ぼちぼち [思考・志向・試行]

そろそろ、このブログから足を洗おうかと思っている。
理由は明確なアクセス数の減退だ。

私の見立てがおかしくなければ、2018年の7月くらいから何かが変化した。
グーグルのサイトマネジメントが変化したのだろうか? それとも何かがあったのだろうか?
それまでは、時間を追う毎にわずかだが、アクセス数は増加した。それがブログの良い点で、
リアルタイムでなくても、いずれは必要な記事を必要な人が読むだろうと想定できた。

ところが、昨年の7月あたりから何かが変わった。随分とアクセスが減ったのだ。それも、
新しい記事に限ってである。普通に考えれば、私の記事がつまらないからとか、そういう
ことが主だった要因とみなす。しかし、時間が経ってみても、かつてのように単調増加しない
のだ。どうもおかしい。

一方で、ネタによってはアクセスが保たれるものもある。
例えば、プリウス事故ー原因考察ー という記事は、近年のものだがトータル500回程度
アクセスがある。おそらくこれからも多少は伸びるだろう。しかし、そうだとしても、
アクセスの仕方が変化したのは事実だ。

このブログは9年ほどやっている。そして1月が来ればまる10年だ。
多少の波はあったけれど、月に一度は書いていた。ぼちぼち、キリでもいいのではないか。
ちょうど10年ともなれば、そういう心境になる。

実は数ヶ月前からnoteに文章を書き始めた。
テイストは完全に異なる。なるべくポジティブになるものという事で記事を書いている。
そして、noteの方のアクセスが、こちらと同じ程度になりつつある。ならば、あえて
こちらで書くこともなかろう。

最初の記念すべき記事にこうある
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「日常的な事や面白いと思ったことを気兼ねなく綴るために
ここにブログをスタートしました。

基本的には個人的な備忘録です。
ネットにあげておく理由は企業が勝手にバックアップしてくれるということや
いつでもどこでもアクセスできるという点です。

それから言葉の伝達効率を優先して優しくするのが、
ブログの本来性だと思いますが、ここではそんなことは考慮しません。

誰かが読むことを前提にしないテクストにおいて
アクセスやインタラクションが起こりえるのかを実験にします。

興味の内容はもっぱら脳や意識、思考などに関することです。
自分の思いつくままを何の根拠もなく記述することでストレス発散したいわけです。

To 未来の俺へ 」(2010年1月26日)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
確かに受け取ったよ、過去の俺へ。あれから9年と11ヶ月経った。

この10年で色々と世の中が動いた。
また、私の心境も変化した。

初期の頃は、自分の考えを開陳する事にフォーカスがあたっていた。
「俺のいう事を聞いてくれ!」というものを感じる。良くも悪くもだ。

その後11年に東北震災。
震災後に自民党政権になる。

以後、政治に関する批判が増えていく。
そうして、気がつく。まさに日本の生活は、映画マトリクスであると。
それは現安倍政権が露骨に態度を表すほどに明確化した。我々は緩やかな奴隷である。
家畜と何も変わらない存在であると。

自覚的になってからは、ブログの内容も本質を探そうとするようになる。
そして、ついにはそれは自分の生活をも変えてしまった。なぜなら、自分にとって価値ある
ものの意味が変わってしまったのだ。

それは、新しい自分と向き合うというよりも、自分の元々に立ち返るという事だった。
自分にとって大事と思われていた価値は、まるでただの石に変わってしまった。
親や世間が自分に与えた価値を内面化し、その価値に沿って生きることで世間とうまく
折り合いをつけてきた。しかし、この日本という世界がマトリクスであると気がついた
事で、折り合いをつけること自体が無価値に思えたのだ。

うまく文章で伝えられるか正直自信がない。だが続けてみよう。
2016年の7月のブログにて、何かを訴えているのがわかる。
https://d-blue.blog.ss-blog.jp/2016-07-11

まとまっていないが、要するに世界と私がズレたのだと言っている。
このズレというのは、私個人に起こったことであるが、およそ全ての人に内在する可能性であり、
それに気がつくか気が付かないかなのだ。ゴータマ・シッダールタは気がついた人である。
だから彼を「目覚めた人」と呼んだのだ。同じく、私も目覚めたのだろうと思う。おこがましい
ことを言ってるかもしれないが、この認識は実に他愛もないことであって、決して特別ではない
と私は思っている。悟るという言い方が権威主義であるかのように、覚醒もまた権威主義だ。
だが、そんな大げさではない。ただ、ヒトの本性を直視すれば、世俗的な事と、自己存在とは
別物であり、自己が世俗と切り離され得ると気がつく事。それが「目覚めた」という事だと
私は解釈している。

ブッダは家族を捨てて森に生きた。そして、自分の考え抜いた叡智を他者に与えた。
その後、その行為を書き記したもの、伝えたものの総体を仏教と呼ぶようになり、そこに
続く者たちが権威を付与した。世俗化とはそういうことだ。皮肉なことに、世俗から抜けること
そういった価値観から自由になることを説いた事が、世俗化に帰することで流布された。
不思議なことであるが、人とはそんなものだろう。


さて、ズレてしまった私が都会にやってきたとき、人々はまるでゾンビのように見えた。
そこに生がないのだ。何をするのか、どんなことを考えるかすら、他人によって作られた虚構に
入り込み、そこで買った負けたとゲームに勤しんでいる。異常な世界。これを異常と感じた
私はおよそ、世間から見れば「異常」であろう。しかし、私から世界を眺めるほかない。
現代日本の異常さとは、経済が傾いたことや、心が荒廃している事ではない。生物として
相当に異常な状況にいるということを盲点として、自分がまともだと思って生きている点にある。

はっきりと言っておこう。あなた方は狂っている。

まあ、ここでこんなことを書いても、誰も反応しないし出来ないのだとも分かっている。
よって安心して、こういう事をかけるのだが、そのくらいに内面化された世界観は崩れる
ものではない。私だって、およそ特殊な経験を過ごしたからなのだと思う。

一方で、こんなズレを生じる必要はないとも思う。私が感じたズレをわざわざ感じる
必要もない。現代という思想の奴隷として生きるほうが、圧倒的に楽であり、子孫繁栄する
ことだろう。およそ奴隷の再生産に勤しむのだ。それを世間は幸福となずけ、価値有ることと
して流布する。その価値観に染まることを私は異常であるとみなすが、それは私の勝手である。
99.9%の人間がそうやって生きているのだ、それで良いではないか。

あなたに何か不安があるとして、その原因を探った事はあるだろうか。
生き物として生まれて十全と生きるものは、そのような不安は持たない。しかし、世俗に
適応した人間は不安を埋め込まれる。その負債を解消することが社会化することである。
要は馬のように働くということだ。そして、その合間に笑い、消費し、小さな喜びを見出す。
そして、自分はまっとうに生きていると自己満足して死んでいく。それで良いではないか。

だが、私はズレた。そのズレをどう言っても、ズレたとしか言えず、そしてそのズレに
一番近いのが、ブッダの出家という物語なのだ。これをもっと矮小化してみることもできる。

およそ、私という人間こそが、一番の奴隷だったのだと。他者よりも優れて奴隷だったはずだ。
私の個人史を開陳するつもりはないが、それなりの高学歴である。そしてそのような価値観に
染まっていたからこそ、そこからズレたときの落差が大きかったのだと。世間の価値観に引きずら
れていたのは、私であって他者ではない。私個人において、自分の行為の原点がまさに、世間で
あったのだ。

一匹のカモシカが私の前に現れた。そして静かな眼で問いかける。「お前はそれで良いのか」と。

あの時、何が起こったのか。未だに理解に苦しむ。だが、本当は知っていたのである。
自分の根底にあるものを。ずっと昔から自分の中にあるものを。そして、なぜ自分が今のような
生活をしているのか、仕事をしているのか、考えをしているのか、強烈に考えたのである。

そうして、子供のような心で我が身を考えた時、如何に自分が世俗化し、洗脳され、奴隷化して
いたのかと気がついた。そうしてみると、周りの他者がすべからく社会化していると気がつく。
ものすごい具体的に言えば、自分の上司の行動原理が透けて見えたのである。そして、彼の
不安が見えたのである。そんな不安を解消する事に加担する理由など本質的にはないのにだ。

そうしてみると、その周りの他者もすべからく社会化した実態であり、そこに埋め込まれた不安
によって自己を駆動しているではないか。それは社会的地位が高いほどキツくなる。あえていう
なら「立場」であろう。ポジションをとることで、自らをポジションの奴隷とする。社会化された
人間は常に、自己不安に陥っている。それが意識化されないために、その原因を他者に見出し、
他者を攻撃する。それを俗にハラスメントという。自己がなぜ不安なのかメタ認知できないからだ。

それはさまざまなメタ認知過程をへると、そもそもにたどり着く。そうかと。それが私のいう
目覚めである。ズレを意識すると、この世界では生きていけない。全てがアホらしく感じるから
である。価値があると誰かがいうものがあったとして、その価値とはあなたの価値であろうと。
私の価値ではない。そのようにズレを通して世界をみると、ほとんどの行為が無意味化する。


そこで私は考えた。自分にとっての価値観を作るほかない。そう、これがデカルトの決意である。
ズレたとして、自分がいて、まだ生きているという事実からは目をそむけようがないのだ。だから、
先人にならって、私も自分にとっての価値を構築する他ないと思ったのである。


かなり困難な作業である。少なくとも、自分は日本という場にいて、生活をせざるを得ない。
社会化せずに日本にいることは不可能である。その極限は、死か逃亡であろう。結局、私も
社会化されて生きている。そこから逃亡できないのだ。ならば、せめて最小限化したい。

その答を探した。暫定的な結論はもうブログでとっくに述べた。
繰り返すのであれば、良い友、良い寝床、良い食事である。友の中にパートナーや子供がいる。
ヒトというサルはおよそこれが満たされれば生きていけるのだ。それ以外はたいてい見栄に
過ぎない。他者を優越したいという思いである。だが、それが不安から生じていると理解できれば
その無意味さに気がつく。

他者を優越したいという欲求は明らかなコンプレックスである。それは自分は出来るという
プライドでもある。コンプレックスは生まれついていないので、どこか社会化の中で埋め込まれた。
それは、かならず挫折する。人生は長く、全ての勝負に勝つことなど出来ないからだ。どんなに
強いもの優れたものも、必ず衰えるし、超えるものが現れる。他者を優越するという不安ベースの
行為に蝕まれると、基本的に不幸になる。それは挫折が確定しているからだ。まあ、挫折を人生訓に
して、宣伝するという人生もあるのだから、それでいいのだが、私はそんなものには与しない。

このようなコンプレックスを埋め込まれていないのに、社会的に成功する事はかなり難しい。
無自覚的に埋め込まれたコンプレックス解消すること、それに成功すると、社会的なステータスが
得られる。これが社会化のうちに行われる不安の埋め込みであり、その埋め込みが俗に言う社会を
発展させる事につながる。不安によって生産された膿みたいなものだ。その膿を我々はありがたい
と思うという思想に生きている。

もちろん、例外もいる。生まれついてその精神を肉体を十全にいきて能力を存分に活かせる人も
まれには居るだろう。だから、全ての人について語っているわけではない。だが、多くの人に
他人の不幸に同情しつつ、甘美な喜びを見出すという心理がある。それは埋め込まれたコンプレックス
のカタルシスではないか。

ズレを感じるのは実に容易い。自問すればいいのだ。なぜ、自分がそれをやるのかと。
誰が決めたことなのだ? 誰がそれをやれと? 自ら決めたことなのか? ズレが生じるのは、
他者が決めた事の遂行においてである。恐ろしいのは、他者がきめたのに、自己が決めたと
思い込んでいる場合である。そして、おおよそ、この挫折において人は精神的な挫折を味わう。

いわゆるうつ病とは、隠蔽された不安の現れである。実に健全だ。身体が訴えているのである。
あなたがやっている行為は無価値であるよと。身体はもっと信用すべきなのだ。うつ病を克服して
職場に復帰するなど、自殺行為である。その行為こそがあなたを蝕む理由なのに。

真面目な人ほど、社会化された行為に価値を見出そうとする。だから、そこからの乖離に耐えられない。
そんなもの無価値なのにだ。正確にいえば、世界から見れば、その失敗など他愛もないことである。
でも、そんな風に言えるのは私がズレたからであって、当事者は誠に真剣そのものなのだ。隠蔽した
不安を手放せないので、苦しみ続ける。

このような異常さは社会のそこかしこに現れる。社会化による弊害は、犯罪やDV、ハラスメント、
俗にいう悪事において現れる。一方で、隠蔽した不安を解消するために努力してしまった人は、
社会的に善事として称賛される。どちらも、私からみればズレているのだが。

人がやるべきは、居心地の良い人間関係を築き、そこで熟睡できる床をもち、不安が少ない生活を
送ることだ。そして生物的な繁栄は、自己の満足につながるだろう。それ以上に求める時、それは
なんらかの不安を埋め込まれたと言える。それは喜びの源泉であるが、不幸の源泉でもある。同じ
穴から、2つの反する価値が生み出される。それを我々は知っておくべきなのだ。

成功は失敗から派生する。失敗がなければ成功がない。同じく、喜びは不幸があるから生じる。
良いもの取りは出来ないのである。

すでに社会化された人々に目覚めよと、一度は思っていた。だが、時が経つにつれて、
彼らの幸不幸に私がどう口を挟めるのだろうかと疑問になった。過大化する自己不安に溺れて
苦しむならば、その解決の糸口はあると言える。だが、光しか観ない人々が多すぎるがために、
それと同じだけの闇の存在を隠蔽する。

さて、話を戻そう。
このブログを書き始めた時、いうべきこと、考えることを訴える場として捉えていた。
だが、正論こそ不人気である事が理解され、俗に近い話題ほど人気があることがわかると、
人生において大事なことほど、他者は興味ないと結論できた。だからこそ、この異常な日本を
生きていける。そりゃそうだ、私みたいに考えたら現代を生きるのは大変なのだから。

そして、私はズレを共有化したいと願ったのだが、それもなかなか困難であると気がつく。
それには通常、価値がないからこそ、社会化されて皆いきているのだ。みんながブッダになる
わけではない。

喧伝する理由がなくなった。そう感じている。ならばブログに書くことなど無いではないか。
そう、私は徐々にだが、隠蔽された不安解消しているのである。ブログを書かないということが
私にとっての不安解消の印になるのだ。

こうして、私が日常に埋もれゆくことで、世界はまた一つ平穏になる。諦めという言葉は、
決して悪い意味だけではない。手を放す事で、また違う何かを手にする可能性がある。

ぼちぼち時間ではないか。そうおもうこの頃なのだ。
nice!(0)  コメント(1)