奴隷としての日本人 [思考・志向・試行]

全ての働く日本人は税金を納める。
この意味は、日本に生きているだけで、奴隷になるという事だ。

本質的な意味で、特殊な例を除けば、日本人であれば年貢を納めるしかない。
納めないと取立てに来ることになっている。身近にその例が少ないので、
なんともいえないのだが、実際にそうなっている。

国というバーチャル組織がなぜ、税を取り立てられるのか、またどうしてそれが
義務化できるのか。簡単に言えば、暴力である。国家権力という暴力によって
税を取り立てられる。払わなければ資産の差し押さえが発生する。これは要するに
暴力である。法律に書いてあるというのは、ただの契約であり、本当の意味では
税金に根拠は無い。

国民年金と国民保険。働いていなくても、年金を支払う義務はある。特定の年齢に
ならなければ、それを免除されることは無い。これは人類の問題ではない。日本という
国の問題なのだ。一見自由があるように見える日本人。しかし、実体は「経済的奴隷」である。

柄谷行人氏がいうようにネーションステートは、一種の幻想である。
国というのは、時に我々自身をさし、時に抽象的概念になる。このダブルスタンダードが
問題である。個人は国ではない。では、何人になったら国なのか? 国権を発揮するのは
誰なのか? 結局、国というものは、一部の権益者たちと、その支配下の者どもの集まり
である。

柄谷氏は、とある集団がとある集団を支配した事から国がうまれたと説く。
つまり、そもそも国というのは、支配者による被支配者の奴隷化によるものだと。

よって、我々はすべからく国の奴隷である。それは世間から抜け出さない限りは
ずっと続くことであるし、世間から抜け出すと闇社会やホームレスにでもならない
限り日本にいることは難しい。

経済的奴隷のわかりにくさは、要するに一見すると、自由に見えることだ。
だから、ほとんどの日本人は考えたこともないのだ。自分の自由さが如何に限定的かを。
しかし、実際には自由ではない。その不自由さをメタ視点で眺望しよう。


多くの現役世代は、どこかに仕事のことがある。仕事のことを考えない日があるという
人はまれだろう。これが経済的奴隷の典型例である。仕事のことといっても、誰かを
喜ばそうとか、こうしたら有効だなどと考えられる人は幸運である。たいていの場合は、
あちらこちらの問題について思いをめぐらす事になる。そうして、陰鬱な気分になる。

それをごまかすために、人々は食欲ー摂食行動に走る。酒、タバコなど嗜好品。モノを
買う、レジャーを消費するなども同じ系列だ。仕事の合間の気分転換という事になっている
これらの事はおおよそ、仕事からの現実逃避である。そしてそれはつまり、経済的奴隷
であるという事から目をそらす手段である。

大抵の人は、若い頃に結婚し子供を育てる。これをメタ視点でみれば、労働者の再生産である。
聞こえが悪いだろうけど、労働者の子供は労働者として働くために生まれる。それが嫌なら
何かをするほか無い。しかし、支配者と被支配者にはスタートラインから厳然たる不平等が
ある。ここを乗り越えるには、結局、ばくちに出るほか無い。経済的奴隷として優秀になる
という形で乗り越えようとする。しかし、それもまた経済的奴隷である。勘違いがないように
言えば、経営者・自営業者も、経済的奴隷である。自己の行動が金に絡めとられているという
点においては、まちがえない。

支配者からみれば、労働を搾取する人々が沢山うまれることは、彼らの利益である。
その彼らから、かつてのように全力で労働を奪うのではなく、経済的に縛り付けることで
自ら労働を行わせ、そこから少しずつ金を巻き上げる。これが国という仕組みであり、
その行政執行の背後にいる支配者の思惑である。

現代の支配者とは、経済構造的に言えば、貨幣発行権をもつものたちだ。それ以外は、
彼らの作ったバーチャルな金というものに振り回される経済的奴隷になる。金は、借金の
証書であるから、金を使っている限りにおいて、その利子を何らかの形で上納することになる。
それは、我々には直接見えない。国債を発行するのは国だが、その国債を引き受けるのは
民間団体である。彼らの組織に出資しているのは、誰か? そしてその配当を受け取るのは
誰か? そこに支配者たちがいる。

短絡していえば、日本人が金を目当てにせっせと働くと、その上前をとりあげる人々が
いるという事である。また、これは不況下でも意味がある。不況になれば、金が回らない。
すると、企業はつぶれていく。個人も破産する。その時、現物を債権者はとりにくる。
土地を奪い、建物を奪うのだ。経済的奴隷がせっせと作り上げたものを鷹のように横取り
するという仕組みになっている。

極端なことをいっているように感じるかもしれない。しかし、実態なのだ。そして、
わずかにだけ毎日奪われるので、人々は気にしていないだけなのだ。大抵は事実を知らない。
これにつきる。

経済的奴隷でも、別にかまわないとは思う。実際に労働者として生まれると、
労働者としての人生が待っている。それ以外があたかも無いかのように。いや、それこそが
素晴らしいことのように導かれる。そして、それ以外では、社会的評価されないかのようだ。
つまり経済的奴隷礼賛なのである。盲目的にそれに従うのが、そもそも奴隷だからだ。

結婚における子供なども同じことであろう。結婚とは他人同士が生活を共にするという
契約である。そこに愛情があるかどうかは別段関係はない。支配者からみれば、戸籍が
整備され、子供を管理できればいいのだ。そのためには結婚という制度を持続させたい。
そして、結婚が国にとって有利であるがために、優遇されるのである。ロマンスなど何も
ないのである。むろん、恋は別だ。愛も別である。結婚は恋や愛の集大成ではなく、
ただの国の存続に都合の良い制度と知るべきである。つまり支配者にとって都合がよいと
そういう事だ。

労働者は金を日々の暮らしのために仕事を通じて得る。これが経済的奴隷である。
自ら生産する手段をもたず、仕事により金を得る。労働を金に換えたことで、既に
搾取がスタートしているのだ。

ケチをつけているだけに思える? そうではない。我々にとって本質的なことは、
金を得る事ではないからだ。労働より金ではない、生産物を生み出せば、この奴隷から
開放される。労働によって道具を作る。労働によって作物を作る。労働によって建物を
立てる。これらは奴隷からの開放である。金を媒介しない経済もまた奴隷からの開放
である。

支配者は、巧みに金を納めさせる仕組みを作り上げた。中央銀行を作り、国に借金を
させることで、金を動かし、利子を稼ぐ。その下にその借金を担保するための国民
という労働者たちを置く。国民はしらずと経済的奴隷として人生を終えていく。そして
労働者の再生産を行うのだ。

現代が一見するとうまくいっていないかのよう見えるのは、労働者の再生産が
ストップし、それにともなって生産が下がり、利益がへったからである。ところが、
支配者たちは、逆に十分に富を得る事が出来たのだ。そしてもっと得ようとしている。

そのために支配者が画策するのは破壊である。労働者を大きく減らしてリセットし、
再度ふやすのだ。そうすれば前半部で現物を手に入れ、後半では利ざやが稼げる。
つまり、戦争である。戦争という破壊によって多くの利益を稼いだ人々は、それをまた
望んでいるという事だ。

戦争は決して、イデオロギーの対立だけではない。それは労働者を煽るための口実であり、
実際には商売である。人の命をもてあそぶ商売なのだ。そのような思想が現に存在し、
それが実行されてきたという事に人類は目をつぶってはいけない。



さて、経済的奴隷である我々は、生きているだけで資産を奪われる。それが税であった。
江戸時代の農民が年貢を納めていたのと何も変わっていないのである。そして、それが
現代では、経済的奴隷であり、またの名を国民というのである。

ひとまずは、これを知って欲しい。そして「目覚めて」欲しいのだ。



ここまで理解し、もし経済的奴隷から抜け出したいと思うとしたら、何が出来るのか。
日本から出るというのは一つの手段である。この崩れ行く国の制度の中で、無駄に
経済的奴隷を遣り続ける理由があるだろうか? 他には、無縁者になること。つまり、
ホームレスか、闇社会である。しかし、これらは結局、経済的奴隷が作り出す社会に
寄生する事で成り立つ行為である。確かに経済的奴隷ではないが、そこに留まるのは
健全とは言いがたい。結局のところ、日本に居る限りにおいて、経済的奴隷である事から
逃れる術は無いのかもしれない。

では、希望は無いのか? せめて経済的奴隷である程度を下げられないか。
現状ですぐに考え付くことは、金に対する依存度を下げることであろう。
先にも述べたが、労働を金ではなく、生産物にする事だ。そしてぶつぶつ交換である。

厳密に言えば、もっと緩やかな連帯というべきかもしれない。採れた野菜が余ったので、
近所におすそ分け。作った煮物があまったから、おすそわけ。近所の相手のお手伝いをする
事。ものを運んであげること。互いに、できることを提供する。そういう関係性は
金に対する依存度を下げることが出来る。そこが最大のポイントなのだ。

金は金で、必要なだけ経済的奴隷社会から受け取り、それ以外は金を使わない形で
暮らすこと。そのためには工夫が必要だが、それが出来たら、経済的奴隷からいささかの
開放になる事は間違えない。

何か良い知恵がある人は教えて頂きたい。







nice!(0)  コメント(3)