ぐるぐると考えてみた [思考・志向・試行]

思索の一環として、現代日本において究極的に何をすべきか。
人道主義をここでは一切抜きにして考えてみたい。

よって、これから罵詈雑言が続くがそれは始めにご了承願いたい。



さて、現代の日本では少子高齢社会と言われている。
これは正しくない。高齢者過剰社会というのが正しいのだ。
もともと日本人が1億人もいるのが多すぎであり、国土の適正バランスからいえば、
もう少なくて良い。

では、現状において誰がいなくなると良いのか。簡単である。
老人たちだ。老人たちがいなくなれば、社会はかなりバランスを改善する。

現在日本では老人たちの年金は賦課方式によって、現役世代によって支払われている。
それを維持するために、若者たちから高額の年金が支払われている。この負担は、
今の老人たちが負っていた負担よりも大きい。理由は、物価が上昇していないうえに、
収めるべき年金額が増えたからだ。それは単純に老人が多いという事が一番影響している。

金を使うほかない若い世代は、年金や社会保障に金を取られ、自分たちが使える金額が
なくなった。だから、様々なものをかつてのようには消費しなくなった。一方老人たちにも
事情はある。もともとリッチだった老人たちは企業年金などを含め、かなり高額な年金を
受給できる。他方で、ほそぼそと暮らし、なんとか最低限の年金で暮らす老人もすくなくない。

よって、個人によって事情は様々だ。そこで人道性を加味せず、非情になって現状を
組み替えるとしたらどうするか。

まずは、年金の廃止である。全ての年金をやめる。若者から年金を取らない。これで
かなり若者たちの経済状況は安定する。何しろ、日本は世界でも有数の重税国家である。
年金も税金である。これを廃止すれば、若者は必要なものに消費し、更には趣味性のものも
適当に消費するようになるだろう。

一方で、企業年金のある人たちは、基礎年金を廃止し、企業の積立分だけにする。
他方で、基礎年金しかもらっていない老人たちはどうするか。彼らは一律にベーシックインカムを
導入する。生活保護も合わせて全廃する。累進性をかけた税金を国が一定の傾斜をかけて
分配するのだ。個人所得にも、法人所得にも累進性を加えればいい。

こうして、愚かしいくらい資産をためる人間をいなければ、凄まじい貧困者もいなくなる。
そして、税金をむしり取られる若者もいなくなり、年金に不安を覚える老人もいなくなる。

財源がないとは言わせない。安倍のようなアホなボンボンがつかう外交費や戦闘機代、
むだな特区政策など、おかしな金を使わなければいいのだ。そして、国家公務員もAIを
つかって減らし、地方公務員を増やすべきだ。生活に関わる役人を増やすことで、現場の
負担を減らし、国家公務員のように天下りの確保のために無駄な公益法人を増やし、
増税化をもとめるような政策を減らせるだろう。

また老人医療も考え直す必要がある。老人の医療費を上げるべきだ。むしろ、
健康を大事にしなかった人々の医療費は高額にすればよい。高額医療が待ち構えていると
思えば、もっと日頃の健康に気をつけるだろう。多くの老人が体調を崩しすぎなのだ。
そうして、高額医療が受けられない老人には、早期に退場願うことになる。それは
生物学的必然である。

一方で、多くの老人にとって必要となる手術やケアについては無料化すればいい。
高額医療が無理になった老人につかう費用を流用すればいい。

そして、基本的には老人たちはもっと働いてもらうしか無い。
60歳になったから、引退して20年間なにもせずに過ごすという方が異常な世界だろう。
70歳まで働けというのも酷だという。それは健康状態によって変わること。

働き口がないというが、それならば、なぜ外国人労働者がたくさんいるのだろう??
老人たちが若者にいう、「なんでもいいから働け」というセリフをそのまま返すことにする。
「なんでもいいから働け」それがまだ働ける老人たちに言える事だ。仕事がないという
老人のセリフは、若者のセリフと全く同じことである。

体力がない事は、機械化でカバーすればいい。とにかく、社会の中で仕事をしない老人が
多すぎる事が、日本社会を衰退させている。若者にかかる負担が大きすぎるのだ。

若者が健康保険を年間30万も払っている。その一方で、老人は日々病院にかよって、
1割負担で薬を消費する。一体何がしたいのか? 老人たちの薬を減らし、若者の
健康保険を減らせばいい。もしくは、老人ももっと払うしか無いだろう。もう、現実的に
今のままじゃ成り立たないのだ。

その証拠が、少子であり、結婚制度の崩壊であり、国という単位の崩壊である。
老人たちが国により掛かるだけの存在ならば、日本は終わるだけだ。いやもう、一度終わる
しかないのだろう。

自ら変革が出来ないのだ。そしたら他者から否応なく変革を迫られるほかない。
それは、株価の暴落と、それに続く不況。そして貧困、餓死。そして社会秩序の崩壊に
よる犯罪の増加である。これらへの対処として、国は管理体制を強化し、自衛隊が軍化して
治安維持に出てくる事だろう。まさに軍事独裁国家である。日本がそうならないという可能性
の方が低いくらいだ。それを望む政権が今まさに、現政権だからである。

国家が武力を市民に使用する。これに乗じて、非国民という蔑視が流布される。
少しでも国を批判すれば、反逆罪という罪で捕まる。そういう未来がありありと見える。
それは、もう時代にそぐわないシステムを使い続けるからである。その体制維持のために、
武力が投入されるのだ。

一部の者たちが持つ、大量の資産をうまく分配すれば事は足りる。
だが、彼らはその資産で武力を買い、市民に暴力を向けさせるのだ。そして、状況を悪化させる。
それでいいというのだ。彼らは犯罪者が悪いというだろう。しかし、日々の食い扶持に困った
人たちは、犯罪を犯すほかない。それが世界で起こる大半の犯罪動機だ。

仕事がない。あっても、ろくに稼げない。稼げないなら、非合法の仕事をする。
そういうことだ。その問題点は、社会に生まれ落ちた人間を社会においてどう生きてもらう
のか、どういう場所に収まるのかを社会が考えるという視点がごっそり抜けておちている
からだろう。

では、なぜこういう事になるのか。多くの人は能力の問題とする。努力の問題とする。
金と能力は無関係である。金を儲ける能力ってのは、ギャンブル性への指向性である。
そして、そのギャンブルで勝ったものが多額の金を得る。これが資本主義である。どういうことか。
多額の投資をして、工場を作り製品を売るということは、一種のギャンブルである。
売れるかどうかは、市場がきめること。商品が優れているからとは限らない。
すると、努力も能力も程度問題といえる。運や偶然がかなり左右するのだ。

では、多額の投資が出来るとは? それは資産をもともと持つ。もしくはどこかで、
ギャンブルをして、資本を得たものという事になる。これが、資本主義の本質である。

俺はギャンブルで勝ったのだから、資産をがめる権利がある。そういう主張を是とするか
どうか。所有権とは、結局、この地上における所有権を買ったという事である。そして、
死ぬと失うものである。問題は、その誰かがガメていると、複数の人たちが苦労し、
場合によっては犯罪者になってしまうということなのだ。

金の量は、借金の量で決まる。人が増えれば、借金が増えて、金の量が増える。
だが、そこに利子のある取引が存在するとどうなるか。借金は絶対に返せない仕組みである。
全体として、借金として発生した金以上に返すべき額面は大きい。この詐欺的システムは、
常に、商売を継続することを義務化する。商売をやめることが出来ないのだ。そして、
新たに借金する誰かを追い求め続ける。

近年は、借金する人が減ったので、海外に借金する人を求めている。場合によっては、
暴力によって借金を押し付けている。そうして利子を奪い取る事が常態化した。
その結果として、富が不労所得者へと動いていく。自動的に動いていくのだ。

富が偏在し、それがために、食えない人は犯罪をおかす。その犯罪を抑制するために、
暴力装置を資産で買う。アルソックやセコムなど民間警備会社が機能するということは、
そういう事である。辺野古の基地工事を守るのも、民会警備会社だ。富があるものが、
暴力装置、それが言い過ぎなら、防衛装置を金でかうのである。

防衛装置を買えない人については「それは雇えないのは努力が足りない」と同じことをいう。
そうやって、自らを防衛的にする思想を振りまくと、どうなるか。誰も善意を信じなくなる。
あらゆるサービスに対価を求めるようになる。善意で何かをすると馬鹿みたいだからだ。

こうして、社会は一部の富を退蔵する人々と、貧乏で食べるに困る人間たちに分離する。
日本はその道へまっしぐらである。なぜか。それはそういう国家であるアメリカを真似する
からである。アメリカは悲惨な国だ。それなのになぜ日本はそれを真似るのか。それは、
そういう仕組でなければ、資本主義が停滞するからである。

少し前までは、社会主義的政策が不可欠であった。それは共産圏の存在、ソ連の存在が
強かったからだ。しかし、共産圏はソ連の崩壊後、続々と資本主義を導入した。そして、
その目覚ましい発展に浴している。中国やインドなど、発展途上国と呼ばれる国々である。
だが、見かけの反映とは裏腹に、その急先鋒であるアメリカは資本主義の矛盾によって
荒れ狂い始めた。その一端が、トランプ氏の台頭である。

産業の空洞化は必然だ。資本主義は利子を収める。そのためには、時短こそが有利な戦略である。
効率を求めるのだ。そしてコストカットである。同じ仕事なら、輸送運賃がかかっても、
トータルで低コストになる手段を取る。でなければ、他者に負けてしまうからだ。

結局、競争が起こる事で、人々は不安を煽られる。競争に勝たねばならないと。
頭が競争でいっぱいになる。経営者は利益の事で頭がいっぱいになる。利益がもたらされるなら
それが合法であれば、なんでもいい。そうなってくる。結果として、何が目的であったのか
意味を見失う。そして、資本が増えればそれで良いという事になる。

競争し、金を独占出来ると、金で人々を操りだす。政治に働きかけ、法律を自分たちに有利にする。
そうして、状態を固定化しようとする。だが末端は変化し、収益はあがらなくなる。すると、
組織の延命のために、儲かる職種に手を出すことになる。そのために規制が緩和される。

なんでそこまで利益にこだわるのか。それは資本主義だからである。そして資本主義の
本懐は、資本の増加であり、人々の幸せではない。人々の幸せをないがしろにしても、
資本主義を信奉するなら、人々は不幸なまま、日々を暮らし続ける。この主義を徹底させる
なら、まだ良いのかもしれない。

現代日本では、資本主義は徹底されない。既存のシステムを維持するために、本来つぶれる
べき企業が潰れない。銀行然り、大企業然りである。東芝などの製造業の大企業はもうとっくに
つぶれなくてはならなかった。しかし潰れない。政府がテコ入れするからだ。票田となる
事業者に金を配り、仕事をくばり延命を図る。そういう市場システムが働かないようにしつつ、
新自由主義を信奉する愚昧な政治家や経済学者が、社会を牛耳っている。見事な中途半端さだ。

銀行ももうその仕組が成り立っていない。そもそもギャンブル性をもつ銀行が、
どこにも投資しない。投資しないから、国債ばかり買う。株など金融商品で儲けようとする。
すでに儲かっている市場に投資しようとする。結局、現在のシステムは硬直化してしまい、
社会は停滞を余儀なくされるのだ。


だいぶ話がそれた。
だが、全てがつながっているのである。老人問題、年金問題は、社会の問題である。
社会全体の問題なのだ。ごく一部を切り取って、そこが良くないといっても仕方がないのである。

体の一部、悪いところを取り出してそこだけケアしても、そもそも全体として弱っている
免疫系や、運動不足や、栄養の方よりなどは無視されてしまう。そうして、また別の体の部位が
壊れる。社会的な視点があまりにも狭いために、対処療法だけが議論される。本質はそこではない。

そもそもからいえば、金の問題であり、利子の問題である。利子という幻を追いかけるなら、
金を使う社会は常に好調と不調を繰り返し、そのたびに右往左往するだろう。それは必然だからだ。
人が増加し、金が増えるフェーズにある社会は、投資が回収され、利子を支払い続けられる。
それ以上に儲かるからだ。それは人々が借金を次々にするという事である。だが、一度経済が
停滞状態になれば、投資は焦げ付くようになる。そうして借金する人が減る。すると金の流れ
は動脈硬化を起こし、人々の生活が停滞する。不況になるのだ。不況になると、人々はいらだち
その原因を誰かに帰す。あるものは社会に、あるものは、企業に、あるものは、国家に、あるもの
は他国に。そうして国内の他者にとって一番無害な他国へ現在の状況の責任を負わせる事を採用する。

結果として、その憎悪をは争いを招き、最終的に暴力に発展する。これが世界大戦であった。
つまり、人類はすでに資本主義の欠陥を知っているのである。だが、それをうまく補正できていない。
少なくとも、日本は失敗している。失敗しているがゆえに、現状の不安定化を続ける社会になった。

諸外国は、借金をしてくれる人々の対して投資した。中国やインドやブラジルなどだ。
利子経済が存在し、人口増加が見込める場所である。そうして、相変わらず資本主義の延命を
図っているのだ。支配者たちは、そうやって利益を懐におさめ、悠々自適にくらす。
一方で、この仕組の中で、奴隷化した労働者は、労働の割に儲からない仕組みに誠意努力する
事で、人生を捧げ、その中での幸福に満足して死んでゆく。客観的にみれば、それは家畜の
鶏や豚、牛と同じかもしれない。毎日小さく搾取されているので、気が付かないのだ。

資本家にだって、苦労はある。資本をどう投資するのかはギャンブルである。それをうまく
見極めなければならないのだ。不労所得者も大変なのだ。すると、誰が得をしているのか。
少なくとも、利子経済という社会システムの維持に全ての人が貢献している。ということは、
金を発行する主体。彼らが最大の受益者であろう。それがこの社会の秘密である。

金を発行する権利をもち、その金を流通させる事で、利子を通じて現物に変換する人々。
彼らが最大の受益者になる。金を牛耳れと資本主義は言っているのだ。

昨今の仮想通貨や、ポイント制の勃興は、まさにこれを背景にしている。
金を牛耳ることが出来るなら、利子社会を牛耳る事ができるはずである。

一方で、人々の幸せとは、金とは直接的に関係はない。金が人々を幸せにするのではなく、
人々の仕事が他者を幸福へと導く。もしくは、他者との関わりが幸福を導く。人にはそういう
装置が備わっている。

金は、この人々の幸福装置をうまく駆動するようにサポートするものとして発展したはずだった。
いまや、それを使うことによって、不安感から目を逸らす装置に成り下がってしまった。
金が人々の嗜癖を維持するための装置になっているのだ。

不安とは、最終的には生存への危機である。その危機を乗り越えるには、不安を解消する他無い。
では、現代における不安の発生とは何か。それは金であろう。

食い扶持を確保する事がまずは、不安の解消である。子供たちは学校に入り、中学にでも
なれば、社会の仕組みが金で動いていることを理解する。そして気がつくのだ。金を得なくては
ならないと。できれば良いことで金を得たいと。そこで、多くの人々はなんとなく、大学を
目指す。目指さない人もいるのは、高卒で働いている身近な人がいる人々である。そうでない
人は、大学を目指す事になる。そして、どこかで企業に入ることが当たり前と思うようになる。

労働者の再生産しか手段がないかのように思ってしまうのだ。大企業に入るには、できれば
良いと言われる大学に行くべきであると考えられている。そうして、受験戦争があり、受験
戦争を勝ち抜けると、東大や京大に入るのだ。彼らの一部は、勉強に適正のある人々である。
しかし、大部分、8割位は、他者の期待と、食い扶持確保のために、努力した人々だ。
彼らは死にものぐるいで勉強したが、その内観としては、不安だったのだ。不安という感情を
駆動力にして努力したのである。

不安を解消するために、努力した結果として、社会が称賛する立場を得たというわけだ。
しかし、この不安解消のプロセスはまだまだ続く。卒業し大企業に入れば、企業内において
生き残りの努力を強いられる。ずっと不安の中に閉じ込められている。可哀想に。

一方で、高卒で働いている人々は、さほど面白くもなく儲からない仕事に辟易している。
社会が用意した、経営者が用意した仕事を、さぼらない程度にやり、小金を稼ぐ。
数年もすれば繰り返しと気がつく。それでも良いと見切りをつけた人は、趣味に生きたり、
一攫千金を狙って、ギャンブルをしたりする。今更、勉強して地位をあげるなど、厳しいからだ。
そうして、金に執着する人生を送ることになる。社会体制が、彼らにそのような仕事しか
分配しないという事を、理解していなかったからである。そして、不安感もある。
その不安とは、自分が仕事を操作出来ないという事においてなのだ。


仕事が営利と距離をとっている人は、割合と幸せである。多額の金は得られないかもしれないが。
その分、無意味な行為は少ない。だが、このような人々は、税金をベースに暮らすことになる。
国の方針が変われば、何か生活が変化するという立場にいる。

結局、金が生活の基盤となっている人々は常に不安感と隣り合わせなのだ。そうして、
その不安感を払拭するために、衣食住以外の余った金で、不安感解消の活動をする。
うがった見方をするならば、それは趣味であったり、旅行であったり、レジャーであったり、
消費であったりする。嗜癖する事、その嗜癖に人生の意味を見出す事で、根源的な不安から
一時的に目を逸らすのだ。

金を稼がないと生きていけないのは事実として、わずかしか稼げなければ、人生の浪費になり、
たくさん稼ぐとしても、仕事漬けの日々を送れば、それもまた人生の浪費になる。

価値観として、何を優先するのか。金を大量に稼げば多少とも、割に合わない事があっても
帳尻があうのかどうか。

最近、私が思うのは、
田舎に土地をもち、畑をやりながら自給自足にかなり近い形で、年金暮らしをする生活。
もしくはまだ若く年金がなければ、遠隔的に金を稼ぐ手段を構築し、自分で仕事を調整しながら
暮らす生活。そういうものが、不安感を一番小さく出来る生き方なのではないか。

そんな風に思うのだ。
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