日本の行く末 [思考・志向・試行]

こんなエントリーをしなくてはならないのが本当に残念だ。

このブログもかれこれ10年を超えた。最初期から、自民党による既得権権益政治批判を
繰り返してきた。そしてそれが目指す先は一党独裁のまるで中国やロシアのような国だと。

安倍晋三氏を祭り上げる事で、国から金をもぎ取るという事を
権益者たちがやり続けた。それを維持するために、多くの国債を発行した。
つまり、将来の国民から金を巻き上げ、それを自分の懐にいれたという事だ。

この簡単な図式すら、どうにも理解されず、いや、むしろ理解しているからこそ、
その恩恵に与ろうと、よってたかって国にすり寄る大企業や特殊法人と、そこに
連なる下請けたち。それ以外に方法がないとばかりに、方向転換など出来るはずもなかった。

このような先行き不安というのは、人間にとってもっとも得意とする感覚だ。
先行き不安のある人間たちは当然、それに準じた行動を取る。

既得権益者たちは、犯罪まがいでも、生活のためとか、従業員のためとか、
色々と大義名分を振りかざして、まともとは言えない行為を続けてきた。

一方、庶民は節約するほかないと、節約を続けて自衛してきた。
それはネット社会においてより最適化した。その結果、百均が大流行になり、
少しでもやすいものを得ようと、アマゾンや楽天といったネットショップが
大流行になったのだ。

その結果は、可処分所得の低下である。そりゃそうだ、みんなが買わないのだから、
売上は下がる一方なのだ。その大元の原因は、社会全体が衰退してきているという事実から来る。

これは生態学的にみれば必然である。

とある地域の山の木々を広範囲に切り倒したとしよう。
すると、下草が膨大に生える。その下草を餌とする昆虫が増え、小型動物が増える。
例えば野ウサギだ。ウサギが増えれば、それを捕食する狼やふくろうなどが増える。

要するに資源が増えたら、その資源を消費する存在が現れて、
その資源の枯渇が始まると、その存在は消えていくのである。


上手くバランスすれば、増えすぎた動物たちは減り、元のバランスに戻る。
一方で、とある点にまで到達した場合は、その生態系は崩壊していく。
これが自然の摂理である。

日本という国をみると、老人ばかりが増えた。
それは医学の発達や、栄養状態の改善によるものだ。安くて美味しいものが手に入る
時代になったのだ。そうして、それが行き過ぎて美味しいものを取りすぎて病気に
なっていく。そうでなくても老人は体調不良なのだ。

戦後はピラミッド型の人口動態であったが、第二次ベビーブーム以降において、
人口は減少に転じた。それはとどのつまり、社会的リソースが不足を始めたという事である。

国が豊かになるということと、個々人の生活が豊かになるという事は全く別のことだ。
日本は国は豊かになったが、個人は貧しくなった。それは価値観的なものから、
物理的なものまで様々であるが、とかく、社会主義から新自由主義へと転換した80年代に
現状にむかう道筋は作られたのである。

2008年のリーマンショック、その前の1991年の住専問題からの不良債権問題。
いくつかの経済的な落ち込みを国が負担したのだが、そのツケは大きく、結局、
そのツケを先送りし続けた。その先送りが今や巨大な国債としてのしかかっている。

政府は重税を課すことで、これを解消しようとするのかもしれないが、
それはもはや焼け石に水である。これほど増えた借金につける薬は一つしか無い。
貨幣の切り上げである。もしくはデフォルトである。

我々はもしかすると日本がデフォルトに陥る様をこれから経験する事になる。
これは覚悟が必要なことだ。

とかく、老人たちが抱え込んだ財産は膨大である。日本の富の7割は老人たちが持っている。
もちろん、まんべんなくということではなく、大きな偏りはあるのだが。
彼らは、財産を投資に回し、利子を儲けて暮らしている。その利子は、実は若者や
外国人労働者、多くのパートで働く女性たちの労働力を一部をかき集めたもので構成
されるのだが、そんなことはお構いなしだ。

つまり、高度経済成長期に金を稼いだ老人たちが大量にいて、現状、彼らが金をつかって、
若者や女性、外国人という社畜たちを利用して金を稼いでいる状態という事である。
マクロにみればそういうことになる。

それでいて、老人たちには過去に約束された年金というものがある。
一部の年金受給者は、中小企業の若者の年収より多いというのが現実である。
つまり、働かない老人より、毎日働いている若者のほうが可処分所得が低いのだ。

それでいて、若者は年金保険料と言って、老人たちを支えているのである。
それでも足りないといって、政府は更に徴収額をあげようとしている。
非常に不公平な事をやっているのが現状である。

30年前と現代で、給与水準は変わってない。日本は成長してないからだ。
先進国では唯一といってもよい。なぜなら若者に金を渡さない仕組みを
導入したからである。シンボルとして竹中平蔵を取り上げれば十分だろう。
非正規雇用を一部の業種のみだったものを、さまざま業種に広げたのだ。
当然、可処分所得が減るのがわかっているのにだ。

そして、正社員と非正規社員という身分制度を作り出し、互いに牽制させた。
これは江戸時代の穢多非人政策と全く同じである。人々は、アホなので、
眼の前の違いにばかり気を取られる。その仕組を作り出した悪人に目が向かないのは
どの時代も同じことである。


これら事実を知らない人は多いかもしれない。老人たちは自分たちの頃というものを
簡単に敷衍して、現状に当てはめようとする。今、老人たちが自分たちの孫の話を
聞いたら、絶句するのは間違えない。彼らが今の若者になったら、どう行動するのか、
それを聞きたいものだ。

変な話だが、オレオレ詐欺が収まらない最大の理由はここにある。
老人たちが金をもっているからこそ、振り込め詐欺が可能だという事実である。
若者に対するオレオレ詐欺が実行されにくいのは、そもそも若者にカネがないからだ。

政治はもはやはっきりとカルトによって思想的汚染が進んでしまった。
彼らの現実と、庶民の現実は全く乖離している。
その乖離した現実下で行われる政策はまるでどこの話なのだ?という形で進むのである。

政府の要人たちは、結局、時代遅れの人々であり、それが日本社会の反映である。
なぜなら、日本は高齢社会なのだ。そして超高齢社会になろうとしている。

その高齢社会がこれからデフォルトに陥る。子供や孫にとっては先祖などクソ喰らえという
話である。自分たちの生活の悩みの半分は、先祖のせいであると言っても良い。


こんな日本において、若者たちはどうなるか。当たり前がだ、自衛するに決まっている。
そのためには、目立たずに、競争を避け、無理を押し付けられぬように逃げ回る。
一方では、既得権益に入り込みたいとも考え、現状の老人たちの仕組みの跡継ぎになる。

このようなマインドの連中が、より良い社会を作り出すはずがない。
よって、これからの50年は日本は終わっていく様だけをみることになる。

私が期待するのは、今の子供らの次の世代である。そう、まだ生まれていない世代だ。
彼らにしか私は期待しない。

今の子供達の反動から、まともであることに価値を見出す人々になってほしいと思う。

現代では、まともである事に価値を見出しているのは女性たちだけであろう。
男の大半は狂っているので話にならないのである。正確には狂ってなければ、
この日本という社会に適応できないという意味であるが。

女性たちがもっと社会においてプレゼンスを得る社会になれば、日本は良くなっていく。
だが、現状の自民党のように男によるホモソーシャルな権力構造が維持されていくならば、
日本はデフォルトまっしぐらになるだろう。というか、それ以外に残された道はない。

この後始末をしなくてはならないのが、今の20代、30代である。
中間の40代、50代はソフトランディングを模索し、それを計画するだけで
せいぜいであろう。まさに氷河期世代であり、中間管理職なので、
すでに体制に組み込まれてしまっていて首が回らない。まとなことを志向すると、
クビを切られてしまうがゆえに、何もしない事を是とするのである。

その子どもたちである10代20代が、非主体的なのは当然なのだが。


さしあたって言えることはこうだ。
あまりにも理不尽に可処分所得を減らされている若者たちの一部は、
ギャンブルに走ろうとする。若者は端的に短絡的なので、簡単に詐欺の片棒を担ぐ。
反社会的な勢力に取り込まれていく若者は増えることだろう。

その結果はどうだ。社会における小犯罪の増加である。
今後、日本は治安悪化が当然のように襲いかかってくる。

その理由は、何もしなかった若者たちが、いよいよ生活が持たないためだ。
まともに働く口は減り、さらにまともに働けなくなったためだ。それは能力的にも
環境的にもだ。

一部の優秀な若者は、海外に第二の拠点をもつことになる。
それが保険になるのだ。日本は沈没する船なので、そこにしがみつく理由はない。
若い頃に海外に拠点を移すか、頃合いを見計らって日本に戻るかであろう。

まあ、日本という国、というよりも、21世紀から22世紀は、価値観が変容して、
ネーションステートが時代が遅れということになるのだろうと思うけども。

ともあれ、直近せまっているのは、犯罪である。
治安悪化だ。その背後には、反社会的勢力の存在がある。そしてそれは政治的にも
絡んでくるのだろう。(私は詳細など知らないが、安倍政治が反社会的勢力の存在ぬきに
存続していたわけがないと推察する。)

国は、取締強化という大義名分を作り出す。それはマイナンバーカードの強制や、
行動制約、なんなら人権の骨抜きなどなる。なにしろ、現状の国というよりも、
明治維新後に薩長勢力主体で作り上げた小集団による日本支配というものが目的なので、
庶民の生活などどうでも良いのである。むしろ、庶民は彼らの支配を盤石にする捨て石である。

結果、リアル1984が日本に誕生する事もありえるだろう。
知らない人は、急いでオーウェルの1984を読むべきだろう。
こんなのSF小説だけの話だろうって馬鹿にできる時代ではなくなったのだ。

はっきり言って、気持ち悪い世界が待っている。
そこに突入を許すのか、それとも、それは変だと舵を切り直すのか。

私には、受験エリートが牛耳る官庁の連中がまともとは思えず、
前例主義の彼らが改革などできようはずもないと思う。

結局のところ、一市民がどうこういっても始まらないのだろうが。

私に出来るのは、せいぜい時代の証人として、何が起こっているのかを
孫世代に伝えることなのかもしれない。

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愛国的リバタリアン [思考・志向・試行]

内田樹氏のブログを読んだ。
http://blog.tatsuru.com/2018/08/04_1031.html

このブログが論じているのは、リバタリアンと呼ばれる思想が日本においては、
愛国という思想と繋がり、大いなる自己欺瞞を起こしているという事。

全くそのとおりだと思う一方で、この枠組みをもって、ホリエモンやDaiGo、
果ては自民党議員たちやネトウヨなどを考察するとピッタリだと気がついた。

ホリエモンの思想は、おおよそリバタリアンと言って良いだろう。
個人の自由を第一に尊重していて、それ以外は二の次三の次で、
もっと言えば、能力主義であり、個人主義であり、功利主義でもある。

リバタリアンは、能力あるものが、その能力を発揮して利益を享受する事を望む。
一見当たり前に見える事柄だが、これでは社会が回らない事はハッキリしている。

彼らは自分の能力で得たものは、全て自分のものであると主張する。
利益は自分の努力の結果なのだから、自分にその運用の権利があるという。

これに対して公共という事が問題となる。社会インフラは公共性を持つ。
ゆえにその維持のために税金が徴収される。同様に、福祉のために保険料や年金が
徴収される。これは上記のリバタリアン思想に反するものとなる。なぜなら、
自分の利益を公共に差し出さなければならないからだ。

だからリバタリアンとは、税や保険料に対して反対することになる。
同じく生活保護や社会福祉活動自体にも嫌悪を示す。
その理屈は、自己責任である。

すべての人が努力する自由がある、金を儲けるチャンスがあるのに、
それをしないでいるので、貧乏になったり不健康になったりしているのだから、
それは自己責任であり、自ら選び取った結果に過ぎないと解釈する。

おそらくこれに賛同する人もいることだろう。
私はそれを否定はしないが、そういう人間と友人になるのは困難だと言わざるをえない。

実際的には、リバタリアンの主張はこうだ。
「自分は能力や恵まれた環境があってそこで利益をだせるが、それを社会制度によって
とられるのは我慢ならない。ましてや何もしてない弱者がその恩恵に預かる事を許容しない。
自分の自由(金銭的・制度的)を国や弱者は奪うな。」と。


私はこれは幼児性の現れだと思う。彼らは大いに自己欺瞞的だ。
社会が用意した状況・環境があり、その社会においてたまたま自分が
能力や機会に恵まれたという事実があるのだが、それを無視する。
社会からの恩恵があったから、自分の能力が発揮出来ているのであって、
その逆ではない。個人が社会インフラを作ったわけでもなく、社会制度を
作ったわけでもない。それにも関わらず、利益をすべて自己の行為の結果として、
自分のものであると主張するのは、少なくとも狡猾であると言われて当然だ。

ホリエモンに能力があるのは良いとして、彼が得る利得全てがその能力のおかげでは
ないのだ。それが念頭にない事が彼らの大いなる欺瞞である。

例えば、車会社が車を売る。利益を得る。これだけをみればその利益は
彼らだけのものであろう。だが、車を走らせるには道路がいる。
では道路を作ったのは誰か? それは「皆」である。
国や自治体が金をだして道路を作り出している。その道路を使う前提の商品は、
当然、公のシステムに依存していることになる。ならば、車会社が得た利益の
一部は少なくとも皆の利益でもあろう。

リバタリアン的視点で、上記をいうなら、まず道路の土地を買い上げて自分で
道を作り、その上で車を販売する事が、能力であり実力であり、その利益を
独り占めしても誰も文句を言わないだろう。無論、そんなことは出来ないのだが。

要するにリバタリアンの姿勢とは、暗に公共財やみんなが共有する文化などに
依存しながら、一方で、明に競争主義で得た利益を自分のものとして主張しているのだ。
論理破綻しているのだが、そこは意図的・無意識的に無視している。

なぜホリエモンが宇宙開発に力を入れているか、これでわかるだろう。
同じくリバタリアンのイーロン・マスクも同様だが、要するに公共財が存在しない
空間にシステムを構築すれば、そこの上がりは全て自分たちのものだと主張できるからだ。

火星に自分たちで基地をつくり生活の場を作り出せば、既存のシステム外なのだから、
そこでは自由を大いに謳歌できると考えているわけだ。自由を存分に活かせる世界の
構築が彼らの目指す所となる。

IT産業においてリバタリアン的思想が強い。その理由は、IT産業には既存性が希薄だったからだ。
システム自体を構築していった経緯があるために、リバタリアン的になるのも分かる。
自分たちが作ったシステムにおいて、自分たちが作り出した利益なのだから、なぜ
公共に寄与する必要があるのかと。

さて、もう気がついていると思うが、上記のリバタリアン的思想は、強者の論理である。
要するに、能力あるものがリソースを独り占めして何が悪い?という態度だからだ。

よってリバタリアンは案外、既得権益と思想的に類似する。
既得権益者たちは、利益確保できる権威や権限を持つ。かれらはそれを手に入れたのは、
メリトクラシーによると言うだろう。つまり能力主義だ。既得権益を手にするために
自分たちは努力したのだから、その努力の対価を得て何が悪い?という事になる。

時にリバタリアンと体制側というのは、対峙しているようにみえるかもしれない。
既存体制から離脱して自由を謳歌したいというリバタリアンだが、その内実は、
体制側と全く同じ思考パターンなのだ。単に、既存体制に組み込まれるが嫌な人々が、
その外側に新たに自分たちの体制を作りたいというだけの現象なのだ。

簡単に言えば、もともとの土地にいる豪族がいて、そこに新興の勢力が来たというだけ。
もともとの土地を新興勢力が既存ルールで求めたら、体制側の論理で跳ね返されるので、
新興勢力は、別の土地(宇宙や海や仮想空間)に場を求めて移動する事にしたのだ。


では、リバタリアンの何が問題か。
強者の論理なので、能力がないものには滅法冷たい上に、社会的弱者にも冷淡だ。
理屈は既に述べた。そしてリバタリアンの思想は社会的な分断につながっていく事になる。

社会的弱者が必ずしも能力がないとはいえない。また、不幸な事実によって貧困状態に
あえいでいる場合もある。本人に責務がない事も少なくない。病気や事故など様々な
要因がある。

また、社会的な体制も問題だ。日本は非正規雇用という半ば奴隷的状態を法的に許容している。
それは学歴差別や女性差別などに由来し、同じ仕事でも給与に差をつけたりする事を合法化
したものである。そういう状況は改善すべきであるが、それは体制側が許さないのである。
それをすれば既得権益が崩れるからだ。ともすれば、体制側は能力主義ではないという事
なのだ。学歴や人脈といった二十歳そこそこでの評価を使って、能力がなくても利得を
得られるというのが既得権益者たちのご都合主義である。

リバタリアンはこのような既得権益のご都合主義は忌み嫌う一方で、能力主義を第一に置く。
能力を発揮できない状況が他者に由来する場合に、それを批判する。

ところが現実問題として、能力というのは相対的だ。全てにおいて秀でるというような
スーパーマンは存在しない。そして能力には限界とピークがある。よって、能力主義を
完遂しようとすれば、必ず最後は負けることになる。つまり、リバタリアンは自分たちの
刃で、自分たちを貫くことになる。それは必然だが、彼らはそれを知らないのである。

加えて言えば、能力があることと、利益を獲得することの間には弱い相関しか無い。
逆に利得を得ている人たちは必ずしも能力があるわけでもない。これもまた事実である。
結果として、そもそも計りようがない能力なるものと、その結果である利益とつなげることが
無理なのである。

リバタリアン的な社会を目指すとどうなるか。それは要するに能力によるヒエラルキーで
あり、それは社会的な格差を生み出す。一部の人間が多くの富を得て、多くが貧困に
あえぐだろう事だろう。それで良いというのがリバタリアンなのである。
そして、皆が自己利益ばかりを追いかければ、相互不信を招き、ギスギスした社会になるだろう。
誰が公共財を保持する責務を負うのか。徹底的にリバタリアンになれば、国はあえなく崩壊する。
そして、待ち受けるのはホッブスがいったような万人による万人の闘争だろう。

暴力も能力なのだから、リバタリアンは暴力で財や生命を奪われても文句は言えまい。
能力主義とはそういう事だ。だからリバタリアンは夜警国家を主張する。その保持には
手をかすのだろう。

社会的弱者は努力不足で能力不足。だが、彼らもいずれは社会弱者になるし、努力できなくなる。
歳をとることを忘れているのである。その時に彼らは思い知るだろう。社会に包摂されない事
の悲劇を。とはいえ、彼らは財によって人を雇うという事でそれを補うつもりらしいし、
なんならテクノロジーで歳をとらないように試みるのかもしれない。

このようにリバタリアンを考えを考察すると、実社会のニュース、とりわけ新しいと
言われるニュースの方向性が分かるだろう。なぜ彼らが仮想現実や宇宙などに手をだすのか、
なぜ彼らがテクノロジーの信奉者なのか、なぜ彼らは社会問題に無関心なのか。なぜ
仮想通貨を発展させようとするのか。全て、リバタリアン的発想だという事なのだ。
そこに公共とか福祉とか、そういう発想が皆無なのが分かるだろう。そして、すべからく
金持ちや権益者たちの理屈であることも。


ここで、内田氏の考察に戻ろう。内田氏は日本においてはリバタリアンの前に
愛国が継ぎ足されると主張した。いいえて妙である。

本来リバタリアンは能力がある人間が主張するもの。ところが、世の中には「自称」リバタリアン
や「妄想」リバタリアンがいる。自分の状況をとてつもなく勘違いしているか、自分の状況を
直視できないリバタリアンが存在する。彼らは本来弱者なのだが、事大主義なためにリバタリアン
に媚びたり、憧れたりする。いや劣等感があるからこそ、自称リバタリアンになるのだろう。

その彼らが明に能力主義の個人主義を唱えることはない。なぜなら、自分の弱さが露呈する。
内田氏がいうようなあっけらかんとしたリバタリアンにはなれないのだ。そこで、愛国が
登場するのである。

愛国というスパイスによって本来反体制のリバタリアンから、体制型リバタリアンが
生まれる。彼らは、社会的弱者とは「外国人」なのだという認識を持つと内田氏はいう。

社会的弱者がリバタリアン的思想によって構造的に作り出されるという事は棚に置き、
日本における弱者とは、在日であるとか、移民であるなど、そういう人々であり、
そういう人々が、社会的福祉を「ねだっている」とか公共財を「くすねている」と考えるのだ。
だから、外国人をスケープゴートにする。もしくは社会活動する日本人が攻撃対象となる。

社会的な弱者とは、ごく普通の人々なのだ。そして誰しもがその弱者になる。
それが全く理解できないのが、愛国的リバタリアンである。
自分が社会的弱者とは認識できない程度の能力だからこそ、ネトウヨなどをやっているわけだ。

自分の生活が苦しいのは、体制側の既得権益構造やリバタリアン的思想のせいなのに、
そこに取り込まれているがゆえに、さらなる弱者を見つけて、つまり外国人を指さして
自称リバタリアンを装うという事になる。

優秀なリバタリアンもいれば、能力不足のリバタリアンもいるという事だ。そして、
後者はしばしば、愛国的リバタリアンになる。実にはた迷惑な事だ。


DaiGoのホームレス問題炎上があったが、あれは実にリバタリアンらしい発想だった。
要するに、自分のせいでそうなったのだから、放おって於けば良いという考えなのだ。
そこには、他者への共感や同情といった感情が欠如している。そして自分もそうなるかも
しれないという発想がない。

正義論を書いたロールズは、無知のベールという概念でリバタリアン的考えに一石を
投じた。もし自分が立場を入れ替えたとして、その置かれた状況に対する対応が妥当か
どうかを検討せよという主旨である。なんらかのトラブルでホームレスをやっている人がいて、
そのホームレスになった時に、何も手当しないという政策が妥当といえるかどうか。

近年では、結局、自分の置かれている状況は切り離せないのだから、そこに妥当性はないと
一刀両断する人も少ないらしいのだが、私にはやはり一考の価値があると思う。



リバタリアンは強者の論理であり、社会の構成員の多くはその論理に乗れない。
乗れるとしたら、愛国的リバタリアンになる他無い。自分に嘘をついて。

私には自己中な人にしか見えないリバタリアンだが、彼らはそれで良いという人々なのだ。

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書き初め [思考・志向・試行]

いよいよ2023年が始まった。

自民党が推し進める軍国化と大増税。一方では福祉や教育予算の削減に勤しむ。
そして憲法を政府が都合が良いように改悪する算段らしい。
要するに、軍事独裁政権を目指すという事だ。

これは隣の韓国で起こった事と相似形である。

エセ保守による「パヨク」や「野党軽視」の文脈づくりとは、
まさにこの道を進むことに等しい。

報道の自由がなくなり、政府のいう事を面従腹背するほかない世界は
明らかに灰色であって、そこに喜びなどはない。
そこにある笑いは、精神的貧者のニヒルなものでしかない。

はっきり言って、日本人の政治的無関心は異常なほどだ。
政治的なことは明らかに生活と地続きにもかかわらず、
多くの日本人が無関心である。

あなたが日々、買い物をするときに、なぜ消費税などを払わなければならないのか。
それは当たり前ではない。そんなものがいらない社会も作ることができる。

保険料や年金の支払いも同様だ。

そして何よりも景気自体も、国の制度次第で十分に好影響を与えることができる。


現代の問題の多くは、日本社会と制度の間の齟齬から生まれてくる。
日本は家族単位で生活する。そして社会制度として封建主義に生きてきた。

我々は明治維新時に、民主制を引き受け、資本主義を引き受けようとした。
ところが、実際にはそうはならなかった。その事実を受け止めないといけない。

政治制度である民主主義。これが実践されるには、個人が必要である。
個人という存在が社会的に認められて初めて民主主義がなりたつ。
つまり、各個人が政治的存在という前提が必要なのである。

ところが日本では同調圧力が強い。そのことは明らかに民主主義とは相容れない。
他者と政治的スタンスが異なることは当然でなければならない。

一方には資本主義がある。では実際に戦後日本は民主主義だっただろうか?
いや、およそ社会主義国であった。政府が民間に口出しをし、それに従ってきたのだ。
それを普通は社会主義という。ソ連と似たような経済体制だったのだ。

そしてそれがゆえに高度経済成長が行われたのである。

それが現実としてどうだろうか。
いよいよ手詰まりを迎えた1980年後半。バブルがはじけてからの日本は見るに堪えない。
それは、社会主義国であったことに由来する。不良債権を抱えた銀行は、資本主義なら
当然潰れるのが当たり前なのだ。それにも関わらず、日本政府は銀行を支えてしまった。
同様に、多くの企業が資本主義下にもかかわらず、政府におんぶにだっこ状態なのだ。

これでは企業と政府は癒着を起こすだろう。そして、政府の力が強まることになる。
権限だけでなく予算もまた政府の手中にあるのだから。

このような政治・経済体制下にある日本で、新自由主義が跋扈すればどうなるか。

かつての成功時における分厚い中間層は瞬く間にいなくなり、ごく少数の富者と
大多数の貧者を生み出す。それは制度上、そうなっているのであって、本人の実力などは
ほとんど関係ない事だ。

それでいて、社会制度は多くの中間層がいるという事が前提になって作られている。
結果として、現実と社会制度の間に大きな齟齬があるのだが、それがわかってもなお、
制度改革しないのだ。

制度改革しないというより、制度を改悪し続けてきたのである。
問題の先送りと、社会保障の低減を繰り返し、人々の福祉はやせ細った。

社会制度によって生じた経済的格差を、個人のせいにして、
それの一方で、過剰な税を取り立てる状態になった。

様々な要因がここに絡んでくるが、本質はこうだ。

日本を操作しているのは、おそらくアメリカだろう。
結局、属国としての日本はいまだ現在進行中なのだ。

アメリカは日本に対して、理想と現実を求めた。社会制度としての理想と、
現実問題としての不沈空母化である。日本を経済的に発展させ、その利益を
アメリカに還元させる事であり、軍事的な拠点化をする事。

日本を利用してアメリカは経済的にも、軍事的にも搾取しようというのがそもそもの話。

そしてその大きな文脈はいまも続いていて、アメリカの算段として中国と台湾の
間に紛争を引き起こそうと動いている。その際に利用できる国としての日本がある。
日本は未だに独立国ではないのだ。

軍事的な予算を日本に捻出させること。
そして、かつての韓国のように、軍事独裁国家化へ誘導し、台湾有事時に代理戦争を
行わせる事を画策しているのだろう。

平時には、日本の企業株を買い叩いて、日本国民の富で株の買い支えをさせて、
値を吊り上げて、十分に上がったところで今度は売る。そうして、富を十分に
搾取しておいて、今度は軍事産業に加担させ、アメリカから軍備を買わせ、
その消費つまり戦争をするという話になるわけだ。

アメリカによる日本搾取の構造がある。

メディアや、エセ保守は、アメリカの事は一切語らず、中国や北朝鮮を仮想敵国として
報道を繰り返す。根源的な問題はアメリカによる遠隔統治なのにだ。中国や北朝鮮を
問題にする保守はすべてエセといっても過言ではない。要するに些細な問題なのだ。

日本はアメリカと向き合わなければならないのだ。

日本にある武器は、例えばアメリカの国債179兆円である。
これを売るぞと脅す事ができる。

もちろん、日本政府はそんなことができない。なぜなら、日本の政府はアメリカのいいなり
以外に選択肢がないのだから。

なぜ、岸田があれほど強硬に軍事費増強を推し進められるのか。
それはアメリカからの圧力があるからだろう。そして、見返りがあるはずなのだ。
自分の立場の存続と引き換えに、国を売るのが日本の政治家のやり口である。

それに反発すると、日本ではたちまち政権が崩壊する。
そういう誘導がなされるのだ。かつての民主党を見れば良い。
根も葉もない事柄によって、小沢氏は党首を追われてしまった。
中国と協調路線を考えた田中角栄は、ロッキード事件によって追われた。

およそ、日本における政変とは、アメリカの不利益から始まるのだ。

そしてアメリカの言いなりになるとわかれば、その政権は長持ちする。
それが安倍政権である。ただただカッコつけの体裁だけが良いアホな首相であった
安倍は、アメリカの犬としては最高の存在だったというわけだ。

そして、安倍がやめた事は、お役目が終わったということである。

つまりアメリカが求めた日本への要求を叶える状態に既に日本はなったという事だ。

緊急事態条項にしても、憲法無視の軍拡化にしても、それを求める勢力がいて、
それを実現しようという人がいるという事なのだ。

日本を再度、軍事国家化することで、一儲けしようという人間たちが
存在する。21世紀の軍事とは、誰かのゲームであって、深刻なイデオロギー闘争ではない。
そんなものはおためごかしである。

ましてや、事が起これば、美辞麗句が飛び交うクソみたいな社会になるだろう。
「お国のために生命を捧げる」という愚かな思想や、反戦・反核に対する強い否定が
起ころう。

現在の日本はもうそういう事へ向かう事ができる状態なのだ。
だが、それを危惧する人はあまりに少ない。

そして、私が思う集団としての愚かな日本人たちは、小さなきっかけで簡単に
戦争に向かう事だろう。

女性たちや社会派の多くが反対の声を上げる中、「現実主義」という名の夢想家たちが、
軍事化を推進する。そこには経済的徴兵なども含まれるだろう。

およそ誰かが死ぬのだ。そうなったが最後、あと最低でも50年は戦争に巻き込まれる。
よほどの事がなければ、紛争は終わらないのにだ。終わらせるのは限りなく困難なのだ。

関係者が死ぬまで、戦争行為は終わらない。戦争とはそういうものである。
そして終わったあとも、戦争によって負った精神的傷は、教育を媒介にして、
子孫に受け継がれていくのである。愚かな人類よ。

こんな推論が、ただのウソで終わればそれにこしたことはない。
だが、私のこの手の推論が間違ったことはない。残念だ。

安倍政権が始まったときから、今の状態になる事は明白だった。
そして、その警告をし続けて来た。

今後は彼らの行った愚政のツケを払うのだ。それも何の責任もない日本人の子孫たちが。
恨むなら、同時代の自民党政権賛同者質だ。

私は悪くない。そう言いたいのだが、全くの力不足だったことを謝る他無い。
全く申し訳ないと思う。

2023年が崩壊前夜になるか、それとも、ソフトランディングする術を見出して
そういう勢力が拡大していくのか。今後の結果を待つ他無い。
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始まった崩壊 [思考・志向・試行]

すでに崩壊は始まった。そう捉えるべきだ。
人によってはバブル崩壊がその出発点と考える人もいるだろう。

今回は要するに目に見えて、崩壊が始まったのだ。
それが2022年である。

もう目にみえているのに、多くの人は気にしていない。
むしろ、ますます仕事に忙殺されて、政治や社会のことなど気にしていられないというのか。

恐ろしいほどに庶民は無知蒙昧だ。

安倍政権になって、株価が上昇が政府によって決められた時、
それに乗じて儲けた人々がいる。その金は結局、国債となって日本という国に残存した。
その尻拭いを誰がするというのか。

社会は常に、弱者に責任を押し付ける。本来の責任者ではないのけれど。
スケープゴードは常に作り出されるのである。

庶民の暮らしがいよいよ本格的に傾き始めた。
ずっと前からそうであったが、それが目に見えて変化になった。

物価のあからさまな上昇。
それにも関わらず、大増税を予定する政府。
生活苦が待っているというのに、政府に反対もしない庶民たち。

今後の予定はこうだ。


生活を苦にした人々は、犯罪に走ることになる。
一部の人間たちはすでにそうした行為に走っている。
小さな犯罪は明らかに増大していくだろう。

これは政治の失敗なのだが、政治家たちは個人の失敗として自己責任という言い逃れをする。

この小さな犯罪を抑止しようと、政府に加担する庶民が増えるだろう。
自分の首をしめると全くわかっていない人々が、自分たちの行動制限になるような
仕組みに参画する。その一端は、マイナンバーカードのようなものだ。

そして警察権力の増大や軍関係の増強とは、最終的に反乱への牽制として機能するだろう。
その手段として、サイバー管理がある。

生活苦は結局のところ、反乱を招く。これは歴史をみれば明らかである。
戦争の多くは仕掛けられた経済困苦である。イデオロギーなどではないのだ。
戦争を仕掛けるための口実が宗教やイデオロギーであって、中身はつねに経済苦である。

これもまた政治の失敗なのだが、それもまた彼らの責任は棚上げされて有耶無耶になる。

ともあれ、我々はよりいっそう、政府から管理されるだろう。
家畜と同じである。行動だけではなく、精神的にも管理されるだろう。

軍拡反対と叫べば、世間から白い目でみられるような社会風土を醸成しようとしている。
戦争反対と叫べば、非国民と罵るやからが現れる。

日本は何も変わってないのだ。戦前から戦後まで。

そして、そういう行動様式こそが典型的で没個性的で、まったくのコピー人間なのだが、
それにすら気が付かないのが、そういうたぐいの人間である。
自分が何をしているのか何も知らないのである。

オーウェルの1984などと”高尚”なことを言わずとも、ディストピアは始まっている。
それを進んで受け入れている人間たちがいる。政府がいうからというだけで。
政府が信用ならない時代なのにだ。


では国を牛耳る人間たちは賢くも国民を奴隷化しているのか。
否。

彼らはただただ、誰かのいいなりになっているだけである。
方やアメリカ、方や旧統一教会、方や経団連。要するに政府はただの傀儡である。
背後にいるのは、世界中の資本家たちである。政治家はその表にたつ人形である。
金を操る人間たちが影響力をもつ社会なのだ。

これは陰謀論ではない。大きな陰謀を描いても、その影響力は高が知れている。
だが、決定的な部分では影響力というのが問題になるのだ。それは資本があるという
事と権威性つまり国という単位の事だ。

誰かの陰謀が物事を動かすのではなく、個々人の小さな思惑の向きが揃えば、
それは大きな影響をもたらす。その思惑とは「幻想」である。


現代は「幻想」社会である。
何が幻想か。それは金と国という幻想である。

我々は金と国という幻想に生きている。幻想だが、人々の心の中にそれがあると
信じられているがゆえに、存在する。それが金と国である。

幻想だから、実際には存在し得ないのだが、そこに本気であると信じているのだ。
え?と思った人は考え直した方がいい。金と国というのは幻想に過ぎない。

でも、現実的に金が動き、国が機能しているではないか。
もっともな意見だ。

だが、金とはなにか? 紙っぺらが自体が価値だろうか。コインはいささかマシだが、
それでも、どんな使い道があるというのか。これを幻想と気が付かないなら、外国へ
行けば良い。日本の金は、全く使い物にならない。誰も何とも交換してくれない。
そりゃそうだ、幻想なんだから。でも、彼らの幻想に合わせて、ドルやユーロに交換
していけば、彼らは交換してくれるのだ。

つまり、金とは人の頭の中にしかない幻想であり、その幻想を付与しているのが
紙幣やコインという事だ。

国はどうか。我々にあるのは、肉体と環境だけである。
どこに国がある? 見えない、触れない、聞こえない、匂いも味もしない。
これを幻想と言わずしてなんという。

我々は他者を知っている。他者との交流は存在する。つまり社会がある。
それは現実である。だが、国とは?

国とは結局、多くの人があると思いこんでいる何かであって、実体などない。
実体は人がいるだけなのだ。社会があるだけなのだ。

国が何かをするという時、それは具体的には、誰かが何かをするのであって、
国が何かをするわけではないのだ。

我々は日本人だ。それは日本と名がつく土地に生まれたという意味であって、
日本国民かどうかは別である。国民というのは、幻想をもたなければ、生まれないものなのだ。

もし、自分を日本国民と思っているなら、それは洗脳済みという事である。
もちろん、この国で生き延びているという事は、洗脳済みという意味でもある。
残念ながら、それは確実な事実である。

だから、もしアメリカに占領されて日本が51番目の州になったって、我々は日本人である。
国の幻想が、日本国からアメリカに変わっただけなのだから。それは中国に占領されても
ロシアに占領されても変わらない。ただ、自分がもつ幻想が変わるという事に過ぎない。

この程度のものに、「生命を賭して」というのは全くばかげたことだ。
我々は国民であるまえに、人間なのだから。

人間として、日本人を生きる。日本人として、日本国民を生きる。
そういう風にして我々は存在している。

よって、国というものは幻想なのだ。国は統治権力である。誰を?
そう、我々を支配する権力なのだ。我々が国ではない。もうちょっといえば、
政府という特定の集団が、残りの日本人を支配するという機能である。

政府の集団は日本人から選ぶことになっているが、その政府の人間たちは
アメリカの言いなりであり、資本家のいいなりなのだ。

つまり、資本家やアメリカの支配下に日本人がいる。これが事実である。

国のいう事を不本意に従うということは、本来自由であるべき人間としての
個が毀損されるという事だ。我々には不本意な政策に反対する正当な権利がある。

国が幻想に過ぎないのだから、その具現者である政府もまた幻想に過ぎない。
我々は、いかようにも、彼らから自由になれる。

もちろん、自由にふるまった結果、国の支配構造に影響を及ぼすなら、
国は個人を捕まえて、罰則を与えるだろう。この罰則とはつまり、国の暴力の現れである。

国はバツを与える事で、我々を支配しようとする。
その支配に我々は怯えて、支配を是としてしまう。つまりドレイになるのだ。


日本国民としての自我を作っている人にとっては、何をいっているのかと不遜に思うことだろう。
だが、人間として生きる事は人間にとって最重要課題であろう。

国という存在下において、果たして人間として生きられるのか。
せめて、日本人として生きられるのか。

私には大いなる疑問である。結局、国に生きるものは、誰一人として人間として生きられない
のではないか。この問に皆さんはどう答えるだろうか。

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意識論考02 [思考・志向・試行]

さて、神経系が意識を担うという前提での続きだ。

神経一つで意識が存在するのか?
この問いに対する素朴な回答は「否」である。

私たちは一つの神経細胞に意識を見出すことはない。

ここで一つ、大きな問題にぶち当たる。
それは、そもそも意識とは何か?である。


素朴な意味での意識とは、自分の存在性とほぼ同一だろう。
ところが他者の意識とは何か?となった瞬間に判断が極端に難しくなる。

というのも、他者は自分ではないために、そこに意識があるかどうかを
厳密に確かめる手段がない。

この議論を推し進めるとチャーマーズがいうように「哲学的ゾンビ」が問題になる。
哲学的ゾンビとは、恰も振る舞いが普通の人に見える存在だが、巧妙な仕掛けで駆動する
存在を仮定した場合、その対象に意識があるといえるのかという問題である。

つまり、我々は素朴に他者に意識があると仮定して生きている。
当然である。それが蓋然性が高いからであり、そうしておけば生きやすい。
だが、本当にそこに意識があるのか?と疑えば、その懐疑は膨らんでいく。

私たちは、自己に閉じ込められている存在なのだ。

その我々がどういうものを「意識がある」とみなすかは、ほとんど定義問題になる。

汎経験論のように、特定の事物、とりわけ基礎的な物理性に心がある考える人たちもいる。
一方で、私のように特定のシステムにおいて意識が生み出されるという創発論の人もいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E5%BF%83%E8%AB%96


どのような主義においても、およそ言える事がある。
それは「ヒトは他者の中に意識を見出す」という事だ。

それは「意図の創作」に依存する。

どういうことか。Heider & Simmelの有名な動画がある。△や□といったオブジェクトが
運動する。その時にある種の振る舞いをとると、それらのオブジェクトに「性格」があるか
のように感じられるというものだ。それはつまり、「意図」や「意識」の存在性である。

我々は動物である。その動物である我々は、生命の存続のための機能を有する。
その一つが、自然現象的振る舞いと、他の生物の行動を選りわける認知能力である。

脊椎動物の原型は魚であるが、魚たちが捕食されないようにするためには、
すばやく他の動物の動きを察知する必要があった。同様に自分が捕食する相手に
対してそれが目的の他者かどうかを認知する必要がある。

それには自然現象的な振る舞いと情報処理的振る舞いの弁別を必要とする。
ここでいう情報処理とはベイトソンがいう精神の事だ。
ベイトソンは精神過程が意識をもつかどうかは不問にしたが、
少なくとも我々は、それが必要条件であるとは認める所だろう。

「差異を検出し、その差異に応じて振る舞いを変更する事」

我々はそれが内包されている仕組みをみると、認知としての意識を見出す。
(現実問題として意識があるかどうかは不明である)

これを再帰的にメタ解釈すれば、他者に意識を見出すような存在は意識を持つ。
そうとも言える。他者の内部に意識を感じられる事=生存上有利という図式は、
まさに意識をもつが故に生じると。むろん、トートロジーである。

こうなると意識とはなにか? と問うことが愚問であると理解されよう。
要するに意識は、他の意識を探し求めているのであって、意識はつねに見いだされる事になる。
意識が存在しているかが問題ではなく、意識が感じられるかが問題なのだ。

チューリングがチューリングテストとして定義したものに近づいてきた。
さすがチューリングは彗眼だったのだ。今日ではチューリングテストを批判する意見もあろう。
だが、それは意識についての捉え方が異なるせいである。

自己の意識を考慮に含めれば、必ず上記のような話にならざるを得ないのだ。
そして、そのように配慮すれば、チューリングの提案が一つの落とし所といえる。

では、他者の意識問題はひとまずこの解釈によって棚上げし、
自己の意識問題を考えるのが良いのではないか。そう思われる諸氏もあろう。
まさに、そここそが問題なのである。

自己の意識こそが最大の問題なのだ。
他者の意識は自己の意識から派生した投影物なのだから。

ということで、次回は、自己の意識という側面を考察していくことにする。
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意識論考01 [思考・志向・試行]

たまには目線を変えて、科学的な事を気にしてみようと思う。

起源問題は問えない。我々は生まれてしまった存在である。
気がついたら生まれていたのだ。

その我々が、意識を意識する。不思議なことだが、我々は意識に気がついた。
というより、意識そのものが私達自身でもある。


現代科学では、心身一元論の立場を取る。私もこれだ。
この考えでは、いわゆる肉体から離れた心的なものを肯定しない。
(肯定しないのであって、否定しているわけでもない。)

よって、魂とか先祖の霊とか、そういうものは概念であって、
物理的実体とは考えない。また、そういう意味では来世や現世という考えも用いない。
(これらの概念を社会的な意味や、方便という意味では否定しない。)

精神的な活動はすべからく、身体に依拠していると考える。
とりわけ、脳という中枢神経系の働きとして意識を捉えることになる。

この時点で特定の人は、反発するかもしれない。
しかしながら、現象論的に意識を捉えると、魂などのような存在を物理的実体と
みなすことは出来ない。(要するに証拠がない。)

とはいえ、精神が存在しないと言っているわけではない。
それは、働きとして我々の自己存在そのものである。

少し横道にそれるが、意識というものを確固たる実態として認識している人がいる。
つまり存在としての意識である。だが、実際の意識は「働き」である。

なぜそう言えるのか。それは簡単で意識が途絶・変容されうるという事実からである。
例えば、睡眠を考えれば良い。意識は睡眠によって断絶される。
異なる例は、酒や薬を考えれば良い。意識は酒によって鈍麻する。薬によって変容する。
つまり、物理的実体によって干渉されるもの、それが意識の機能である。

結局、意識とは物理的実体から切り離されて意識が存在しているわけではなく、
中枢神経系が働く事によって駆動される働きという事である。
(少なくとも21世紀の科学的知見は、それ以上のことを主張出来ない。)

比喩表現をしておけば、「川」を考えれば良い。
川を構成しているのは地形と水である。地形と水がなければ川は存在出来ない。
そして、川はそこに厳然と存在するが、そこに「在る」わけではない。
水をせき止めれば、川はなくなってしまう。川という実体は物理的な流れであって、
水そのものでも、地形そのものでもない。水が重力に従って動き、一定量の水が
集まった時に生じている現象である。「川」は物理的実体を伴っているが、
物理的実体そのものではないのだ。

意識も同じように考える。身体における脳という臓器の働きが、意識である。
つまり、意識という現象がそこにある。

意識が現象だとすると、現象を支える実体が必要となる。
その代表的要素が、神経細胞である。(少なくとも現段階では最有力の物理的基盤)

神経細胞の働きについては神経科学を援用する事になる。
・神経は活動電位を生じる。
・神経細胞同士はネットワーク(神経回路)を構成している。
・神経細胞の活動は電気化学的である。
・神経細胞の信号伝達は、化学物質に依存する。
 など。

実に様々な事が知られてきているが、大きく言えば、信号を伝達する性質と、
信号の伝達を可変する仕組みがある。神経細胞がやっているのは、
「信号伝達と信号伝達効率の可変」である。

単一の神経細胞の挙動が意識を生み出すのか?

次回はこれについて検討していきたい。

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詭弁を弄する [思考・志向・試行]

なんだかわからんが、詭弁が多い。
事の本質をみれば、どうでもよい議論に巻き込んで、
そこで「論破」とかいう下らないことをやっている人達がいる。

その背後にあるのは、幼児性である。

コミュニケーションの本質は他者とともに自己が変わるという事だ。
ところが、詭弁を弄する人間たちは、自分は絶対に変わらないと
考えている。そして、相手から生じる反発の論点をずらして、
自分の主張を言い切るという形で、議論をする。いや、詭弁を放つ。
こんなものは議論とは言わない。

しばしば、議論でも話し合いでもないのに、それを議論や話し合いと
いう解釈をする詭弁がある。一方的に自分の話をするのは、演説であって、
コミュニケーションでもなんでもない。

加えて言えば、そもそも議論とは信頼関係がないと成り立たない。

今、世の中的に詭弁が多いのは、互いの信頼関係が崩れているという事だ。
話し合いが通じるのは、コミュニケーションをとると互いに認めた時で、
それ以外は、全く無意味である。

そういう意味では、政治の現場、もっと限定すれば国会の場で、
本当の議論がどれほど行われているのかは大いに疑問である。

多くの議論はディベートと化していて、それは勝ち負けを決めるもの。
その判断は本来、観客という第三者である。それ以外にディベートの判定はない。

ところが、昨今では片方が勝手に勝利宣言をするケースも少なくない。
それもまた、詭弁である。勝ったと口々に言う事で既成事実化を図るわけだ。

結局の所、この手の場は無意味であり、無価値であり、聞くのもやるのも
まるで無駄である。

では、なぜ詭弁を弄して、自分は勝ったという必要があるのか?
それが大問題である。


そもそもを考えてみると良い。
3歳児が、詭弁を使うであろうか? およそ使わない。
彼らはただ、自分の思うままを口にするだけだろう。

ところが、少したって、早ければ小学生ないしは中学生になると
屁理屈を覚える。揚げ足取りとも言える。

そこにある性根はなにか。それは、ごく単純に、他者を困らせたいという感情であろう。
それは翻って、かまったもらいたいという甘えである。

相手が一番反応する事を行う。これは幼児が、下品な言葉をつかうのと変わらない。
大人が困るのをみて楽しむというものだ。つまり、甘えているのである。

ところが、相手が本気になって怒る場合もある。
この時に生じるのは、申し訳ないという感情であり、やりすぎたという反省であろう。

詭弁はこの時に生じる。
相手が本気になってきた時に、生じる否定的な自己感情を否認するのである。
つまり「自分は悪くない」と考え、相手の言い分を否定するのである。
そのために使われるロジックは、いくつかある。

例えば、揚げ足取り。話していた内容の些末な部分を取り上げて、突っ込むという方法だ。
そしてあたかもそれが全体を突き崩しているかのように言い募る。

他には、誤解している作戦である。相手の言い分は、自分の主張を誤って受け取っている
からだと主張する方法である。つまりあと出しじゃんけんである。自分の意見に誤りが
あることを指摘された時、謝ったり、修正したりできないので、相手のせいにして逃げるのだ。

それから、フレームをずらす作戦もある。例えば、問題発言をした人物が非難されている事に
対して「発言によって、社会問題が認知されたのだから良かった」というのは明らかな詭弁だ。

また、ダブルスタンダードというものもある。
心理学には内集団と外集団の存在が知られているが、同じルールを内側と外側で
当てはめる時に、全く違う解釈を行い、ルールを捻じ曲げるのだ。
仲間に対しては、特別だったのだとルール適用を退け、外集団に対しては、ルール適用が
理にかなうと主張する。

要するに、自分たちに否があるときには、ルールは無視して、敵に否があるときは、
ルールを過剰適応しようとするわけだ。仲間が何度もルールを犯しても見なかったふりをし、
敵がちょっぴりでもルールを破れば執拗に叩くのである。


このような詭弁を弄する人々に一貫しているのは、
およそ育ちの問題である。詭弁を弄してまで、自己主張するのは、それが正しいからではなく、
吹き込まれた思想なりが作用しているのだ。それは負けてはならないという親の主義であったり、
勝つことしか認めないという周りの環境であろう。

可哀想なことだが、彼らはおよそ不幸な育ち方をしたのである。
そして、その不幸な目にあった事を潜在的にもつがゆえに、
そうではない他者に対して復讐しているのである。

だが、その彼らが撒き散らす復讐に感染する人々がいる。
その人々がまた、徒党を組むことで、復讐の心理が冗長される。はっきりいって、不毛である。

彼らの真の目的は愛される事。それが叶わぬなら、
悪目立ちをして自分を認識させたいと無意識に思っているのだ。
相手を叩いておいて、相手から愛されたいというのは土台無理な話である。
そんなことも分からないので、詭弁を弄することになる。

知性派にありがちな詭弁者は、およそ幼少期にハブられた経験でもあるのだろう。
それは、自己能力の過信と、他者への不作法からスタートする。
例えば、他者に対して「こんなのもわからないのか。」とか「なんで出来ないの?」とか
言ってしまう。結果として、他者の顰蹙をかうだろう。

周りも詭弁者が単に幼稚なばかりに他者の気持ちがわからない事までは気が回らないので、
相手の気持ちがわからない困った人認定してしまう。
結果として、周りから浮いてしまう事になる。

そのような彼らは、仲間に入れてもらえなかったという恨みをもち、
その恨みを晴らすべく、力を手に入れようとする。そういう能力を発揮する事で、
他者の注目を集めることが出来ると知ったことで、他者の仲間に入れてもらおうとする。

ところが、本質的に他者を馬鹿にしているので、肝心の共感が生じない。
当たり前である。相手を見下しておいて、能力をみせつけて、仲間にしろとのたまうのである。
そんな奴のどこを気に入ればよいのかという事になる。

ただ中には、彼らを利用してやろうという人間たちが近づくことはあるだろう。
彼らの能力を利用して金を作り出そうとする。それは悲しいかな、彼らのニーズとマッチする。

能力をみせつけて仲間にいれてくれという人間。
他者の能力を利用して金儲けしようと企む人間。

持ちつ持たれつである。まかり間違うと宗教じみてくる関係性である。
一部の言論系の人々が気持ち悪いのは、こういう人間関係がにじみ出ているためだ。
似た者同士で、傷を舐めあっているのである。誰とは言わないが類は友を呼ぶのだ。

ファンも居ることだろう。能力があるので、言論に面白さがあることもしばしばだ。
だが、彼らがどんなことを言おうとも心の奥底でファンを馬鹿にしているという本質がある。

一方で、彼らはファンをがっかりさせないためにも敗北者になれない。
常に賢いことを見せつけ続けなければならないのだ。それが彼らのアイデンティティなのだから。

だが、人は不完全な存在である。だから、必ず失敗する。
その時に、彼らが非を認めるのかどうか。
非を認めない人間になることを強さと勘違いし始めたら、いよいよ終わりである。

つまり、詭弁者の誕生である。

無謬な存在になれないのだから、必ず誤る事が出てくる。その時、すみませんと素直に言える
ならば、問題は生じない。だが、それを認めずに上記のように言い返し始めたら詭弁にしか
ならないのだ。

相手の主張を聞く耳をもてなくなったら、あとはディベートでしかない。
勝つか負けるかという行為にしかならない。不毛な関係だけ生み出される。

そもそもがおかしいのだから、どれほど詭弁を弄しても、本質は変わらない。
だが、ファンやただ感情的な人にとっては、印象でしか判断しないがゆえに、
それで良いと思う人々もいるのだろう。

結果、謝るより言い切ったほうが勝ちというスタイルが出来上がる。
なにしろ、謝ると損だと思うからだろう。


詭弁者同士が仲良くなることは明らかだろう。
なぜなら、境遇が似ていて、同じように扱われているのである。
共感しやすい他者なのだから。

こうして、詭弁者クラスターが生み出され、そのクラスターが権力や権限を持つと
仲間内の論理を強化させていく。そして批判者を排除するのである。
それが集団心理というものだ。

残念だがここまでくると害でしかない。
もはや手の打ちようがない。まっとうな批判すら、彼らには敵が騒いでいると感じるだろう。
そして、自分たちこそがマトモであると自己認識を強めていくのである。
気がつけば随分と遠くへいってしまうだろう。


詭弁者たちの共通項はこの他に、権威主義であることを取り上げよう。
彼らは自分の能力評価の担保を必要としている。能力をみせつけて、仲間に入れろと
いう人間たちなので、能力を評価する軸が必要なのだ。よって、彼らには個々人に、
特定の価値原理主義を抱えている。

それは往々にして歴史的人物であったり、トラディショナルなものである。

なぜか? 彼らは周りからハブられたときに、すがる縁として、
周りが認めざるを得ない権威を必要としたからである。
その一番安直なのが、トラディショナルである。

なので、詭弁者たちは一様に、トラディショナルに媚びる。
人により様々だが、権威に弱いのだ。時にそれは金という権威になることもある。

自分を評価してくれる軸であるがゆえに、そこに絶対的な価値を見出す。
それは宗教と近いだろう。権威の発露に対して憧れるのである。

よって、詭弁者たちはすべからく、権威主義になる。
どんなに取り繕っても権威を後生大事にする。そこが彼らの依り代だからだ。

国に取り付くものがあれば、学術権威に取り付くものもある。
宗教に取り付くものもあれば、金に取り付くものもある。

付け加えておけば、これらは詭弁者に限らず、弱者全般の論理でもある。
自己同一化をすることで、自己肯定したいのである。


そろそろ、詭弁者たちの描像が見えてきたであろう。
そして、彼らは決して幸福でもないという事も。むしろ、不幸なのではないかとも推察される。
間違った行動論理に陥った彼らは、袋小路にいる。最後は精神的に参るだけじゃあないかと
思うが、どうだろうか。

彼らに全く足りないのは、結局、他者への眼差しだろう。
敵ともどうにかして良い関係を取り結ぶほか無い。それには議論が必要だ。
だが、詭弁者は議論はせずディベートしかしない。なぜなら彼らの目的が、
結局、自己にあるからだ。要するに子供なのである。

大人とは社会に責任を感じるものたちだ。
社会問題の責任の一端は自分にあると考えられる人間。それが大人である。
子供は、自分は悪くない、あいつが悪いと、安直なのだ。
詭弁者たちは、結局、大人の形をした子供なのだ。



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人口動態と景気 [思考・志向・試行]

当然だが、人が増えれば、消費が増える。
増えた消費に対応するには、供給を増やさねばならない。

供給量の増加より、消費の増加の方が大きければ、好景気になる。
モノの値段は徐々にあがっていく。いわゆるインフレだ。

しかし、需要がなくなれば、供給を減らす必要がある。
これまた当然の事だろう。

つまりだ。少子高齢社会においては、需要が減るので
供給を減らさねばならない。という事だ。

ところが、資本主義は拡大再生産という仕組みであるから、
大きくしたものを小さくするのは、困難である。

仕方がないので、余った余剰資本は、儲けが見込める市場に投下される。
それが、当時は土地であったし、金融であった。いや、今も金融に資金が
流れている。つまり大きな会社の多くは金融で儲けをだしている。

その一方で本業は需要が減ったので、儲からなくなっている。
儲からないとはいえ、事業を潰すのは難しいので、
なんとか継続させようとする。その方法はコストダウン一択だ。

正社員をやめて、派遣社員に置き換える。
賃金の上昇を抑制する。
人を減らし、固定費用を下げ、その代わりにIT化などで自動化を図る。

こうやって、コストダウンをする。

結果として、企業は事業にコストを割かなくなる。
それは品質の維持の難しさや、事業を回す技術の伝播に支障をきたすようになる。

一方で、就職先を減らされた今の40代前後は、
家庭をもつことが難しい人びとが出てきてしまった。
それは減ると言われる人口減少を加速させる。

加えて、現役世代は給与の抑制にあい、可処分所得が減る。

人が減った上に、可処分所得が減る、つまり需要の急激な減少が生じているのだ。
事業者たちは、減った需要を奪い合うという競争下にある。

こうした中で、国とのコネクションのある企業は、
国から仕事を取ろうとする。国と結託して仕事を作り出すのだ。

こうして出てきたのが、例えばマイナンバー制度である。
一発イベント、オリンピックや万博である。

一般の仕事が減れば、国の仕事をとろうとするわけだ。
すると、国の政治に批判的になるわけにはいかない。
それは大手メディアも同じである。結果、国の悪政は放置されていく。
また、国と企業の結託も深化していくことになる。

減った需要を国が肩代わりしているのだ。

では、その国が出す金はどこからくるのか。
国は国民から徴税する。そう、需要が減った企業の存続のために、
国を仲介して、国民が金を払っているということなのだ。
その国民がいらぬというマイナンバー制度を、国民の金で作る決めたのだ。

そして、その金は国債という借金である。未来の国民からの借金である。
はっきりいって、子孫にとっては大迷惑である。生まれた瞬間から債務を
抱えているのだ。よりにもよってバカものたちが、愚策をしたせいで、
生まれた瞬間から、重税を課せられる運命にある。

現在、国は足りない金を現役世代から調達するためにあらゆる形で
税を拡張しようとしている。年金支払いを増やし、保険料を増やし、
消費税をあげ、生活の細々した料金に税を乗せる。どうにかして、
過大になりすぎた借金を減らそうとしている。

その金はそもそも、借金するに値するものだったのか??
未来の子どもたちのためにもつながる金の使いになっているのか?

否。

近視眼的に現在の企業の存続のために、国は金を使っているのだ。

そもそもに立ち返ろう。
企業は、内部留保が過剰になった。つまり投資先がみつからないのだ。
そこで、投資先と事業の継続を求めて国と結託した。

だが、考えてみれば、それは労働者への可処分所得を減らしたからであろう。
つまり需要を減らしたがゆえに、供給過剰になり、それを解消するために、
国に仕事を作らせているのである。

企業が金を労働者に与えれば、消費は増えるだろう。
現代は、需要が減ったのではなく、可処分所得が減ったのだから。
BIの導入が議論されているが、そこに行く前に、まずは企業は内部留保を吐き出して、
給与にすべきなのだ。コストダウンは生産部門にのみ適応し、人件費はあげいくほかない。

企業は顧客を自分で減らしている。そういうことなのだ。

そして、ただでさえ顧客を減らしているのに、
それが長く続き過ぎたせいで、人自体が減ってしまった。

人が減れば、需要がなくなる。今までは可処分所得が減っているだけだったが、
今度はまるで違う。需要がなくなるのだ。

どんなに企業がコストダウンしようが、投資先を国に求めようが、
需要自体が消滅すれば、いわゆる事業はどんどん潰れるであろう。
長い目でみれば、あと30年で相当に事業はつぶれることになる。

とりわけ小さな会社は経営が困難になる。
それらの会社は、大企業の資本によって取り込まれていく。

人が急激に減るならば、企業も縮小するほかない。
つまり、儲けをへらす他無いのだ。

だが、資本主義というか利子主義では、そういうわけにはいかない。
必ず今より大きな経済状態を維持しなければ、ならないからだ。

要するに、企業の存続と社会システムに矛盾がある。
こういう仕組みはいずれ破綻する。破綻しないほうがおかしい。
今は、破綻するまでの合間ということである。


国と企業がやっているのは、マッチポンプ的に事業を生み出すことだ。
その流れが、軍事産業である。そして、その使用である。つまり戦争だ。

アメリカはそうやって経済を回してきたのだ。
日本がアメリカを目指すなら、必ずそういうルートに入り込んでいくだろう。

企業の存続のために、人を殺す。これが21世紀なのだ。

バカバカしい。
実にバカバカしいのである。

私には無価値な事柄だ。だが、実に多くの人々、とりわけ長のつく者たちの関心事は、
その無意味で無価値な事を存続するということに心血を注いでるわけだ。
そして、その後釜をつぐために、子どもたちは学校にいき、学歴をつけ、
これらの行為に加担していく。その仕組に組み込まれれば、抜け出すことは容易ならざること。
家庭を作り、そこで労働者を再生産する。要するに、企業存続のためのドレイと化すのだ。

それを素晴らしいという美辞麗句でかため、
自分たちが本当に何をしているのか、全く無知な状態で人生を終えていくのである。
本人たちはそれで素晴らしい人生と思っているのだろうが。

時に、この仕組からこぼれ落ちる人達がいる。そして、そのこぼれ落ちた人たちは
目が覚めるのではなく、絶望という感情に陥ってしまう。私のようにはならない人が
大半だ。

社会の仕組みを憎む。その憎悪は社会の弱いところへと向かう。
老人であったり、子供であったり、女性であったり、社会的マイノリティにだ。

無価値なことに一喜一憂し、その嫉妬から、憎しみから、社会をますます過ごしにくい
ものに変えてしまう。そこにあるのは、悲惨としか言いようがない世界である。
そして、そのような世界はもうあるのだ。アメリカにある。そして日本にも生まれつつある。

生態学的に必然的な流れが、社会システムと矛盾を起こすとき、人は動揺する。
そして、近視眼的な成果を求め、結果として大きな破綻をもたらす。

現在は、その過渡期である。これは必然なのである。
社会の仕組みと、人間のあり方が矛盾があるからだ。

人間のあり方をまず手前にして、社会の仕組みをあとにするべきなのに。


私はなにも、金儲けが悪いとかビジネスが悪いと言っているわけではない。
この時代では、誰しもがなんらかのビジネスに絡むほかない。
しかし、ビジネスの本質は、経世済民である。要するに助け合いである。
それを媒介する手段が金というだけのことだ。

人びとは金に振り回され、金にしか興味がなくなってしまう。
それが現代病でなくしてなんであろう。

金自体が悪いわけでも、ビジネスが悪いわけでもない。

問題なのは、社会のシステムと人のあり方の矛盾である。
資本主義的な社会は、そもそもに矛盾を内包しているのである。

よって、私はこの社会システムは調整が必要なのだと思う。
短絡的な人は、すぐにこう思うだろう、いや社会主義や共産主義は駄目だと。
そういう脊髄反射はやめた方がいい。

現状に問題がある。ならば、現状システムのどこに問題があるのかを認識して、
それを変えていくほかない。それはかつて成功した方法でも、状況が変われば
失敗の手段に成り変わるという事でもある。

現代社会の仕組みは、資本が資本を生む仕組みである。
金が増えるのだ。それは全く不可解である。不可解であるがゆえに、おかしなバランスを
生み出す。格差である。

格差は、結局、人びとの心を蝕む。その蝕んだ心は、争いを生み出すだろう。
争いは、競争という名で、飾られるだろう。
そして、こういうのだ。「仕方がなかったのだ」と。

やはり、バカバカしい。
私には無価値である。どれだけ金を積んでも、買えないモノはたくさんある。
新しいものを生み出すのは金ではなく、人である。

その人を暴力で押しつぶし、資源を確保してみたり、マーケットを独占してみたり、
他者を支配する事は、一体なにを生み出すというのか。

我々はよーく、考えた方がいいのである。
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何も考えてない政策 [雑学]

マイナンバーカードを義務化する。そういう動きが出てきた。
いや始めからそのつもりだったのだろうさ。

その理由の一つは、国民の資産管理である。
保険証や免許にタグ付けられたカードに、いよいよ口座の義務付けが始まるだろう。

その手前にいる段階である。

政府の思惑は、ひとつには、仕事のばらまきだ。
通常営業では利益がでなくなった業界が、政府に仕事を持ち込んでいる。
マイナンバーカードにかかる利権構造があって、受注した会社は以後、
国から仕事を得ることができる。そういう算段なのだ。

これは国民から金を巻き上げて、仕事として特殊法人経由で大企業に金を配るということだ。
配ると言っても仕事はするわけだが。

政治家はキックバックがあるし、官僚たちは特殊法人の権益増大と天下り先の確保になる。
そして経済界の一部は、マイナンバーカードの仕事を得ることできる。

そのための口実として、便利になるだのなんだのと、御託を並べていいるわけだ。
なんなら、ポイントといって、金をくっつけてまでカードを作らせようとする。

要するに、利益があがるからやる。それだけだ。

ただ、この仕組を作って、持続的な事になるのだろうか?
一元化することを良いと解釈する人間たちである。メリットにばかり目がいっているのだろう。
支配者にとって、人民の情報一覧が出来上がるわけだから、メリットである。

一方で、カードを持たされる側は、要するに家畜番号をつけられるわけだ。
家畜のバーコードと同じである。我々はあれになる。
その結果生じるのは、人ではなく情報として扱われるようになるというデメリットである。

こう書いても、「それくらいなら、自分は気にしない。むしろ便利になった方がいい」と
いう人もいるだろう。これについては2つの怖さを理解していないからだ。

一つは、カードの一元化は、資産管理を強制される事と、行動や言動を奪われる可能性を
秘めている。となりの中国をみればすぐにわかる。人の評価が機械的に行われている。

例えばこうだ。政府から危険人物とみなされれば、ただちにカードに制限が加えられるだろう。
要するにバツだ。犯罪を犯したものは、ランクを下げられ、公共機関などの使用が制限されたり、
拒否されるだろう。極端になれば資産凍結である。それを、思想犯という事でおこなうことも
可能となる。

政府に逆らうものにバツを与えるという権限を与えることになってしまうのだ。

くだらないと思うかもしれないし、自分には関係ないと思うかもしれないが、
それはただの現実逃避である。いつ自分が否応なくトラブルに巻き込まれるかもしれないのだ。
そして、その結果が一生、カードとともに自分についてまわるとしたらどうだろうか。

政府がどれほど重税を取り立てても、それに抗議した途端に、カードがイエローに変わる。
その結果、飛行機に乗れない、新幹線に乗れない。そんな事に使うことだってできるのだ。


2つ目の怖さは、上記に絡んで、人々の精神的な圧迫である。
カードに不利益な記載をさけようとするならば、何もしない事が良く、指示に従う方がいい。
牧場主に逆らわない事がもっとも安全な行動になるだろう。

つまり、実にひねた人間になる。そしてそれが「強制」されるという事である。

もっと恐ろしいのは、政府がこのような方針をとったとき、それに同調する金魚のふんが、
大量に発生することだ。そして、密告が奨励されることになる。

密告されることを恐れる人々は、日々を怯えて行動する他無い。
ハッキリ言って、人生の多くを奪われてしまうだろう。

要するに奴隷化である。目に見えない形での奴隷化が現在も進行している。
そして、その奴隷化によって、利益を得る人間たちがますます利益を得るという事だ。

まったく気持ち悪いではないか。


マイナンバーカードが保険証や免許証に使われる事事態は、大したことではない。
問題は、そのようなカード利用を押し付けるものたちが、非常に不誠実な人々であり、
カルト集団とつながりがあるという事だ。

悪用を考える人間たちでないとどうして言い切れようか。

結局のところ、政府は完全に産業界とカルト宗教に乗っ取られた形なのだ。
そして、国民の金をつかって彼らが、さまざまなことを通じて金を懐にいれているの
を庶民はただただ見過ごしているのである。

ちなみいっておくが、メディアなんか信用してはいけない。独立系のメディア以外は、
基本的に政府や業界団体のプロパガンダを流していると認識する必要がある。
大手メディアは、国に首根っこをつかまれて、身動きがとれないのだから。


では、庶民はどうすれば良いのか。
ひとつには、現状の自民党にはNOをつきつけることだ。
かつての自民党に思いをはせるのは勝手だが、いまの自民党それも行政府はカルト集団と
結託している存在である。危険極まりないではないか。まずはNOをつきつけることだ。

といっても、地元の支持者たちは、結局考えを変えることはできまい。
ハッキリ言って、政策で判断する人間はいないからだ。そうして、ただの見かけで、
人々は投票する。イメージにすぎないのに。そうやって日本の政治は馬鹿になり続けた。
その結果が、長期安倍政権である。あんなのは不正をやっても追い落とせない民度の
低さの例であって、恥の象徴といってよい。

安倍政権を支持した人間は、無知か、狡猾か、どちらにしても自己反省すべきであろう。
今後、日本が壊れていくが、その最後のひと押しをしたのが安倍である。


庶民として、現在マイナンバーカードを作ってない人は可能な限り作らないことだ。
今の政権時に焦って作ることはない。彼らが横暴に実力行使に出てきて、どうにも
ならなくなったら従うという事だ。

一見無駄にみえるかもしれないが、簡単にはいいなりにならないという態度こそが
彼らがもっとも嫌うものなのだから、そういう戦略をとるべきなのだ。
強者に対する従順さは、最大の敵である。


むろん、私には結果は見えている。庶民は結局、長いものに巻かれていく。
事大主義なのだ。主義や主張にたいする根強いアレルギーが江戸時代からある。
日本人は、そういう風に作られてきたのだ。それを急に変えろとはいかないだろう。

もっと最悪なシナリオは、カードへの過度な依存であり、言動制約であり、
それは、かつてミシェル・フーコーが主張したパノプティコンとなるだろう。

一方で、日常的には実に滑稽なトラブルが続出するだろう。
老人たちはなんのことやらわからずに、あらゆるトラブルを作り出す。
日本は高齢社会であることを政府は忘れているようだ。

まずカードをなくす。暗証番号を忘れる。これによる担当者の仕事が増大するだろう。
番号が秘匿でなくなれば、個人情報が流出する。一度でた情報は二度と消せない。
つまり、我々の個人情報は、オープンにされてしまったようなものになる。
気持ち悪いのは、オープンになっているのに、秘匿されているフリをする事だろう。

政府がいざとなればカード内容を参照できるのだ。
政府は可能な限りカードの内容を増やそうと試みるだろう。
家畜管理に便利な方がいいのだから。



ここで提案がある。デジタル署名を使った個人認証カードをNGOが発行してしまえばどうだ。
AI管理体制で、カードを認証するような仕組みだ。人の手が可能な限り入らない仕組み。
私が思うに、政府の行動が異常なら、我々は我々で行動する他無いのだと思う。

政府の仕組みを形骸化する他に、我々が直接行動できることはない。



国とは個人を助ける良いもの。そういう認識がかつてはあった。
だが、結局、歴史をみれば、国とは内実は、特定の少数集団が、多数集団を支配する仕組みの
一つにすぎないのだ。そして、その方式の根幹は、暴力である。

国の軍は、歴史的事実からいえば、自国民を一番殺している。
この事実をしらない人間が多すぎる。だから、防衛のための軍事費増加に賛同などするのだ。
無知も甚だしい。みんな、自分の金で殺される可能性が高まるのにだ。

国は最後は暴力にでる。

その暴力に抵抗する暴力は、否応なしだ。私は暴力反対だが、国の暴力には断固として抵抗する。

日本という国に生まれてしまった不幸。
だったら、その不幸をぶちのめす他ないのだろう。


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座り込みの話題 [雑学]

辺野古の基地建設に反対する陣営による「座り込み」が行われている。

基地を作らせまいという行動は市民の抵抗として理解されるべきものだ。
もしあなたの地元に基地を作ると国が宣言し、ある日突然ダンプカーが
押し寄せたらどうだろうか。必要ならば抵抗しようとする事だろう。

さて、その活動が24時間体制かどうかが、問題になっているらしい。
それはひろゆき氏が、現場にいって、座り込みをしてなかったと揶揄した事から
話がもりあがっているようだ。


ひろゆき氏の言ったことは、悪意のある揶揄である。
24時間体制でなければ座り込みでないかどうかなど、はっきりいってどうでも良いことだ。
それをひろゆき氏はわかった上で、なお、24時間座り込んでいないかあととぼけてみせた。
その悪意に対して、同調した人間が、20万ほどもいるらしい。

私はその方が怖い。

子供の屁理屈のように24時間やってないと指摘する事で、
事態を遊んでいる人間に対して、どれほどの人間が、マジで賛同したかである。
そして、事態を遊んでいる事をしった上で、賛同を送った腐った人間がどれほどいたかである。

かねてより、国が行うことに対して反対する人間を非難する人間は一定数いる。
そういう思想があるのはわかるし、その幼稚な発想もわかる。
権威に従わぬ人間に対して、正義漢ぶるというやつである。

そこには何の思慮もない。思慮がないので見かけ上で、物事を判断する人間になる。
まさに、ひろゆきの言うことに賛同するようにだ。

考えが浅い人間たちは、本音ではこう思っている。
国の決めたことに楯突くやつは、あぶない奴なのだと。
そして、そういう連中は排除されるべきなのだと。

完全に思考が停止しているので、権威が正しいと思い込む、まったくチョロい人間たちである。
そして、ひろゆきに転がされていることもに無自覚で、抵抗者を批判することを正義だと思っている
のだろう。


端的にいえば、ひろゆきの言明など無視する事だ。
彼の発言は、ハエやカみたいなもので、まともに扱うだけバカをみる話である。
その一方で、そんなことにこれほどの人間が煽られるとはどういうことか。
私には、知性の劣化が著しいのかと疑うものだ。

一部の若者たちに、こういう人間性を疑う人々がいる。
他者の存在を尊重しない人間たちのことだ。
ちゃんといってしまおう、要するに、下品な連中だ。

下品さはどこからくるか。それは「弱いものいじめ」をするからである。


今回の騒動の発端は、国と沖縄の住民との対立だ。
辺野古に基地を作るという強者と、それに抵抗する弱者がいる。

この時に、弱者が叫ぶのは当然である。私は彼らには叫ぶだけの理由があると思う。
なぜなら、物事の決定権は彼らにはないのだから。にも関わらず、彼らの生活が
脅かされるからだ。

その訴えが、24時間体制であろうがなかろうが、そんなことはどうでも良い。
むしろ、彼らがそれを誇張するのだって当然だろう。そんなことは批難するような
事ではない。問題は、彼らがなぜ座り込みなどをしなければならないのかという事だ。
それは弱者であるかれらが出来るせいぜいの行動なのだ。

であれば、権力を保持すれば良いという人間がいるだろう。
沖縄県民の民意は正確にわかっている。基地建設反対である。
沖縄の代表はそう主張しているのである。

そして国の代表は、沖縄の意見を無視している。
つまり、我々国民が、沖縄の人々の意見を無視しているという事だ。

その事実に目を向けずに、彼らが叫ぶ事に対して、視野狭窄的に
座りこみは24時間でないなら、偽りがあると揚げ足をとるのは、
まことに愚かだろう。

知性がなく、思慮がなく、背景も知らず、何も考えたことがない連中が、
座り込みを迷惑行為とみなす考えに同調した。それだけなのだが、
それが大問題なのだ。

私は弱者の叫びには、耳を傾けるべきだと思う。
知ってから、物事を判断するべきなのだ。

一方で、強者の反発に同調する人間たちを卑下する。
単純に人間が悪いからだ。そういう連中たちが、もっとも恐ろしい事をしでかす。

トランプに煽られて国会議事堂に乱入して人を殺した人々は、
まさに、そういう連中であった。
頭が悪いことは仕方がないが、人が悪いのはその人間の責任だろう。


世界は非対称なのだ。

パウロ・フレイレ曰く「権力側と抑圧される側との闘争に"関わりたくない"と宣言することは、
すなわち権力側に与することを意味する。決して"中立を保つ"のではなく」

権力側と抑圧される側がある。私は常にまず抑圧される側に立つ。
なぜなら、明日は我が身だからだ。抑圧される人間たちの行為が正当であるならば、
行動を正すべきは権力側であろう。

一方で、抑圧される側の問題点を指摘し、権力側の圧力に同調するものを嫌悪する。
長いものに巻かれるのは処世術だが、ことは倫理的問題なのだ。

トラブルにおいて権力側が正しい事が果たして、この世にあっただろうか。
私は大いに疑問だ。

今回のひろゆきの話は、要するに、強者と弱者の対立に、よこから愚かなおっさんが、
口を挟んだという事である。そしてそのおっさんに、同調する心汚れた人たちが
相当数いたという事だ。

もし、「いや、彼らの24時間という主張は事実としておかしいだろ、そうだよなあ」とか
まだいうのであれば、いっぺん死んで人間やり直したほうがいい。

それが事実だとして、なんだというのか。
問題は、自分たちの生活を守ろうとする人間たちが困っている。
その訴えの手段としての「座り込み」なのだ。


本当はこれはもっと、根深い問題につながっているが、
それはまた今度にて。
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