What I deserve [思考・志向・試行]

欲求のない人はいないだろう。だが、その欲求がなぜ生じたのかを厳密に思考する者は
ほとんどいない。だからこそ、同じ購買行為を繰り返す人々がおり、それによって金は巡る。

多くの人の購買とは、とどのつまり模倣である。

誰かがやっているから、買っているから、だから自分もやる。ただそれだけの空しい
動機に従っている。別段、それでなにも問題はないし、ときに、その購買によって一時の
快楽を得ることもあるだろう。それで十分じゃないか、人々はそう思っている。

例えば広告は、模倣を促進させるためにある。誰かの行為を誘発するために存在する。
そして少なくない人が、その広告によって購買を誘発される。むろん、私だって模倣する。
だからこそ、現代では大きな産業として広告が存在するのだ。Google, Facebook, youtube
どれも広告による収益によって動いている。逆に言えば、それらがなければ、つまり、人々の
模倣がなければこれらのサービスは生まれなかった。

むろんデメリットもある。それは自己に対する存在性を脅かされることだ。
たとえば、クラス中が夏休みに海外旅行にいくような学校だったとしよう。その中で、
自分だけが伊豆温泉だったらどうだろうか。十分に幸運なのだけど、比較において人は、
いささか不満を持たされるだろう。

不満が生じるのは、なぜか。それが表題にある「自己が値する」という概念である。

日本語に相当するものがないので、英語を用いたのだが、I deserve youといえば、
私はあなたに値するとなり、私はあなたと丁度いいというような意味合いになる。
少し傲慢にも聞こえるが、こういう観念を西洋人は持っている。日本人だって、「資格」
という単語でどうようのことをいう。”私には**する資格がない”という形で。

西洋人も同様に、否定で用いることが多い。だが、心理学的にみれば、自分がどのように
あるか、自己規定しているわけで、それは自分への期待、自分の価値の自己採点のような
ものだ。自己肯定感とも近いだろう。

ここでは、この概念に「自己値」と日本語名をつけておこう。

自己値をどうやって決めるのか。もっぱら文化であろう。およそそれを文化と呼んでよい。
日本に生まれたら、おおよその普通がある。自分の事を通常に自己肯定する人間は、
自分の待遇が普通であることを少なくとも一つのベンチマークにする。そして、そこから
の差分を「不幸」「不運」「努力不足」とみなす。なぜなら、また自己値も模倣の裏返し
だからだ。

自分がまねできるかどうか。それは能力だけではない。資源や環境、状況もである。
医者になりたいという高校生がいて、果てして現代社会の仕組みでは、志だけではなれない。
努力もさることながら、運も必要となる。これを理不尽とか不合理という人々は少なからず
いる。それを受け入れる他ないのだが、この思想の背後に「自己値」がある。つまり、
「自分には、医者になるための潜在的機会が担保されるべきである」という思想だ。

単に成績が悪いから無理というのであれば、それは致し方ない。諦める方がいい。
だが、運によって規定されるような違いについては人々は諦めが悪いのだ。

これは異なった視点からいえば、現代日本人は自由であるという事を過大に評価している。
本質的に人生はほとんどが選べない。自由はないといった方が正しい。最大の拘束条件は
ヒトであるという事だ。ヒトという動物は、社会化される。その社会化によって、頭の
状態はかなり偏執した事態になる。簡単に言えば、わざわざ自由度を減らすということだ。

行為の自由度を減らして、なお満足できる時、人は「大人」という存在になる。
これは自己値にも関係する。自分がどれくらい金を稼げて、社会的地位を得られるのか、
どんな配偶者を選べて、どこに住み、何をするのか、これらに大いに自分をどう評価するかに
かかっている。自分を過大に評価する人は、いつまでも不満足を抱え、行為を駆動する。
自分を過少に評価する人は、小さなことでも喜びにできるだろう。

現代人は、社会化において、自己値を適当なところまで大きくさせられる。それが資本主義
であるからだ。周りがよい服を着ていれば、自分もそれを得ようとする。その手段もまた、
彼らと同じ手段を使おうとする。つまり模倣だ。自分の在り様が、他者との差分において
意識される。これはヒトであれば仕方がない。そうして、模倣が可能な時は、それをやり、
それが不可能な時は、2つの行為に出る。一つはその行為をしているものの足をひっぱること。
もう一つは、自己卑下し愚痴にいきることだ。けっして、もともとの自己値の変更をしようと
は思わない。

一度肥大化した自己値は、どうも小さくするのが難しい。ものすごい卑近な例をあげれば、
一度、地位を得たものは、その地位に準じた報酬をもとめる。その報酬には他者からの
社会的称賛も含まれる。だから、大企業の役員や医者や弁護士などが引退してもなお、
横柄であるのは、そのような自己値から抜けられないからだ。

同様に、大人が子供に向かって「努力すれば何にでもなれる」というような形で、
自己値を与えることで、子供はそのように行動する。だが、先の述べたように運が必要だ。
その運がないときに、人は葛藤し、悩む。そのことを否定的にみる必要はないが、多くの
人はそれを修正できないでいる。

人口オーナス期になった現在。トータルとしての収益が減るのは当たり前である。少なくとも
二つの要因がある。平和が続いたこの75年によって、金を退蔵する人が増えたこと。もう一つ
は、借金をする人が減ったことだ。金とはだれかの借金によって増えるのだから、人自体が
減れば、必然的に金が減る。金が減っても、金が周れば問題はない。だが、老人が増えた社会
では、金が周らないのは当然である。要は、日本の不景気は社会構造上の問題なのだ。端的には
人口動態による変化といっていい。

結果として、経済は傾き始める。そのようなマクロな実態を理解する人間はほとんどいない。
私がこうやって書いても、これを読んでも貴方はそう思わない事だろう。仕方がないのだ。
とにかく、物理的現象としての社会が斜陽に入ったときでも、人々の自己値は変化しない。

だから、高度成長期と同じ制度をとり続け、人々はその時思い描いた老後がくると信じている。
多くの企業は同じようには儲けられないとわかっていながら、手をこまねいていた。収益
手段の変更もあった。多くの企業はメーカーなのか金融業なのかわからないような状態である。
そうまで収益にこだわるのは、収益を一定数にしないと、約束した賃金を払えないからだ。
社会状況が変わったのに、自己値は変えられないから、その自己値を満たすように集団が
強制するのである。

生活のレベルを下げるという事を受けれる必要がある。それはマイナス成長という事だ。
当たり前である、社会が発展すれば若いころとは代謝が変わる。マイナス成長といっても、
極端なことを言っているわけではない。今までと同じ大量消費社会をやめて、ものを大事にし、
成熟した社会を目指せばいいだけなのだ。だが、価値観は変わらない。自己値が高いままの
大人が増えたせいだ。

自分にはこれだけの年金を受け取る資格がある。自分にはこれだけの報酬を受ける資格がある。
自分にはこれだけの社会的称賛を得る権利がある。自分にはなんにでもなれる可能性がある。
自分は「自由」なのだ。それを追及して何が悪い? とまあ、こういう思想のままなのだ。

社会が斜陽なら、仕方がない自分の取り分が減っても、それでもお互い様に過ごそう。
とはならない。あくまでも、肥大化した自己値を下げられない。だから、がめつい大人が
のさばっているし、その大人たちを模倣しようとする青年で溢れている。つまり、良い学校に
いき、良い就職をし、良い家庭を築いて子供を育て、引退後に年金でくらすというモデルだ。
当たり前じゃないか?? 違う。その普通がもう崩れている段階なのだ。それを直視できない
のが今の大人たちである。

崩れた前提の論理でまだ動いている社会は確かにある。一部の大企業や公官庁はそういう
モードであろう。大企業は企業とグルになっているので、その状況を盤石にするために、
国民から税という形で金を取り上げる。国民とためというパターナリズムを発揮する。
そんなわけがない。彼らは自分たちのためにそれをやっている。自分たちだけは今までの
自己値を維持しようとする。そのしわ寄せは、社会的権力の低いものたちを直撃する。
例えば、消費税だ。

変更できない自己値があるがために、その維持に躍起になる。それはメンツや見栄と
言い換えてもいい。そのような面子維持によって、もたらされるのは弱者へのしわ寄せで
あり、社会の一部のものだけが富む世界である。安倍政権は、この心理を巧みに利用してきた。
つまり、仲間になるなら、この富の再配分システムのおこぼれをあげようという仕組みである。
「おまえも、こっちにこいよ、悪いようにはしない」という囁きだ。

当然、メディアも大企業も、多くのふがいない大人たちは、長いものに巻かれることにした。
これが日本の最大の弱点である。そして、もう手おくれである。収益が上がらないことが
わかっているために、活路を安倍政権とともに心中する事にしたのが日本の現代である。
使いたくないが、「令和の悲劇」である。令和とは呪われた時代に名付けられたレッテルである。

いい加減に目を覚ましたらどうだろうか。かつてのモデルが維持できているのは、
要するに、非正規社員の増加、つまり労働分配率の低下と、外国人労働者の増加、
劣悪な商品開発、それに伴う人心の荒廃によってだ。そして人口は減少し、ますます
これらの行為に拍車がかかる。竹中平蔵がやっているのは、要するに労働力のピンハネで
あり、そこにぶら下がれば自己値を維持できるという事なのだ。

これは要するに「自分の利益のために他者を利用してもよい」という事である。
自己値を持ち上げてしまった人々は、ついにその実現のため、他者搾取を当然のものと
したのである。

歴史をみれば、誰かが富める時、誰かが搾取されている。私はこれを不正義だと思う。
しかし、現代社会はこれを是とする。ここに私と社会との間に断絶がある。
私は、他者を搾取して自己利益を増進したいとまでは思わない。

金融業は一見するとこれと無関係に見えるが、まさに搾取の本道である。
だれかに借金をさせること、これが金融業の本丸である。要は労働のピンハネである。
これだけでは現在は稼げないので、ゼロサムゲームをする。投資である。差額を利用した
儲けだ。金が金を生む仕組みといっていい。だが、金は本来金を生むはずがない。
儲けた金はだれかの労働力で裏書されるのだ。されない場合は信用を失って金という
効力を失うだけに過ぎない。

日本は、多くの人がこれに参加させられている。ほぼ全員かもしれない。
日銀が投資をすれば、要するに国民が投資しているのと同じだからだ。
その金で株を買い、為替をあやつる。そうして額面だけの虚飾の世界で金を生じさせている。

一度崩壊するしかないという気もする。システムが巨大化しすぎて、
誰も手当てができないのだ。個別の部分が個別の論理で、問題を解決しようとする。
その解決がほとんど金でしかない。金で解決できるはずがないのにだ。現代の問題は、
あがりきった自己値である。まずはそこからなのだが、事は難しい。

だが、希望もある。わたしは若者の一部に、それを見いだせる。
彼らはこの景気後退の中を20年生きてきた。つまり、大人がもつ自己値ではない形で
自己値を作り上げた人たちが生まれてきたのだ。親が巧妙に思想を植え付けている人は
アウトだが、地方在住で、まともな情操教育を受けてきた人たちには希望がある。

東京が生み出した不可解で偏狂な社会観ではなく、もっとまともな社会観を保持した人々の
到来である。過渡期にある中年たちは今後どんどんと立つ瀬がなくなるだろう。思想を
組み替えられないならば、同じ労働マインドをもつ、奴隷を再生産するだけだ。だが、
一部の若者は、地番沈下した教育環境において、むしろ自在に情報を得て、そこから
若い脳による創造性を発揮する。

グレタ氏をみなくとも、日本にも異才は増えてきた。それはこの情報がとびかう世界に
おいて、情報が特権化された世界から流通するようになったからである。そこに
地方における身体性が合わされば健全な心の人々がうまれるだろう。大都会はかなり
厳しいとはおもうけれども。

What I deserve.

何を自己値としているのか、自分をもう一度反省すべきではないか。
私が言いたいのはそういう事だ。

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