習慣ーゲーミフィケーション [思考・志向・試行]

人は大抵のことを習慣化する。

とある研究によれば、人の日常の4割は習慣的行動であるとも言われている。
ところが、多くの家事などはなかなか辛さを感じることがある。

たとえば、掃除。やればスッキリするので、気持ちが良いのだがとにかくやるまでは
時間がかかる。なかなかやり始められないのだ。そして、どうでも良い場所は本当に
やらないものだ。

それから、ゴミ捨てなどもなかなかラクにならない。やはりゴミを集めて収集所へ
もっていくのは面倒くさい。

これらの行動は既になんどもやってるのだから、すっかり慣れてしまってもおかしくはない。
ところが、掃除にしてもゴミ捨てにしても、習慣化とはほど遠い気がする。それはなぜか?

おそらくだが、毎日やらないからだろう。
3日おき、一週間おき、というような事柄は習慣化が難しいのではないか。

毎日やることは習慣が発揮され、さほど面倒ではなくなる。
自然と身体が動く。例えば、顔を洗ったり、歯を磨くといったこと。
それらは習慣なのだ。

だが、掃除やごみ捨ては違う。毎日ではない。でも、やらなければならない。
このちょうど習慣化しにくい物事なのだ。やりたいことなら別だろう。
しかし、やりたくもないなら、やらなくなる。
というわけで、掃除やゴミ捨てなどはついついうっかりする。

習慣化しにくい事柄の本質は、毎日ではないこと、そしてそれがどうしても必要ではないことだ。

では、どうして変な習慣が発生するのか。
たとえば、いつも同じ場所でポテチを買ってしまうとか、スマホゲームに興じてしまうとか。
それは、間違えなく報酬系を刺激するからだろう。俗に言うドーパミンである。

習慣化というより中毒化といえるが、それには報酬が必要である。
報酬といっても、金じゃなくてもいい。それは何かをゲインするという感覚である。
行動の後に、ゲインを得られること。これを人は繰り返して行うようになる。
そのゲインとは、食事でもいいし、快感でもいい。とにかく行動後にゲインの感覚を
得られればそれで十分に中毒になる。そして大事なのは、それが毎回ではない事だ。

意外なことに、行動後に特定の報酬が得られると確実にわかっている時は、
人は中毒化しにくい。むしろ、時折、適当な頻度でだけゲインを得られる時にだけ習慣化する。

習慣化の要件は、
1.行動後に報酬があること
2.報酬は毎回ではなく適当な頻度があること

これはAIでいう強化学習と呼ばれるアルゴリズムである。
人の習慣化のメカニズムを機械にやらせても、意味ある行動を作り出せるわけだ。

この習慣化の作用、つまり行動の強化は、おそらく我々が生物であるという事実に基づく。
このうまい習慣化こそが、生物である我々の生存率を高めたからだ。

食にありつくには、獲物をとってくる、もしくは何かを拾いにいかなければならない。
当然ながら、毎回確実に手に入るわけではない。だから、たまにすかしたとしても、
再度、取りに行かなければならないわけだ。この食を得るという行為が生物学的に
発揮されるのが、報酬系である。あの場所にいけば、あれが手に入る。あの川にいけば、
魚が手に入る等々。これらの行動は不確実ではあるけれど、手に入れようとし続ける
事が大事である。まさに、食を得るには不可欠な行動と言えるだろう。

実際に獲物を手にいれたら快楽が生まれる。快楽が生まれると、その行為をまたやりたくなる。
性的なものも同様だ。行動後に快楽が生まれると、それを繰り返したくなる。それが報酬系の
主たる役割である。この仕組がなければ、生物として生存力が低くなってしまうことだろう。

時折発生するかもしれない快楽・報酬をもとめて人は行動する。
そういう仕組を持っているといえる。それは食や性を求める行為であり、一度や二度失敗
したからといって諦めるわけにはいかない行為なのだ。生物はうまくできたもので、
それなりに失敗しても、その行動を繰り返すように仕組んであるといえる。

結果的に、人々は報酬系を駆動させる行為にふけるようになる。
一方で、報酬系を駆動させない行動もまた必要になった。それは1万年くらいまえから始まった
定住である。人の身体は文化ほどに急速に変化しない。よって、生活に必要であっても、
生物学的には不可欠ではない行動には、報酬系は働かないのだ。

定住に不可欠な行動とは、まさに掃除である。ゴミ捨てである。
これらの行動は、生物学的にみて基本的に快楽が生まれない。掃除には多少の快楽が生じるかも
しれないが、必須ではないために、そのように人は適応しなかった。むろん、掃除好きな人も
いて、何かしらの快楽が発生している可能性があるが、大抵の人は掃除にそこまでの報酬は
感じないのだ。

よって、掃除やゴミ捨てという行為はヒトにとって苦行になる。意思の力でなんとか実行する
事の一つである。それは、歯磨きと同じではあるが、これらの行為との大きな差は、
毎日かどうかである。毎日の事は苦行的であっても、習慣化しやすい。

ちなみにトイレなどは毎日の行為だが、これは快楽行為である。つまり、報酬がある。
用を足した後にわずかながら、スッキリした体感を得られるだろう。それが報酬なのだ。

だが、歯磨き後の快楽はほとんどない。同様に掃除後に快楽もほとんどない。
よって、これらの行為を習慣化することはないのだ。それは生物の適応的にみても、
定住がごく最近に起きた出来事だということも関連するのだろう。汚れたら別の場所に移れば
良かったわけだ。

この報酬系はなかなか強力で、人は現物的な報酬だけでなく、抽象的な報酬にも反応する。
例えばカネだ。カネとは完全な幻想である。世界のどこにもない。紙幣や貨幣はそれを具現化
しただけであって、カネの本質は概念である。そのカネによって、人は簡単に動く。
報酬があるというだけで、人殺しさえする。これは完全に報酬系のバグみたいなものだ。

本来は食を得る、性を得るというために発達した器官が、カネという幻想にも同様に反応
するようになった。同じく、名誉や承認という社会的な称賛に対しても働く。これがあるために、
人々は社会的地位を得ようと試みる。これらもまた報酬の一部だからだ。報酬を得ようとしてしまう
のは、それが習慣づくからである。あの興奮をもう一度って事なのだ。


翻って、報酬がでさえすれば、人は行動する。これを現実に落とし込もうというのが
ゲーミフィケーションである。本来報酬のないところに、報酬を擬似的にでも与える事で、
行動を強化しようという事だ。ゲーム化とはつまり行為に対して報酬を設定することである。
人によっては人生そのものをゲームであると主張するものがいるが、それは無茶である。
人の報酬系そのものが人生ではない。だが、かなりの行動に報酬系が関与し、影響を与えている
のは間違えない。

人は他者から欲望をもらう。他人がなんらかの行為後に喜びつまり報酬を得ている現場を
みると、自分もそれをしたくなるという事だ。報酬系がうごめくには、自分が実際に報酬を
もらったことがある経験だけでなく、他人がおこなった経験であってもいいのである。
こうして、他者が喜ばしい事をやっているとき、それを自分もやってみたいと望むようになる。
それが行動の駆動となり、実際に行動した際に快楽を得ることができた場合、人はそれを
自己の習慣に取り入れるというわけだ。これは文化ともいえる。

さてゲーミフィケーション的に、掃除を習慣化できないか。人の報酬系をだまして、
苦行を快楽に変更することは可能なのか。これがまさに現代的な過大ともいえる。

簡単には、掃除後になんらかの報酬を得られればいい。それは抽象的なカネでもいいし、
身体的な快楽でもいい。掃除をしたらセックスするという事にすれば、ものの数回で、
掃除にアディクションするかもしれないわけだ。この仕組をもっとライトにしてもいい。
例えば、掃除機から音楽を流す。掃除が終わると心地よい音がするなど、多少とも快楽に
訴える。そういう報酬を備えることで、掃除という行為を強化できるだろう。問題は、
誰で彼でも通用する報酬がなかなか難しいことだ。掃除をしたらカネをくれるというのは
まさに、仕事そのものである。

こういう事をすると完璧に習慣化すると思いきや、実はしない。

不思議なのだが、行為そのものに快楽を生じさせない連合的なゲーミフィケーションの弱点は、
快楽を生じさせるものにすぐ馴化することだ。そして、持続させるには報酬を大きくする
必要がある。多くのゲームには、レベルなるものがあったり、アイテムがあったりする。
それらは報酬となっていて、ゲームという苦行を続けさせるための仕組みである。そして、
これらの報酬は常にインフレするしかない。

また、この連合的なゲーミフィケーションの最大の弱点は、報酬がなくなるとたちまち冷める
事だ。要求水準が上昇するのである。アンダーマイニング現象として知られるこのことは、
また生物的に意味がある。かかる負荷に対して予期する報酬がある。だから負荷をこなせる
わけだ。みんなで巨大なマンモスを倒す事は困難ではあるが、達成すれば多くの報酬が得られる。
だからやるわけだ。そうしてマンモスは絶滅したわけだが。。。しかし、高負荷な行為をやっても
報酬が得られないとなると、今度は負の報酬が働くことになる。人は負の報酬を正の報酬よりも
一層避ける事が知られている。そりゃそうだ、高負荷の事をやって報酬が得られないとなると
やるのはバカバカしい。すぐさまにその行為はやめなければならない。ということで、報酬が
なければやらなくなるのは当然なのだ。

これらが仕事の現場で起こっている。仕事の報酬は増えないとやる気を阻害する。高負荷の
仕事には大きな対価が必要だ。また、一度上がった給与水準を下げるのは厳しい。やる気を
簡単に削ぐことが出来る。要するにゲーミフィケーションとは、仕事そのものなのだ。

仕事には人の感じ方が二種類ある。一つは高負荷の行為。もう一つは快楽としての行為。
個人差があるために、同じ行為でも誰かにとっては快楽で、誰かにとっては苦行である。
仕事は本来ゲーミフィケーションであるが、仕事そのものが好きで快楽という場合がある。
これは、ゲーミフィケーションされた仕事ではない。要するに、快楽原則での行為である。

画家が絵をかくのは、絵を売るという事以上に、絵を書くのが好きだということだ。
これは行為そのものが快楽を生むという事。つまり、習慣化する事である。習慣化した行為は
当然ながら上手になる。うまくなれば、それは仕事として価値をもつ。こうして画家は
生計を立てられるようになる。これは音楽家でも、研究家でも一緒だろう。

昨今のやりがい搾取とは、この習慣化の行為に対する報酬の割引のことだ。
やりたいことをやらせてもらっているのだから、報酬は少なくてもいいだろうという考え。
これについては逆のことも知られている。とある行為に対する報酬が少ない時、人は、
その行為の正当化のために、それが価値あることと心的に保証するのだ。それなりに
大変な作業をやってもらい、1ドルもらうグループと、20ドルもらうグループにわけ、
仕事の楽しさを評定してもらった研究がある。すると、1ドルグループのほうが仕事が
楽しかったと答えるのである。つまり自分が損をしていると思いたくないために、
自分の行為に価値があると考える傾向があるわけだ。

これはかなり際どい事を包含する。仕事の価値に応じた報酬というのは幻想ということだ。
そして、やりたくない苦行こそ、高い報酬を与える必要性がある。ともいえる。世の高給取り
とは、人生をやりたくないことで過ごしている人々である。経営者や資本家は除いてだが。
少なくともやりたくないと多くの人が思う事をやることでしか、高給取りにはなれないという
事でもある。矛盾するが少なくとも給与水準が高い人間とは、苦行に生きている人である。


行為の快楽とゲーミフィケーションは微妙なバランスで成り立つ。
勉強が好きな子を、勉強から引き離す方法がある。それは勉強に報酬を与える事だ。
そうしたら、ますますやるじゃないかって? まだ続きある。報酬をしばらく与えた後、
報酬を取り上げるのだ。途端に勉強をやる気がなくなるだろう。勉強が好きで勉強からで
十分な報酬を得ていた人に過大な報酬を与え剥奪すると、もとのように勉強好きというだけで
快楽が得られなくなる。これがどう復元するかは知られていない。だが、とにかくこうやって
カネなどで報酬を与えると、勉強という行為を仕事化することが出来る。

同じく、画家の絵が売れるとなると、売るために絵を書くようになる。結果として、
報酬がなくなったとき、絵を書かなくなるということはありうる話だ。

よく言われることだ。好きを仕事にすると、その行為が好きではなくなると。
だから、仕事と好きは分けておく。これは理にかなっている。一方で、好きでもないことを
やると高給取りになれるわけだが、人生を好きでもない行為で埋め尽くすのは人生の無駄遣い
ともいえる。では、どうしたら?

我々はついつい極端を夢想する。違うのだ。仕事も好きなこともほどほどにやればいい。
好きなことを仕事にしても問題はない。ただ、仕事としてその行為をし続けてはいけない。
逆に、苦行のような仕事でも、好きになることは可能だ。仕事の中に好きを見い出せばいい。
つまり、どちらも正解なのである。答えは極端なものではない。これは世の真理である。

やりたいことを習慣化したい。そう願うそこのあなた。うまいゲーミフィケーションは、
あなたを多少はラクにしてくれるはずですよ。

あ、そうそう、私は大掃除をしなくちゃいけないんでした。。。
以上、掃除回避の言い訳でした。やらねば、トホホ。
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思想的サンタ [思考・志向・試行]

戦争の動機はなんだろうか。

チンパンジーでも戦争は行われる。その動機はもっぱらリソースである。
リソースとは、生存に必要な資源こととしよう。すると、ここには様々なものが含まれる。
第一は、なによりカネだろう。次に、所有物だ。そして最後は人的資源である。
所有物の中に人的資源を含めてもいいのかもしれないが、ここで一端分けておく。

つまり、戦争の攻める動機とは、リソースの略奪である。
生物学的にみれば、それはつねに正しい。だが、一個人からみれば、満足なるものが存在する。
生物は一定量を満たせば、それ以上は動かないものだ。逆説的に、行動を促すためには不足を
意識させればいい。

資本主義は常に「お前にはこれが足りない」と訴える事で、その社会制度を維持してきた。
そして、基本的に無尽蔵にリソース確保を目指すというのがこの制度の根幹である。その背後には
本来的に、プロテスタント的教義が隠されており、勤勉に禁欲的に働くこと=神の御心という
考えだ。最後の審判時に天国にいくには、神が肯定する行動をとるべきであるという信念がある。

ところが、我々日本人には、このような文化エートスがない。我々日本人のエートスは、
「恨みをはらせ」である。薄暗いこの思想はずっと日本を覆い尽くしてきた。状況が良いときには
隠れ、状況が悪くなると顕在化してくる。日本人にとって、恨みをはらすというのは、ごく日常的
思考である。この恨みを晴らすが、資本主義と接続する。ミクロの行為主体の思想と、マクロの
社会制度にはなんのつながりもないのだが、なぜか恨みを晴らすという行為が、勤勉性に拍車をかけた。

なんの恨みを晴らすのか。近年ではもっぱら敗戦という恨みである。我が子を殺された人々。
残された人々。彼らの積年の怒りや悲しみは、強烈なパワーをもって「戦争」へと向かった。
戦後の復興という思想は、明らかに敗戦がもたらしたものである。良くも悪くも、欧米の手法を
取り入れ、それによって彼らをも凌駕しようという思想である。よって、資本主義もなすがままに
受け入れた。もちろん実態は違う。

日本には、ほんらい資本主義的な発想は根付かない。その理由はすでに述べたようにキリスト圏
ではないために、資本主義を維持する動機が個々人にないからだ。むしろ恨みをはらすために、
日本は戦後、「共産・社会主義的資本主義」を採用した。政府が計画的に社会資源を一部の産業に
集中的に投下し、民間のちからを使ってカネを回したわけだ。今の中国のようなものと言えるだろう。
彼らは「資本主義的共産主義」である。社会のベースをどこに置くかの違いだ。

この思想は、ミクロでみれば安定的な給与体系となって現れる。終身雇用や年功序列は、
まさに共産主義的な発想そのものだ。経験に応じて給与があがるのは、やる気を生み出すためで
あり、組織への従属をもとめる事である。その結果として、組織へのロイヤルティがまし、それが
組織の強みとなって生産性をあげていた。

一方で、誰が彼らにカネを払ってきたのか。それはトドのつまり、消費者である。
フォードの例をあげるまでもなく、安定的な商売の裏側には安定的な需要が必要であった。
では需要とはなにか。それは人である。そして欲望である。需要は人の数と欲望の強さに
正比例する。

話が戻ってきた。日本は本来的に、恨みを晴らすというエートスで、戦後を過ごしてきた。
子供を大量につくり、多くの人間が生産現場に駆り出された。それは経済という武器で恨みを
晴らすためである。そういう雰囲気を過ごしたのだ。ところが1970年代にはそれは終焉を迎える。
人を増やしても、生産性があがるわけではないからだ。そして、ものが溢れ出す。輸出しても、
ニーズがなければ売れない。日本は欧米に追いつくという動機だけで、資本主義的な制度を
肯定し、それがために、農民たちは田畑を市街地に作り変え、専業農家をやめた。会社員として、
生きる人間を増やしたのだった。それは、カネがそこに回っていたからだ。

だが、需要が過多になった時、人々は買えなくなる。一部の人間を除けば、買いたくても
買えない。また、人の維持に負担がかかる仕組みを生み出した。社会が大卒を高く買うために、
人々が大卒という肩書を得ようと必死になる。過度な競争が生み出された。明確な学歴社会
である。巻き込まれた人々は学歴に右往左往する。子どもたちの一部は競争を勝ち抜き、
一部は疲弊した。また、そこには教育への投資が存在する。もともとカネを得ていて家庭から
学歴を維持しやすい人々がうまれ、公平さは徐々に失われていく。それに応じて、買える人と
買えない人に社会が分裂化していく。

人口増加状態にあったとき、カネは増え、需要がます。だから供給がうまれ、ますます
需要がまし、人口も増加していく。だが、社会の生産と人口増加が拮抗したとき、この
ループは終焉を迎える。終焉を迎える直前・直後でも、人々は夢を見続ける。それがバブル
崩壊後の日本である。当時に作られた社会諸制度が未だに維持されているために、ますます
日本社会は疲弊した。若者が一番あおりをくらう。受験によって選別された子どもたち。
そのバトルロワイヤル的思想の蔓延は、優しい子を傷つけ、サイコパス的人格を増長する。
引きこもりの一部は、旧来もっとも人間らしい人々であった。

こうして社会が非人道的傾向をもつに至ると、社会の需要状況も変化する。買いたくとも
買えない人々が大量に発生する一方で、消費しきれない金を無駄に使う人達が現れる。
それが学歴に依存しなくなりつつある。すると、子どもたちは学校への帰属を失っていく。
それが個人主義になるならまだしも、集団とも個人ともいえない宙ぶらりんな存在へと
子供たちは追いやられた。その時に頼りになるのは、ネットだけなのだろう。ネットに
あふれる罵詈雑言に自分の所属性を求めるようになる。

一方で、賢い子どもたちも生まれる。社会が混乱している一方で、情報にふれる機会だけは
増加した。まともな感情教育を受けている子たちは減ったが、その一部は確実に自分の能力を
伸ばしている。間違えなく、これからの時代はそういう子どもたちのものになるだろう。

親世代は、あまりにも高くなった物価の前に、為すすべもなく、ただ家のローンを返すこと
のみの存在となった。とりわけ男親はそうであろう。会社が儲けを出す理由をしらぬ人々の群れ。
会社の儲けとは、人々が借金をする事で生まれる。需要とは人の数x欲望の強さだ。その欲望が
借金を生み出す。家を買うというのは欲望である。欲望を満たすために、人々は借金をした。
その金が、めぐって企業の賃金となる。よって、賃金を増やすためには、人々が借金をする
ほか無い。

社会構造上、トライアングルの底辺は賃金抑制となる。何も努力をしなければ、安い労働力に
しかならない。むろん、金持ちの子は別だ。後継という手がある。だが、都市空間に放り出された
会社員の息子娘には、学歴というのは大いなるプレッシャーである。努力して初めて普通になれる。
そういう幻想を抱かされた。本来的にいえば、こんなもの普通でもなんでもない。だが、社会は
それとなく、普通を要求する。年寄りはそんな努力などしてないのにも関わらずだ。大人はずるい
のである。しかし、社会がそういう動機で動くのであれば、人々は否応なくそれに従う。

上位のものが金をがめるようになった。それは社会制度をそのように変更したためだ。
自民党のせいである。上位のものが金をせしめるならば、下部のものにカネは回らない。
大多数の人々の需要によって、支えられている内需は、この仕組によって崩壊した。大事なので
もう一度いう、資本主義社会とは、資本家によって労働を搾取する仕組みである。それを強固
にしたのが自民党で、自民党は資本主義に魂を売った。そうして、自分たちの懐に使い切れない
だけのカネを残すようにした。これが内部留保であり、タックスヘイブンである。我々には
見えない形でカネを退蔵し続けている。

誰かが自分の持ち家のためにローンを組む。すると金が信用創造で作り出される。その金が
銀行から投資へ使われる。投資先からの返金と利子によって銀行は利益をあげ、その金の中身は
誰かの借金で賄われる。つまり、借金によって生み出されたカネは絶対的に誰かの借金によって
しか補填されない。そして、利子によりカネは絶対に返せない。誰かがカネ的に破滅する。これが
資本主義の本質である。誰かの犠牲によって金が回っている。今もかつてもだ。

ベビーブームで人が増えていたときは、金が次から次に作られていたために、一見すると回っていた。
だが、いまや社会的諸制度の成約によって、人が増えなくなった。結果として、金が回らない。
金が回らないのに、上位層が金をがめるために、ますます庶民に金が回らない。庶民はカネがない
ので、子供を作らない。人がいなくなる。人がいなくなれば、借金する人が減り、カネは生み出され
ない。よって、社会全体は需要低下をまねき、供給過多になる。GDPは減り、税収が減る。

ここ20年の日本は、こうやって停滞した。なぜ今だに、日本が持っているかのように見えるのか。
先程のべたが、既にこの仕組は崩壊した。過去形である。崩壊したシステムが一見すると大丈夫に
みえるのは、惰性が働いているからだ。正直に言えば、今の子供達はこの崩壊の結果をまともに
くらう残念な世代となる。日本が復活するのはその後だろう。50年はかかるに違いない。
ま、それはともかく、現代の日本では、個人が借金をする代わりに国が借金をしているから、
なんとか保っているようにみえるのだ。

国の借金は、国債となって金融機関にカネとなって流れる。その金に群がるのは大企業などだ。
金融業も群がる。GPIFやJREATなど多額の金を動かすのは国である。日銀である。そうして
株価を高くするように演出し、日々、日本の企業は国営化が進む。この仕組のトップは政府だ。
結局、安倍批判が少ないのは、利権的に安倍にいてもらい、彼らからおこぼれがほしい企業が
わんさといるからに過ぎない。国の仕事をもらいたい人々が安倍に群がる図式である。ここに
暴力団などの組織も絡んでくる。

儲からない企業は、固定費をさげようとする。つまり人々の賃金だ。年功序列をやめるという
のははっきりいって愚策である。だが、若者には溜飲がさがるかもしれない。若者は総じてバカ
なので、使えない上司の給与が下がる事を喜ぶ。だが、それはいつかの自分である。彼らの給与の
低下は自分たちの給与の低下なのだが、それが理解できないために、年功序列に反対する。愚か
である。一方で、年功序列にしがみつく生産性の低い人材も多い。とはいえ、人間的な仕組みから
いえば、50代が20代と同じ能力を発揮することはできない。そもそも、現行の労働対価の制度は
おかしいといえばおかしいのだ。働き盛りの30代40代の対価を最大化して、50代60代は下げる
べきである。そういう形の給与体系じゃなければ、本来的に成り立たない。

ともあれ、儲からない企業は正社員をへらし、機械化し、非正規を増やす。仕事をコモディティ化
する。結果として、サービスは適当な形で推移し続ける。悪くはないが良くもない。といった具合だ。
そうして、ケチった給与は、需要を減らし、企業は儲からなくなる。なぜなら、潜在的な需要は
従業員の給与だからだ。

従業員への給与を減らして、売上を確保するということは、資本家のためにはなるが、
それ以上でも以下でもない。そうやって退蔵する金を増やす事に日々貢献するのが経営者である。
社会から金を減らす。そうしておいて儲からないとわめく。仕方がないから、安倍政権におもねり、
企業献金をして、仕事を融通してもらう。国の借金が減らないのはそういうことだ。そして、
政権は、献金ほしさに大企業を優遇する。法人税を下げて、消費税を増やす。結果さらに景気は
悪化する。大企業はますます国に依存する。

依存する人間は醜悪である。結局、その内部にいる大企業の人間たちは共犯である。
ましてや、その下に連なる下請けだって、共犯である。その構造体にいることが、自分の首を
締めている。

こんな事をしてきたのが自民党である。愚か過ぎて何もいうことはない。

このとばっちりは、国の借金をチャラにするところで起こる。
現段階では、インフレが起こっていない。その理由は端的に市場に出回る金がすくないからだろう。
企業の活動は、総じて見れば、資本家に金をあげるという行動である。そして庶民から金を
巻き上げるという活動である。それに労働者は関わる。労働者が頑張るほど、自分の利益を資本家
に譲渡する。これが資本主義の世界である。実にアホらしい気がする。

言っておくが、企業におけるキャリアとか、成長とか、評価なんてクソみたいなものだ。
ちまたに溢れる自己啓発本は大抵、クソみたいなアドバイスしかしない。それは要は
「使いやすい人材たれ」ってことだけだ。能力が高く従順な人間でいろと。そして、大きな物事には
無関心で、目の前のニンジンを必死におうだけの人間でいろと。

酒と煙草と、性的欲求で男を操るってことだ。金があっても、大事なものは買えない。
大事なものは時間で賄うものだ。時間以外に満足を与えるものはない。

日本の構造は国が借金する度に、多くを労働者から貪る仕組みなのだ。
なぜ安倍支持なのか。それは目先の利益だけが問題となる経営者たちがいるからである。
仕事がなくなっては、困るというただそれだけのことで、支持している。
なにしろ、民主党の時代に驚いたのだから。本当に小さな政府を実行しようとしたら、
皆国にしがみついたという顛末があの政権交代だった。アホらしいのである。

石井紘基氏は、ソ連が80年代にすでに崩壊すると予言した。そしてまるで
同じ構造の日本も危険であると警告した。私もそれに賛同する。

超高齢社会である日本は若者から金を奪い年寄の回している。そうまでして
年寄り優遇の社会を築いておいて、子供が生まれないと主張するオヤジたちは何も
わかっていない愚か者たちだ。はっきりいえば、今売れてきた子どもたちは、今すぐに
日本を離れる準備をしたほうがいい。残念だが、これからの日本は荒れ狂う時代になる。
その時、欧米などに避難できる人々としての能力を身につけるしかない。

社会の理屈は単純である。経済新聞など読まなくてもわかる。むしろ、あんなものを
読むと、特定の主義に洗脳されてしまう事だろう。

だいぶ話がそれてしまった。そう人の欲望はどこからくるのか。
生物学的な欲望を満たすためにリソースを確保しようとする。だから、争いが発生する。
そしてその争いを煽る手段は、2つだ。一つはリソースを得るため、もう一つは恐怖の対処
である。恐れは、人を駆動する。

社会が荒れてくると、人々はその欲望を顕にする。そして、その欲望によって争いを起こす。

国内が停滞すると、それが自分たちの行動つまり、日々の仕事に問題を見出すのではなく、
どこかに悪者を想定する。愚かな人々はそうやって、他人のせいにする。自分たちの仕事が
問題であるのに、それを他者のせいにすることで、自分を守るのである。それは不安解消だ。
誰かを責めていれば、自分は大丈夫だと思うからだろう。もちろん、駄目な行動だ。

戦争の動機はどうやらここにある。自分たちは悪くない。でも、状況は悪い。この認識に
おいて、何かを解消しようとするならば、はけ口を見つけるのは容易い。こうして、ヘイトが
増え、その憎悪表現に感化されるもの、反発するものにより、社会は荒れていく。

世の暇なオヤジたちは、すぐに国という単位でものごとを語る。バカバカしい。
今の時代は、我々は地球人であって、国とは県みたいなものだ。県の間になぜ戦争がおきないのか。
それは、県をこえた思想に生きているからだろう。これからの人間は同様に、国を超えて地球を
想定して生きるほか無い。それは理想論ではなく、必然的な流れである。それができないのは
老人であるという証拠である。

日本の人口は、老人が多い。だから、国単位でものを語るバカが多い。それは安倍政権も同様だ。
だが、そこのぶら下がる人々はもっと酷い。何も考えていないから、儲かるかどうかだけで、
行動を決める。このゲームほど馬鹿げたものはない。なぜなら、その行動すべてが、結局、
奴隷になることだからだ。自ら奴隷を選び、奴隷として生きる。くだらないではないか。

社会構造は人の振る舞いを変える。社会変革とは、結局、金の流れを変えることだ。
現状では。思想ではない。如何に金の流れをかえるか、それが現代の革命である。
今は、資本家に金が流れる仕組みである。それは金というものを人々が信用する限りにおいて、
今の制度を肯定する限りにおいて、必ずそうなる。そして、人々の生活は絶対的に疲弊する。
今の日本の現状は、社会システムによる必然と言える。別段、誰かの思い込みなどで変わる
わけではない。社会制度の変更こそが、人々の振る舞いを変えるわけだ。

ここに昨今の前兆がある。FANGAは、テックによる社会変革を望んだ。むろん、うまくいっていない。
なぜなら、根幹である中央銀行による紙幣発行という仕組みを崩せずにいるからだ。ビットコインなど
仮想通貨がこれを覆せるかどうか。それによって、我々の社会生活が変わる。信用創造できない
仮想通貨は、現行の仕組みをまるで変えることになる。それがメジャーになったらだが。一方で、
信用創造する仕組みをもつシステムが存続するなら、現行のままの制度が維持されるだろう。

とはいえ、FANGAによる人々の行動振る舞いは、かなり影響を受けた。
メールにしても、ラインにしても、Facebookにしても、twitterにしても、生活にかなり
入り込んだ。こうして行動が変わる事で、金の動きが変わる。金の動きが変わると我々の
生活スタイルが変わるのだ。我々はその過渡期にいる。

ともあれ、私は既存の企業において一生懸命に働くという事が、社会的に肯定されるべきこと
ではないと断定する。むしろ、如何に手を抜いて企業から金をせしめて、その金で生活を充実
させるか、自分の時間を確保するか。それこそが、人生の主目的であるといいたい。

もう少し肯定的にいえば、企業を利用して、人間的な価値を生み出す事。それが大事である。
資本家を儲けさせるために、利潤発生のため自分の力を使うというのは、およそ愚昧である。
労働者は、他の労働者の生活を豊かにするために行動すべきなのだ。そうでないと思われる
仕事はすべからく悪である。そして、そのとき、自分もまた幸福を追求すべきなのだ。
自己犠牲の上の幸福など、存在し得ない。

今日は12月24日。上記をもって、私の贈り物としよう。
マトモな人は、ぜひ、自分の仕事をご一考して頂きたい。そして、来年も良い社会になるよう
務めてほしいのだ。
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ヘイト本ー寛容と不寛容 [思考・志向・試行]

ヘイト本に関する本を読んだ。

そこに展開されていたのは、出版業界の仕組みと、出版社の問題だった。
資本主義の論理に翻弄されているために、ヘイト本が必要となる。これが結論だ。

短期的な売上を考えると、ビックリ本をだして話題となった方が良い。
耳目を集める事がそのまま売上につながる。これは大前提として読者側の知性の低さがある。
自分に必要な情報を得ようというより、他者が読んでいるから、どれ俺も読むかという
行動である。まるで主体性がない。そのうえ、扇動されている主体がヘイト本を読めば、
そうだったのか!など無批判に受け入れてしまいそうな事は大いに有り得る。

こうして中身の薄い本を作ることで売上を伸ばそうとする出版社。
結果、売れたヘイト本に類似なものを作り続けることになる。
彼らの言い訳は、両論併記であり、表現の自由である。ヘイトもまた表現だといいたいのだ。
出版業界は、明に暗にこのようなヘイト本も売上という事のために黙認する。
要はアイヒマンと何も違わないのである。凡庸の悪だ。

ヘイトなんかしないよという出版人でも、ヘイト本を作る仕事をする。
その大いなる欺瞞に目を逸らす。自分の主張ではないと前置きをする。
そうやって、不寛容な思想をばらまく手伝いをする。これは批判されるべきことだ。

金のために何でもやる。あっそうですか。という感じである。

それは自分がいきなり殺されても文句を言わないということと同義であろう。
犯罪とは金のために何でもするという事である。それとどう違うというのか。
ヘイト本が悪であるとわかっているが、短期的利益のために出版するなら、
同じ穴の狢である。

こうして中身の薄い本が売れると、その類似本が増え、ますますヘイト本によって
棚が埋まっていく。そして、簡単に扇動されてしまう一部の人々がそれを信じたり、
内面化する。不寛容が蔓延するというわけだ。

ツイッターでも、不寛容な話題がなんどもリツイートされる。
むろん、一人が何度もリツイートしている可能性もあるし、商売の可能性すらあるが、
それでも、それを実行することで何かを訴えようとする人間がいることは確かだ。

その心はなにか。それはひねくれた心情だろう。
不幸なのだ。心があまりにも腐ってしまったために、自分は凄いという枠組みに
入りたくて仕方がないのだ。

いま、ヘイトに加担する人々は2つのグループがある。
一つは40代を中心としたネトウヨ。もう一つは、60代、70代の団塊である。

ヘイト本を買うのはもっぱら老人たちだ。若者が扶助した年金でヘイト本を買っていると
思うと落胆も甚だしいが、彼らはアメリカに抑圧された卑しい根性の人々である。
アメリカに認められたいという浅ましさと、欧米に今度は経済で追いつくのだと仕事だけを
してきた人々である。それがどうだ。かつての日本は単に人口ボーナス期だったに過ぎない。
かつてのピークをまだ引きずっている。それが今の日本だ。

ヘイト本の購入者は、テレビの視聴者でもある。
テレビはどんどんと日本礼賛番組を増やしている。オリンピックなど張り子のトラのような
イベントもまた、そのような思想を蔓延化する。その元凶として安倍政権がある。

自分たちは凄いんだという幼児的自己愛感情。すごくなくてはならないという強迫観念。
このような心境が内面化されていたがゆえに、経済活動だけに没頭する人間たちが生まれた。
そして社会をあげて、そのような行為を是認していた。だが、もうフェーズが変わったのだ。

現実と自己イメージ乖離。これを老人たちは埋めようとする。それを埋めてくれる言葉に
すがろうとする。それがヘイト本であり、自己自慢なのだ。地元から有名スポーツ選手が
出てくれば、あたかも以前から応援していたかのように、まるで知り合いかのように振る舞う。
そういう安易な自己同一化が、高度成長期には役に立った。だが、現代はそういう思想は
むしろ害である。

自分という個人において中身がないために、他者の努力や運の結果にすがろうとする。
浅ましいとしか言いようがない。自分を自分の行動で肯定できない人間たち。それがヘイト本
を購入する老人たちの心境である。他者を貶めて、自分をもちあげる。まさに足の引っ張りあいだ。
その典型は安倍政権であるし、まさにそのような老人たちである。不幸な人々である。
自分たちが努力し、より良い生活、社会を作り出そうというより、他者をけなすほうが安易に
自分たちを肯定できるからだ。

一方で、40代あたりのネトウヨたち。彼らの内訳は2種類だ。一方には若年の高学歴ネトウヨ。
一方には、無教養・無知性の持たざるネトウヨだ。

高学歴ネトウヨの論理はごくごく単純で
「自分は努力した。だから今の現状がある。弱者は努力不足である。」という思想である。
受験勉強という競争を強いられた人間は心が歪む。歪んだ心に入り込むのが、見下しという
事柄だ。自分は勝った人間だという傲慢さと、たかが20程度の頃の学力が、人生を決めると
思い込むだけの愚かさがある。努力した人間が相応の対応を受けるのは当然だと思うがために、
弱者に対して容赦がない。アリはキリギリスをいじめるという図式である。

他者に洗脳された「受験戦争」という事実に気がついていないあたりに、頭の悪さを感じるし、
それを内面化したという事実にも気がついていない。このような人たちは組織に属すると、
相変わらず、競争を始めようとする。実社会は当然、受験とは違う。個人の能力だけじゃない。
人のトータルの有りようが評価される。だから、会社への貢献など以外に人当たりの良さとか
他者と協力的かなどの異なるファクターが優先される。だが、受験勝者はそれを許容できない。
自分のほうが仕事ができるのに、なぜ評価されない?と愚痴る。それは人間的魅力が足りない
のだが、単一の度量衡で人生を生きてきた彼らは不公平だと文句を言う。

加えて、自分たちの能力は自分たちの利益にのみ貢献すると勘違いしている。受験競争を勝ち抜く
技量は自分への投資であり、その投資の見返りは自分にまずは返されるべきだと強く信じている。
このような人々が組織に増えると、損得人間だらけになる。大企業は、高学歴者ばかりを採用した。
その結果どうなったか。損得勘定ばかりの人間組織に、創造的なことなどできるはずがない。
度量衡で測れるのは、正解がある場合だけだからだ。新しいことを評価する軸などありはしない。
そうやって、保守的な人間だらけになっていく。それが巨大な組織の官僚化である。

彼らの一部は弱者に対し批判的である。そして、その弱者が彼らが身分不相応の利益を得ている
と聞くと、聞き捨てならないと思うのだ。在日の話や在日の特権、生活保護などに強く否定的な
態度をとることになる。それは、自分たちの存在否定だからである。ましてや自分たちが努力に
相応の対価を得ていないと思っていたら、尚更だ。弱者とみなす人々が不当に利益を得ていると
感じる人間は、逆に言えば、自分が努力したのに対価を得ていないと思っているわけだ。そして、
自分の努力が否定されたように感じるがために、弱者の状態を避難しようとする。それが高学歴
ネトウヨの実態である。実に浅ましい。

心が歪んでいるがために、他者を同じ仲間だと認識できない。むしろ他者はリソースだと
すら思っている。そういう人々がヘイトを肯定する。サッカーチームがあって、敵と戦うとき、
味方がミスしたら、困るだろう。ところが、ヘイトな人々はそれを喜ぶのだ。アホらしい思想
である。仲間を仲間だと思えない点に最大の問題がある。しかし、それは洗脳されてしまっていて
なかなか解きほぐす事ができない。加えていえば、自分が異常なのだとすら気が付かないのだ。
周りがみんな異常だからである。

このような不寛容な人間たちの思想。社会という場においては、不寛容は寛容できない。
それを寛容することは、表現の自由ではない。誰かを攻撃することを表現とよべるのか?
私がこうしてネトウヨ批判をするとき、これ自体がヘイトではないかと批判されるのか?

駄目なものは駄目。私の良心からみて、公然と他者を貶めるヘイトはありえない愚行である。

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矛盾ー結局ヒトはがめついー [思考・志向・試行]

人生には色々矛盾がある。

そのうちの一つは、自己利益と社会利益だろう。
倫理とはその指針になる規範のことだが、社会において自己利益といっても多面的要素を含む。

自分の利益のための行動。アダム・スミスが見えざる手といったのはミクロに見れば
このことだが、それには大前提があるのをご存知だろうか。アダム・スミスは「道徳論」の
中で、道徳を持つ人間であればこそ、自己のために遂行することは社会のためになると
述べた。要するに、聖人であれば、その欲する所の行動は、当然社会のためになるという
単純な話である。

ところが、のちの人は、この見えざる手という部分のみを誇張し、誇張を重ねてしまった。
あたかも市場原理によって社会が良くなるかのように喧伝した。大嘘である。自己の金儲け
を自己肯定するために作り出した論理に過ぎない。大きい自己欺瞞を隠蔽するための論理である。
それは、現代の経済学でも同じことだ。金儲けの本質は他者の搾取である。それ以外でも
それ以下でもない。それがしたくなければ、自己が生産する手段をもち、利益を得るしか無い。

労働の対価として利益は公平に分配されることはない。とりわけ製品や商品作成において、
ことは不可解さを増す。料理人が作った料理は価値を生み出す。その付加価値分が彼の取り分
とはならない。彼はその中の一部を手にして、残りはオーナーや雇い主の懐に入る。金儲けする
立場の人間は常に搾取するということだ。これは真であるから、覚えておくほうが良い。


さて、では個人の利益追求はどうあるべきか。
アダム・スミスは道徳の範囲において、遂行すべきだと。自分の行動が宗教に根ざした行為で
あれば、何をしてもそれは自己のためであり、かつ、社会のためになる。だが、現代はそうではない。

例えば、誰かが会社に入って商売をする。その時、商売がクリーンな場合はまだマシだろう。
だが、商売がアコギになる場合はどうだろうか。とある商品を作るのに原材料が必要だとしよう。
その原材料を買って作るならば、そのメーカーの責任はそれ以後ということになる。
だが、原材料を生み出す仕組みの企業努力とは結局、安い労働力を使うことである。
だから、資本主義社会において、原材料に近い場所で働く人々は強い搾取を受けることになる。
このとき、メーカーの従業員は搾取していることになるのだろうか?

メーカーの言い分は、「こっちはただ原材料を買っているだけだ、それもできるだけ安い所から」
と単なる企業努力の成果としてこの現象を取り扱うだけだろう。しかし搾取されている人から
みれば、彼らがもう少しまともな値段で買ってくれれば生活が楽になるのに、と思っている。

人は目の前に苦しみを提示されない限り、自己の行為の結果を理解しない。
空の上から落とした原爆の結果は、地上の苦しみをみなければわからないのだ。

メーカーの従業員は自己が搾取されながら、その搾取を維持するために、さらに弱者を搾取
していると理解すべきである。そうしたらどうするのが良いのか議論が出来る。

現状では、この部分に対する想像力は欠如し、ただのビジネス関係として議論される。
そして、この構造が維持される限りにおいて自己そしてその所属組織は利益を上げることが出来る。
よって、搾取は明に暗に肯定されているわけだ。つまり、メーカーの従業員は搾取する人である。

さて、ここで大事なのは倫理観である。搾取があからさまになった今、メーカーの従業員は、
搾取されている存在であり、搾取している存在である。ここで「人生ってのはそんなものだ」と
いうなら、それで構わない気がする。ただ私は声を大にして、指摘する。あなた方は、
他者を貪る人間であると。これは事実である。私の想像や価値観などとは無縁なことだ。
客観的な事実を述べたまでだ。

更に付け加えよう。ここからは私の価値観による。
あなた方は、悪人である。少なくとも、あなた方が肯定している価値観によって、
苦しむ人がいると。およそ、受けいれられない話だろうが。何しろ無知蒙昧なのだ、あなた方は。

自分はただ、企業に雇われて働いている健気な1日本人に過ぎないと自己規定する。
そして、今日も対して嬉しくもない仕事に勤しむ。その私のどこに否があるというのか?
そう考えるのは当然であろう。私もよくわかる。が、だからこそ無知蒙昧であると断言できる。

事実はすでに教えた。だが、あなたは自分は罪はないということだろう。まさか自分が加害
の元凶であるとは思わないだろう。あくまでしらを切るのだ。何しろ自分の行為の結果を
自分の行為の原因をしらなかったからだ。無知とは恐ろしいものである。

第三世界がなぜ未だに貧困にあえいでいるか。奴隷として多くの人間を差し出し、
その対価として僅かな酒を手に入れたような非対称な取引が存在するからである。
その取引相手の一部があなたの会社であり、あなたなのだ。

この世界は様々なものを見えなくさせている。結果的に、自分の行為がどこに由来し、どういう
影響を与えるのかが不明になった。おそらくだが、これを包括的に理解できる人はだれも
いないだろう。当然、私もだ。


では、どういうことを意識すべきなのか。それは誰しもが社会構造に責任があるという
ことである。第三国の貧困はあなたにも関係がある。要は誰かの不幸は、地続きである以上、
誰かの利益に書き換わるという事実である。それをまるごと肯定するのは実に簡単だろう。
何しろ、ほとんどの人間はそれを肯定しているし、それを肯定しないと日本では生きていけない。

この点についてちゃんと理解している人はどれくらいいるのだろう? 私には大いに疑問である。
きっと、理解するはずもないし、する気もないはずだ。人とはそういうものである。

こうして、自己の利益を増進するというテーゼは、先進国の頭脳にインストールされ、
唯一の倫理として機能している。アダムスミスの思惑とはまったく別の形において。

残念だが、そういう意味は日本社会の主要部分は狂っている。マジで言っているのだが、
これもまた通じないのだろう。自分の価値観が唯一であるとおもいこめるほど、
人とは馬鹿なのだから仕方がない。だが、その埋没した思考の結果が、多くの不幸を作り出す。
そして、自分は無実だと本気で信じている。私には信じられないのである。

「目を覚ませ」と様々な宗教家が唱えてきた。当然である。真はそこにあるのだから。
すべての宗教はそこをまず踏襲する。私は宗教家ではないので、それを声高に偉そうに
いうつもりはない。だが、絶望だけはわかる。私の言葉届く相手がいるともあまり思えない。
それくらいに習慣は根深いし、自己の考えに固執するのは仕方がないのだ。

私のいうことなど、とてもシンプルでわかる話だろう。宗教の悟りのような複雑さなど
微塵もない。だが、本当の意味で理解する人はまれだ。仮に理解したとして、それで行動を
変える人がいるはずもない。何しろ、これを読んだって、明日には仕事にでかけ、学校にいき、
いつもどおりの誰かに規定された生活を過ごすのだ。あなたは一生そうやって生きれてればいい。
それが人の性である。私にはよく分かる。

私が何度も述べたズレ、目が覚めたとは、この違いである。なに、単純なことなのだ。
世界がどうあるのかを理解すれば、否応なく行動を変えざるを得ないということだ。

あなたが一生懸命取り組んでいる仕事って、そんな価値があるのか?
その複雑怪奇な問題を解けるようになって喜ぶ学生よ、それが遊び以上の価値があるというのか?
金儲けのプロが、多大な利益を上げたとして、そこにどんな価値があるというのか?

価値観というように、価値は相対的なものだ。
自分の価値観を持つならば、それはその瞬間に他者の価値観を見つけることになる。
誰かの借り物の価値観でしか生きないならば、こんな話は無駄なのだが。

多くの人が価値がある規定したゲーム中で、そのゲームに勝利する事を人生の目標に
するというのは、おおいなる矛盾ではないか。

自己の利益とは、要は自己の価値観である。それ以外に利益など存在しない。
人が拠り所とするのは価値観であって、利益ではないからだ。その利益の増進が行動原理と
いうならば、利益とは肥大化した自己に過ぎない。いや、ただの生存の問題なのだというならば、
生存がその人の価値観である。そう自己規定したのだ。

さて、話を戻そう。
我々はいつでも、自己利益と社会利益を超克出来る。この分節の起源は誰かによって生み出された
価値観に依存するからだ。人はただ模倣する存在である。その模倣の度合いの強弱が価値を生み出す。
正確には、幻想的価値を生む。何しろ、人が欲すれば、価値がうまれるのだから。
そこに落ちている石だって、人が欲すれば価値を持つ。

生きるために何が必要なのか。大事なのは価値である。プライスではない。
プライスになった瞬間から、価値を失う。人は簡単に価値を手放す。プライスのために。
そうして、失った価値観を取り戻そうと、プライスを稼ぐ事に勤しむ。どれほど稼いでも、
価値観は取り戻せない。なぜなら関係ないからだ。この価値観にはまり込む矛盾。

価値を生み出すのは心なのだ。

心が健全であれば、第三国の人々を安易に搾取していいとは思わないはずだ。
他者を搾取したいとは思わないはずだ。他者を搾取状態にしておいて、幸福を語るのは、
偽善そのものである。そんな人で溢れかえっているのが、日本の都市である。

地方にいる多くの心が健全な人たちにこそ、私は希望があると思う。
彼らは価値を受け継いできた。それを急速に絶滅させようという勢力が都市の論理である。

日本の都市部にいると、それが世界の全てに思えてしまう。
しかし世界は広い。そして、世界はもっと幸福を生きている。価値を知っている。
プライスで価値を犠牲にしない生き方がある。

そのために何をしなくちゃいけないのか。
やはり言い方としては「目覚めよ」しかない気がする。これは昔の人から受け継がれた
優しさなのだろうと思う。
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自由な行動とその対価ー恋愛継続の困難さー [恋愛]

恋人をつくるということは、制約を作ることでもある。
あなたを見ていますということは、他の人をみませんという事でもある。

だが、それを拒絶するとどうなるのか?

まず大きな問題点として、通常はカップルは相手のみを優先する。
なるべく一緒にいようとする。そういう風に脳は訴えかけてくる。それが恋だ。

恋をしたことがない人は、この感じが分からないのだと思う。
あの強烈な感情からいえば、そもそも他の人をみようと気すら起きない。
ヒトというサルはそういう風にできている。それは、一種の繁殖戦略であり、
そういう事をできなかった人たちは、子供づくりに失敗していなくなったわけだ。

さて、恋をするとできるだけ一緒にいようとする気持ちが生じる。
これはとても自然なことだ。この理由を冷めた生物学で解説すると、

1.パートナーの浮気防止
2.パートナー相互のリソース確保

である。

恋をした相手が同様に恋してくれることは稀だ。時にそういうこともあるかもしれないが、
きっと、難しいのだろう。そういう時、一緒にいることを求めるのは生物学的に意味がある。
一つは、女性が他の男の子を宿さないかをチェックすること。女性からみれば、男が他の女に
手を出していないかをチェックすることだ。この手間を省くには一緒にいる方がいい。よって、
恋をするとそばに居ようとする行動が生まれる。

人は他者に自己投影する。恋するものも例外ではない。自分の気持ちを投影すると、
相手もまた恋愛状態を想定してしまう。だが、大抵はどちらかに偏りがあるために、
相手は自分が思うようには行動しないのだ。

よくあるすれ違いの話として、束縛がある。その理由は上記である。恋するものは、
相手に対して疑心暗鬼になったりするわけだ。もしかすると、今、他の誰かと会っている
のではないか?と。それは生物学的に許せない行為である。

ここに不思議な規範が出てくる。それは「相手を束縛すべきではない」という規範だ。
生物学的な要請と矛盾している概念である。生物としては相手を自分の目の届くところに
おいておくのが正しい。繁殖戦略として正しい。だから、束縛があるのは当たり前である。
ところが、昨今の社会では、それをかっこ悪いとか、非先進的な考えだとし、ダサいと
一刀両断する。そして、それを許容しない人を糾弾さえするのである。この不思議な規範が
あるがゆえに崩壊するカップルがいる。

例えば、彼氏と彼女がどこどこで何かするという予定を立てたとする。
ところが、その日の都合で彼氏が友達との付き合いを優先する事になったとしよう。
そこで彼女は本来であれば「私を優先するのが普通でしょ!」となじるはずだが、
それをかっこ悪いとか、みっともないと我慢すると「いいよ、いってきな」となる。
面倒な女だと思われたくないという自意識と、それくらい許容しないという面子が
あるのだろう。

ところが、ぽっかり空いた時間がある。ヒトはそういう時間を無意識に埋めようとする。
誰かといるはずだった時間を埋める行為は、しばしばトラブルを招くことになる。

彼女は空いた時間を友達で埋めることにした。ほかの男である。そうして、飯を
食べに行ったり、飲みに行ったりして空いた時間を埋めたのだ。

のちに、彼氏がこれを聞いて憤慨する。なんで他の男と出かけるのかと。
当然である。生物として全く正しい。だが、その空いた時間を作り出したのは、
自分である。そこにふがいなさがある。矛盾である。そして、こちらも当初は、
それをかっこ悪いとかんがえ、面子を保つために許容しようとする。

これに加えて、彼女が多少「自律的な人」であった場合は拍車がかかる。
まあ、一人でもいいかと、勝手に行動するのだ。彼氏に声をかければ来てくれる。
しかし、その突き合わせているという事がいささか気が重い。だから、自分だけで
行動してしまうのだ。

これが何度か続くと、男は思う。こいつ、もう俺の事どうでもいいのかな?と。
実に勝手なものだが、男とはそういうものだ。自分から原因をつくってることに
加え、彼女の性格がそうさせる。結果として、彼氏は彼女の愛情を試そうとする。

自分に会おうとしないのは、なんでなのか。自問自答した結果、あほなことに
彼女への当てつけを考えるのだ。彼女が他の男とでかけるなら、俺もやろうと。
そして、どう思うのか聞いてみたいと。いわゆる嫌がらせである。もしくは、
別れ話をしてみる。彼女が嫌がるかどうかをみたいのだ。その行為をみることで、
ようやく男は安心しようとする。自分の価値を確かめようとする。

一方で、彼女はその男の幼稚さに驚く。そして気持ちが冷めていく。「ないわー」と。
頼れそうもない男をみて、彼女は決意を確かにする。私をないがしろして、どこかに
行ってたくせに、いまさら私を試そうというのはおかしくない?と。

こうして、二人は気持ちをたがえてしまう。まことに残念なことだ。

元はといえば、お互いを気遣った結果でもあり、お互いが感情を隠蔽した結果である。
友達より私を優先してほしい。男友達とは遊んでほしくない。そういう当然の感情を
規範によって覆い隠し、懐が深いふりをする。面子を保とうとする。けれど、その隠蔽
した気持ちは決して消えることはない。どこかでくすぶっていて、どこかで吐き出される。

実をいえば、相手を傷つけない、問題を起こしたくないという自分本位の考えが背後にある。
むしろ、二人でいれば必ず相手を傷つけると覚悟しなくちゃいけないのだ。相手に迷惑を
かける事。迷惑をかけることができる相手。それがパートナーである。大前提が間違っている
のだ。恋路とは、いばらでしかない。何かと互いに傷をつけあうことになる。それは恋の
度合が強いほど、強く傷つく。当然である。それが生物の生物たるゆえんだからだ。

だが、昨今の妙な風潮からうまれた規範によって、そのあたりを避けようとする。
これが問題の核心である。その生物的に生まれてしまう感情を避けてはならないのだ。

ではどうしたらよかったのか。
万能な解決はないと断言して、解決策を考えてみよう。

ひとつには、やはり思ったことはちゃんと伝えるべきだという事。
自分より友達を優先した彼氏に、彼女はそういうのは嫌と伝えるべきだ。冷静に。
でなければ、自分を優先する彼氏にならないのは当たり前である。言わなくても、
わかるでしょとか、言わなくても優先するのが当たり前でしょと、何様のつもりか、
思い込んでいる女子は少なくない。言わなきゃわからないことがたくさんあるのだ。

男もまた、気軽に相手の気持ちを踏みにじらないことだ。相手の期待を裏切るほかないなら
その埋め合わせを考えるべきだ。これもまた丁寧に説明するほかない。いやいや言わなくても
男の付き合いってあるじゃんとか、それくらい言わなくてもわかるのがいい女でしょとか、
妄想を抱くのはいい加減にした方がいい。うしろめたさという確かな感情があったじゃないか。
それを棚に上げたのは自分であろう。

次に、言われた側がどうするか。単純にはなるべく嫌がることはしないってことだろう。
時折おかしい人はいて、この相手が嫌がることをして、嫌がるのを見るのがうれしい人という
のがいる。ゆがんだ自己愛の形である。嫌がるさまをみると安心するのだ。この人は、私に
関心があるのだと。そう、親や友達に嫌がらせとか、驚かせる行為によって注目を浴びよう
とするタイプである。ともかくも、相手が嫌がることは避けようとしないのは、ただの自己
中である。折り合いをつけるようにするしかないのだ。

それから、損得で二人の間を測らない事だ。自分の愛情が相手よりも大きいとか小さいとか、
そういうみみっちい事を言わないという事。自分が相手より好意があると「まけてる」とか
「相手にもっと好きになってほしい」とか思ってしまう性根が問題なのだ。それが高じると
相手の自分への小さな不遜に対して大きな不満を抱くことになる。

真の懐の深さを得ることも大事だろう。相手が多少変なことをしても、相手を信じている
事や、相手に対して変な猜疑心を起こさせないようする事。誤解が生まれそうな行為は
慎むという事だ。

結局、二人の間にルールを形成し、それを流動的に運用しながら、またルールを組み替えていく。
そういうダイナミックな運動以外に、うまくやる方法はない。これは夫婦だって同じことだ。

というわけで、およそ決まった解決手段はないが対応はある。
肝心なのは、自分の気持ちにうそをつかない事。隠蔽しないことだ。
それは何も、思いを相手にぶつけろという事ではない。気が付いた自分の気持ちを
丁寧に相手に伝えろということだ。感情の大きさと表現は同一でなくていいのだ。
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