備忘録ー問を立てるー [雑学]

多くの人はごく日常を過ごしている。
社会的な圧力の中に自らを置いて、その中で最善を尽くす。
時に目標を達せずに、落ち込んだり、辛い別れや喪失があるかもしれない。
一方で、うまくいって実に楽しい日々を過ごすこともある。
多かれ少なかれ、世界はそうやって進んでゆく。

だが、大きな問の前に立ち尽くす。
「われわれとは何か?」「何を求めるべきか。」

すでに知られているように、我々は生誕の経験を得ることはない。
加えて死の経験もしない。不可思議な事に、我々は出生と逝去の狭間でしか
存在し得ない。この普遍的事実の前に、呆然と為す術がない。

どんなに難しい哲学を駆使しても、事実は不明である。
どんなに難しい物理法則を見出しても、やはり事実は不明である。
だからこそ、人は宗教を作り、文化を作り、ここへの現在性を確立してきた。
だからといって世界が具象化されたわけでもなく、絶えず儚い夢である可能性は
内包されている。でも、それを意識下に抑えこむことで日常を安定化し、
ときにまさに忘却せんとする。それが多くの人の人生である。

一方で、この事実にフォーカスしてはまり込む人もいる。
先に故人となった池田晶子氏はまさにそのような哲学人であった。
誰がもが問うべき、生きるとは何かを不断に問う。我々の根源問題であり、
それ以外にどんな活動が必要なのかと彼女は問うた。まさしく哲学の徒であった。

無論、あらゆる過去の人物も同様の問題にぶち当たっている。
デカルトが言った「我思うゆえに我あり」これは自己撞着だが、循環的だからこそ、
一つの回答となった。事実、我々が毎朝気がつくこと。それは自分の存在である。
それ以外の何物でもない。眠りとはつまり死であり、我々はその意味で毎日生と死を
繰り返している。

社会がある。どんな人間社会にも社会性があり、その中でしか生きられない。
だが、場所が異なれば社会の装いも変わる。これを「外」と呼ぶ。「内」とは
どうやら異なる社会ルールが存在する。人は驚き、また理解する。世界は広がっていると。

人は世界を神経系を用いて把握する。その受け取り方は決まりきっている。
物理的外乱が生体に触れた時、生体が少し変化する。そのズレを検出するのが神経系の
役割である。つまり世界が変わった時、我々の体験も変わる。この処理を様々なモダリティ
から統一的に処理するのが脳である。人はもっぱら脳を基準に生きている。

脳は1300ccほどの容積を持つコシのある豆腐のようなものだ。これが人格を作り上げている
と思えば神秘以外の何物でもない。この物体の構造は次々と明らかになってきた。とはいえ、
その機能性に関しては未知である状態が続いている。ひとまず、ある種の相関だけが理解され
てきた。現代の脳科学は道半ばと見るのが正しい。

この脳にインストールされるのが社会である。多くの人の誤解は、社会というものが体の
外側に存在しているという概念にある。脳が世界を受容する。先程も述べたが世界の変化に
反応することが我々自身を支えている物理現象である。よって、社会もまた我々の臓器に
訴えかけれた一連の外部刺激から構築されるものであり、その実在性は個々人の脳にしかない。
つまり社会とは、他者が感じている事をこちら側の装置で類推する能力の事である。

ここまできて気がつく。つまり社会の変革とは自己の変革だろうと。
そう、まさに世界とは自己が生み出したものであり、自分を変えることが社会を変えることになる。
もちろんこれは詭弁である。そして事実でもある。この社会という存在の二重性が人々の
特徴である。社会は自己の反映であると同時に、社会は外部刺激に依拠する存在となる。

ブッダとは「目覚めた人」と云う意味である。それは世界が空と縁起で構成されるという
事実の体感と、自己の極端までの滅却による。私はある種の感覚を得た。むろん社会学的にだ。
我々の社会は唯一無二ではなく、ただ多くの人々の幻想にすぎないという感覚である。

自分よりもエラい人もいなければ、下の人もいない。その事実は決して揺らがない。
私に命令できる存在もいなければ、私が命令しても良い存在もない。俗にいう社会的な構造
は無意味であると自覚した。無意味ではあるが、無価値ではない。人はこの価値において
生きている。残念だが、ほとんどここから逃れることは不可能だからだ。ましてや、
凡庸な能力をもち、社会適合的に生きている人は、その社会を構成する構造物そのものである。
もちろん、そんなもの無意味だ。

現実を眺めよう。残念ながら、多くの人は不幸を生きる。いやある意味で幸福を生きる。
無意識下に抑圧した自己存在への問を失った人々は、代わりのものを社会の中に求める。
富や名声、そういうものが代わりになると考えている。だが所詮代わりのものにすぎない。
だから、それらをどんなに手に入れても決して目覚めることはない。人を欲するのに、人形を
欲したとして、それがどれほどリアルであっても、代替物以外の何者でもない。富や名声とは
かくも不自由極まりない木偶の坊であるが、誰もがありがたがる。そう社会が求める。

社会とは自己であった。つまり自己が欲しているのである。自己の存在への問を。
だが、それを無視し続けるために、社会的に提示された富や名声を追い求める。
別にそれでも良い。前に進まない回転はしごをくるくると回し続けるネズミと同じだけだが。

さて、現在を考えてみる。別にさして不都合はない。多くの人は社会化され、誰もが
それを当たり前と考えている。それを深く追求する人はほとんどいない。それは未だに
幼齢期を過ごしているのだろう。与えられた社会性でしかものを考えないのは未熟そのもの
なのだが、現代では「国」の違いを意識することが限りなく少なくなってきたからだ。

何、難しいことではない。かつて国内旅行でもすれば、話し言葉が異なり、その土地、
その土地の社会があった。もっと遡ればとなり村との遭遇である。自らの常識は、他者の
非常識であることは当然であり、事実であった。その概念もまた社会に取り込まれた。

ところが現代日本ではテレビやネットなどフラット化が進行した。俗に言えばグローバル化だ。
アフリカの奥地でも携帯電話は用いられる。このように社会がつながるとは聞こえは良いが、
それはつまり同質化であり、社会を懐疑する機会を奪う。とりわけテレビによる社会汚染は
相当に効いている。もっと現実的な言葉でいえば、洗脳だ。

誰もギュウギュウに押し込められた電車内で過ごすことに疑問を持たず、
目の前の仕事に没頭している。それを果たすのが自分の義務かのように。それはなぜか。
これもまた代替物を得る活動だからだ。金という債権を得るために、人は日々を過ごす。
かつての人々はこれを見て異常さにおののくだろう。多くの人が金という債権の紙っぺら
のために、毎日活動しているのである。生活とは何か?を考える暇がない。

生活とはとどのつまり、衣食住である。そして仕事とは本来遊びでもある。
この社会において仕事を遊びにできる人は皆無に等しい。ごく限られた人たちがそれを
楽しんでいる。いや、むしろわざわざ奴隷のような社会に身を投じているというべきか。

例えばギャンブル依存症。彼らは実に優秀である。人は学習性の動物である。
特定の行動が利益を得るかどうかわからない時に、それでも行動する事が人類の生き残り
において急務だった。だからこそ、確率的な行動を繰り返す。そのためのシステムは
人間にもある。人も動物である。快楽は絶対的な行動原理を構築する。そして、それが
利益をうまなくなっても繰り返してしまう。これを常識という。

人々は常識を生きていると考えている。ちがう。それは組み上げられた世界からの要請に
応じているに過ぎない。社会は常に変化した。よって常識など無意味である。だが無価値で
はない。常識を外れるものは社会から閉めだされる。それがまた人の社会性でもある。

日々を仕事して過ごすことを常識と思う。なぜか?それはみんながそう思っているに
違いないと思い込んでいるからだ。だが実際にはそれは代替物であり、本質ではない。
かつては様々なギャンブルとして仕事があった。狩りに出かける。森にどんぐりを拾いに行く。
芋を掘る。すべてギャンブル的要素を兼ね備えている。つまり、遊びであった。むろん
極端な解釈である。だが、本質はここにある。本来人は遊ぶ存在であって、仕事をする
存在ではないということだ。

現代はこのギャンブル性を次から次に排除しようとする。それを「進歩」とか「文明」とか
と呼ぶ。人々は金という確かなものを得ようと行動する。もちろん金こそ幻想である。
それを得るために日々、苦労する。仕事を苦労してやり遂げる。ここではこれを否定する。
そもそも、その仕事は無意味だからだ。本来あるべきは遊びである。

さて、ひとまず筆を置こう。
ここで言いたかったのは、多くの人は眠ったままだということ。
そしてたいてい眠って一生を終えること。もちろん、それでもいい。だが、どんな富や名声が
あっても、抑圧した自己存在への問は消えることはあり得ない。そして社会化とは外部ではない。
自己そのものでもある。洗脳されて人生を無為に過ごすのなら、かまいやしない。

そこから逃れたいのであれば、世界は広がっている。
人はもっと幸福に生きられる。

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