怒りの背後ー怯えー [思考・志向・試行]

怒りを覚えること。それは「守ること」である。

多くの人は、怒りを攻撃と思っている事だろう。
だが、実際にはそれは防御である。そして、怒りを伴っているという事は「怯えている」のだ。

昨今は怯えた大人が増えた。あまりにも怯えているので、まるで子供に見える。
安倍政権しかし、維新しかり、ネトウヨしかり。彼らは全て怯えている。
とても弱い存在であり、可哀想な人たちである。

一方で、弱者もまた怯えている。その怯えは、希望がないという明日に対する怯えであり、
社会に内包されていないという疎外からくる怯えである。昨今では、弱者を守るという
価値観が政治から失われて久しいからだ。

当然である。政権が怯えており、その怯えによって自己保身にしか興味がないからだ。
自己を守ることに精一杯な人がどうして、他者を守れるか。守れるはずがない。
だから、このような自己保身の人間たちは、政治や行政に関わるべきではない。完全に
政治家や官僚として失格である。

同じく、大企業の人々においても同じことが言える。営利企業という笠をきて、
自己保身の何が悪いと開き直る。そして自社に有利なように政治を弄る。まるでやくざである。
いや、やくざに失礼かもしれない。義理や人情すら、企業は持ち合わせていないからだ。
そうして、自分たちは何も悪くないと、人殺しのための研究をやり、資材を作り、外国に
売っている。武器にしたのは自分では無いのだと嘯くのである。

そのくせ、内側ではいつ会社がつぶれるのではないかと怯えている。怯えがあるために、
儲かる口があるなら、それが社会悪であってもやる。そうして嘯くのだ。自分は悪くないと。
完全な嘘である。だが、その嘘に守られて、何も知らされない女性子供たちが養われていく。
汚れた仕事で、他者の世話をするという最低の人間たちである。だが、世間ではそれを
「社会人」として祝福する。「お前も、汚れたことをできるようになったのか。成長したな」と。

家族がいて守る者があるから仕方が無いという。嘘だろう。社会悪には抵抗できるはずだ。
だが、その抵抗が如何に難しいかは知っている。彼らの弱さを責めても仕方がない。
しかしながら、正員の全てが悪と知りながら、悪に加担するのは異常である。狂っている。
また無知であるならば、無知であることを恥じよ。無知による悪がもっとも最低である。


怯えを分析すると、大きく原因が二つある。精神的なものと身体的なものだ。
怯えの根本は生存への固執である。人は身体的な生存だけでなく、
社会的動物であるために、社会的な生存がある。よって、怯えが二つのものから
駆動される。

そして、精神的な怯えには、自己由来と他者由来の二種類がある。
これらは互いに関わり合い、厳密には独立的ではないがここでは便宜的にそう決めておこう。


身体的な怯えは根本である。食事が取れないとか、暴力に直面しているとか、
そういう時に発生する。このような場合、状況に服従的になる。そしてそこに条件を
さしはさむことで、脅しが発生する。暴力装置とは、常に生殺与奪に関わるのだ。
「***をしなければ、殺すぞ」と言われた人間は、3つの行動パターンをとる。

1.支持に従う
2.抵抗する
3.逃げる


さて、これがもう少しマイルドな脅しになったらどうだろうか。それが
「***をしなければ、金やらないぞ」である。これが俗に言う現代社会である。

簡単な話、現代日本人はマイルドに脅されているのである。そして、2でもなければ、
3でもなく、大抵の人は1を選ぶのだ。それを選ぶのが常識であると教え込まれ、
逆らうのは異常な事であると洗脳されたからだ。それを学ぶのが学校である。
逆らうとろくなことはないと覚えこませるためだ。そして見事に日本では成功した。
そして、それが常識化し、制度化されたのだ。

よって、この枠組みから外れるのは、実質上不可能なのが日本である。だから苦しいのだ。

8割がたがサラリーマンである日本社会では、脅されて生きる人々が大半である。
「残業しなければ、金やらないぞ。」「単身赴任しなければ、金やらないぞ」と。
そして、昨今では「残業しても、金やらないぞ、でも、働かないと職を奪うぞ」となった。

要は「***をしなければ、生活を奪うぞ」という脅しである。
こうして、身体的な脅しが徐々に精神的な脅しに変わってきた。
私は、これを「精神の奴隷化」とよびたい。


実をいえば、昨今は食料生産能力があがり、かなり小額でも生存を確保できる。
しかし日本人は同調圧力が強い。そして人という生物は他者と同じことが出来ないことに
嫉妬し、苛立ちを覚えるものだ。一方では優越したいという小ざかしい考えがあり、
もう一方に、他者より劣りたくないという見栄が存在する。そう、ここに来て、
「精神の奴隷」には、見栄やプライドといった精神的な自己存在の要素が入ってくる。
そうして、さらに、精神の奴隷は強化されるのである。奴隷であるということから
離脱を困難にさせているのは、奴隷状態が心地よいからではない。奴隷状態から
脱した所に何があるのか分からないという恐怖であり、そう流布された常識からの逸脱が
恐ろしいのである。


なぜ、奴隷制度が終焉を迎えたのか。多くの表立つ闘争は人道主義であったし、
理想への邁進であっただろう。だが、資本家たちがそこに見出したのはむしろ、
更なる金儲けへの見通しだったに違いない。奴隷として身体的恐怖から労働搾取を
するよりも、金という拘束具をつかい、金という脅しから、他者を操る方がずっと
儲かるという事。そして、昨今では「見栄・虚栄・社会的転落」などイメージされた
幻を操作する事で、金を使わなくても労働を抽出できるようになってきた。

言い換えると「自己実現」とか「やりがい」ともいえる。先ほど述べたが、
高度成長期の「普通」、つまり親と同じ普通を求めないのであれば、大した額の
金はいらない。だからこそ、働くこと事態への価値観が揺らいでいる。「精神的
奴隷」として社会人をやらなくても、生きる事は出来る。ただし、普通をすてる
限りにおいて。

夢を追いかけるとは若者の悩みである。それは明らかに「精神的奴隷」に対する
アンチテーゼとして存在している。そんなものになるくらいなら、死んだ方がマシ。
そういう人々もいる。

いや、「精神的奴隷」からの離脱と「普通」も併せ持ちたい。現代の
起業というスタイルは、まさに「精神的奴隷」から離脱を図ったものだろう。
かつては脱サラと呼ばれたものだ。これがうまくいくこともある。

その一方で、社会は依然として8割がたサラリーマンの時代である。資本主義経営において、
集団は大きなほど力を持つ。同じことをやっても儲かる比率が全然違うのだ。
ムーブメントとして離脱としての起業がある一方で「精神的奴隷」もまだ有効なのである。

昨今の混乱は、これら向かうべき方向性の分裂状態が表現している。
感度のよい人々は、「精神的奴隷」を脱出しつつある。その上で、「精神的奴隷」たちが
作りだす社会から利益を引き出そうとする。これがうまくいくのかどうかは不明だが、
明らかにかつてとは異なってきたといえるのが現状だろう。


とはいえ、一見すると「精神的奴隷」からの離脱にみえるこれらのことも、
「精神的奴隷」が作り出す社会にいるという点において、やはり金の奴隷である。

現在のような日本社会では、金を全く使わないのは難しいし、金を多少でも稼げば
日本政府は「日本人税」を取り立ててくる。一定額の収入があれば、必ず税を
納めることになる。それは労働ではなく、金で払う。その意味で、日本人でいる限りに
おいては、金がついて回るのだ。そして金を得るには、何がしかの労働が必要である。


つまり「労働の奴隷」。これが現代日本人である。奴隷ということは、脅されている。
そう、怯えているのである。

現代日本人において怯えていないのは、厳密にいえば、ホームレスくらいかもしれない。
または、資産家の子供くらいだろう。多かれ少なかれ、生存を脅かされているのが日本人なのだ。


生存が脅かされているという事実が、日本人の労働スタイルである。
そして、「精神的奴隷」であることを「社会人」と言い換え、
生活を人質にされて、誰かが金儲けするために人生を使うのが、一般的なのだ。
だから国や企業は結婚しているかどうか、家のローンがあるかどうかを気にし、
そういう絶え間ない労働力を提供する事が見込まれる人間たちを優遇する社会を
作り出した。なぜなら、彼らが得をしたいがためだ。

結婚していれば、子供という労働力を再生産するし、家のローンがあれば、
多少の無理がきくだろう。労働力をどうやって搾り出すか、という観点に立てば、
国家というスタイルの目的は明確になるのだ。



日本人の多くは小さい頃に劣等感を植え付けられる。働かざるもの食うべからず。
良い会社にいくには、勉強ができなければならない。勉強ができないなら、何か
特殊能力がなければならない。そういうプレッシャーの中育つ。

そうして、自分の存在を肯定できない人々があまりに増えた。
その存在肯定のためにあがく。そのあがきを労働力として搾取する構造がある。
それが資本主義である。資本主義は労働者という立場の提供をするが、それは
反面でいえば、搾取構造である。昨今では、労働は生存に関わるだけでなく、
精神的な劣等感を補うための装置になった。


この精神的な傷を癒すために資本主義はサービスを用意し、そのサービスを
受けるために、「精神的奴隷」として傷を生成して金を得る。まるで精神疾患である。
傷を癒すことが目的なのか、サービスを受けることが目的なのか。このループこそが
資本主義の駆動力になったのだ。

傷が深いほど、強くサービスを求める。他者承認を求めるのである。
貧乏だった子供が努力して金持ちになる。その駆動力は、貧乏に対する嫌悪であり、
金持ちに対する憧れであろう。欠乏の充足こそ、人々の行動の動機である。

受験勉強に明け暮れて、エリートを目指す人々もまた、何かの欠乏を駆動力にしている。
それは親の愛情かもしれないし、劣等感かもしれない。

そういうものを駆動力にして生きている人間はすべからく、傷をもち、
その傷を癒すために、サービスを得ようとする。そうして傷は拡大してゆく。

これが資本主義の負の側面である。欲望を掻き立てるとは、人々を欠乏状態にさせること。
嫉妬させ、羨望させ、それを得るために労働力を提供させること。現代をそうみなすことは
決して誇張ではない。


ちなみにサービスとは、大きな家を買うこと、車を買うことなど、消費財を得るだけ
ではない。旅行にいく事、レジャーにいく事なども含まれる。くわえて言えば、
結婚や子育てもまた、その一部になるだろう。本来これらは、金とは無関係だが、
現代社会では、家族を形成するのも、子育てするのも金が必要とされるように
仕組みが作られている。よって闇雲に結婚したり、子育てしたり出来ないのだ。


精神的な傷を癒すために、精神的な傷をつくりながらサービスで回復し、
そしてまた、傷を作りに労働しにいく。これが現代の仕事のとある側面である。


これを自覚できる人もいれば、出来ない人もいる。
自覚していない事は、ある意味で幸せである。何も知らずに死んでいくのだから。
だがある意味で不幸である。本当の幸せを知らないのだから。

このような傷を癒すためにサービスを求める行為を、抽象化していえば、
それは嗜癖である。嗜癖とは、一般に中毒とは異なるが、システムは同一である。
とある事柄を心理的に心地よくなるために利用し、それに依存することが嗜癖である。

高い買い物をするのでも、タワーマンションに住むにしても、それが傷を癒やすための
行為、つまり欠乏充足を求める行為であれば、それは嗜癖といえる。そして、嗜癖こそが
現代社会を駆動する。逆に言えば、大抵の人はなんらかの嗜癖を備えているのだ。
それは、心の傷があるということである。

ランニングなど健康によいことでも、目標を達成するために怪我をおして走ってしまうとか。
SNSなどのウエブサービスをいつまでも見続けてしまう。テレビをずっと眺めてしまう。
そういうのは、完全な嗜癖であり、一種の中毒なのだ。そしてそれは決して健全ではない。

このような嗜癖する仕組みはもう社会に組み込まれ、あらゆるところで人々を待ち構えている。
嗜癖させることで、経済が回る仕組みなのだ。食うことについて、少額で済むのになぜ
一日中働き続けるのか。働く事自体に嗜癖する人々がいるということである。

自己実現とはよく言えばであるが、別の角度でみれば、嗜癖である。そして、嗜癖は
現実から目を逸らすのだ。本来的にある綻びから目をそむけさせ、一旦問題を棚上げできる。
だから、それに集中する。それがパチンコだと、周囲はいやな顔をするかもしれない。
しかし、それが仕事や人助けだと、誰も文句を言わないどころか、称賛さえするのだ。

嗜癖の問題点は離脱症状があることだ。仕事をやめた人が、途方に暮れるのは、その
症状の一部であり、やんで鬱になったりするのならば、本格的な嗜癖である。仕事が
社会的に称賛されるのは、「精神的奴隷」として立派だからである。

人間という生物の元来の有り様からいえば、一日ずっと働くなど愚行意外の何者でもない。
獲物を取りに森に入るとしても、せいぜい数時間である。あとはノンびり過ごすのだ。
現代人はそもそもを忘れすぎている。


そうして、嗜癖する最大の要因は、怯えである。社会という目に見えないものから、
脅されているのである。その脅しから目を逸らす一番の方法が、仕事に嗜癖することだ。
そして何も考えないことである。

何も考えずに、周りのいうことに従って生きる。そうやって人生を充足する。
私は否定しない。むしろ、それすらできないと不平を言うのが現代社会の歪だ。
「精神的奴隷」になれて、そうではない人たちを見下す。見下すことで、溜飲をさげる。
結婚もできない、子供もいない人たちがいるなら、私達はマシなのだと。だが、所詮
奴隷ではないか。生殺与奪権を他者に握られた家畜ではないか。


残念ながら、日本という国土に放たれた家畜でしかありえない。日本人であるということは
そういうことだ。そこからの自由などない。ならば、良いことだけにフォーカスして生きれば
マシじゃないか。そういう発想もありだと思う。現代社会の良き部分もある。労働さえ
提供し続けられれば、それなりの暮らしができるのだから。

不満あるけど、そこまでじゃない。これが日本人の偽らざる心情だろう。

仕組みはまだ機能しているように見える。みんなが国から脅され、その脅しの中で、
なんとか生きている。そしてその脅しからの怯えが顕在化しないように、様々な
サービスで感情に蓋をする。どこか変だと思いながら、でも声をあげるほどじゃないよなと
小さな欺瞞を無視し続ける。そうして精神が蝕んでいく。それを酒を煽って、タバコで
ごまかす毎日。もううんざりだろう。


このような心情を直視し、「精神的奴隷」になれなかった人の中には、社会を壊そうと
思う人達がいる。無差別的な殺人などはその一端なのだろう。それが自己に向かう場合もある。
それは自殺なのだろう。自分の居場所が見つからない人が、このような心情になっても
何も不思議ではない。それがこの嗜癖システムである資本主義社会である。嗜癖するにも、
金がいるということだ。


怯えも極まると、攻撃になる。誰彼かまわず攻撃する。攻撃するとスカッとするからだ。
本当は自己が脅されていて、傷ついているのだが、それに気が付かない。その感情のはけ口が
攻撃である。もう、オブラートにつつむ気もないのだ。攻撃できる対象があれば、それでいい。
それで自分の気持ちが心地よくなれば、それでいい。これが安倍政権やネトウヨである。

他者を攻撃する人間はすべからく不幸である。不幸があるから攻撃する。その不幸とは、
傷ついた心である。その傷は社会的な脅しによって発生した劣等感であろう。強い劣等感
こそが、強い言動を生み出す。親のせいかもしれない。教師のせいかもしれない。友人の
せいかもしれない。自分が受け入れられていないという欠落・劣等感は、他者を攻撃する
動機になる。

同じことを他者に向けるか、自己にむけるか。ただそれだけだ。
そして、そのような事に耽っているのは、ヘイトすることが嗜癖になっているからだ。
これもまた現代病である。だが、いくらヘイトしても満足など得られない。むしろ、
ますます不全感が募るだけだろう。そうして行動はエスカレートするのだ。

原因はどこにあるのか。
それは、とっくに述べた。怯えである。怯えを生じさせているのは、社会構造、
資本主義社会である。一見すると豊富な商品、豊富な食べ物、経済発展、先進国化、
あらゆる点でよく見える資本主義社会。だが、それが潜在的に怯えを生じさせる。
明日、失業したらどうなってしまうのか、金が得られなかったらどうなるのか、
そうなりたくないから、自ら進んで「精神的奴隷」なり、その不全感から、嗜癖に走る。

悪事? そんなもの稼げりゃいいんだ。と正義などはそっちのけになる。
安倍政権が大きな仕事をくれるらしい。なら、自民党に票をいれておくかとなる。
金を配る、その金自体が、みんなを脅した結果なのに。脅されて巻き上げられた金に
さらに人々は脅されているのである。





怯えという生物における根源的な感情を使うことで、資本主義国家は成り立つ。
そのことに、私は怒りを覚える。

この怒りもまた、怯えからくる。それは私のもつ社会正義の価値観に対する挑戦だからだ。
私の心情が侵されたという感情、それがこの怒りだ。資本主義の悪の側面への怒り。
金を武器に、人々をつねに労働へと駆り立てる仕組みへの怒りである。

それを嗜癖をつかって目を逸らすには、私はナイーブすぎるのだろう。
といって、破壊行動をするほどには、愚かではない。

意味のある仕事、嗜癖するものではない、誰かに小さな幸福をもたらす仕事。
それが増やす仕事がしてみたいものだ。社会構造を変化させるような。
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