特別なことなど何もないー世界のルールー [思考・志向・試行]

お金を大量に稼ぎたかったら?

沢山の商品を大量に売りさばく。もしくは、一度の取引額を大きくする。
おそらく、そういう事だけだ。出来ることならば、両立できれば良い。

たとえば、麻薬の取引はこの二つを兼ねる。だからこそ、違法であるが、
それを実行する者が後を絶たないのだ。

合法的な商売であっても、麻薬の商売と何も変わらない。
なるべく利ざやの大きい商品を大量にさばくほかない。

だが、普通にしていてそんな事が可能だろうか?否。
大抵は、何らかの社会的構造が存在する。

安冨氏が提唱するには、2つあり、ひとつは関所システムである。
もうひとつはブランドである。

関所システムとは端的にいえば、そこを通らないと商品が動かないという
場所のことだ。かつてなら、まさに関所であり、港である。その場所を
商品が実際的に動いていく。そこで待ち構えていて、通行料を取る。これが
関所システムである。他にも取引先を押さえ込めばよい。生産者たちを
囲い込んで、商品を独占したり、販路として他者の存在を認めないような
独占的な販売をする。商品にある程度の力があれば、これだけで儲けることが
可能である。

言い方を換えれば、このシステムは権力である。通行税を取れるのは、暴力装置を
背後に抱えた存在だけである。金を出さなきゃ、どうなるか分かってるだろうなという
奴である。暴力装置から逃れるには手数料を払うほかないからだ。せいぜいあるとしたら、
他の暴力装置を抱えた組織との対立だろう。結局、みかじめ料というものは、いつの
時代にも存在し、その時代において海賊であったり、王族であったり、資本家であったり
政府であったり、するだけの事である。

もう一つは、ブランドである。特定のブランドがもたらす幻想はかなり強烈である。
人は現実だけを生きるわけではない。仮想現実もまた人生だと思っている。だからこそ
ブランドが価値を持つ。ブランドを所有する事で、人は満足するからだ。どんなバック
だって、有効に使用できる。あまりにぺらぺらでは困るが、ある程度のクオリティなら
それで機能として十分だろう。しかし、人々はハイブランドを持ちたがる。その心理的な
現象は、単純にいえば「見栄」であろう。見栄以外にブランドに拘る理由はさほどない。
どんな腕時計でも、どんな車でも、どんな家でも、機能性に大きな違いはない。
だが、そこに人々は差異を見出して、ああでもないと右往左往するのである。
そして、このブランド力を利用すると、特定の物が平均よりも高く売ることができるわけだ。

だから、新興ブランドは大変なのだ。社会的信用を得て、充実した製品を生み出すまでは
どうしても利益が薄くなる。それはいつの時代も一緒である。だが、一度ブランドが確立
すると、そこからグッと、利益が得られるようになる。そして人々もブランド価値を認識
する事で、高いものだからこそ、得ようと試みるようになる。結局ブランドへの信頼が
商品価値への信頼になり、本来は絡まないはずの二つが、同化し融合してしまう。それが
ブランドなのだ。


別段、何も悪いことなどしてないようにみえるかもしれない。しかし、関所では
暴力装置を駆動できるという機会可能性が担保されなくてはならないし、ブランドも
初期には名を売るため、サービスを安く売る必要がある。その背後には、労働の搾取が
必要となるだろう。

資本がもともとある人たちがいるじゃないか。といいたいかもしれない。
初期投資から多額の資金があれば、はじめから強いサービスを提供できると。
では、その資金はどうやって得たのだろう? 資金を得られるということは、何か
しなくてはならない。資本主義のルールからいえば、合法でも、利潤が発生するときには
必ず労働搾取が発生している。資金が沢山あるということは、どこかで搾取したという
事である。

よって、関所システムにも、ブランドにも、後ろめたさが必ず潜んでいる。
金を大量に集めようとしたら、結局、どこかで後ろめたいことをすることになるのだ。

もちろん、煎餅をやいて売っても良い。しかし、それだけでは生活は回るかもしれないが、
大量に金を集めることは不可能である。ここで批判しているのは、普通の商売ではない。
資本家になりうるほどの資本を貯めるには、どこかで「汚い」事をする必要があると
いっているのだ。

ブッシュ家とケネディ家。どちらもアメリカ大統領を輩出した名家であるが、
禁酒法時代に密造酒で儲けたことで、資金が出来、政治にまで手を出せた。
これを実力とみるか、汚い連中とみるかは価値観次第である。
そもそも、合理的とか法とか、ルールとは何かという事でもある。


イギリスの産業革命だって、蒸気機関の発明には資金が必要であった。
その資金はどこから来たのか。それは奴隷を売った利益である。アフリカ人を
連れ去り、アメリカやヨーロッパで売りさばく。その資金によって産業革命は興り、
その流れで資本主義が立ち上がった。

資本主義に浴するものは、すべからくこの流れの一端を担う。それは我々日本人も
同じである。彼らの作り出した金というシステムを利用して、第三国社会の労働力を
搾取し、資金を貯めたのだ。もしくは、自国民の労働力を搾取して、社会を築いたのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。それが我々の社会である。

何が言いたいのか。それは金持ちになるという事に特別な方法などないということだ。
短期間で金持ちになるには、汚い事をやらなければならない。汚いという言い方がいや
であれば、賭けにでるしかない。賭けた奴が偉いという議論もあろう。だが、賭けという
仕組みを生み出したのもまた人である。その賭けに乗じたことで誰かから労働力をせしめた
のは間違えないのだ。賭けもまた搾取である。


金を大量に儲けておいて、自分は何も悪くないというのは、偽善である。
それはみたくないものに目をつぶっただけで、本質的には、かならず搾取は起こる。

昨今、それを強いものの当たり前の行動だと考える価値観がはびこってきた。
始めから、強者の側にいて、それで勝負をした結果、勝ちを拾ったはずだが、
それを自分の実力という。それは真っ赤な嘘である。賭けに勝ったから儲けたのだという。
それは、自分の実力ではない。その信念が間違えである。

そんな事をいったら、あらゆる経済的努力は否定されるのかという事だろう。
ある意味ではそういう事になる。労働を搾取しなければ、儲からないからだ。
もっと原理的にいえば、誰かから奪わないとリッチにはならないからだ。

これが真実であり、事実である。ここを認めないと始まらないのだ。

問題は、誰から、どういう形で搾取するか。その違いだけなのだ。
一次産業の人々は、自然を搾取する。自然の恵みを頂くのだ。それらの材料を
工業社会は加工し製品にする。ここにも搾取構造がある。労働的にも材料的にも。
その出来たものを今度は、関所システムが運んでいく。商社や大企業である。
そうやって、どのレベルで搾取するかの違いであって、搾取をせずに金を儲ける
事は出来ないのである。

どうせ搾取するなら、盛大にやればいい? 確かにそういう発想もあろう。

一方の問題は、搾取するような人間は、他者から疎まれるという事だ。
大量に搾取する構造をつかんだ人は明らかに他者から疎まれる。それは擦り寄りもあれば
反発もある。それは搾取した人間に課せられた必要悪でもある。金持ちは嫉妬されるのが
当たり前であり、そのための人間関係のケアが一つの仕事になるのだ。

翻って、他者から大量に奪う必要性があるのかどうか。
大量に奪って蓄財すれば、産業革命を引き起こす程度には何かを始められるかもしれない。
しかし、人はどうせ生きて死ぬだけである。その新しいことに意味があると信じ込める
なら、それでもいい。大抵は、それらが無意味である事に気がつくはずだ。なぜなら、
人は金を儲けたら満足するという生物ではないからだ。

人は、心地よい寝床を持ち、良き’友人’を持ち、美味しい物を他者とシェアできれば、
それで満足するのである。パートナーや子供も含め、結局、人はサルである。
サル的な満足以上の満足もないわけではない。芸術とか美はそれを担うだろう。
しかし、根本として、サル的満足こそが人を幸福にする。


では、他者からの搾取はそれに見合うだろうか? 金があれば、寝床や美味いものは
得られるかもしれない。だが、良き友人は得られるだろうか? 良き家族は形成できる
だろうか? 日頃、自分が他者を搾取しておいて、急に家族や友人にはシェアをする
ような人間になれるだろうか? このような人は、たいていの場合、家族や友人も搾取する。
そういう人になる。結果、良き「友人」を失うことになる。

3つのうち二つが手に入るなら、それでいいじゃん。若い人はそういうかもしれない。
しかし、人にとって、一番大事なのが、良き人間関係なのだ。良い人間関係を築くこと。
これ以外に人というサルにとっての幸せはない。寝床や食い物は我慢できても、人への
欲求は我慢ならないのだ。


権力を持つ者が勘違いをするのはここだ。2つをらくらく手にしたのだから、自分は優秀だと
思い込む。そして人間関係も簡単だろうと。ところが、2つを楽に手にするだけの権力が
あるからこそ、本当の意味での人間関係から遠ざかるのだ。そして孤独なのだ。

権力をつかって人間関係を作ることは、結局、友達でも、パートナーでも家族でもない。
それは契約や、支配構造であって、対等な人間関係ではないのだ。
結果として金持ちは友人を作るのが困難になる。金という権力があるからこそ、難しいのだ。
そもそも他者を大量を搾取しておいて、仲良くしようというのが虫が良すぎるのだ。


しかし、どういうわけか現代人は、これを目指す。目指すことを是とするエートスに生きる。
結果として、不幸になる。孤独になる。ましてや、搾取に失敗すれば、3つとも得る事が
出来ない。そういう賭けに出て敗れたものの一部は、破壊を求める。自分の価値観がおかしい
事を棚にあげて、自分の行為を妨げる悪いものが存在すると妄想を始める。

自分は今まで、社会のいうとおりにしてきたのに、このざまだ! なぜだ!?と。
もちろん、それは価値観がおかしいからに決まっているのだが、それに気がつかない。
そして、その憤りが抑圧できなくなったとき、彼らは二つの方向へと突き進む。
一つは、自己破壊。もう一つが世界破壊だ。


現代社会は、他者を搾取しろと脅迫してくる。仕事をして金を得るということは、
ごく小さくとも搾取をした結果である。この行為の欺瞞を解消しているうちは問題ない。
しかし、それがうまくいかなくなったとき、人は、何故だと叫ぶのである。根本が歪んでいる
のだが、それを意識化できないためだ。そうして、犯罪か自殺へと自分を駆り立てていく。


現代人は、そもそも的にある意味不可能なことを求められているのだ。そして、
その道の結末は、大した成功でもない。金を大量に得たとしても、人生はうまくいかない。
むしろ、他者を大量に搾取したことの恨みを買うのである。もちろん、どちらもうまく
やる人もいるのだろう。しかし、そのような人は精神的分裂状態である。この世界で
うまくいっているならば、片方の手で他者をいじめ、片方の手で握手するという事だからだ。

現代日本のエートスをまともに受け取ると、不幸になる、もしくは精神異常をきたす。
だから、大抵の人はそこまで極端になれず、エートスが要求する目的を脇においたり、
無視したり、適当にごまかして生きるのだ。そのごまかしが行動嗜癖である。


一方で、この社会的エートスが唯一の人生だと勘違いをし、かつ、賭けに負けると
大変なことになる。その不満の矛先は弱いものへと向けられ、そうした毒を吐くことで
ようやく自分を慰められる。いや、一時のストレス解消にすぎないのだろう。だからこそ、
永遠と他者攻撃を繰り返す。それが抑圧されたものの典型的な行動だからだ。


京アニなど痛ましい事件はこれからも起こるだろう。それは一部の人間以外が
人生失敗だと思わされる現代の仕組みにある。その破壊行動は、結局のところ、
不幸な人間関係から生じる。幸福なる人間関係が現代社会には自然と備わっていない
ためだ。ひどく努力を必要とするのが昨今の人間関係である。

良き人間関係を築くこと。現代人に必要なことはおそらく、この一点だけだ。
それには、自分の事だけを考え得をするという自己中心的発想では無理で、
自己倫理としての自然な利他主義の発生が必要である。そして、他者の幸福を
自己の幸福と読み解ける人間を育てないことには、良き人間関係は望めない。

そのためには、教育が重要である。とりわけ子供の。
自己利益最大化は、むしろ現代人に特有の思考である。誰かに押し付けられた妄想であり、
それによる社会的成功は、ちっとも成功ではない事も、もはや明らかである。
ならば、人間本来の他者との協力性にフォーカスし、他者との関わりにおいて、
自己を生かすことを覚えなくてはならない。そういう風に人は出来るいるのだから。


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