他者を守る怒りと自己を守る怒り [思考・志向・試行]

正義の発生については諸説あるだろう。私の類推では、正義とは信条への侵害に対する
怒りの表現である。そして、それは自己に対するものよりも、他者への侵害においてより
強力に駆動する。

そもそもにおいて、自己を守るための怒りは、正義とは言わないだろう。
それはただの主張に過ぎない。同様に、自分たちを守るための怒りもまた同じ土俵である。
しかし、自分と利害関係にない他者を守るための怒りは、正義になり得る。


攻撃するものをみたら、「怯えて守っている」と思えば良い。このテーゼを主軸におこう。
何をいっているのかわからない人もいるだろう。攻撃するのはたいてい強いものだと
信じているはずだからだ。しかし、攻撃とは弱いものが、他の手段を失ったときに、
自己の生存をかけて挑むものである。つまり、強いから攻撃するのではない。弱く
怯えているから攻撃するのだ。

クマが人を襲うのは、人を恐れるからである。一方で、ライオンがガゼルを追うときは、
攻撃ではない。それは狩猟であり、怒りではない。それは冷静な行動の結果である。
強いものは、怒りで行動しない。怒りによって行動をするとき、それは「怯え」を基盤とする。

よって、安倍政権がやじを飛ばし、怒りを官僚たちに向けるとき、それは「怯え」ている
からであり、そこに強さなど微塵もない。同様に、上司が部下を叱責するとき、上司は
管理者としての責任を恐れ、怯えているのだ。自分を守るために発揮される怒りはたいてい、
他者への効果はない。それはただ、怒れる人が自分の感情のはけ口を見つけたというだけの
事である。具体的効果などアリはしないのだ。

対韓国の政策は、もはや、個人的な怒りによって駆動されているといえよう。
このおバカな行為を支えているのは、ただの自己保身である。そして、このような
馬鹿な行為は、幼稚であり、未熟なものやる行為である。つまり安倍政権は幼稚で
未熟である。大人というのはもっと、戦略的に行動するものだ。それは感情ではない。
合理性である。そのような意図を微塵も感じないのが、安倍政権である。

そして、その安倍政権を支持する日本国民もまた、同様の幼稚な思考の持ち主である。
感情を顕にすれば、物事が解決するというのは、現代日本のオヤジたちがもつ、最低最悪の
思想である。というか、良い大人がこんな小学生みたいな事をやれるものだと呆れる。
いい加減、大人になりたまえ、オヤジたちよ。若者の端くれである私はそう諭したい。


さて、怯えまくった安倍政権が、愚昧な政策を繰り広げている間に世の中は、
この感情に同調した人間たちをあぶりだすことに成功した。それが今問題となっている、
「不自由展」だ。あいちトリエンナーレにおいて展示された少女の像。冷静に考えて
みれば、当時の記憶を留めるために作成されたのであろう。そのどこに問題があるのか、
私には不明である。なぜなら、慰安婦問題を起こしたのは、私ではない。そして、
その歴史的事実は私達に、同じことを繰り返すなと主張するメルクマールであって、
その存在が私達を貶めるわけではないからだ。ようは、そのような事をした祖先と
我々は違うのだという事である。

しかし、腐ったオヤジたちは、この2つを混同する。大日本帝国であった日本と、
いまの日本を同じ土俵に並べて、戦争当時の彼らと自分を連続した同一のものとして
自己認識をしている。だからこそ、当時の彼らへの批判を自己への批判として受け止め、
それによって自分を、自分たち(一体誰が’たち’なのか?)を守ろうとする。まさに
怯えている。強気の発言とは、子犬が泣きわめくのに等しい。大型犬は必要なとき以外
鳴かないものだ。いつも威張っていないと自分を守れないという貧弱な思想に生きるから
こそ、泣きわめく。これはネトウヨでも同じである。恥を知ったほうが良い。

我々が歴史問題において、考えるべきは事実を歪めることではない。過去を共有し、
その上で、これからどんな形で協力しあえるかを検討することに他ならない。
その時に、別に彼らのいう賠償をそのまま受けるとか、そういう事ではない。現代に
おいて後から生まれてきた我々が、その過去に対してどれほど対応できるかを
可能な範囲ですすめるというだけのことである。それには話し合いを続けるほかない。
いきなり、解決する手段など、あるわけがない。数年、数十年。そういうスパンで
交流する以外に、事を収めていく手段などアリはしない。

だからこそ、そういう大変なことが待っていると認識し、これからにおいて、
そのような大変なものを背負わないように、子孫たちに背負わせないようにする努力が
必要なのだ。それは我々の責務において可能なことである。ここで韓国と争うことで、
その遺恨をのこせば、また同じように、未来において、子孫たちが苦しむではないか。

その程度のことが、わからないのが、いまの日本政府であり、その支持者たちだ。
やっぱり、いいたい。恥を知れと。このような人間たちの行為は、彼らの感情の
はけ口にしかならない。そこに正義など存在しないのだ。

むろん、歴史上、正義がまかり通る方が稀であった。稀代の聖人であるガンジーや
マルコムXやキング牧師らくらいではないか。彼らの思想が社会正義という脆い楼閣
の稀なる体現であり、大抵の場合は、安倍政権のような愚昧な者たちが、世をかき乱し、
愚劣な感情を撒き散らして、社会を退廃させてきた。それが歴史である。

そろそろ、我々は目を覚ますほうが良い。

では誰のために、怒りを燃やすのか。それは他者のためだ。自分が信じる社会信条を
体現するために、他者のために怒りをもやすこと。そして、その他者とは現に被害に
あっている人達だけではなく、これから同じ被害に遭うかもしれない人たちの事だ。
それは子孫であり、隣人であり、仲間であり、友人であり、家族であり、自分である。

他者のための怒りこそが、正義である。私はそう信じている。


そして、その怒りにおいてこそ、我々は思想を掲げ、抵抗する。とはいえ、現代では
怒りを知らぬ、怯えきった犬どもが多い。その代表が官僚たちだ。彼ら全体が、
権力という構造において怯えきっている。その影響力とは裏腹にである。そして、
未熟な権力者による取引に応じたときから、もう抜けられない道を歩み始めた。

まるで無理難題を、ゴッドファーザーによって解決してもらったかのようだ。
一度、裏稼業からの支援を受けると、もう抜けられない。その事実こそが、脅迫となり
彼らにせまるからだ。自分の欲望を満足させるために、暴力装置を駆動させるとは
まさに悪魔の手段を使ったに等しい。そしてその呪いは死ぬまで続く。かわいそうに。

個人的には勝手に苦しめばいいと言いたいところだが、その呪いを周りに撒き散らすのが
権力を持つものの、最大の問題である。その苦しい叫びによって、自分を苦しめ、
その苦しみを、他者にも味合わせようとする。そのような行為に耽っているのが、
悪事に染まった人間であり、その結末である。

森友問題を幕引きをした。だが、そこで隠蔽したものは、今後ずっと、その組織に
呪いとして響き続ける。何も解決などしていないからだ。権力によって悪を封じ込められた
人間は誰もいない。そんなことができるわけがない。辻褄が合わなくなって崩壊する。
それが人間の限界である。

暴力装置によって、他者をあやつった人間は、同じ暴力装置の復習を受ける。
それこそ、無意味である。害だけしかない。


もう分かるだろう。我々が何をすべきなのか。自分を守ろうとする行為こそ貧しく、
見苦しいものはない。その汚物のような行為に耽る日本政府。それを現実的だと
のたまうオヤジたち。オヤジたちもまた、洗脳された人々なのだろう。可哀想に。

自己を守ろうとする人々は、根本的に不幸である。その彼らの理想による、彼らが
思う解決策は、何も解決せず、問題を拡大し、他をも巻き込み燃え上がらせる。
実に愚かである。自分のありのままを受け入れられないとは、見事なほどに汚臭を
放つ。

現代都市社会では、そのような汚物まみれの人間こそがエライという。
ならば、そんな社会はクソだ。と言いたい。オヤジたち、お前らはクソだ。

罵詈雑言を浴びせても、どうせ何も反応しまい。
私には、自分を守る事だけに狡猾な人々は、ただただ、可哀想な人である。
そうせざるを得ない立場にいる、そうせざるを得ないと思い込んで洗脳されている、
そうぜざるを得ないと思い込むことで責任を逃れている、そうせざるを得ないと
考えることで、本当は分かっていることから目を逸らす。だから、可哀想なのだ。

それはまさに、自己欺瞞に溢れた人生であろう。
生きるとは何かを知らぬまま、他者の奴隷として死にながら生きる。

私はまっぴらごめんである。そして、これが私の怒りである。



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