悪という正義ー都市の欺瞞ー [思考・志向・試行]

よく犯罪ニュースなどがあると、管理を強化すべきだという意見が出る。
同様に、北朝鮮などの脅威があると、自衛隊の軍備拡張を求める意見が出る。

これら意見はほとんど、思考停止も甚だしい。
なぜ、犯罪がおこるのか、なぜ武力威嚇が必要なのか、その動機に目をむけるべきだ。

大抵の人間は普通である。それを理解していない人々が多すぎる。
犯罪をおかす人もまた、ごく普通の人だ。少なくともモンスターや怪獣ではない。
大抵の日常生活を我々と同じように過ごし、コンビ二で買い物をするし、
くだらないテレビをぼけっと眺めもする。なんなら、電車で老人に席を譲ったりする。
でも、犯罪をおかす人はいる。このような事実にちゃんと目をむけるべきだ。

つまり、全面的に悪という存在はいないという事である。
そして大抵の場合、悪に相当するのはごく一部の行動だけである。
だからこそ、罪を憎んで人を憎まずという名言があるのだ。
ほとんどの人は、これを理解していない。その程度に人間は頭が悪い。

その頭の悪い人々が、世間の規範に照らして悪とみなした事を鬼の首をとったかの
ように断罪する。それで何かが解消されたかのように考える。ここまでくると、
この人々の方こそが、悪事を働いている。それは過剰なまでの他者攻撃である。

そこまで断罪できるほど、まっとうな人間などいない。自分を棚にあげて、
他者を断罪するほど醜悪なものはない。また、自分とて同じ事をするかもしれない。
その時に同じ目にあうことを是とするのだろうか?

たとえば、交通事故で他者を殺してしまったとする。周りは犯罪者として断罪する
だろう。その時、断罪する側は、自分もまた彼らになりうると理解しているのだろうか?
どんな複合要因によって、自分もまた加害者になりえるとどうして想像できないのか?
やはり、人間は頭の悪い生き物だという事なのだろう。

同様に、武力衝突を行えば、かならず犠牲者が発生する。その犠牲に対する暴力は
悪であろう。これを悪といわないのであれば、交通事故で他者を殺すという過失は
もっと悪ではないはずだ。しかし、大抵の人間は武力衝突による犠牲者を必要悪で
あるなどといって、悪であることを認めない。これは強い欺瞞を生む。自己分裂である。
自分が加害者であることを否認する。それを無理やり肯定するためのロジックを組み立てる。
人はその程度に弱い。

こうして、悪意ある行為によって、被害者を生み、加害者を作る。
被害者は加害者に悪意を見出す。そして恨みを生み出す。当然であろう。
一方、加害者は事態を否認し、その悪意ある行為を「正義」であると言い換える。
そうしなければ、弱弱しい心は張り裂けてしまうからだろう。

他者を攻撃する者は、とてもつもなく弱い人間である。最底辺といってもいい。
「自分は悪くない」という言い訳を貫徹するために、怒り狂うのだ。怒り散らせば、
周りが責任をなかったことにしてくれると知っているからである。だが、私には
その醜悪な欺瞞はごまかせない。

威張りちらし、他者を愚弄する人間こそ、もっとも弱く、もっとも傷ついた人間である。

なぜそんな行為に及ぶ必要があるのか。他者を攻撃する事は、根本的に悪であろう。
悪を善と言い換えて行動する。欺瞞そのものだ。その欺瞞を心にためて生きている。
不幸であると断言できる。しかし、本人は否定するだろう。否認するだろう。
それがどれほどに痛々しいのか。本人はまるで権威者のように振舞う。その背後に
ある腐りきってしまった心がある。

他者を脅して、命令を下すことは権力である。だが、そのような権力は根本的に
不幸な構造を持つ。それを否認し、権力を行使することに快感を覚えるようになる。
それは一過性の麻薬のようなものだ。それが切れると、猛烈に苦しくなる。だから、
何度も、何度も、何度も、権力を欲し威張り散らす。強い依存が生じる。

なにしろ、素の自分など誰も相手にしないのだから。ちからを行使した権力者は、
不幸を背負って生きる。本人は得意になっているだろう。だが、悪を行って無事で
いる人間もまた少ない。不幸は連鎖するのだ。

他者から権力を振るわれた人間は、まちがったメッセージを受け取る。悪を正義と
言い換えることを肯定するまちがった人間になる。そうでなければ、自分が何故こんな
理不尽な目にあうのか、理解できないからだ。理不尽な状態を否認し、それを「指導」
とか「修行」などと、肯定的に捉える。それもまた欺瞞である。嘘である。

こうして、悪を正義という欺瞞が伝播する。これが大多数の人間にインストールされた
状態を、現代社会と呼ぶ。もう少し限定すれば、都市社会である。

善に偽装した悪がまかりとおる事。これが都市社会の大前提である。
つまり、都市はのろわれているのである。人が人を用いるために必要な方便は、
悪臭はなつ欺瞞の上に成り立っている。


自然を相手にする者は幸福である。人間は本来そのように出来ている。その人生を
十全できるだろう。そして、他者とは偽装した悪ではなく、本来のつながりで関われる。
歌や踊りを通じて、他者と一体となる。他者は支配するものでもなく、支配されるもの
でもない。

もちろん、日常的ないざこざはあろう。それを否定するわけではない。そうではなく、
醜悪の塊のような、権力欲にまみれた都市論理に生きる事を否定しているのである。
また日常においてすべからくこのような欺瞞が発生しているといいたいのでもない。
時折顔をだす、この欺瞞こそが、犯罪や武力衝突といったものの原因であるといいたいのだ。


他者を攻撃しても良い。善を装う悪はそう訴えかけてくる。自分を守るという大義が
あれば、相手を攻撃する事は法律上許されている。下らない。それこそ、自分が悪を
肯定するための欺瞞ではないか。他者を攻撃せざるをえないのは、弱さである。その
弱さにこそ目を向けろといいたい。

この話は決して、軍事や政治権力の話だけではない。上司がなぜ怒鳴るのか、モンスター
カスタマーがいるのか、権力を振り回す外道がいるのか、その存在の前提である心の
問題として述べている。つまり、これらは全て、心の弱い人間によって引き起こされる。
かつて、自らが取り込んだ矛盾した論理によって、自らそれを証明しようとするのだ。

攻撃を行う事を肯定する心は、自らをさらに傷つけてゆく。殺人をやってしまった後で、
「これでよかったんだ。これが正義なのだ」とのたまう。本気でそう思い込む。それが
どれほど傷つくことなのか。多くの中東従軍後のアメリカ兵はPTSDで苦しんでいる。
いや、日々の生活においてこそ、精神殺人を犯す人々によって、攻撃した方と、攻撃された
双方において、苦しむのだ。

些細なことかもしれない。小さな攻撃は、酒を飲めば受け流せる、タバコをすえば、
一時は忘れる。そういう事かもしれないが、確かに、その影響は身体に蓄積する。

時に眠れなくなる。時に風邪を引く。身体はその小さな攻撃の蓄積から身を守るために
不調を訴えてくる。しかし都市の論理は、その離脱を許さない。都市は自然を許さない。
つまり都市論理の欺瞞が、人々を追い詰める。責任感の強い人だけが、この論理の遂行に
命までかけてしまう。もっとも誠実なひとだけが、下らない欺瞞の塊の都市論理によって、
帰らぬ人になる。悲劇ではないか。

攻撃に対抗するには、攻撃を徹底的に無視するほか無い。幼稚な行為に関わってはいけない。
大抵の欺瞞による攻撃は、彼らの弱さの象徴である。幼稚園児が、自分のわがままを通すため
泣き喚くのと何も変わらないのだ。武力衝突とは結局その程度のものである。誰かのわがまま
に感染し、それに加担すると第二次世界大戦のようになる。徹底してわがままは無視する事だ。

私には、都市の論理にある欺瞞こそが、現代社会の問題の元凶であると思われる。
それは、悪を善と言い換え、ただの我がままを正義と言い換える。性根は「自分を救ってくれ」
という嘆きでしかない。都市に生きて、立派に見えるほどに、綺麗にこじれてしまっている。
それは愛とはまるで無関係な行為であり、それは遂行するほどに空しさを生じるだろう。

見栄を張ることで、自分が救われると思い込む。誰かよりもよい暮らしをしているという
事で自分の不幸を慰める。そんな事をする理由はなぜか? 真剣に考えたら、欠乏でしかない。
救われていないから、まだ足りないと突き進むのである。そうしてますます、欺瞞を深める。
都市の論理とはそういうものだ。他者支配における強者しか幸せではないという理屈。
そして、他者支配のための論理。悪を正義と言い換えること。大いなる欺瞞。


もっと楽に生きられるはずなのに。強く囚われた人々の群れ。
そろそろ無理がたたってきたのだろう。それが現代である。
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勝手に推し量るー他人の心ー [思考・志向・試行]

他者の心の状態を推定する事を「心の理論」と呼ぶ。
それを試すテストを誤信念課題という。サリーとアンの話だ。
サリーが遊んでいたおもちゃを箱にしまう。その後、サリーは立ち去り、アンがそのおもちゃで
遊ぶ。そして、そのおもちゃを戸棚にしまう。その後サリーが帰ってきました。サリーはどこを
探しますか? と質問をするのだ。

すると3歳では戸棚と言ってしまう。一方で、4歳になるとおもちゃ箱と答える。
つまり、被験者はサリーがどういう信念を抱えているかを正確に推定できるというわけだ。
そして、この能力を「心の理論」とよぶ。


個人的にはこれを「心の理論」という言い方をするのはちょっと「心」に失礼だと思っていて、
どちらかといえば「信念推定の理論」というようにピンポイントであるべきだろうと思う。

さて、この能力は普段はもっと違った形で利用される。
それはご機嫌を伺うという事だ。もしくは、思考を探るという事だ。
この時大事なのは、その推定は常に、推定であって確固たるものではないということだ。

たとえば、上司がぴりぴりしているとする。ああ、機嫌が悪いのだなと思う。
しかし本当に機嫌が悪いのかは、上司に聞くまでは分からない。もしかしたら、腹が痛いの
かもしれないからだ。この時、人は今までの経験や、自分の行動を他者へと投影させる。

つまり、ここで人間力、性格というものがものを言うことになる。
自分が自分をどういう風に思うのか、それが他者への視点へと反射するわけだ。

もし自分が感情的な人であれば、ああ、あの子はきっとこんな感情にちがいないと
推定し、思考する人であれば、こんな風に考えているに違いないなどと考えることに
なる。

この時、似たもの同士、似た前提を共有している人は、コミュニケーションがスムーズだ。
だが、まるで違う場合は誤解をしばしば生じる。そのもっともたるものが男女である。

男女では生理的反応がそもそも異なる。だから、お互い同じものを見たときの反応が
そもそも異なるわけだ。それでいて、相手の状態を推し量るために、ときにとんでもない
誤解を生じるという事になる。場合によっては真逆のこともありえるのだ。


対策としては、余計なことを付与しないという事がまず上げられる。
相手が何を考えているのか、感じているのかは相手の持分であり、それを正確に
推し量るのは困難だと思うことだ。それは逆に期待しないという事でもある。
相手がこう思うだろうな、という考えを基準に、相手を裁かないということだ。

だが、こんなことはしょっちゅう起こる。とりわけ上下関係が存在するところには。

親は子どもの気持ちを勝手に推測する。そして、こうに違いないと決め付ける。
その結果、子供たちは自分の本当の感情に疎くなる。これがいわゆる精神的虐待である。
相手の気持ちを考えないという事が、一番の問題点だ。そういうと、すぐに親は子供の
気持ちは親である私が一番よくわかっているなどという。そんな嘘に騙されてはいけない。
そもそも、自分の感情すらはっきりしない場合がある。それを脇において、他者の気持ち
がはっきり分かるなどありえないことだ。

そうして、往々にして子供がよく分かっていると思う親の子ほど、問題を起こす。
それは親に自分の本当の気持ちを伝えるための問題行動なのだが、親はそれを他人のせいにする。
友達や、先生など身近な人のせいであると。だが、本質は親のせいである。親が子供の
気持ちを勝手に作り上げたことに起因する。

相手のことを理解していない、するつもりがないのに、理解した気持ちになって
対応すること。これが一番の問題である。時に、そんなことないよとフィードバックが
かえってきて、驚くなんてことがある。我々はかなりの割合で、心の理論に失敗している
と思ったほうがいい。

なぜなら、推定したことは自分そのものなのだ。相手ではない。相手のことを知りたければ、
たずねるほかは無い。勝手な推定は齟齬を招くだけなのだ。意図がわからなければ、聞くほか無い。

だが、日本の文化の悪い点は、この聞くことを妨げることだ。
そして、聞くことが事態が能力の欠如とみなされることだ。
相手に同調できないのは、お前の力が足りないからだ、KYだからだという。
そういう圧力が日本にはある。そして、その多数派の思考・感情についていけないと、
日本では大変暮らしにくいのである。

だが私はいいたい。そんなもの気にするなと。
同調せざるを得なかったのは、工場という場における兵士が必要だったからだ。
これからの時代は、むしろ個人が何を考えているのか、どう思っているのか、
それが重要となる。

また、相手が理解できなくても、聞くことは常に可能である。
不機嫌そうな上司がいたら、「どうしたのですか?」と聞くことは別段なにも問題ない。
むしろ、それを察しろというコミュニケーションの方が異常である。とかく日本人は、
察することを良しとしすぎである。そして、それがしばしばずれるという事に無頓着すぎるのだ。


自己嫌悪に生きる人は、この他者からの感情押し付けを食らった人である。
他者の期待を生きるとは、自分の感情を抑える・無視する事にほかならない。
その結末は大変ひどいものだ。多くの日本人が、自己嫌悪にいきて死んでいった。
だから、おまえもそうしろと社会が訴えてくる。

そこで負けてはいけない。勝つ必要は無いのだ。ただ、自分の感情を見失ってはいけない。
それだけを心に留めてほしい。
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