特別なことなど何もないー世界のルールー [思考・志向・試行]

お金を大量に稼ぎたかったら?

沢山の商品を大量に売りさばく。もしくは、一度の取引額を大きくする。
おそらく、そういう事だけだ。出来ることならば、両立できれば良い。

たとえば、麻薬の取引はこの二つを兼ねる。だからこそ、違法であるが、
それを実行する者が後を絶たないのだ。

合法的な商売であっても、麻薬の商売と何も変わらない。
なるべく利ざやの大きい商品を大量にさばくほかない。

だが、普通にしていてそんな事が可能だろうか?否。
大抵は、何らかの社会的構造が存在する。

安冨氏が提唱するには、2つあり、ひとつは関所システムである。
もうひとつはブランドである。

関所システムとは端的にいえば、そこを通らないと商品が動かないという
場所のことだ。かつてなら、まさに関所であり、港である。その場所を
商品が実際的に動いていく。そこで待ち構えていて、通行料を取る。これが
関所システムである。他にも取引先を押さえ込めばよい。生産者たちを
囲い込んで、商品を独占したり、販路として他者の存在を認めないような
独占的な販売をする。商品にある程度の力があれば、これだけで儲けることが
可能である。

言い方を換えれば、このシステムは権力である。通行税を取れるのは、暴力装置を
背後に抱えた存在だけである。金を出さなきゃ、どうなるか分かってるだろうなという
奴である。暴力装置から逃れるには手数料を払うほかないからだ。せいぜいあるとしたら、
他の暴力装置を抱えた組織との対立だろう。結局、みかじめ料というものは、いつの
時代にも存在し、その時代において海賊であったり、王族であったり、資本家であったり
政府であったり、するだけの事である。

もう一つは、ブランドである。特定のブランドがもたらす幻想はかなり強烈である。
人は現実だけを生きるわけではない。仮想現実もまた人生だと思っている。だからこそ
ブランドが価値を持つ。ブランドを所有する事で、人は満足するからだ。どんなバック
だって、有効に使用できる。あまりにぺらぺらでは困るが、ある程度のクオリティなら
それで機能として十分だろう。しかし、人々はハイブランドを持ちたがる。その心理的な
現象は、単純にいえば「見栄」であろう。見栄以外にブランドに拘る理由はさほどない。
どんな腕時計でも、どんな車でも、どんな家でも、機能性に大きな違いはない。
だが、そこに人々は差異を見出して、ああでもないと右往左往するのである。
そして、このブランド力を利用すると、特定の物が平均よりも高く売ることができるわけだ。

だから、新興ブランドは大変なのだ。社会的信用を得て、充実した製品を生み出すまでは
どうしても利益が薄くなる。それはいつの時代も一緒である。だが、一度ブランドが確立
すると、そこからグッと、利益が得られるようになる。そして人々もブランド価値を認識
する事で、高いものだからこそ、得ようと試みるようになる。結局ブランドへの信頼が
商品価値への信頼になり、本来は絡まないはずの二つが、同化し融合してしまう。それが
ブランドなのだ。


別段、何も悪いことなどしてないようにみえるかもしれない。しかし、関所では
暴力装置を駆動できるという機会可能性が担保されなくてはならないし、ブランドも
初期には名を売るため、サービスを安く売る必要がある。その背後には、労働の搾取が
必要となるだろう。

資本がもともとある人たちがいるじゃないか。といいたいかもしれない。
初期投資から多額の資金があれば、はじめから強いサービスを提供できると。
では、その資金はどうやって得たのだろう? 資金を得られるということは、何か
しなくてはならない。資本主義のルールからいえば、合法でも、利潤が発生するときには
必ず労働搾取が発生している。資金が沢山あるということは、どこかで搾取したという
事である。

よって、関所システムにも、ブランドにも、後ろめたさが必ず潜んでいる。
金を大量に集めようとしたら、結局、どこかで後ろめたいことをすることになるのだ。

もちろん、煎餅をやいて売っても良い。しかし、それだけでは生活は回るかもしれないが、
大量に金を集めることは不可能である。ここで批判しているのは、普通の商売ではない。
資本家になりうるほどの資本を貯めるには、どこかで「汚い」事をする必要があると
いっているのだ。

ブッシュ家とケネディ家。どちらもアメリカ大統領を輩出した名家であるが、
禁酒法時代に密造酒で儲けたことで、資金が出来、政治にまで手を出せた。
これを実力とみるか、汚い連中とみるかは価値観次第である。
そもそも、合理的とか法とか、ルールとは何かという事でもある。


イギリスの産業革命だって、蒸気機関の発明には資金が必要であった。
その資金はどこから来たのか。それは奴隷を売った利益である。アフリカ人を
連れ去り、アメリカやヨーロッパで売りさばく。その資金によって産業革命は興り、
その流れで資本主義が立ち上がった。

資本主義に浴するものは、すべからくこの流れの一端を担う。それは我々日本人も
同じである。彼らの作り出した金というシステムを利用して、第三国社会の労働力を
搾取し、資金を貯めたのだ。もしくは、自国民の労働力を搾取して、社会を築いたのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。それが我々の社会である。

何が言いたいのか。それは金持ちになるという事に特別な方法などないということだ。
短期間で金持ちになるには、汚い事をやらなければならない。汚いという言い方がいや
であれば、賭けにでるしかない。賭けた奴が偉いという議論もあろう。だが、賭けという
仕組みを生み出したのもまた人である。その賭けに乗じたことで誰かから労働力をせしめた
のは間違えないのだ。賭けもまた搾取である。


金を大量に儲けておいて、自分は何も悪くないというのは、偽善である。
それはみたくないものに目をつぶっただけで、本質的には、かならず搾取は起こる。

昨今、それを強いものの当たり前の行動だと考える価値観がはびこってきた。
始めから、強者の側にいて、それで勝負をした結果、勝ちを拾ったはずだが、
それを自分の実力という。それは真っ赤な嘘である。賭けに勝ったから儲けたのだという。
それは、自分の実力ではない。その信念が間違えである。

そんな事をいったら、あらゆる経済的努力は否定されるのかという事だろう。
ある意味ではそういう事になる。労働を搾取しなければ、儲からないからだ。
もっと原理的にいえば、誰かから奪わないとリッチにはならないからだ。

これが真実であり、事実である。ここを認めないと始まらないのだ。

問題は、誰から、どういう形で搾取するか。その違いだけなのだ。
一次産業の人々は、自然を搾取する。自然の恵みを頂くのだ。それらの材料を
工業社会は加工し製品にする。ここにも搾取構造がある。労働的にも材料的にも。
その出来たものを今度は、関所システムが運んでいく。商社や大企業である。
そうやって、どのレベルで搾取するかの違いであって、搾取をせずに金を儲ける
事は出来ないのである。

どうせ搾取するなら、盛大にやればいい? 確かにそういう発想もあろう。

一方の問題は、搾取するような人間は、他者から疎まれるという事だ。
大量に搾取する構造をつかんだ人は明らかに他者から疎まれる。それは擦り寄りもあれば
反発もある。それは搾取した人間に課せられた必要悪でもある。金持ちは嫉妬されるのが
当たり前であり、そのための人間関係のケアが一つの仕事になるのだ。

翻って、他者から大量に奪う必要性があるのかどうか。
大量に奪って蓄財すれば、産業革命を引き起こす程度には何かを始められるかもしれない。
しかし、人はどうせ生きて死ぬだけである。その新しいことに意味があると信じ込める
なら、それでもいい。大抵は、それらが無意味である事に気がつくはずだ。なぜなら、
人は金を儲けたら満足するという生物ではないからだ。

人は、心地よい寝床を持ち、良き’友人’を持ち、美味しい物を他者とシェアできれば、
それで満足するのである。パートナーや子供も含め、結局、人はサルである。
サル的な満足以上の満足もないわけではない。芸術とか美はそれを担うだろう。
しかし、根本として、サル的満足こそが人を幸福にする。


では、他者からの搾取はそれに見合うだろうか? 金があれば、寝床や美味いものは
得られるかもしれない。だが、良き友人は得られるだろうか? 良き家族は形成できる
だろうか? 日頃、自分が他者を搾取しておいて、急に家族や友人にはシェアをする
ような人間になれるだろうか? このような人は、たいていの場合、家族や友人も搾取する。
そういう人になる。結果、良き「友人」を失うことになる。

3つのうち二つが手に入るなら、それでいいじゃん。若い人はそういうかもしれない。
しかし、人にとって、一番大事なのが、良き人間関係なのだ。良い人間関係を築くこと。
これ以外に人というサルにとっての幸せはない。寝床や食い物は我慢できても、人への
欲求は我慢ならないのだ。


権力を持つ者が勘違いをするのはここだ。2つをらくらく手にしたのだから、自分は優秀だと
思い込む。そして人間関係も簡単だろうと。ところが、2つを楽に手にするだけの権力が
あるからこそ、本当の意味での人間関係から遠ざかるのだ。そして孤独なのだ。

権力をつかって人間関係を作ることは、結局、友達でも、パートナーでも家族でもない。
それは契約や、支配構造であって、対等な人間関係ではないのだ。
結果として金持ちは友人を作るのが困難になる。金という権力があるからこそ、難しいのだ。
そもそも他者を大量を搾取しておいて、仲良くしようというのが虫が良すぎるのだ。


しかし、どういうわけか現代人は、これを目指す。目指すことを是とするエートスに生きる。
結果として、不幸になる。孤独になる。ましてや、搾取に失敗すれば、3つとも得る事が
出来ない。そういう賭けに出て敗れたものの一部は、破壊を求める。自分の価値観がおかしい
事を棚にあげて、自分の行為を妨げる悪いものが存在すると妄想を始める。

自分は今まで、社会のいうとおりにしてきたのに、このざまだ! なぜだ!?と。
もちろん、それは価値観がおかしいからに決まっているのだが、それに気がつかない。
そして、その憤りが抑圧できなくなったとき、彼らは二つの方向へと突き進む。
一つは、自己破壊。もう一つが世界破壊だ。


現代社会は、他者を搾取しろと脅迫してくる。仕事をして金を得るということは、
ごく小さくとも搾取をした結果である。この行為の欺瞞を解消しているうちは問題ない。
しかし、それがうまくいかなくなったとき、人は、何故だと叫ぶのである。根本が歪んでいる
のだが、それを意識化できないためだ。そうして、犯罪か自殺へと自分を駆り立てていく。


現代人は、そもそも的にある意味不可能なことを求められているのだ。そして、
その道の結末は、大した成功でもない。金を大量に得たとしても、人生はうまくいかない。
むしろ、他者を大量に搾取したことの恨みを買うのである。もちろん、どちらもうまく
やる人もいるのだろう。しかし、そのような人は精神的分裂状態である。この世界で
うまくいっているならば、片方の手で他者をいじめ、片方の手で握手するという事だからだ。

現代日本のエートスをまともに受け取ると、不幸になる、もしくは精神異常をきたす。
だから、大抵の人はそこまで極端になれず、エートスが要求する目的を脇においたり、
無視したり、適当にごまかして生きるのだ。そのごまかしが行動嗜癖である。


一方で、この社会的エートスが唯一の人生だと勘違いをし、かつ、賭けに負けると
大変なことになる。その不満の矛先は弱いものへと向けられ、そうした毒を吐くことで
ようやく自分を慰められる。いや、一時のストレス解消にすぎないのだろう。だからこそ、
永遠と他者攻撃を繰り返す。それが抑圧されたものの典型的な行動だからだ。


京アニなど痛ましい事件はこれからも起こるだろう。それは一部の人間以外が
人生失敗だと思わされる現代の仕組みにある。その破壊行動は、結局のところ、
不幸な人間関係から生じる。幸福なる人間関係が現代社会には自然と備わっていない
ためだ。ひどく努力を必要とするのが昨今の人間関係である。

良き人間関係を築くこと。現代人に必要なことはおそらく、この一点だけだ。
それには、自分の事だけを考え得をするという自己中心的発想では無理で、
自己倫理としての自然な利他主義の発生が必要である。そして、他者の幸福を
自己の幸福と読み解ける人間を育てないことには、良き人間関係は望めない。

そのためには、教育が重要である。とりわけ子供の。
自己利益最大化は、むしろ現代人に特有の思考である。誰かに押し付けられた妄想であり、
それによる社会的成功は、ちっとも成功ではない事も、もはや明らかである。
ならば、人間本来の他者との協力性にフォーカスし、他者との関わりにおいて、
自己を生かすことを覚えなくてはならない。そういう風に人は出来るいるのだから。


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感情の劣化?-意思とはー [思考・志向・試行]

君の名は。は、新海誠監督の大ヒット作である。

賛否両論があるのだが、私は残念ながら批判的な立場である。それはなぜか?
美しい画面、作品のロマンさや、人物の入れ替わり、時間を超越するストーリーなど、
面白い要素が満載なのだが、最大の問題は登場人物の意思が不明なことだ。

この作品を面白いというのは、単純に何も考えていないか、矛盾点を深読みして
勝手に補完するタイプかのどちらかではないかと思う。

私には、作者たちの「こうすりゃ、お前ら感動するんだろ?」という意図が透けて見える
下らない作品に思えたのである。ありがちな設定やありがちな身体入れ替わりなど、
要素、要素は別段新しくもなんとも無い。それを一つの作品に落とし込んだ所に、
この映画のすごさがある。その一方で、オマージュだらけで、何が言いたいのか分からない
映画でもある。

私は作品にメッセージ性を求めるとか、そういう事をいってるのではない。
単なる娯楽作品だって、別にかまわないが、この作品が大ヒットというならば、
やや話が違ってくる。こういう浮ついた世界を良しとする人々が多いという意味であり、
そりゃ、若者たちが心配になるのだ。

この作品には、まるで人間がいない。せいぜい、三葉のおばあちゃんくらいだろうか。
つまり、登場人物がみんな、作者の都合で動く駒のようなのだ。感情を備えた人間として
見えてこないのである。普通、群像劇では、キャラクターは勝手に行動を始めるものだ。
それは場合によっては作者の意図すら超える。ストーリー上、こういう行動をとって
欲しいと思っても、そのキャラクターの性格上、信念上、そういう事はやらないという事が
厳然として存在する。

ところが、この作品では、キャラクターがストーリーの展開に沿うように行動を変えてしまう。
とりわけ顕著なのは主役である滝だろう。ご都合主義のど真ん中である。滝がどうして、
糸守町を救おうとして、行動するのか。本来なら、三葉との間にどうにもならない絆が
あるという設定でなければならない。だが、この二人は夢で入れ替わるというだけの存在で
あるし、直接的な交流は無い。ましてや名前を忘れてしまうような間柄だ。

三葉には感情をみてとれる。滝に会いにわざわざ東京に行くのである。しかし、滝は
それと分からない。当たり前だ。分からないという設定なのである。3年後の滝は、三葉と
入れ替わる。しかし、滝はその時に、3年前に電車であった女の子を思い出すことは無い。
その程度の関係性である人物が、どうして糸守町を守るために頑張るのか。

ましてや、山に登れば、3年前の三葉にあえて、なおかつ、危機を知らせることが出来るのか。
全く理屈が無い。ご都合主義もよいところだろう。

一連の流れで、キャラクターが持つ行動様式がその都度、ストーリー展開によって決まるのだ。
だから、強い違和感を感じるのである。ところが、これを素直に楽しめたという人が多いなら
ば、このような登場人物がもつはずの感情に興味が無いのか、分からないのか、どうでもいいのか
どれかなのだろう。そこが逆に私は怖いのだ。それはつまり、日常的に他者に対して、そういう
風にしかみられないという事だからである。


他者にちゃんと感情があって、行動様式はその人物の意思によって駆動すると理解していたら、
君の名は。の登場人物が随分と軽薄なのが理解できるだろう。この話をそういう部分とは
関係ない事で楽しむというのは個人の自由であるが、とにかくも、人の行動原理に逆らうのは
いただけない。


大抵の人は、他者が自分の思うとおりに動かないことにイラついている。それが当たり前だ。
だからこそ、我々はコミュニケーションをとって、齟齬を減らそうと努めるのだ。しかし、
そもそも、その他者を理解しようともしない人間模様において、すんなり楽しめるというのは
危険ではないか。

宮台氏がいうように「感情の劣化」が主張されて久しい。若者は傷つかないように、
様々な手を使う。知性化や、自己欺瞞や、ノリ、嘲笑、貶める事、とにかくも、相手を
下げる事で自分の面子を保つこと、自分の感情を守ることに必死になる。拒否されるか
どうかなど、前もって分からない。だから、チャレンジするほか無い。ただそれだけなのに、
そこが恰もものすごく大事なものとしてアピールする。

自分の能力がない事や、自分の容姿が良くない事。こういったことを当たり前だと思えず、
不公平といったり、その代償を求めたりする。逆に、自分に偶々良い能力があったり、
容姿がよかったりすると、それを無い人間を下に見たりする。自分の在り方が実に貧弱
なのだ。そうやって、自己が持つプロパティによって、どうにか自我を保っている。
どうも、そういう事が若者の描像として、浮かび上がってくる。

過保護であった事と、違いを当たり前として認められなかった事。そういったことが
若者に強く作用しているように感じる。子供が親の期待通りに育つ方が異常である。
それを脇において、明に暗に、子供の先回りをして状況を整えてきた親たちこそが
問題として見えてくる。その親にして、子ありなのだ。


歪んだ自己肯定感がそこにある。俺には能力があるのだ、俺は容姿が優れているのだ、
だから、それがない相手は自分に屈するべきだ。そのような自己中心的な価値観が
透けている。それは自己肯定ではない。自分勝手なだけである。一方で、それらを
もたない若者たちは、ひどく傷つき、自己保身に走る。やってもないのに、無駄だと
言わんばかりに、何も行動しない。また、自己能力が発揮されることだけに注力する。
他の事はどうでもよいといわんばかりだ。若者はともすれば、自分しか見えていない
事は明らかなのだが、そこで他者に思いが及ばなくなるほどに、傷ついているともいえる。

自分を守ることに必死すぎて、他者を傷つけても良いと思うのはおかしいことだ。
他者もまた、同じである。互いに、自分を守るためだけの言明に終始する。

言い換えれば、自分が特別であるためには何でもするという事だ。こういうのを
自己愛性という。若者の一部は、期待された何かになることを目指す。それが
こなせると自分は特別なのだと安心できる。その一方で、それが手に入らないと
分かると、防衛線をはって、自分には出来ないので~とか、自分は向いてないので~
などエクスキューズしまくるのだ。

もしくは、相手の評価軸が間違えであるといい始める。自分の程度を認めないので、
歪んだ自己像が生まれ、その自己像に沿うように行動を調整するのだ。

若者がといってきたが、このような事は、昔からある。オヤジにだって、こういう
人間は沢山居るのだ。自分が大した人間であるかのように言うのは、明らかに精神的な
問題を抱えたものだ。そういう自己像を持たなければ、自己を保てないという事である。
それは不健全であり、なんらかの対処が必要なのだ。しかし、そういう人間こそが、
組織では利便性が高いために、世に憚るのである。

上位に媚びて、下位に横柄になる。そういう人間は、他者を同じ人間だと思っていない。
そういう行動を、自己を守るために必然だと信じてやまない人である。


さて、このような人々の何が最大の問題なのか。それは、自分の意思の発動をまともに
感じていない事だ。自分が何をするのかは、自分の価値観からしか生まれてこない。
しかし、これらの人々は、自分の行動が他者の評価によって駆動される。それがために、
他者が望んでいるような行動をとる。そのことで、自分を守るのである。他者にうしろ
指をさされない行動をとるというのが、彼らの指針なのだ。

そういう人間が、君の名は。をみるとどう思うのか。登場人物は、ストーリーに都合が
良いように動く。そう、「空気を読んでいる」のだ。おそろしいことに、ストーリーに
忖度して、登場人物が行動を起こす。まさに、彼らなのだ。だから、この映画を手放しに
褒めるというならば、まさに、自己保身的人物といえるだろう。



現実では多くの葛藤がある。これはおかしいと思うことでも、指示されなければ、そのまま
仕事を続ける。下手なことをいって面倒になるのはごめんだからだ。そんな人間たちが、
君の名は。をみて、自分の行動一つで、未来が変わるかもしれないと思っているなら、
よほど、おめでたいことだ。現実には難しいから、映画の中くらい非現実的なことがあって
もいいじゃん。それがこの映画が売れた理由なのではないか、私はそう思う。

しかし、本当の意味で、自分が行動を変えれば世界は変わる。それはフィクションではない。
なのに、できない理由を沢山作り出して、多くの人は正義を行わない。

映画において、彼らがどうして悲劇回避の行為に及べたのか。それは、滝という人物を
通じた「確実なご信託」があったからだ。確実に悲劇がくると分かっていたからこそ、
三葉たちは行動できた。これもまた、保身人間が考えそうなことだ。

現実では、違う。そんなご信託は無い。だからこそ、自己の価値観が重要であり、
何を目指して、何に意味があるものして考えるのか、そこから行動が生まれるのだ。
それなのに、昨今の人々の行動原理は、「空気」であり、他者の望むものである。
その理由は自己保身である。自分で決定しなければ、責任を回避できるからだ。
そうやって、中身がない行動ばかりをする。それで波風が立たなければいいのだと。

結果、人々はまるでロボットのようになる。意思の背後には感情がある。自己の感情に
向き合わない人々は、意思をもたないのも同然なのだ。

感情を取り戻す。我々は、自分が何を感じているのかをきちんと捉え、それが仮に
不快であろうとも、直視する事だ。そこからしか、自分は生まれてこないのだから。
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奴隷としての日本人 [思考・志向・試行]

全ての働く日本人は税金を納める。
この意味は、日本に生きているだけで、奴隷になるという事だ。

本質的な意味で、特殊な例を除けば、日本人であれば年貢を納めるしかない。
納めないと取立てに来ることになっている。身近にその例が少ないので、
なんともいえないのだが、実際にそうなっている。

国というバーチャル組織がなぜ、税を取り立てられるのか、またどうしてそれが
義務化できるのか。簡単に言えば、暴力である。国家権力という暴力によって
税を取り立てられる。払わなければ資産の差し押さえが発生する。これは要するに
暴力である。法律に書いてあるというのは、ただの契約であり、本当の意味では
税金に根拠は無い。

国民年金と国民保険。働いていなくても、年金を支払う義務はある。特定の年齢に
ならなければ、それを免除されることは無い。これは人類の問題ではない。日本という
国の問題なのだ。一見自由があるように見える日本人。しかし、実体は「経済的奴隷」である。

柄谷行人氏がいうようにネーションステートは、一種の幻想である。
国というのは、時に我々自身をさし、時に抽象的概念になる。このダブルスタンダードが
問題である。個人は国ではない。では、何人になったら国なのか? 国権を発揮するのは
誰なのか? 結局、国というものは、一部の権益者たちと、その支配下の者どもの集まり
である。

柄谷氏は、とある集団がとある集団を支配した事から国がうまれたと説く。
つまり、そもそも国というのは、支配者による被支配者の奴隷化によるものだと。

よって、我々はすべからく国の奴隷である。それは世間から抜け出さない限りは
ずっと続くことであるし、世間から抜け出すと闇社会やホームレスにでもならない
限り日本にいることは難しい。

経済的奴隷のわかりにくさは、要するに一見すると、自由に見えることだ。
だから、ほとんどの日本人は考えたこともないのだ。自分の自由さが如何に限定的かを。
しかし、実際には自由ではない。その不自由さをメタ視点で眺望しよう。


多くの現役世代は、どこかに仕事のことがある。仕事のことを考えない日があるという
人はまれだろう。これが経済的奴隷の典型例である。仕事のことといっても、誰かを
喜ばそうとか、こうしたら有効だなどと考えられる人は幸運である。たいていの場合は、
あちらこちらの問題について思いをめぐらす事になる。そうして、陰鬱な気分になる。

それをごまかすために、人々は食欲ー摂食行動に走る。酒、タバコなど嗜好品。モノを
買う、レジャーを消費するなども同じ系列だ。仕事の合間の気分転換という事になっている
これらの事はおおよそ、仕事からの現実逃避である。そしてそれはつまり、経済的奴隷
であるという事から目をそらす手段である。

大抵の人は、若い頃に結婚し子供を育てる。これをメタ視点でみれば、労働者の再生産である。
聞こえが悪いだろうけど、労働者の子供は労働者として働くために生まれる。それが嫌なら
何かをするほか無い。しかし、支配者と被支配者にはスタートラインから厳然たる不平等が
ある。ここを乗り越えるには、結局、ばくちに出るほか無い。経済的奴隷として優秀になる
という形で乗り越えようとする。しかし、それもまた経済的奴隷である。勘違いがないように
言えば、経営者・自営業者も、経済的奴隷である。自己の行動が金に絡めとられているという
点においては、まちがえない。

支配者からみれば、労働を搾取する人々が沢山うまれることは、彼らの利益である。
その彼らから、かつてのように全力で労働を奪うのではなく、経済的に縛り付けることで
自ら労働を行わせ、そこから少しずつ金を巻き上げる。これが国という仕組みであり、
その行政執行の背後にいる支配者の思惑である。

現代の支配者とは、経済構造的に言えば、貨幣発行権をもつものたちだ。それ以外は、
彼らの作ったバーチャルな金というものに振り回される経済的奴隷になる。金は、借金の
証書であるから、金を使っている限りにおいて、その利子を何らかの形で上納することになる。
それは、我々には直接見えない。国債を発行するのは国だが、その国債を引き受けるのは
民間団体である。彼らの組織に出資しているのは、誰か? そしてその配当を受け取るのは
誰か? そこに支配者たちがいる。

短絡していえば、日本人が金を目当てにせっせと働くと、その上前をとりあげる人々が
いるという事である。また、これは不況下でも意味がある。不況になれば、金が回らない。
すると、企業はつぶれていく。個人も破産する。その時、現物を債権者はとりにくる。
土地を奪い、建物を奪うのだ。経済的奴隷がせっせと作り上げたものを鷹のように横取り
するという仕組みになっている。

極端なことをいっているように感じるかもしれない。しかし、実態なのだ。そして、
わずかにだけ毎日奪われるので、人々は気にしていないだけなのだ。大抵は事実を知らない。
これにつきる。

経済的奴隷でも、別にかまわないとは思う。実際に労働者として生まれると、
労働者としての人生が待っている。それ以外があたかも無いかのように。いや、それこそが
素晴らしいことのように導かれる。そして、それ以外では、社会的評価されないかのようだ。
つまり経済的奴隷礼賛なのである。盲目的にそれに従うのが、そもそも奴隷だからだ。

結婚における子供なども同じことであろう。結婚とは他人同士が生活を共にするという
契約である。そこに愛情があるかどうかは別段関係はない。支配者からみれば、戸籍が
整備され、子供を管理できればいいのだ。そのためには結婚という制度を持続させたい。
そして、結婚が国にとって有利であるがために、優遇されるのである。ロマンスなど何も
ないのである。むろん、恋は別だ。愛も別である。結婚は恋や愛の集大成ではなく、
ただの国の存続に都合の良い制度と知るべきである。つまり支配者にとって都合がよいと
そういう事だ。

労働者は金を日々の暮らしのために仕事を通じて得る。これが経済的奴隷である。
自ら生産する手段をもたず、仕事により金を得る。労働を金に換えたことで、既に
搾取がスタートしているのだ。

ケチをつけているだけに思える? そうではない。我々にとって本質的なことは、
金を得る事ではないからだ。労働より金ではない、生産物を生み出せば、この奴隷から
開放される。労働によって道具を作る。労働によって作物を作る。労働によって建物を
立てる。これらは奴隷からの開放である。金を媒介しない経済もまた奴隷からの開放
である。

支配者は、巧みに金を納めさせる仕組みを作り上げた。中央銀行を作り、国に借金を
させることで、金を動かし、利子を稼ぐ。その下にその借金を担保するための国民
という労働者たちを置く。国民はしらずと経済的奴隷として人生を終えていく。そして
労働者の再生産を行うのだ。

現代が一見するとうまくいっていないかのよう見えるのは、労働者の再生産が
ストップし、それにともなって生産が下がり、利益がへったからである。ところが、
支配者たちは、逆に十分に富を得る事が出来たのだ。そしてもっと得ようとしている。

そのために支配者が画策するのは破壊である。労働者を大きく減らしてリセットし、
再度ふやすのだ。そうすれば前半部で現物を手に入れ、後半では利ざやが稼げる。
つまり、戦争である。戦争という破壊によって多くの利益を稼いだ人々は、それをまた
望んでいるという事だ。

戦争は決して、イデオロギーの対立だけではない。それは労働者を煽るための口実であり、
実際には商売である。人の命をもてあそぶ商売なのだ。そのような思想が現に存在し、
それが実行されてきたという事に人類は目をつぶってはいけない。



さて、経済的奴隷である我々は、生きているだけで資産を奪われる。それが税であった。
江戸時代の農民が年貢を納めていたのと何も変わっていないのである。そして、それが
現代では、経済的奴隷であり、またの名を国民というのである。

ひとまずは、これを知って欲しい。そして「目覚めて」欲しいのだ。



ここまで理解し、もし経済的奴隷から抜け出したいと思うとしたら、何が出来るのか。
日本から出るというのは一つの手段である。この崩れ行く国の制度の中で、無駄に
経済的奴隷を遣り続ける理由があるだろうか? 他には、無縁者になること。つまり、
ホームレスか、闇社会である。しかし、これらは結局、経済的奴隷が作り出す社会に
寄生する事で成り立つ行為である。確かに経済的奴隷ではないが、そこに留まるのは
健全とは言いがたい。結局のところ、日本に居る限りにおいて、経済的奴隷である事から
逃れる術は無いのかもしれない。

では、希望は無いのか? せめて経済的奴隷である程度を下げられないか。
現状ですぐに考え付くことは、金に対する依存度を下げることであろう。
先にも述べたが、労働を金ではなく、生産物にする事だ。そしてぶつぶつ交換である。

厳密に言えば、もっと緩やかな連帯というべきかもしれない。採れた野菜が余ったので、
近所におすそ分け。作った煮物があまったから、おすそわけ。近所の相手のお手伝いをする
事。ものを運んであげること。互いに、できることを提供する。そういう関係性は
金に対する依存度を下げることが出来る。そこが最大のポイントなのだ。

金は金で、必要なだけ経済的奴隷社会から受け取り、それ以外は金を使わない形で
暮らすこと。そのためには工夫が必要だが、それが出来たら、経済的奴隷からいささかの
開放になる事は間違えない。

何か良い知恵がある人は教えて頂きたい。







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