他者を守る怒りと自己を守る怒り [思考・志向・試行]

正義の発生については諸説あるだろう。私の類推では、正義とは信条への侵害に対する
怒りの表現である。そして、それは自己に対するものよりも、他者への侵害においてより
強力に駆動する。

そもそもにおいて、自己を守るための怒りは、正義とは言わないだろう。
それはただの主張に過ぎない。同様に、自分たちを守るための怒りもまた同じ土俵である。
しかし、自分と利害関係にない他者を守るための怒りは、正義になり得る。


攻撃するものをみたら、「怯えて守っている」と思えば良い。このテーゼを主軸におこう。
何をいっているのかわからない人もいるだろう。攻撃するのはたいてい強いものだと
信じているはずだからだ。しかし、攻撃とは弱いものが、他の手段を失ったときに、
自己の生存をかけて挑むものである。つまり、強いから攻撃するのではない。弱く
怯えているから攻撃するのだ。

クマが人を襲うのは、人を恐れるからである。一方で、ライオンがガゼルを追うときは、
攻撃ではない。それは狩猟であり、怒りではない。それは冷静な行動の結果である。
強いものは、怒りで行動しない。怒りによって行動をするとき、それは「怯え」を基盤とする。

よって、安倍政権がやじを飛ばし、怒りを官僚たちに向けるとき、それは「怯え」ている
からであり、そこに強さなど微塵もない。同様に、上司が部下を叱責するとき、上司は
管理者としての責任を恐れ、怯えているのだ。自分を守るために発揮される怒りはたいてい、
他者への効果はない。それはただ、怒れる人が自分の感情のはけ口を見つけたというだけの
事である。具体的効果などアリはしないのだ。

対韓国の政策は、もはや、個人的な怒りによって駆動されているといえよう。
このおバカな行為を支えているのは、ただの自己保身である。そして、このような
馬鹿な行為は、幼稚であり、未熟なものやる行為である。つまり安倍政権は幼稚で
未熟である。大人というのはもっと、戦略的に行動するものだ。それは感情ではない。
合理性である。そのような意図を微塵も感じないのが、安倍政権である。

そして、その安倍政権を支持する日本国民もまた、同様の幼稚な思考の持ち主である。
感情を顕にすれば、物事が解決するというのは、現代日本のオヤジたちがもつ、最低最悪の
思想である。というか、良い大人がこんな小学生みたいな事をやれるものだと呆れる。
いい加減、大人になりたまえ、オヤジたちよ。若者の端くれである私はそう諭したい。


さて、怯えまくった安倍政権が、愚昧な政策を繰り広げている間に世の中は、
この感情に同調した人間たちをあぶりだすことに成功した。それが今問題となっている、
「不自由展」だ。あいちトリエンナーレにおいて展示された少女の像。冷静に考えて
みれば、当時の記憶を留めるために作成されたのであろう。そのどこに問題があるのか、
私には不明である。なぜなら、慰安婦問題を起こしたのは、私ではない。そして、
その歴史的事実は私達に、同じことを繰り返すなと主張するメルクマールであって、
その存在が私達を貶めるわけではないからだ。ようは、そのような事をした祖先と
我々は違うのだという事である。

しかし、腐ったオヤジたちは、この2つを混同する。大日本帝国であった日本と、
いまの日本を同じ土俵に並べて、戦争当時の彼らと自分を連続した同一のものとして
自己認識をしている。だからこそ、当時の彼らへの批判を自己への批判として受け止め、
それによって自分を、自分たち(一体誰が’たち’なのか?)を守ろうとする。まさに
怯えている。強気の発言とは、子犬が泣きわめくのに等しい。大型犬は必要なとき以外
鳴かないものだ。いつも威張っていないと自分を守れないという貧弱な思想に生きるから
こそ、泣きわめく。これはネトウヨでも同じである。恥を知ったほうが良い。

我々が歴史問題において、考えるべきは事実を歪めることではない。過去を共有し、
その上で、これからどんな形で協力しあえるかを検討することに他ならない。
その時に、別に彼らのいう賠償をそのまま受けるとか、そういう事ではない。現代に
おいて後から生まれてきた我々が、その過去に対してどれほど対応できるかを
可能な範囲ですすめるというだけのことである。それには話し合いを続けるほかない。
いきなり、解決する手段など、あるわけがない。数年、数十年。そういうスパンで
交流する以外に、事を収めていく手段などアリはしない。

だからこそ、そういう大変なことが待っていると認識し、これからにおいて、
そのような大変なものを背負わないように、子孫たちに背負わせないようにする努力が
必要なのだ。それは我々の責務において可能なことである。ここで韓国と争うことで、
その遺恨をのこせば、また同じように、未来において、子孫たちが苦しむではないか。

その程度のことが、わからないのが、いまの日本政府であり、その支持者たちだ。
やっぱり、いいたい。恥を知れと。このような人間たちの行為は、彼らの感情の
はけ口にしかならない。そこに正義など存在しないのだ。

むろん、歴史上、正義がまかり通る方が稀であった。稀代の聖人であるガンジーや
マルコムXやキング牧師らくらいではないか。彼らの思想が社会正義という脆い楼閣
の稀なる体現であり、大抵の場合は、安倍政権のような愚昧な者たちが、世をかき乱し、
愚劣な感情を撒き散らして、社会を退廃させてきた。それが歴史である。

そろそろ、我々は目を覚ますほうが良い。

では誰のために、怒りを燃やすのか。それは他者のためだ。自分が信じる社会信条を
体現するために、他者のために怒りをもやすこと。そして、その他者とは現に被害に
あっている人達だけではなく、これから同じ被害に遭うかもしれない人たちの事だ。
それは子孫であり、隣人であり、仲間であり、友人であり、家族であり、自分である。

他者のための怒りこそが、正義である。私はそう信じている。


そして、その怒りにおいてこそ、我々は思想を掲げ、抵抗する。とはいえ、現代では
怒りを知らぬ、怯えきった犬どもが多い。その代表が官僚たちだ。彼ら全体が、
権力という構造において怯えきっている。その影響力とは裏腹にである。そして、
未熟な権力者による取引に応じたときから、もう抜けられない道を歩み始めた。

まるで無理難題を、ゴッドファーザーによって解決してもらったかのようだ。
一度、裏稼業からの支援を受けると、もう抜けられない。その事実こそが、脅迫となり
彼らにせまるからだ。自分の欲望を満足させるために、暴力装置を駆動させるとは
まさに悪魔の手段を使ったに等しい。そしてその呪いは死ぬまで続く。かわいそうに。

個人的には勝手に苦しめばいいと言いたいところだが、その呪いを周りに撒き散らすのが
権力を持つものの、最大の問題である。その苦しい叫びによって、自分を苦しめ、
その苦しみを、他者にも味合わせようとする。そのような行為に耽っているのが、
悪事に染まった人間であり、その結末である。

森友問題を幕引きをした。だが、そこで隠蔽したものは、今後ずっと、その組織に
呪いとして響き続ける。何も解決などしていないからだ。権力によって悪を封じ込められた
人間は誰もいない。そんなことができるわけがない。辻褄が合わなくなって崩壊する。
それが人間の限界である。

暴力装置によって、他者をあやつった人間は、同じ暴力装置の復習を受ける。
それこそ、無意味である。害だけしかない。


もう分かるだろう。我々が何をすべきなのか。自分を守ろうとする行為こそ貧しく、
見苦しいものはない。その汚物のような行為に耽る日本政府。それを現実的だと
のたまうオヤジたち。オヤジたちもまた、洗脳された人々なのだろう。可哀想に。

自己を守ろうとする人々は、根本的に不幸である。その彼らの理想による、彼らが
思う解決策は、何も解決せず、問題を拡大し、他をも巻き込み燃え上がらせる。
実に愚かである。自分のありのままを受け入れられないとは、見事なほどに汚臭を
放つ。

現代都市社会では、そのような汚物まみれの人間こそがエライという。
ならば、そんな社会はクソだ。と言いたい。オヤジたち、お前らはクソだ。

罵詈雑言を浴びせても、どうせ何も反応しまい。
私には、自分を守る事だけに狡猾な人々は、ただただ、可哀想な人である。
そうせざるを得ない立場にいる、そうせざるを得ないと思い込んで洗脳されている、
そうぜざるを得ないと思い込むことで責任を逃れている、そうせざるを得ないと
考えることで、本当は分かっていることから目を逸らす。だから、可哀想なのだ。

それはまさに、自己欺瞞に溢れた人生であろう。
生きるとは何かを知らぬまま、他者の奴隷として死にながら生きる。

私はまっぴらごめんである。そして、これが私の怒りである。



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ぐるぐると考えてみた [思考・志向・試行]

思索の一環として、現代日本において究極的に何をすべきか。
人道主義をここでは一切抜きにして考えてみたい。

よって、これから罵詈雑言が続くがそれは始めにご了承願いたい。



さて、現代の日本では少子高齢社会と言われている。
これは正しくない。高齢者過剰社会というのが正しいのだ。
もともと日本人が1億人もいるのが多すぎであり、国土の適正バランスからいえば、
もう少なくて良い。

では、現状において誰がいなくなると良いのか。簡単である。
老人たちだ。老人たちがいなくなれば、社会はかなりバランスを改善する。

現在日本では老人たちの年金は賦課方式によって、現役世代によって支払われている。
それを維持するために、若者たちから高額の年金が支払われている。この負担は、
今の老人たちが負っていた負担よりも大きい。理由は、物価が上昇していないうえに、
収めるべき年金額が増えたからだ。それは単純に老人が多いという事が一番影響している。

金を使うほかない若い世代は、年金や社会保障に金を取られ、自分たちが使える金額が
なくなった。だから、様々なものをかつてのようには消費しなくなった。一方老人たちにも
事情はある。もともとリッチだった老人たちは企業年金などを含め、かなり高額な年金を
受給できる。他方で、ほそぼそと暮らし、なんとか最低限の年金で暮らす老人もすくなくない。

よって、個人によって事情は様々だ。そこで人道性を加味せず、非情になって現状を
組み替えるとしたらどうするか。

まずは、年金の廃止である。全ての年金をやめる。若者から年金を取らない。これで
かなり若者たちの経済状況は安定する。何しろ、日本は世界でも有数の重税国家である。
年金も税金である。これを廃止すれば、若者は必要なものに消費し、更には趣味性のものも
適当に消費するようになるだろう。

一方で、企業年金のある人たちは、基礎年金を廃止し、企業の積立分だけにする。
他方で、基礎年金しかもらっていない老人たちはどうするか。彼らは一律にベーシックインカムを
導入する。生活保護も合わせて全廃する。累進性をかけた税金を国が一定の傾斜をかけて
分配するのだ。個人所得にも、法人所得にも累進性を加えればいい。

こうして、愚かしいくらい資産をためる人間をいなければ、凄まじい貧困者もいなくなる。
そして、税金をむしり取られる若者もいなくなり、年金に不安を覚える老人もいなくなる。

財源がないとは言わせない。安倍のようなアホなボンボンがつかう外交費や戦闘機代、
むだな特区政策など、おかしな金を使わなければいいのだ。そして、国家公務員もAIを
つかって減らし、地方公務員を増やすべきだ。生活に関わる役人を増やすことで、現場の
負担を減らし、国家公務員のように天下りの確保のために無駄な公益法人を増やし、
増税化をもとめるような政策を減らせるだろう。

また老人医療も考え直す必要がある。老人の医療費を上げるべきだ。むしろ、
健康を大事にしなかった人々の医療費は高額にすればよい。高額医療が待ち構えていると
思えば、もっと日頃の健康に気をつけるだろう。多くの老人が体調を崩しすぎなのだ。
そうして、高額医療が受けられない老人には、早期に退場願うことになる。それは
生物学的必然である。

一方で、多くの老人にとって必要となる手術やケアについては無料化すればいい。
高額医療が無理になった老人につかう費用を流用すればいい。

そして、基本的には老人たちはもっと働いてもらうしか無い。
60歳になったから、引退して20年間なにもせずに過ごすという方が異常な世界だろう。
70歳まで働けというのも酷だという。それは健康状態によって変わること。

働き口がないというが、それならば、なぜ外国人労働者がたくさんいるのだろう??
老人たちが若者にいう、「なんでもいいから働け」というセリフをそのまま返すことにする。
「なんでもいいから働け」それがまだ働ける老人たちに言える事だ。仕事がないという
老人のセリフは、若者のセリフと全く同じことである。

体力がない事は、機械化でカバーすればいい。とにかく、社会の中で仕事をしない老人が
多すぎる事が、日本社会を衰退させている。若者にかかる負担が大きすぎるのだ。

若者が健康保険を年間30万も払っている。その一方で、老人は日々病院にかよって、
1割負担で薬を消費する。一体何がしたいのか? 老人たちの薬を減らし、若者の
健康保険を減らせばいい。もしくは、老人ももっと払うしか無いだろう。もう、現実的に
今のままじゃ成り立たないのだ。

その証拠が、少子であり、結婚制度の崩壊であり、国という単位の崩壊である。
老人たちが国により掛かるだけの存在ならば、日本は終わるだけだ。いやもう、一度終わる
しかないのだろう。

自ら変革が出来ないのだ。そしたら他者から否応なく変革を迫られるほかない。
それは、株価の暴落と、それに続く不況。そして貧困、餓死。そして社会秩序の崩壊に
よる犯罪の増加である。これらへの対処として、国は管理体制を強化し、自衛隊が軍化して
治安維持に出てくる事だろう。まさに軍事独裁国家である。日本がそうならないという可能性
の方が低いくらいだ。それを望む政権が今まさに、現政権だからである。

国家が武力を市民に使用する。これに乗じて、非国民という蔑視が流布される。
少しでも国を批判すれば、反逆罪という罪で捕まる。そういう未来がありありと見える。
それは、もう時代にそぐわないシステムを使い続けるからである。その体制維持のために、
武力が投入されるのだ。

一部の者たちが持つ、大量の資産をうまく分配すれば事は足りる。
だが、彼らはその資産で武力を買い、市民に暴力を向けさせるのだ。そして、状況を悪化させる。
それでいいというのだ。彼らは犯罪者が悪いというだろう。しかし、日々の食い扶持に困った
人たちは、犯罪を犯すほかない。それが世界で起こる大半の犯罪動機だ。

仕事がない。あっても、ろくに稼げない。稼げないなら、非合法の仕事をする。
そういうことだ。その問題点は、社会に生まれ落ちた人間を社会においてどう生きてもらう
のか、どういう場所に収まるのかを社会が考えるという視点がごっそり抜けておちている
からだろう。

では、なぜこういう事になるのか。多くの人は能力の問題とする。努力の問題とする。
金と能力は無関係である。金を儲ける能力ってのは、ギャンブル性への指向性である。
そして、そのギャンブルで勝ったものが多額の金を得る。これが資本主義である。どういうことか。
多額の投資をして、工場を作り製品を売るということは、一種のギャンブルである。
売れるかどうかは、市場がきめること。商品が優れているからとは限らない。
すると、努力も能力も程度問題といえる。運や偶然がかなり左右するのだ。

では、多額の投資が出来るとは? それは資産をもともと持つ。もしくはどこかで、
ギャンブルをして、資本を得たものという事になる。これが、資本主義の本質である。

俺はギャンブルで勝ったのだから、資産をがめる権利がある。そういう主張を是とするか
どうか。所有権とは、結局、この地上における所有権を買ったという事である。そして、
死ぬと失うものである。問題は、その誰かがガメていると、複数の人たちが苦労し、
場合によっては犯罪者になってしまうということなのだ。

金の量は、借金の量で決まる。人が増えれば、借金が増えて、金の量が増える。
だが、そこに利子のある取引が存在するとどうなるか。借金は絶対に返せない仕組みである。
全体として、借金として発生した金以上に返すべき額面は大きい。この詐欺的システムは、
常に、商売を継続することを義務化する。商売をやめることが出来ないのだ。そして、
新たに借金する誰かを追い求め続ける。

近年は、借金する人が減ったので、海外に借金する人を求めている。場合によっては、
暴力によって借金を押し付けている。そうして利子を奪い取る事が常態化した。
その結果として、富が不労所得者へと動いていく。自動的に動いていくのだ。

富が偏在し、それがために、食えない人は犯罪をおかす。その犯罪を抑制するために、
暴力装置を資産で買う。アルソックやセコムなど民間警備会社が機能するということは、
そういう事である。辺野古の基地工事を守るのも、民会警備会社だ。富があるものが、
暴力装置、それが言い過ぎなら、防衛装置を金でかうのである。

防衛装置を買えない人については「それは雇えないのは努力が足りない」と同じことをいう。
そうやって、自らを防衛的にする思想を振りまくと、どうなるか。誰も善意を信じなくなる。
あらゆるサービスに対価を求めるようになる。善意で何かをすると馬鹿みたいだからだ。

こうして、社会は一部の富を退蔵する人々と、貧乏で食べるに困る人間たちに分離する。
日本はその道へまっしぐらである。なぜか。それはそういう国家であるアメリカを真似する
からである。アメリカは悲惨な国だ。それなのになぜ日本はそれを真似るのか。それは、
そういう仕組でなければ、資本主義が停滞するからである。

少し前までは、社会主義的政策が不可欠であった。それは共産圏の存在、ソ連の存在が
強かったからだ。しかし、共産圏はソ連の崩壊後、続々と資本主義を導入した。そして、
その目覚ましい発展に浴している。中国やインドなど、発展途上国と呼ばれる国々である。
だが、見かけの反映とは裏腹に、その急先鋒であるアメリカは資本主義の矛盾によって
荒れ狂い始めた。その一端が、トランプ氏の台頭である。

産業の空洞化は必然だ。資本主義は利子を収める。そのためには、時短こそが有利な戦略である。
効率を求めるのだ。そしてコストカットである。同じ仕事なら、輸送運賃がかかっても、
トータルで低コストになる手段を取る。でなければ、他者に負けてしまうからだ。

結局、競争が起こる事で、人々は不安を煽られる。競争に勝たねばならないと。
頭が競争でいっぱいになる。経営者は利益の事で頭がいっぱいになる。利益がもたらされるなら
それが合法であれば、なんでもいい。そうなってくる。結果として、何が目的であったのか
意味を見失う。そして、資本が増えればそれで良いという事になる。

競争し、金を独占出来ると、金で人々を操りだす。政治に働きかけ、法律を自分たちに有利にする。
そうして、状態を固定化しようとする。だが末端は変化し、収益はあがらなくなる。すると、
組織の延命のために、儲かる職種に手を出すことになる。そのために規制が緩和される。

なんでそこまで利益にこだわるのか。それは資本主義だからである。そして資本主義の
本懐は、資本の増加であり、人々の幸せではない。人々の幸せをないがしろにしても、
資本主義を信奉するなら、人々は不幸なまま、日々を暮らし続ける。この主義を徹底させる
なら、まだ良いのかもしれない。

現代日本では、資本主義は徹底されない。既存のシステムを維持するために、本来つぶれる
べき企業が潰れない。銀行然り、大企業然りである。東芝などの製造業の大企業はもうとっくに
つぶれなくてはならなかった。しかし潰れない。政府がテコ入れするからだ。票田となる
事業者に金を配り、仕事をくばり延命を図る。そういう市場システムが働かないようにしつつ、
新自由主義を信奉する愚昧な政治家や経済学者が、社会を牛耳っている。見事な中途半端さだ。

銀行ももうその仕組が成り立っていない。そもそもギャンブル性をもつ銀行が、
どこにも投資しない。投資しないから、国債ばかり買う。株など金融商品で儲けようとする。
すでに儲かっている市場に投資しようとする。結局、現在のシステムは硬直化してしまい、
社会は停滞を余儀なくされるのだ。


だいぶ話がそれた。
だが、全てがつながっているのである。老人問題、年金問題は、社会の問題である。
社会全体の問題なのだ。ごく一部を切り取って、そこが良くないといっても仕方がないのである。

体の一部、悪いところを取り出してそこだけケアしても、そもそも全体として弱っている
免疫系や、運動不足や、栄養の方よりなどは無視されてしまう。そうして、また別の体の部位が
壊れる。社会的な視点があまりにも狭いために、対処療法だけが議論される。本質はそこではない。

そもそもからいえば、金の問題であり、利子の問題である。利子という幻を追いかけるなら、
金を使う社会は常に好調と不調を繰り返し、そのたびに右往左往するだろう。それは必然だからだ。
人が増加し、金が増えるフェーズにある社会は、投資が回収され、利子を支払い続けられる。
それ以上に儲かるからだ。それは人々が借金を次々にするという事である。だが、一度経済が
停滞状態になれば、投資は焦げ付くようになる。そうして借金する人が減る。すると金の流れ
は動脈硬化を起こし、人々の生活が停滞する。不況になるのだ。不況になると、人々はいらだち
その原因を誰かに帰す。あるものは社会に、あるものは、企業に、あるものは、国家に、あるもの
は他国に。そうして国内の他者にとって一番無害な他国へ現在の状況の責任を負わせる事を採用する。

結果として、その憎悪をは争いを招き、最終的に暴力に発展する。これが世界大戦であった。
つまり、人類はすでに資本主義の欠陥を知っているのである。だが、それをうまく補正できていない。
少なくとも、日本は失敗している。失敗しているがゆえに、現状の不安定化を続ける社会になった。

諸外国は、借金をしてくれる人々の対して投資した。中国やインドやブラジルなどだ。
利子経済が存在し、人口増加が見込める場所である。そうして、相変わらず資本主義の延命を
図っているのだ。支配者たちは、そうやって利益を懐におさめ、悠々自適にくらす。
一方で、この仕組の中で、奴隷化した労働者は、労働の割に儲からない仕組みに誠意努力する
事で、人生を捧げ、その中での幸福に満足して死んでゆく。客観的にみれば、それは家畜の
鶏や豚、牛と同じかもしれない。毎日小さく搾取されているので、気が付かないのだ。

資本家にだって、苦労はある。資本をどう投資するのかはギャンブルである。それをうまく
見極めなければならないのだ。不労所得者も大変なのだ。すると、誰が得をしているのか。
少なくとも、利子経済という社会システムの維持に全ての人が貢献している。ということは、
金を発行する主体。彼らが最大の受益者であろう。それがこの社会の秘密である。

金を発行する権利をもち、その金を流通させる事で、利子を通じて現物に変換する人々。
彼らが最大の受益者になる。金を牛耳れと資本主義は言っているのだ。

昨今の仮想通貨や、ポイント制の勃興は、まさにこれを背景にしている。
金を牛耳ることが出来るなら、利子社会を牛耳る事ができるはずである。

一方で、人々の幸せとは、金とは直接的に関係はない。金が人々を幸せにするのではなく、
人々の仕事が他者を幸福へと導く。もしくは、他者との関わりが幸福を導く。人にはそういう
装置が備わっている。

金は、この人々の幸福装置をうまく駆動するようにサポートするものとして発展したはずだった。
いまや、それを使うことによって、不安感から目を逸らす装置に成り下がってしまった。
金が人々の嗜癖を維持するための装置になっているのだ。

不安とは、最終的には生存への危機である。その危機を乗り越えるには、不安を解消する他無い。
では、現代における不安の発生とは何か。それは金であろう。

食い扶持を確保する事がまずは、不安の解消である。子供たちは学校に入り、中学にでも
なれば、社会の仕組みが金で動いていることを理解する。そして気がつくのだ。金を得なくては
ならないと。できれば良いことで金を得たいと。そこで、多くの人々はなんとなく、大学を
目指す。目指さない人もいるのは、高卒で働いている身近な人がいる人々である。そうでない
人は、大学を目指す事になる。そして、どこかで企業に入ることが当たり前と思うようになる。

労働者の再生産しか手段がないかのように思ってしまうのだ。大企業に入るには、できれば
良いと言われる大学に行くべきであると考えられている。そうして、受験戦争があり、受験
戦争を勝ち抜けると、東大や京大に入るのだ。彼らの一部は、勉強に適正のある人々である。
しかし、大部分、8割位は、他者の期待と、食い扶持確保のために、努力した人々だ。
彼らは死にものぐるいで勉強したが、その内観としては、不安だったのだ。不安という感情を
駆動力にして努力したのである。

不安を解消するために、努力した結果として、社会が称賛する立場を得たというわけだ。
しかし、この不安解消のプロセスはまだまだ続く。卒業し大企業に入れば、企業内において
生き残りの努力を強いられる。ずっと不安の中に閉じ込められている。可哀想に。

一方で、高卒で働いている人々は、さほど面白くもなく儲からない仕事に辟易している。
社会が用意した、経営者が用意した仕事を、さぼらない程度にやり、小金を稼ぐ。
数年もすれば繰り返しと気がつく。それでも良いと見切りをつけた人は、趣味に生きたり、
一攫千金を狙って、ギャンブルをしたりする。今更、勉強して地位をあげるなど、厳しいからだ。
そうして、金に執着する人生を送ることになる。社会体制が、彼らにそのような仕事しか
分配しないという事を、理解していなかったからである。そして、不安感もある。
その不安とは、自分が仕事を操作出来ないという事においてなのだ。


仕事が営利と距離をとっている人は、割合と幸せである。多額の金は得られないかもしれないが。
その分、無意味な行為は少ない。だが、このような人々は、税金をベースに暮らすことになる。
国の方針が変われば、何か生活が変化するという立場にいる。

結局、金が生活の基盤となっている人々は常に不安感と隣り合わせなのだ。そうして、
その不安感を払拭するために、衣食住以外の余った金で、不安感解消の活動をする。
うがった見方をするならば、それは趣味であったり、旅行であったり、レジャーであったり、
消費であったりする。嗜癖する事、その嗜癖に人生の意味を見出す事で、根源的な不安から
一時的に目を逸らすのだ。

金を稼がないと生きていけないのは事実として、わずかしか稼げなければ、人生の浪費になり、
たくさん稼ぐとしても、仕事漬けの日々を送れば、それもまた人生の浪費になる。

価値観として、何を優先するのか。金を大量に稼げば多少とも、割に合わない事があっても
帳尻があうのかどうか。

最近、私が思うのは、
田舎に土地をもち、畑をやりながら自給自足にかなり近い形で、年金暮らしをする生活。
もしくはまだ若く年金がなければ、遠隔的に金を稼ぐ手段を構築し、自分で仕事を調整しながら
暮らす生活。そういうものが、不安感を一番小さく出来る生き方なのではないか。

そんな風に思うのだ。
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怒りの背後ー怯えー [思考・志向・試行]

怒りを覚えること。それは「守ること」である。

多くの人は、怒りを攻撃と思っている事だろう。
だが、実際にはそれは防御である。そして、怒りを伴っているという事は「怯えている」のだ。

昨今は怯えた大人が増えた。あまりにも怯えているので、まるで子供に見える。
安倍政権しかし、維新しかり、ネトウヨしかり。彼らは全て怯えている。
とても弱い存在であり、可哀想な人たちである。

一方で、弱者もまた怯えている。その怯えは、希望がないという明日に対する怯えであり、
社会に内包されていないという疎外からくる怯えである。昨今では、弱者を守るという
価値観が政治から失われて久しいからだ。

当然である。政権が怯えており、その怯えによって自己保身にしか興味がないからだ。
自己を守ることに精一杯な人がどうして、他者を守れるか。守れるはずがない。
だから、このような自己保身の人間たちは、政治や行政に関わるべきではない。完全に
政治家や官僚として失格である。

同じく、大企業の人々においても同じことが言える。営利企業という笠をきて、
自己保身の何が悪いと開き直る。そして自社に有利なように政治を弄る。まるでやくざである。
いや、やくざに失礼かもしれない。義理や人情すら、企業は持ち合わせていないからだ。
そうして、自分たちは何も悪くないと、人殺しのための研究をやり、資材を作り、外国に
売っている。武器にしたのは自分では無いのだと嘯くのである。

そのくせ、内側ではいつ会社がつぶれるのではないかと怯えている。怯えがあるために、
儲かる口があるなら、それが社会悪であってもやる。そうして嘯くのだ。自分は悪くないと。
完全な嘘である。だが、その嘘に守られて、何も知らされない女性子供たちが養われていく。
汚れた仕事で、他者の世話をするという最低の人間たちである。だが、世間ではそれを
「社会人」として祝福する。「お前も、汚れたことをできるようになったのか。成長したな」と。

家族がいて守る者があるから仕方が無いという。嘘だろう。社会悪には抵抗できるはずだ。
だが、その抵抗が如何に難しいかは知っている。彼らの弱さを責めても仕方がない。
しかしながら、正員の全てが悪と知りながら、悪に加担するのは異常である。狂っている。
また無知であるならば、無知であることを恥じよ。無知による悪がもっとも最低である。


怯えを分析すると、大きく原因が二つある。精神的なものと身体的なものだ。
怯えの根本は生存への固執である。人は身体的な生存だけでなく、
社会的動物であるために、社会的な生存がある。よって、怯えが二つのものから
駆動される。

そして、精神的な怯えには、自己由来と他者由来の二種類がある。
これらは互いに関わり合い、厳密には独立的ではないがここでは便宜的にそう決めておこう。


身体的な怯えは根本である。食事が取れないとか、暴力に直面しているとか、
そういう時に発生する。このような場合、状況に服従的になる。そしてそこに条件を
さしはさむことで、脅しが発生する。暴力装置とは、常に生殺与奪に関わるのだ。
「***をしなければ、殺すぞ」と言われた人間は、3つの行動パターンをとる。

1.支持に従う
2.抵抗する
3.逃げる


さて、これがもう少しマイルドな脅しになったらどうだろうか。それが
「***をしなければ、金やらないぞ」である。これが俗に言う現代社会である。

簡単な話、現代日本人はマイルドに脅されているのである。そして、2でもなければ、
3でもなく、大抵の人は1を選ぶのだ。それを選ぶのが常識であると教え込まれ、
逆らうのは異常な事であると洗脳されたからだ。それを学ぶのが学校である。
逆らうとろくなことはないと覚えこませるためだ。そして見事に日本では成功した。
そして、それが常識化し、制度化されたのだ。

よって、この枠組みから外れるのは、実質上不可能なのが日本である。だから苦しいのだ。

8割がたがサラリーマンである日本社会では、脅されて生きる人々が大半である。
「残業しなければ、金やらないぞ。」「単身赴任しなければ、金やらないぞ」と。
そして、昨今では「残業しても、金やらないぞ、でも、働かないと職を奪うぞ」となった。

要は「***をしなければ、生活を奪うぞ」という脅しである。
こうして、身体的な脅しが徐々に精神的な脅しに変わってきた。
私は、これを「精神の奴隷化」とよびたい。


実をいえば、昨今は食料生産能力があがり、かなり小額でも生存を確保できる。
しかし日本人は同調圧力が強い。そして人という生物は他者と同じことが出来ないことに
嫉妬し、苛立ちを覚えるものだ。一方では優越したいという小ざかしい考えがあり、
もう一方に、他者より劣りたくないという見栄が存在する。そう、ここに来て、
「精神の奴隷」には、見栄やプライドといった精神的な自己存在の要素が入ってくる。
そうして、さらに、精神の奴隷は強化されるのである。奴隷であるということから
離脱を困難にさせているのは、奴隷状態が心地よいからではない。奴隷状態から
脱した所に何があるのか分からないという恐怖であり、そう流布された常識からの逸脱が
恐ろしいのである。


なぜ、奴隷制度が終焉を迎えたのか。多くの表立つ闘争は人道主義であったし、
理想への邁進であっただろう。だが、資本家たちがそこに見出したのはむしろ、
更なる金儲けへの見通しだったに違いない。奴隷として身体的恐怖から労働搾取を
するよりも、金という拘束具をつかい、金という脅しから、他者を操る方がずっと
儲かるという事。そして、昨今では「見栄・虚栄・社会的転落」などイメージされた
幻を操作する事で、金を使わなくても労働を抽出できるようになってきた。

言い換えると「自己実現」とか「やりがい」ともいえる。先ほど述べたが、
高度成長期の「普通」、つまり親と同じ普通を求めないのであれば、大した額の
金はいらない。だからこそ、働くこと事態への価値観が揺らいでいる。「精神的
奴隷」として社会人をやらなくても、生きる事は出来る。ただし、普通をすてる
限りにおいて。

夢を追いかけるとは若者の悩みである。それは明らかに「精神的奴隷」に対する
アンチテーゼとして存在している。そんなものになるくらいなら、死んだ方がマシ。
そういう人々もいる。

いや、「精神的奴隷」からの離脱と「普通」も併せ持ちたい。現代の
起業というスタイルは、まさに「精神的奴隷」から離脱を図ったものだろう。
かつては脱サラと呼ばれたものだ。これがうまくいくこともある。

その一方で、社会は依然として8割がたサラリーマンの時代である。資本主義経営において、
集団は大きなほど力を持つ。同じことをやっても儲かる比率が全然違うのだ。
ムーブメントとして離脱としての起業がある一方で「精神的奴隷」もまだ有効なのである。

昨今の混乱は、これら向かうべき方向性の分裂状態が表現している。
感度のよい人々は、「精神的奴隷」を脱出しつつある。その上で、「精神的奴隷」たちが
作りだす社会から利益を引き出そうとする。これがうまくいくのかどうかは不明だが、
明らかにかつてとは異なってきたといえるのが現状だろう。


とはいえ、一見すると「精神的奴隷」からの離脱にみえるこれらのことも、
「精神的奴隷」が作り出す社会にいるという点において、やはり金の奴隷である。

現在のような日本社会では、金を全く使わないのは難しいし、金を多少でも稼げば
日本政府は「日本人税」を取り立ててくる。一定額の収入があれば、必ず税を
納めることになる。それは労働ではなく、金で払う。その意味で、日本人でいる限りに
おいては、金がついて回るのだ。そして金を得るには、何がしかの労働が必要である。


つまり「労働の奴隷」。これが現代日本人である。奴隷ということは、脅されている。
そう、怯えているのである。

現代日本人において怯えていないのは、厳密にいえば、ホームレスくらいかもしれない。
または、資産家の子供くらいだろう。多かれ少なかれ、生存を脅かされているのが日本人なのだ。


生存が脅かされているという事実が、日本人の労働スタイルである。
そして、「精神的奴隷」であることを「社会人」と言い換え、
生活を人質にされて、誰かが金儲けするために人生を使うのが、一般的なのだ。
だから国や企業は結婚しているかどうか、家のローンがあるかどうかを気にし、
そういう絶え間ない労働力を提供する事が見込まれる人間たちを優遇する社会を
作り出した。なぜなら、彼らが得をしたいがためだ。

結婚していれば、子供という労働力を再生産するし、家のローンがあれば、
多少の無理がきくだろう。労働力をどうやって搾り出すか、という観点に立てば、
国家というスタイルの目的は明確になるのだ。



日本人の多くは小さい頃に劣等感を植え付けられる。働かざるもの食うべからず。
良い会社にいくには、勉強ができなければならない。勉強ができないなら、何か
特殊能力がなければならない。そういうプレッシャーの中育つ。

そうして、自分の存在を肯定できない人々があまりに増えた。
その存在肯定のためにあがく。そのあがきを労働力として搾取する構造がある。
それが資本主義である。資本主義は労働者という立場の提供をするが、それは
反面でいえば、搾取構造である。昨今では、労働は生存に関わるだけでなく、
精神的な劣等感を補うための装置になった。


この精神的な傷を癒すために資本主義はサービスを用意し、そのサービスを
受けるために、「精神的奴隷」として傷を生成して金を得る。まるで精神疾患である。
傷を癒すことが目的なのか、サービスを受けることが目的なのか。このループこそが
資本主義の駆動力になったのだ。

傷が深いほど、強くサービスを求める。他者承認を求めるのである。
貧乏だった子供が努力して金持ちになる。その駆動力は、貧乏に対する嫌悪であり、
金持ちに対する憧れであろう。欠乏の充足こそ、人々の行動の動機である。

受験勉強に明け暮れて、エリートを目指す人々もまた、何かの欠乏を駆動力にしている。
それは親の愛情かもしれないし、劣等感かもしれない。

そういうものを駆動力にして生きている人間はすべからく、傷をもち、
その傷を癒すために、サービスを得ようとする。そうして傷は拡大してゆく。

これが資本主義の負の側面である。欲望を掻き立てるとは、人々を欠乏状態にさせること。
嫉妬させ、羨望させ、それを得るために労働力を提供させること。現代をそうみなすことは
決して誇張ではない。


ちなみにサービスとは、大きな家を買うこと、車を買うことなど、消費財を得るだけ
ではない。旅行にいく事、レジャーにいく事なども含まれる。くわえて言えば、
結婚や子育てもまた、その一部になるだろう。本来これらは、金とは無関係だが、
現代社会では、家族を形成するのも、子育てするのも金が必要とされるように
仕組みが作られている。よって闇雲に結婚したり、子育てしたり出来ないのだ。


精神的な傷を癒すために、精神的な傷をつくりながらサービスで回復し、
そしてまた、傷を作りに労働しにいく。これが現代の仕事のとある側面である。


これを自覚できる人もいれば、出来ない人もいる。
自覚していない事は、ある意味で幸せである。何も知らずに死んでいくのだから。
だがある意味で不幸である。本当の幸せを知らないのだから。

このような傷を癒すためにサービスを求める行為を、抽象化していえば、
それは嗜癖である。嗜癖とは、一般に中毒とは異なるが、システムは同一である。
とある事柄を心理的に心地よくなるために利用し、それに依存することが嗜癖である。

高い買い物をするのでも、タワーマンションに住むにしても、それが傷を癒やすための
行為、つまり欠乏充足を求める行為であれば、それは嗜癖といえる。そして、嗜癖こそが
現代社会を駆動する。逆に言えば、大抵の人はなんらかの嗜癖を備えているのだ。
それは、心の傷があるということである。

ランニングなど健康によいことでも、目標を達成するために怪我をおして走ってしまうとか。
SNSなどのウエブサービスをいつまでも見続けてしまう。テレビをずっと眺めてしまう。
そういうのは、完全な嗜癖であり、一種の中毒なのだ。そしてそれは決して健全ではない。

このような嗜癖する仕組みはもう社会に組み込まれ、あらゆるところで人々を待ち構えている。
嗜癖させることで、経済が回る仕組みなのだ。食うことについて、少額で済むのになぜ
一日中働き続けるのか。働く事自体に嗜癖する人々がいるということである。

自己実現とはよく言えばであるが、別の角度でみれば、嗜癖である。そして、嗜癖は
現実から目を逸らすのだ。本来的にある綻びから目をそむけさせ、一旦問題を棚上げできる。
だから、それに集中する。それがパチンコだと、周囲はいやな顔をするかもしれない。
しかし、それが仕事や人助けだと、誰も文句を言わないどころか、称賛さえするのだ。

嗜癖の問題点は離脱症状があることだ。仕事をやめた人が、途方に暮れるのは、その
症状の一部であり、やんで鬱になったりするのならば、本格的な嗜癖である。仕事が
社会的に称賛されるのは、「精神的奴隷」として立派だからである。

人間という生物の元来の有り様からいえば、一日ずっと働くなど愚行意外の何者でもない。
獲物を取りに森に入るとしても、せいぜい数時間である。あとはノンびり過ごすのだ。
現代人はそもそもを忘れすぎている。


そうして、嗜癖する最大の要因は、怯えである。社会という目に見えないものから、
脅されているのである。その脅しから目を逸らす一番の方法が、仕事に嗜癖することだ。
そして何も考えないことである。

何も考えずに、周りのいうことに従って生きる。そうやって人生を充足する。
私は否定しない。むしろ、それすらできないと不平を言うのが現代社会の歪だ。
「精神的奴隷」になれて、そうではない人たちを見下す。見下すことで、溜飲をさげる。
結婚もできない、子供もいない人たちがいるなら、私達はマシなのだと。だが、所詮
奴隷ではないか。生殺与奪権を他者に握られた家畜ではないか。


残念ながら、日本という国土に放たれた家畜でしかありえない。日本人であるということは
そういうことだ。そこからの自由などない。ならば、良いことだけにフォーカスして生きれば
マシじゃないか。そういう発想もありだと思う。現代社会の良き部分もある。労働さえ
提供し続けられれば、それなりの暮らしができるのだから。

不満あるけど、そこまでじゃない。これが日本人の偽らざる心情だろう。

仕組みはまだ機能しているように見える。みんなが国から脅され、その脅しの中で、
なんとか生きている。そしてその脅しからの怯えが顕在化しないように、様々な
サービスで感情に蓋をする。どこか変だと思いながら、でも声をあげるほどじゃないよなと
小さな欺瞞を無視し続ける。そうして精神が蝕んでいく。それを酒を煽って、タバコで
ごまかす毎日。もううんざりだろう。


このような心情を直視し、「精神的奴隷」になれなかった人の中には、社会を壊そうと
思う人達がいる。無差別的な殺人などはその一端なのだろう。それが自己に向かう場合もある。
それは自殺なのだろう。自分の居場所が見つからない人が、このような心情になっても
何も不思議ではない。それがこの嗜癖システムである資本主義社会である。嗜癖するにも、
金がいるということだ。


怯えも極まると、攻撃になる。誰彼かまわず攻撃する。攻撃するとスカッとするからだ。
本当は自己が脅されていて、傷ついているのだが、それに気が付かない。その感情のはけ口が
攻撃である。もう、オブラートにつつむ気もないのだ。攻撃できる対象があれば、それでいい。
それで自分の気持ちが心地よくなれば、それでいい。これが安倍政権やネトウヨである。

他者を攻撃する人間はすべからく不幸である。不幸があるから攻撃する。その不幸とは、
傷ついた心である。その傷は社会的な脅しによって発生した劣等感であろう。強い劣等感
こそが、強い言動を生み出す。親のせいかもしれない。教師のせいかもしれない。友人の
せいかもしれない。自分が受け入れられていないという欠落・劣等感は、他者を攻撃する
動機になる。

同じことを他者に向けるか、自己にむけるか。ただそれだけだ。
そして、そのような事に耽っているのは、ヘイトすることが嗜癖になっているからだ。
これもまた現代病である。だが、いくらヘイトしても満足など得られない。むしろ、
ますます不全感が募るだけだろう。そうして行動はエスカレートするのだ。

原因はどこにあるのか。
それは、とっくに述べた。怯えである。怯えを生じさせているのは、社会構造、
資本主義社会である。一見すると豊富な商品、豊富な食べ物、経済発展、先進国化、
あらゆる点でよく見える資本主義社会。だが、それが潜在的に怯えを生じさせる。
明日、失業したらどうなってしまうのか、金が得られなかったらどうなるのか、
そうなりたくないから、自ら進んで「精神的奴隷」なり、その不全感から、嗜癖に走る。

悪事? そんなもの稼げりゃいいんだ。と正義などはそっちのけになる。
安倍政権が大きな仕事をくれるらしい。なら、自民党に票をいれておくかとなる。
金を配る、その金自体が、みんなを脅した結果なのに。脅されて巻き上げられた金に
さらに人々は脅されているのである。





怯えという生物における根源的な感情を使うことで、資本主義国家は成り立つ。
そのことに、私は怒りを覚える。

この怒りもまた、怯えからくる。それは私のもつ社会正義の価値観に対する挑戦だからだ。
私の心情が侵されたという感情、それがこの怒りだ。資本主義の悪の側面への怒り。
金を武器に、人々をつねに労働へと駆り立てる仕組みへの怒りである。

それを嗜癖をつかって目を逸らすには、私はナイーブすぎるのだろう。
といって、破壊行動をするほどには、愚かではない。

意味のある仕事、嗜癖するものではない、誰かに小さな幸福をもたらす仕事。
それが増やす仕事がしてみたいものだ。社会構造を変化させるような。
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