極端化している。
その程度に考えられないとしたら、あなたはもう日本に染まり切っている。

未だに、社会的概念こそがすべてという人間たちがゴロゴロいる。
いい加減、目を覚ませといいたいのだが、これもまた余計なこと。
彼らにとっての事実、彼らにとっての価値は、理解できるが、私にはもう不要なのだ。

自分の中にしばしば、既存概念を感じる。刷り込まれた価値観も未だに感じる。
それから目を避けてきた。そして、そうじゃないんだと気がついた。もっと、
がっぷり四つに刷り込まれた概念に集中すべきなのだ。そして、解体する事。

もっとも、まともになるにはそういう作業が必要となる。
脱洗脳みたいなものだ。
仕方があるまい。子供は否応なく、大人たちに刷り込まれてしまうものだ。


私には、変なトラウマがある。生存恐怖ともいえる。
捨てられるという恐怖。ある種の虐待的体験だ。大人が安易に口にする、
「良い子にしなさい」という脅しが、心に巣食っている。私はアダルトチルドレンかもしれない。

良い子でいたいのではない。良い子でないと、生を奪われるという脅しに屈したのだ。
それが、私の身体にある。こう書くと極端なのだが、そのような心情が心に沈殿している。

それがために、大人つまり命令を下す人間に対して構えてきた。
奴らは常に自分のためだけに、私に命令をしようと手ぐすねを引いているのだ。
そして、その根本は、そうしなければ、お前の生を奪うぞという脅しなのだ。

その意味で私は大人が嫌いである。彼らの文言の9割方は、命令であるからだ。
その命令に従うことを、社会では「成長」と呼ぶ。ふざけるな。私はそう思う。

上司がなぜ、部下に命令できるのか。それは部下の命の存続を左右するからだろう。
いや、左右するかのように社会概念化されているからだろう。本当は嘘なんだから。

大抵の大人は、他人を自分の人生のコマだと思っている。あ、より正確にかけば、
現代日本、都市に住む大人というべきか。そのような大人たちは、他者のためと
いいながら、他人に命令して生きているだけなのだ。

そのこじれた形で現れるのがハラスメントであろう。大人の論理からいえば、
ハラスメントなど存在しない。命令に従わない人が悪い。なぜなら「成長が足りない」からだ。
よって、都市の人間はハラスメントに対する抗議を疎ましく思う。そして、PCについては
どうでも良いと本音で思っている。何しろ、命令するのが大人で、その立場を確保する
ために彼らは努力してきたのだから。

その手段は金だ。金で人を脅す。これが都市の論理である。
ちゃんと仕事しないと首切るぞ、とまあ、これが大人の論理である。
煎じ詰めれば、大人とはこれしか言わない人たちである。

いつも金で脅しているので、金で脅せない人を見るとびっくりする事になる。
そして、「あいつは頭がおかしい」と言い始める。おかしいのは都市の大人たちなのだが。

昨今、モンスターという客がいる。いやいや、違うから。
昔からずっといただけで、いま急に現れたわけではない。
かつてはハラスメントと言われなかっただけで、十分迷惑していたのだ。
他人を金で脅すことになれきった人間の振る舞いは、端的にモンスターである。
その意味では、都市社会はモンスターしかいない。

あとは程度の問題だ。普通の大人は、小さなモンスター。いわゆる社会的に
成功した大人は、大きなモンスター。そういう話なのだ。他人がモンスターならば、
自分もモンスターにならないと、生きていけない。だから、都市の子どもたちは
心を病む。むろん住む場所というよりは社会概念の問題ではある。

大人は子供たちに、モンスターになれという。でも、子供の素直な感性はそれを拒否する。
すると、生を奪いにくる。行動を制約しにくる。モンスター化しない子供にはレッテルを
貼り、異分子として扱おうとしてくる。

その結果、大人の論理に屈すると私のような人間になり、反発し続けると、社会からあぶれる。
どちらにしてもろくでも無いじゃないか。

大抵の子供は、処世術を学ぶ。心と振る舞いを分離させるのだ。
そうやって、子供は自分の感性をなんとか確保する。だが、こうやって心が死んでいく人々も
少なくない。結果として、大人になるのだ。そして、いざとなれば、他人を金で脅す人間に
なる。そうせざるを得なくなる。それが現代日本の社会という場なのだから。

それに気がついて、外側へ転がり落ちてみると、よく分かる。
そうして、日本社会は、全力でアウトローを阻害してくる。実に不寛容で差別的社会である。

日本すごい番組などみると、ヘドが出そうである。よくもまあ、自分たちの振る舞いに
反省もなく、ろくでも無い人間だというのに、自画自賛できるものだなとつくづく感心する。

結局、現代の都市論理における日本人とは、そういう大人たちで構成されたモンスター
社会なのである。そして、矯正されたモンスターは、気がつくと、それが普通だと思い、
そうでない人間を攻撃するモンスターとなる。

恐ろしいのは、それを「正義」とか「倫理」とか「道徳」とか、言い放つことだ。
全部嘘である。いいか、モンスター化した人間の正義とはなにか。命令を聞け、ってだけだ。
美辞麗句に騙されてはいけない。もっとも騙されてはいけないのは日本政府にだ。国にだ。

先日も不幸があった。木村さんという女性が命を絶った。詳細は知らない。
正義の名の下に、執拗に攻撃した人たちがいるのだろう。それくらい想像に難くない。

自分が怪物になっている事に気が付かない社会で、怪物化した手足を眺める私がいる。
気がついた私は、怪物化した手足で、なんとか子供の感性を保とうともがいている。
心までは奪われまいと。

果たして、うまくいくのか、いっているのか。
狂気の方が普通になっている社会。少なくとも日本の都市は異常である。
繰り返すが、日本の都市は人間という感性からみたら、ほんとうに異常なのだ。
その中における成功とは、異常者になるという意味である。

もう少し、自分の感性に目を向けてみたらどうだろう。
私みたいに外側に出る必要はない。ただ、自分の心と向き合うというだけの事だ。
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