What I deserve [思考・志向・試行]

欲求のない人はいないだろう。だが、その欲求がなぜ生じたのかを厳密に思考する者は
ほとんどいない。だからこそ、同じ購買行為を繰り返す人々がおり、それによって金は巡る。

多くの人の購買とは、とどのつまり模倣である。

誰かがやっているから、買っているから、だから自分もやる。ただそれだけの空しい
動機に従っている。別段、それでなにも問題はないし、ときに、その購買によって一時の
快楽を得ることもあるだろう。それで十分じゃないか、人々はそう思っている。

例えば広告は、模倣を促進させるためにある。誰かの行為を誘発するために存在する。
そして少なくない人が、その広告によって購買を誘発される。むろん、私だって模倣する。
だからこそ、現代では大きな産業として広告が存在するのだ。Google, Facebook, youtube
どれも広告による収益によって動いている。逆に言えば、それらがなければ、つまり、人々の
模倣がなければこれらのサービスは生まれなかった。

むろんデメリットもある。それは自己に対する存在性を脅かされることだ。
たとえば、クラス中が夏休みに海外旅行にいくような学校だったとしよう。その中で、
自分だけが伊豆温泉だったらどうだろうか。十分に幸運なのだけど、比較において人は、
いささか不満を持たされるだろう。

不満が生じるのは、なぜか。それが表題にある「自己が値する」という概念である。

日本語に相当するものがないので、英語を用いたのだが、I deserve youといえば、
私はあなたに値するとなり、私はあなたと丁度いいというような意味合いになる。
少し傲慢にも聞こえるが、こういう観念を西洋人は持っている。日本人だって、「資格」
という単語でどうようのことをいう。”私には**する資格がない”という形で。

西洋人も同様に、否定で用いることが多い。だが、心理学的にみれば、自分がどのように
あるか、自己規定しているわけで、それは自分への期待、自分の価値の自己採点のような
ものだ。自己肯定感とも近いだろう。

ここでは、この概念に「自己値」と日本語名をつけておこう。

自己値をどうやって決めるのか。もっぱら文化であろう。およそそれを文化と呼んでよい。
日本に生まれたら、おおよその普通がある。自分の事を通常に自己肯定する人間は、
自分の待遇が普通であることを少なくとも一つのベンチマークにする。そして、そこから
の差分を「不幸」「不運」「努力不足」とみなす。なぜなら、また自己値も模倣の裏返し
だからだ。

自分がまねできるかどうか。それは能力だけではない。資源や環境、状況もである。
医者になりたいという高校生がいて、果てして現代社会の仕組みでは、志だけではなれない。
努力もさることながら、運も必要となる。これを理不尽とか不合理という人々は少なからず
いる。それを受け入れる他ないのだが、この思想の背後に「自己値」がある。つまり、
「自分には、医者になるための潜在的機会が担保されるべきである」という思想だ。

単に成績が悪いから無理というのであれば、それは致し方ない。諦める方がいい。
だが、運によって規定されるような違いについては人々は諦めが悪いのだ。

これは異なった視点からいえば、現代日本人は自由であるという事を過大に評価している。
本質的に人生はほとんどが選べない。自由はないといった方が正しい。最大の拘束条件は
ヒトであるという事だ。ヒトという動物は、社会化される。その社会化によって、頭の
状態はかなり偏執した事態になる。簡単に言えば、わざわざ自由度を減らすということだ。

行為の自由度を減らして、なお満足できる時、人は「大人」という存在になる。
これは自己値にも関係する。自分がどれくらい金を稼げて、社会的地位を得られるのか、
どんな配偶者を選べて、どこに住み、何をするのか、これらに大いに自分をどう評価するかに
かかっている。自分を過大に評価する人は、いつまでも不満足を抱え、行為を駆動する。
自分を過少に評価する人は、小さなことでも喜びにできるだろう。

現代人は、社会化において、自己値を適当なところまで大きくさせられる。それが資本主義
であるからだ。周りがよい服を着ていれば、自分もそれを得ようとする。その手段もまた、
彼らと同じ手段を使おうとする。つまり模倣だ。自分の在り様が、他者との差分において
意識される。これはヒトであれば仕方がない。そうして、模倣が可能な時は、それをやり、
それが不可能な時は、2つの行為に出る。一つはその行為をしているものの足をひっぱること。
もう一つは、自己卑下し愚痴にいきることだ。けっして、もともとの自己値の変更をしようと
は思わない。

一度肥大化した自己値は、どうも小さくするのが難しい。ものすごい卑近な例をあげれば、
一度、地位を得たものは、その地位に準じた報酬をもとめる。その報酬には他者からの
社会的称賛も含まれる。だから、大企業の役員や医者や弁護士などが引退してもなお、
横柄であるのは、そのような自己値から抜けられないからだ。

同様に、大人が子供に向かって「努力すれば何にでもなれる」というような形で、
自己値を与えることで、子供はそのように行動する。だが、先の述べたように運が必要だ。
その運がないときに、人は葛藤し、悩む。そのことを否定的にみる必要はないが、多くの
人はそれを修正できないでいる。

人口オーナス期になった現在。トータルとしての収益が減るのは当たり前である。少なくとも
二つの要因がある。平和が続いたこの75年によって、金を退蔵する人が増えたこと。もう一つ
は、借金をする人が減ったことだ。金とはだれかの借金によって増えるのだから、人自体が
減れば、必然的に金が減る。金が減っても、金が周れば問題はない。だが、老人が増えた社会
では、金が周らないのは当然である。要は、日本の不景気は社会構造上の問題なのだ。端的には
人口動態による変化といっていい。

結果として、経済は傾き始める。そのようなマクロな実態を理解する人間はほとんどいない。
私がこうやって書いても、これを読んでも貴方はそう思わない事だろう。仕方がないのだ。
とにかく、物理的現象としての社会が斜陽に入ったときでも、人々の自己値は変化しない。

だから、高度成長期と同じ制度をとり続け、人々はその時思い描いた老後がくると信じている。
多くの企業は同じようには儲けられないとわかっていながら、手をこまねいていた。収益
手段の変更もあった。多くの企業はメーカーなのか金融業なのかわからないような状態である。
そうまで収益にこだわるのは、収益を一定数にしないと、約束した賃金を払えないからだ。
社会状況が変わったのに、自己値は変えられないから、その自己値を満たすように集団が
強制するのである。

生活のレベルを下げるという事を受けれる必要がある。それはマイナス成長という事だ。
当たり前である、社会が発展すれば若いころとは代謝が変わる。マイナス成長といっても、
極端なことを言っているわけではない。今までと同じ大量消費社会をやめて、ものを大事にし、
成熟した社会を目指せばいいだけなのだ。だが、価値観は変わらない。自己値が高いままの
大人が増えたせいだ。

自分にはこれだけの年金を受け取る資格がある。自分にはこれだけの報酬を受ける資格がある。
自分にはこれだけの社会的称賛を得る権利がある。自分にはなんにでもなれる可能性がある。
自分は「自由」なのだ。それを追及して何が悪い? とまあ、こういう思想のままなのだ。

社会が斜陽なら、仕方がない自分の取り分が減っても、それでもお互い様に過ごそう。
とはならない。あくまでも、肥大化した自己値を下げられない。だから、がめつい大人が
のさばっているし、その大人たちを模倣しようとする青年で溢れている。つまり、良い学校に
いき、良い就職をし、良い家庭を築いて子供を育て、引退後に年金でくらすというモデルだ。
当たり前じゃないか?? 違う。その普通がもう崩れている段階なのだ。それを直視できない
のが今の大人たちである。

崩れた前提の論理でまだ動いている社会は確かにある。一部の大企業や公官庁はそういう
モードであろう。大企業は企業とグルになっているので、その状況を盤石にするために、
国民から税という形で金を取り上げる。国民とためというパターナリズムを発揮する。
そんなわけがない。彼らは自分たちのためにそれをやっている。自分たちだけは今までの
自己値を維持しようとする。そのしわ寄せは、社会的権力の低いものたちを直撃する。
例えば、消費税だ。

変更できない自己値があるがために、その維持に躍起になる。それはメンツや見栄と
言い換えてもいい。そのような面子維持によって、もたらされるのは弱者へのしわ寄せで
あり、社会の一部のものだけが富む世界である。安倍政権は、この心理を巧みに利用してきた。
つまり、仲間になるなら、この富の再配分システムのおこぼれをあげようという仕組みである。
「おまえも、こっちにこいよ、悪いようにはしない」という囁きだ。

当然、メディアも大企業も、多くのふがいない大人たちは、長いものに巻かれることにした。
これが日本の最大の弱点である。そして、もう手おくれである。収益が上がらないことが
わかっているために、活路を安倍政権とともに心中する事にしたのが日本の現代である。
使いたくないが、「令和の悲劇」である。令和とは呪われた時代に名付けられたレッテルである。

いい加減に目を覚ましたらどうだろうか。かつてのモデルが維持できているのは、
要するに、非正規社員の増加、つまり労働分配率の低下と、外国人労働者の増加、
劣悪な商品開発、それに伴う人心の荒廃によってだ。そして人口は減少し、ますます
これらの行為に拍車がかかる。竹中平蔵がやっているのは、要するに労働力のピンハネで
あり、そこにぶら下がれば自己値を維持できるという事なのだ。

これは要するに「自分の利益のために他者を利用してもよい」という事である。
自己値を持ち上げてしまった人々は、ついにその実現のため、他者搾取を当然のものと
したのである。

歴史をみれば、誰かが富める時、誰かが搾取されている。私はこれを不正義だと思う。
しかし、現代社会はこれを是とする。ここに私と社会との間に断絶がある。
私は、他者を搾取して自己利益を増進したいとまでは思わない。

金融業は一見するとこれと無関係に見えるが、まさに搾取の本道である。
だれかに借金をさせること、これが金融業の本丸である。要は労働のピンハネである。
これだけでは現在は稼げないので、ゼロサムゲームをする。投資である。差額を利用した
儲けだ。金が金を生む仕組みといっていい。だが、金は本来金を生むはずがない。
儲けた金はだれかの労働力で裏書されるのだ。されない場合は信用を失って金という
効力を失うだけに過ぎない。

日本は、多くの人がこれに参加させられている。ほぼ全員かもしれない。
日銀が投資をすれば、要するに国民が投資しているのと同じだからだ。
その金で株を買い、為替をあやつる。そうして額面だけの虚飾の世界で金を生じさせている。

一度崩壊するしかないという気もする。システムが巨大化しすぎて、
誰も手当てができないのだ。個別の部分が個別の論理で、問題を解決しようとする。
その解決がほとんど金でしかない。金で解決できるはずがないのにだ。現代の問題は、
あがりきった自己値である。まずはそこからなのだが、事は難しい。

だが、希望もある。わたしは若者の一部に、それを見いだせる。
彼らはこの景気後退の中を20年生きてきた。つまり、大人がもつ自己値ではない形で
自己値を作り上げた人たちが生まれてきたのだ。親が巧妙に思想を植え付けている人は
アウトだが、地方在住で、まともな情操教育を受けてきた人たちには希望がある。

東京が生み出した不可解で偏狂な社会観ではなく、もっとまともな社会観を保持した人々の
到来である。過渡期にある中年たちは今後どんどんと立つ瀬がなくなるだろう。思想を
組み替えられないならば、同じ労働マインドをもつ、奴隷を再生産するだけだ。だが、
一部の若者は、地番沈下した教育環境において、むしろ自在に情報を得て、そこから
若い脳による創造性を発揮する。

グレタ氏をみなくとも、日本にも異才は増えてきた。それはこの情報がとびかう世界に
おいて、情報が特権化された世界から流通するようになったからである。そこに
地方における身体性が合わされば健全な心の人々がうまれるだろう。大都会はかなり
厳しいとはおもうけれども。

What I deserve.

何を自己値としているのか、自分をもう一度反省すべきではないか。
私が言いたいのはそういう事だ。

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なんか同じことの繰り返し [その他]

行動をどんどんと削っていったら、同じことの繰り返しが目立つようになってきた。
もちろん、日々変わっているんだけど、結構同じことをやっている。

Webも同じで、SNSを人通り巡回したあとは、ニュースサイトを眺め、
それに飽きたら、こうやってブログを書いたりして。
生産性があるようでない、そういう風になっている。

そして、SNSでは政権批判のタイムラインを眺め、ときに有益情報を得て、
ときに、自分も政権批判をする。これをエンドレスでやり続けている気がする。

ツイッターで誰かがいっていたが、文句をツイッターで飛ばしても、
何も変わらないと。そして、ただ不満感だけがつのると。まさに。

そういう怒れる人間にリアルで近づきたい人は少ないだろう。
結局、他者と距離をとってしまっている気もする。

まずい。正直まずいよ、この習慣は。


とはいえ、政権は無謀な事ばかり繰り返して、日本を破壊し続けているし、
そこに自分として何ができるのか。カウンターをかけるなら結局、日々の中で
カウンターになる行動をとるしかない。果たしてそんなことは可能なのだろうか?

うーむ。ここで、以下に安倍政権が愚昧かを述べてきたが、
それに影響を受けて、自分で調べてくれた人はどの程度いたのだろう?


行動で世の中をよくしたい、そう思うこの頃だ。
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好意の返答性ー女性のアプローチ [恋愛]

仏教の本を読んでいたら、これはひょっとすると恋愛の話にも通ずるのではないかとひらめいた。

それは好意の返答性である。
あたりまえだが、誰かから「いいね!」とされたら、その人物に好感を持つだろう。
その当たり前が、男女の間にも当然現れる。ところが、日本の女性はそこを間違えていると
思うのだ。

よく、男が誘って女性が選ばれるという図式が問題視される。
その割には、相変わらず女性は選ばれる事を目指し、男が能動的になるという規範を
維持している。鳥などをみればよく分かる図式ではある。

雄の鳥は、鳴いてダンスしてなんとか雌の気を引こうとして頑張る。
そうして、ようやく求婚が成立する。確かにそうだ。では、人ではどうなのだろう?

一生懸命求婚することは、悪いことじゃない。
だが、知性をもつ人間は、それだけではどうにもならない事も知っている。

一般にみれば、女性の好みは、造形美から徐々に経済的安定に移る。
よって、繁殖戦略は単純に、若いときはイケメンに走り、歳をとると金持ちに走る。
こういっては身もふたもないけれど、これが統計的に見れば事実なので、それを批判
しても仕方がない。

そうして、現実はその中間的なものになる。つまり、大概はこの亜流に落ち着く。
でなければ、こんなに多くの男女のがパートナーとはなりえないからだ。
どこかで、理想とは異なることを含め、良しとするという事になるのだ。

昨今のパートナーがいない問題は、まずは男女ともに理想から降りられないことにある。
自意識過剰な若者が、理想にだけ恋愛を求めるのは致し方がない。それはつくられた心地よい
偶像を愛することなのだが、それは偶像であるがゆえに、リアル以上の造形が生み出される。
よって、偶像的な恋愛を求める限り、リアルな恋愛にはなり得ないといえる。なにしろ、
現実はもっと下世話だからだ。こうして、オタや腐女子は、理想像にはまり込む。

もちろん彼らも理解している。だからこそ、それはそれ、これはこれと分離可能な
文脈を生きる人達もいる。とはいえ、どこかで偶像崇拝をやめられない。それは
ある意味で健全であるが、結果としては不健全である。かつては現代ほどの偶像を
拝める時代はなかったということであり、現在はとにかく人々の欲望を満たす装置が
発達しすぎたのだろう。

この頭で考えた理想像に振り回されていると恋愛ができないという点はひとまず
クリアーしたとしよう。次に待つのは、実際の出会いと交流である。

今日問題にしたいのは、ここだ。
人々の多くは見栄で生きている。でなければタワーマンションも売れないし、大企業だって
儲からない。何しろ、生活はユニクロや六畳一間でも可能なのだから。残りはただの見栄。
その見栄というのは、承認欲求と考えられている。他者から認められたいのである。

人々はそのために、実に労力をかける。みすぼらしいと思われたくないと。
それがエスカレートしたものを文化と呼んだりする。見えであるという事を誤魔化すためだ。
小さな違いをもって、他者と差異を構築し、その違いに価値を見出そうとする。
そうやって、自分をユニークであると承認してほしいのである。そのような承認欲求を
強く持つほど、見栄をはらなければならない。

さて、この承認欲求が恋愛において発揮されるとどうなるのか。
その一つが、女性の好意的拒否である。

子供はよく、いたずらをする。またときに、親が嫌がることをやる。
それはつまり、承認欲求である。こっちに注目してほしい、寂しいと説明できない子供は、
自分に注目させる術として、悪い子になるのだ。良い子になるだけが親からの注意を得る
手段ではない。ある意味では怒られるということすら、愛情として受け取る。それが子供だ。

女性が男性の誘いを断る。冷たくする。実は好意があるがゆえに、そういう振る舞いに出る。
承認欲求の低い女性は、しばしばやりがちである。自分を高く見せるためとまではいかずとも、
あんまり簡単に誘いに乗るのは、軽く扱われてしまうと思うからだ。そうして、男の本気度を
測ろうとしている。

多少はそういう行為も意味があろう。誰で彼でも声をかけるような男から距離をとるには
いいかもしれない。しかし、もっと実直な男にも、同じ事をするのであれば、間違えが起こる。

勇気を振り絞って声をかけたけれど、女性があっけなく袖にする。
およそ真面目な男ほど、大いに傷つくだろう。女性はそれくらいでくじけるなんて、
私に対して興味はなかったのだろうと解釈する。実に勝手な論理である。

相手を見ればわかるではないか。相手がどれほど真剣なのか。
それを誰かの恋愛や、恋愛物語などと比較し、その男の行動自体をちゃんとみないがために、
本気の男を簡単に袖にする。たった一度でも、そこに込めた思いが本気かどうかは、
女性にだってわかるはずである。それが分からないのはボンクラとしか言えない。

もちろん、その男が駄目なら、それしか手段がない。むしろ、相手が本気であれば
きちんと振るのが礼儀というものだろう。誠意をもってお断りをするべきだ。

ところが、女性の中には質が悪い人がいる。相手の本気を知りながら、相手を自分の
承認欲求を満たすために利用する人である。そういう女性は、男の好意を便利に使う。
かつてはアッシーとかメッシーとか言われたが、そういう取り巻きとして男を利用する。
そこまでいかなくても、自分がモテているという自負のために、本気の男をちゃんと
振らないのだ。俗に言うキープである。

世のストーカー事件には2つのパターンがあり得る。一つは、全くの勘違い。
およそ話したこともない相手から付きまとわれること。おそらくは、一度挨拶した
とかいう程度の関わりでだ。もう一つは上記のキープである。つきまといについては
災難としか言いようがないが、キープのもつれについては、女性が悪い。相手の気持ちを
弄んだという事なのだから。むろん、そういう女性ほど、それを理解しないし、理解する
つもりないのだが。そして、相手のアプローチが強まると、急に被害者ズラをする。
自分は悪くないというためには自分が事実被害を受けていると認識する必要が
ある。それがために、自分の立場が危うくなると、自身で事を隠蔽し、相手の問題で
あるかのように避難するのである。往々にして周りはそれに騙されるのだ。完全なる
自己欺瞞である。


話を少し戻して、もし女性が承認欲求が低いがために、誠実な男からのアプローチを
断るなら、それは考え直してほしいと思う。

相手の真剣度を測るために、そういう駆け引き的な事をしているなら、やめた
方が無難である。誠実な相手にどうして無用な駆け引きに出るのか不思議だ。オッケーなら
ひとまずはデートにでもでかけてみれば良いのである。断りを入れてから、「あのあと
なんにも言ってこないんだよね。」という女性をみるたびに、アホかと言いたくなるのだ。

相手が誠実なら、断りをもって諦めるだろう。それが誠実な男だからだ。
逆に、チャラい男なら、またアプローチするだろう。それがチャラい男だからだ。
つまり、断っているのに何度も誘うしつこい男だけが残るのが、最初の無用な駆け引き
なのだ。女性はわざわざ、まともな男をフィルターして除外していると言える。

そういておいて、しつこさをもった男と付き合って振られる。なぜなら、そういう男
だからこそ、しつこさを発揮できるからである。我が強い男とはそういうものだ。他に
気になる人ができればそちらにも、同様にアプローチするからだ。

要するに、初期のアプローチのしつこさをもって、愛情の強さだと思いこんでいる女性は
むざむざと幸福を捨てている。そんなもので、愛情をはかるのは間違えているのだ。
むしろ、そうやって自分を吊り上げた分だけ、手に入れた男はそこで満足し、愛情が
冷めることだろう。手に入れるまでのゲームになってしまうからだ。

もし、相手をいいなと思うなら、素直に最初から話を進めればいい。話はそれからだ。
相手を知ってからでも、振るのは遅くない。むしろ、良さがわかるかもしれないのだから。

自己承認が弱い女性は、また一方でわがままにもなる。
それは、相手の気持ちが信じられないからだ。子供がいたずらをするのと同じである。
相手に不快なことをして、それでも、自分のことを好きで居てくれるかどうかを試すのだ。
これは、自己承認が低い男もやることである。

相手の愛情を試すために、正確にいえば、本人はそれと知らず無意識にだが、相手の
様子を伺うような行為にでる。相手が好意を示すと「なんで?」と聞いたり、約束を
すっぽかしたり、無理な事をいって困らせたりする。要するに嫌がらせである。
その背後には、不安感がある。私のことをどう思っているのか分からないという不安である。
小さい子供も、まるで同じことをする。兄弟が生まれて、自分より下の子に興味が移った
事を理解するや、上の子が赤ちゃん返りをする。嫌がらせを通じて、自分に対する愛情を
推し量っているのだ。

その結果、相手の男や女は嫌になってしまう。要は恋愛するにはまだまだ子供すぎるのだ。
相手がどう思うのかを思いやるだけの余力がない。そして、自分のことしか考えてない
からだ。嫌がらせがあっても、相手と関わり続けようのは歪んだ愛情である。それを共依存
という。メンヘラ女子と自己犠牲の男という組み合わせでしばしばみられるやつだ。依存を
愛情と勘違いしているのである。ときに誠実な男がメンヘラちゃんをかまうことになるのだが、
最後は無理になって破綻する。そりゃそうだ、四六時中他人を考えて暮らせるわけがない。


自尊心が低く、承認を欲する女性にはとある傾向がある。
一つは、誠実な男とは付き合えないという事。
もう一つは、駄目な男に振り回されるという事。

この説明はすでにした。このような女性の言い分は「私って男運がなくて~」である。
違う。まともな男とは恋愛できないという性格上の問題である。
わざわざ駄目な男だけが近づけるように仕組んでいるのに気が付かないのである。

むろん、自分が駄目だと思っているから、駄目な男じゃないと愛せないという事でもある。
立派な人といると、自分が駄目であることが浮き彫りになるからだ。それは辛いことでも
ある。駄目な相手を選ぶのは、相手をバカにすることで自分の弱さから目を逸らせるからでもある。


さて、本題。(いままではなんだったのかって?)

私が思うに、昨今の男を草食系とよび、恋愛が成立しないことを男のせいにしてきた。
だが、私は多分に、女性の問題でもあるといいたいのだ。日本の環境下では、なんらかの
自己承認欲求が満たされない女性が多い気がするからだ。自分を肯定できない女性が
あんまりに多いのではないか? それを問題にしたい。

私の少ない経験からいえば、美形な女性たちはどこか心が歪んでいる。自己のありようを
持て余しているように見える。小さい頃からの周りの扱いによって、同性からのやっかみや
妬みなどを受け、それへの対処法として、小さくなるか、男に紛れようとする。どこか
受け入れられなかったという諦めがあり、それを克服するために、極端にふれている事が
多い。やたら良い子になってみたり、悪女になってみたり、男を使ってみたり、居場所を
同性内にみつけるのが難しいからなのだろう。結果、自己肯定感が下がってしまう。

一方で、適度な女性たちは、あからさまな依怙贔屓や優遇をみつけ、自分がそこに入り込めない
と気がつくと、諦め始める。そして、いじけてしまう事がままある。その心の歪みが外へ
向かうと、いじめや徒党になり、グループを形成し仲間という形で味方を囲い込もうとする。
一方で、内側に向かうと、深い悩みになりオタク的なものに走り始める。およそ不健全で
ある。

ただ、これらはおとなになるに連れバランスが図られ、自分の立ち位置がわかり、
自己を受け入れられるようになる。よって、大人の女性は自分を肯定できる。
ところが若い子たちは、それが難しいために、化粧やファッションなどに凝って、
着飾る事で、コンプレックスを解消したり、そうそうに男と付き合うことで、自己を
周りに認めさせようとする。このあたりで、かなり拗れるのではないかと思う。10代
後半あたりの事だ。

こうして、日本の女性において健全に若い頃をすごし、成人するのはかなり難しい
道なのではないかと思うのだ。どうにかすると、すぐに自己卑下するような自尊心の
低い人になりがちになる。なぜなら、みんなが互いに足を引っ張っているからだ。

全般において、日本女性の自己肯定感が低いとすると、先の恋愛問題につながる。
男子が草食系になったという話の裏側には、女性たちがまともな恋愛ができない状況に
あるとも言えるのではないか。そんな女性たちを脇目にみる男子が、女性たちに幻滅し、
3次元はどうもなあ、という感想を抱くのもあり得ることだろう。一方的に男子の未成熟さを
非難するのはおそらく間違えだ。

かつての日本では、自尊心の低い女性が良かったのだろう。男尊女卑の思想をもつ
オヤジたちが多いことを考えれば、自己肯定感が低く、旦那に付き従うことで生きる
女性が便利だったに違いない。しかし、それは恋愛という行為からみれば、不適当な
心的状況である。

女性が男性の所有物という感性はもはや昔になった。なってほしい。
そして、それに伴って必要なのは、自己肯定感を持つ自己である。それは男女に限らずだ。
とりわけ女性において、必要なのは自己肯定感である。誰かに選ばれなければならない
というような受動的スタンスでいては、いつまでも自己肯定しにくい。むしろ、
自分が選ぶという、自分で自分の事を決めるというスタイルでなければ、健全な恋愛など
できはしないのだ。

いいなとおもった男性からアプローチされてなぜ断る?自意識過剰ではないか?
また、しつこさは決して愛情の深さではない。それは執着であって、愛情ではない。
何度か誘って断られたら、誠実な男は去っていく。それが普通だ。そんなところで、
変な駆け引きをしない女性が増えてほしい。

また、きちんと誠実に振ってほしいと思う。相手が本気であればなおのこと。
そして、男の気持ちを利用しないでほしいと思う。そういう女性がいることで、
男はミソジニストになる。女性に復習しようとする男を生み出してしまう。
女性の自尊心の低さは、女性が被害者ズラするためにあるなら、別にかまわないが、
男を無用に傷つけ、誠実な男を減らすのはやはり加害なのではないか。

「自分を肯定してもいいんだよ」と私は若人に言いたいのだ。


最後に付け加えるとするならば、自己肯定感が低いのはもっと問題をはらむことがある。
ロジカルに言えば、自分のことを好きになったという相手を肯定できない問題である。


どういうことか。自分の事を嫌いだと思う人間は、究極的には誰も愛せないし、
愛されない。なぜか。それは、相手の好意を肯定できないからである。そして、
そんな相手の審美性を疑うからである。

自分が嫌いなものがあるとしよう。それを好きな異性がいたとして、どう思うだろうか。
それが食べ物や趣味なら大丈夫。しかし、それが自分であったらどうだろう。

自分が嫌いな人は、自分を好きになってくれる人の気持ちがわからない事になる。
だって、自分が嫌いなものに好意をむけている相手に賛同ができないからだ。
すると、せっかく自分の事を好きになってくれる人が現れても、原理的に、相手を
拒否することになる。そして、自分は、自分のことを好きになってくれない人を
いいなと思う事になる。

しかし、その相手は自分のことに興味がない。結果として、誰とも恋愛できない。
相手から好意を見せられると、その途端に、相手への興味を失ってしまう。
これが、自己肯定感が低い人間の問題点なのだ。

これは無意識的なものも含む。自分が好きだと言葉で言う人間であっても、
心の中で自分を嫌っていれば、同じことが起こる。

この自分嫌いの女性が、恋愛する場合があるとすれば、極端には2つしか無い。
一つは、相手を嫌いつつ、付き合う。相手の愛情だけが頼りであるが、自分は相手に
興味がないという状況だ。なぜ付き合うのか不明だが。。

もう一つは、一方的に相手に尽くす場合だ。女性性はその意味では役立つ。
男の方はそんなに好きではないが、アプローチされたからいいかくらいで、付き合う。
そういう関係性だ。性を担保に付き合いは持続できるが、満たされることはなかろう。
いずれ捨てられる可能性が高い。

結局、自己肯定感が低いのはやっかいなのだ。自分を卑下するのは、不幸を招き入れる
事である。なるべくなら、やめたほうが良いだろう。
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ぼちぼち [思考・志向・試行]

そろそろ、このブログから足を洗おうかと思っている。
理由は明確なアクセス数の減退だ。

私の見立てがおかしくなければ、2018年の7月くらいから何かが変化した。
グーグルのサイトマネジメントが変化したのだろうか? それとも何かがあったのだろうか?
それまでは、時間を追う毎にわずかだが、アクセス数は増加した。それがブログの良い点で、
リアルタイムでなくても、いずれは必要な記事を必要な人が読むだろうと想定できた。

ところが、昨年の7月あたりから何かが変わった。随分とアクセスが減ったのだ。それも、
新しい記事に限ってである。普通に考えれば、私の記事がつまらないからとか、そういう
ことが主だった要因とみなす。しかし、時間が経ってみても、かつてのように単調増加しない
のだ。どうもおかしい。

一方で、ネタによってはアクセスが保たれるものもある。
例えば、プリウス事故ー原因考察ー という記事は、近年のものだがトータル500回程度
アクセスがある。おそらくこれからも多少は伸びるだろう。しかし、そうだとしても、
アクセスの仕方が変化したのは事実だ。

このブログは9年ほどやっている。そして1月が来ればまる10年だ。
多少の波はあったけれど、月に一度は書いていた。ぼちぼち、キリでもいいのではないか。
ちょうど10年ともなれば、そういう心境になる。

実は数ヶ月前からnoteに文章を書き始めた。
テイストは完全に異なる。なるべくポジティブになるものという事で記事を書いている。
そして、noteの方のアクセスが、こちらと同じ程度になりつつある。ならば、あえて
こちらで書くこともなかろう。

最初の記念すべき記事にこうある
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「日常的な事や面白いと思ったことを気兼ねなく綴るために
ここにブログをスタートしました。

基本的には個人的な備忘録です。
ネットにあげておく理由は企業が勝手にバックアップしてくれるということや
いつでもどこでもアクセスできるという点です。

それから言葉の伝達効率を優先して優しくするのが、
ブログの本来性だと思いますが、ここではそんなことは考慮しません。

誰かが読むことを前提にしないテクストにおいて
アクセスやインタラクションが起こりえるのかを実験にします。

興味の内容はもっぱら脳や意識、思考などに関することです。
自分の思いつくままを何の根拠もなく記述することでストレス発散したいわけです。

To 未来の俺へ 」(2010年1月26日)
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確かに受け取ったよ、過去の俺へ。あれから9年と11ヶ月経った。

この10年で色々と世の中が動いた。
また、私の心境も変化した。

初期の頃は、自分の考えを開陳する事にフォーカスがあたっていた。
「俺のいう事を聞いてくれ!」というものを感じる。良くも悪くもだ。

その後11年に東北震災。
震災後に自民党政権になる。

以後、政治に関する批判が増えていく。
そうして、気がつく。まさに日本の生活は、映画マトリクスであると。
それは現安倍政権が露骨に態度を表すほどに明確化した。我々は緩やかな奴隷である。
家畜と何も変わらない存在であると。

自覚的になってからは、ブログの内容も本質を探そうとするようになる。
そして、ついにはそれは自分の生活をも変えてしまった。なぜなら、自分にとって価値ある
ものの意味が変わってしまったのだ。

それは、新しい自分と向き合うというよりも、自分の元々に立ち返るという事だった。
自分にとって大事と思われていた価値は、まるでただの石に変わってしまった。
親や世間が自分に与えた価値を内面化し、その価値に沿って生きることで世間とうまく
折り合いをつけてきた。しかし、この日本という世界がマトリクスであると気がついた
事で、折り合いをつけること自体が無価値に思えたのだ。

うまく文章で伝えられるか正直自信がない。だが続けてみよう。
2016年の7月のブログにて、何かを訴えているのがわかる。
https://d-blue.blog.ss-blog.jp/2016-07-11

まとまっていないが、要するに世界と私がズレたのだと言っている。
このズレというのは、私個人に起こったことであるが、およそ全ての人に内在する可能性であり、
それに気がつくか気が付かないかなのだ。ゴータマ・シッダールタは気がついた人である。
だから彼を「目覚めた人」と呼んだのだ。同じく、私も目覚めたのだろうと思う。おこがましい
ことを言ってるかもしれないが、この認識は実に他愛もないことであって、決して特別ではない
と私は思っている。悟るという言い方が権威主義であるかのように、覚醒もまた権威主義だ。
だが、そんな大げさではない。ただ、ヒトの本性を直視すれば、世俗的な事と、自己存在とは
別物であり、自己が世俗と切り離され得ると気がつく事。それが「目覚めた」という事だと
私は解釈している。

ブッダは家族を捨てて森に生きた。そして、自分の考え抜いた叡智を他者に与えた。
その後、その行為を書き記したもの、伝えたものの総体を仏教と呼ぶようになり、そこに
続く者たちが権威を付与した。世俗化とはそういうことだ。皮肉なことに、世俗から抜けること
そういった価値観から自由になることを説いた事が、世俗化に帰することで流布された。
不思議なことであるが、人とはそんなものだろう。


さて、ズレてしまった私が都会にやってきたとき、人々はまるでゾンビのように見えた。
そこに生がないのだ。何をするのか、どんなことを考えるかすら、他人によって作られた虚構に
入り込み、そこで買った負けたとゲームに勤しんでいる。異常な世界。これを異常と感じた
私はおよそ、世間から見れば「異常」であろう。しかし、私から世界を眺めるほかない。
現代日本の異常さとは、経済が傾いたことや、心が荒廃している事ではない。生物として
相当に異常な状況にいるということを盲点として、自分がまともだと思って生きている点にある。

はっきりと言っておこう。あなた方は狂っている。

まあ、ここでこんなことを書いても、誰も反応しないし出来ないのだとも分かっている。
よって安心して、こういう事をかけるのだが、そのくらいに内面化された世界観は崩れる
ものではない。私だって、およそ特殊な経験を過ごしたからなのだと思う。

一方で、こんなズレを生じる必要はないとも思う。私が感じたズレをわざわざ感じる
必要もない。現代という思想の奴隷として生きるほうが、圧倒的に楽であり、子孫繁栄する
ことだろう。およそ奴隷の再生産に勤しむのだ。それを世間は幸福となずけ、価値有ることと
して流布する。その価値観に染まることを私は異常であるとみなすが、それは私の勝手である。
99.9%の人間がそうやって生きているのだ、それで良いではないか。

あなたに何か不安があるとして、その原因を探った事はあるだろうか。
生き物として生まれて十全と生きるものは、そのような不安は持たない。しかし、世俗に
適応した人間は不安を埋め込まれる。その負債を解消することが社会化することである。
要は馬のように働くということだ。そして、その合間に笑い、消費し、小さな喜びを見出す。
そして、自分はまっとうに生きていると自己満足して死んでいく。それで良いではないか。

だが、私はズレた。そのズレをどう言っても、ズレたとしか言えず、そしてそのズレに
一番近いのが、ブッダの出家という物語なのだ。これをもっと矮小化してみることもできる。

およそ、私という人間こそが、一番の奴隷だったのだと。他者よりも優れて奴隷だったはずだ。
私の個人史を開陳するつもりはないが、それなりの高学歴である。そしてそのような価値観に
染まっていたからこそ、そこからズレたときの落差が大きかったのだと。世間の価値観に引きずら
れていたのは、私であって他者ではない。私個人において、自分の行為の原点がまさに、世間で
あったのだ。

一匹のカモシカが私の前に現れた。そして静かな眼で問いかける。「お前はそれで良いのか」と。

あの時、何が起こったのか。未だに理解に苦しむ。だが、本当は知っていたのである。
自分の根底にあるものを。ずっと昔から自分の中にあるものを。そして、なぜ自分が今のような
生活をしているのか、仕事をしているのか、考えをしているのか、強烈に考えたのである。

そうして、子供のような心で我が身を考えた時、如何に自分が世俗化し、洗脳され、奴隷化して
いたのかと気がついた。そうしてみると、周りの他者がすべからく社会化していると気がつく。
ものすごい具体的に言えば、自分の上司の行動原理が透けて見えたのである。そして、彼の
不安が見えたのである。そんな不安を解消する事に加担する理由など本質的にはないのにだ。

そうしてみると、その周りの他者もすべからく社会化した実態であり、そこに埋め込まれた不安
によって自己を駆動しているではないか。それは社会的地位が高いほどキツくなる。あえていう
なら「立場」であろう。ポジションをとることで、自らをポジションの奴隷とする。社会化された
人間は常に、自己不安に陥っている。それが意識化されないために、その原因を他者に見出し、
他者を攻撃する。それを俗にハラスメントという。自己がなぜ不安なのかメタ認知できないからだ。

それはさまざまなメタ認知過程をへると、そもそもにたどり着く。そうかと。それが私のいう
目覚めである。ズレを意識すると、この世界では生きていけない。全てがアホらしく感じるから
である。価値があると誰かがいうものがあったとして、その価値とはあなたの価値であろうと。
私の価値ではない。そのようにズレを通して世界をみると、ほとんどの行為が無意味化する。


そこで私は考えた。自分にとっての価値観を作るほかない。そう、これがデカルトの決意である。
ズレたとして、自分がいて、まだ生きているという事実からは目をそむけようがないのだ。だから、
先人にならって、私も自分にとっての価値を構築する他ないと思ったのである。


かなり困難な作業である。少なくとも、自分は日本という場にいて、生活をせざるを得ない。
社会化せずに日本にいることは不可能である。その極限は、死か逃亡であろう。結局、私も
社会化されて生きている。そこから逃亡できないのだ。ならば、せめて最小限化したい。

その答を探した。暫定的な結論はもうブログでとっくに述べた。
繰り返すのであれば、良い友、良い寝床、良い食事である。友の中にパートナーや子供がいる。
ヒトというサルはおよそこれが満たされれば生きていけるのだ。それ以外はたいてい見栄に
過ぎない。他者を優越したいという思いである。だが、それが不安から生じていると理解できれば
その無意味さに気がつく。

他者を優越したいという欲求は明らかなコンプレックスである。それは自分は出来るという
プライドでもある。コンプレックスは生まれついていないので、どこか社会化の中で埋め込まれた。
それは、かならず挫折する。人生は長く、全ての勝負に勝つことなど出来ないからだ。どんなに
強いもの優れたものも、必ず衰えるし、超えるものが現れる。他者を優越するという不安ベースの
行為に蝕まれると、基本的に不幸になる。それは挫折が確定しているからだ。まあ、挫折を人生訓に
して、宣伝するという人生もあるのだから、それでいいのだが、私はそんなものには与しない。

このようなコンプレックスを埋め込まれていないのに、社会的に成功する事はかなり難しい。
無自覚的に埋め込まれたコンプレックス解消すること、それに成功すると、社会的なステータスが
得られる。これが社会化のうちに行われる不安の埋め込みであり、その埋め込みが俗に言う社会を
発展させる事につながる。不安によって生産された膿みたいなものだ。その膿を我々はありがたい
と思うという思想に生きている。

もちろん、例外もいる。生まれついてその精神を肉体を十全にいきて能力を存分に活かせる人も
まれには居るだろう。だから、全ての人について語っているわけではない。だが、多くの人に
他人の不幸に同情しつつ、甘美な喜びを見出すという心理がある。それは埋め込まれたコンプレックス
のカタルシスではないか。

ズレを感じるのは実に容易い。自問すればいいのだ。なぜ、自分がそれをやるのかと。
誰が決めたことなのだ? 誰がそれをやれと? 自ら決めたことなのか? ズレが生じるのは、
他者が決めた事の遂行においてである。恐ろしいのは、他者がきめたのに、自己が決めたと
思い込んでいる場合である。そして、おおよそ、この挫折において人は精神的な挫折を味わう。

いわゆるうつ病とは、隠蔽された不安の現れである。実に健全だ。身体が訴えているのである。
あなたがやっている行為は無価値であるよと。身体はもっと信用すべきなのだ。うつ病を克服して
職場に復帰するなど、自殺行為である。その行為こそがあなたを蝕む理由なのに。

真面目な人ほど、社会化された行為に価値を見出そうとする。だから、そこからの乖離に耐えられない。
そんなもの無価値なのにだ。正確にいえば、世界から見れば、その失敗など他愛もないことである。
でも、そんな風に言えるのは私がズレたからであって、当事者は誠に真剣そのものなのだ。隠蔽した
不安を手放せないので、苦しみ続ける。

このような異常さは社会のそこかしこに現れる。社会化による弊害は、犯罪やDV、ハラスメント、
俗にいう悪事において現れる。一方で、隠蔽した不安を解消するために努力してしまった人は、
社会的に善事として称賛される。どちらも、私からみればズレているのだが。

人がやるべきは、居心地の良い人間関係を築き、そこで熟睡できる床をもち、不安が少ない生活を
送ることだ。そして生物的な繁栄は、自己の満足につながるだろう。それ以上に求める時、それは
なんらかの不安を埋め込まれたと言える。それは喜びの源泉であるが、不幸の源泉でもある。同じ
穴から、2つの反する価値が生み出される。それを我々は知っておくべきなのだ。

成功は失敗から派生する。失敗がなければ成功がない。同じく、喜びは不幸があるから生じる。
良いもの取りは出来ないのである。

すでに社会化された人々に目覚めよと、一度は思っていた。だが、時が経つにつれて、
彼らの幸不幸に私がどう口を挟めるのだろうかと疑問になった。過大化する自己不安に溺れて
苦しむならば、その解決の糸口はあると言える。だが、光しか観ない人々が多すぎるがために、
それと同じだけの闇の存在を隠蔽する。

さて、話を戻そう。
このブログを書き始めた時、いうべきこと、考えることを訴える場として捉えていた。
だが、正論こそ不人気である事が理解され、俗に近い話題ほど人気があることがわかると、
人生において大事なことほど、他者は興味ないと結論できた。だからこそ、この異常な日本を
生きていける。そりゃそうだ、私みたいに考えたら現代を生きるのは大変なのだから。

そして、私はズレを共有化したいと願ったのだが、それもなかなか困難であると気がつく。
それには通常、価値がないからこそ、社会化されて皆いきているのだ。みんながブッダになる
わけではない。

喧伝する理由がなくなった。そう感じている。ならばブログに書くことなど無いではないか。
そう、私は徐々にだが、隠蔽された不安解消しているのである。ブログを書かないということが
私にとっての不安解消の印になるのだ。

こうして、私が日常に埋もれゆくことで、世界はまた一つ平穏になる。諦めという言葉は、
決して悪い意味だけではない。手を放す事で、また違う何かを手にする可能性がある。

ぼちぼち時間ではないか。そうおもうこの頃なのだ。
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