愛国的リバタリアン [思考・志向・試行]

内田樹氏のブログを読んだ。
http://blog.tatsuru.com/2018/08/04_1031.html

このブログが論じているのは、リバタリアンと呼ばれる思想が日本においては、
愛国という思想と繋がり、大いなる自己欺瞞を起こしているという事。

全くそのとおりだと思う一方で、この枠組みをもって、ホリエモンやDaiGo、
果ては自民党議員たちやネトウヨなどを考察するとピッタリだと気がついた。

ホリエモンの思想は、おおよそリバタリアンと言って良いだろう。
個人の自由を第一に尊重していて、それ以外は二の次三の次で、
もっと言えば、能力主義であり、個人主義であり、功利主義でもある。

リバタリアンは、能力あるものが、その能力を発揮して利益を享受する事を望む。
一見当たり前に見える事柄だが、これでは社会が回らない事はハッキリしている。

彼らは自分の能力で得たものは、全て自分のものであると主張する。
利益は自分の努力の結果なのだから、自分にその運用の権利があるという。

これに対して公共という事が問題となる。社会インフラは公共性を持つ。
ゆえにその維持のために税金が徴収される。同様に、福祉のために保険料や年金が
徴収される。これは上記のリバタリアン思想に反するものとなる。なぜなら、
自分の利益を公共に差し出さなければならないからだ。

だからリバタリアンとは、税や保険料に対して反対することになる。
同じく生活保護や社会福祉活動自体にも嫌悪を示す。
その理屈は、自己責任である。

すべての人が努力する自由がある、金を儲けるチャンスがあるのに、
それをしないでいるので、貧乏になったり不健康になったりしているのだから、
それは自己責任であり、自ら選び取った結果に過ぎないと解釈する。

おそらくこれに賛同する人もいることだろう。
私はそれを否定はしないが、そういう人間と友人になるのは困難だと言わざるをえない。

実際的には、リバタリアンの主張はこうだ。
「自分は能力や恵まれた環境があってそこで利益をだせるが、それを社会制度によって
とられるのは我慢ならない。ましてや何もしてない弱者がその恩恵に預かる事を許容しない。
自分の自由(金銭的・制度的)を国や弱者は奪うな。」と。


私はこれは幼児性の現れだと思う。彼らは大いに自己欺瞞的だ。
社会が用意した状況・環境があり、その社会においてたまたま自分が
能力や機会に恵まれたという事実があるのだが、それを無視する。
社会からの恩恵があったから、自分の能力が発揮出来ているのであって、
その逆ではない。個人が社会インフラを作ったわけでもなく、社会制度を
作ったわけでもない。それにも関わらず、利益をすべて自己の行為の結果として、
自分のものであると主張するのは、少なくとも狡猾であると言われて当然だ。

ホリエモンに能力があるのは良いとして、彼が得る利得全てがその能力のおかげでは
ないのだ。それが念頭にない事が彼らの大いなる欺瞞である。

例えば、車会社が車を売る。利益を得る。これだけをみればその利益は
彼らだけのものであろう。だが、車を走らせるには道路がいる。
では道路を作ったのは誰か? それは「皆」である。
国や自治体が金をだして道路を作り出している。その道路を使う前提の商品は、
当然、公のシステムに依存していることになる。ならば、車会社が得た利益の
一部は少なくとも皆の利益でもあろう。

リバタリアン的視点で、上記をいうなら、まず道路の土地を買い上げて自分で
道を作り、その上で車を販売する事が、能力であり実力であり、その利益を
独り占めしても誰も文句を言わないだろう。無論、そんなことは出来ないのだが。

要するにリバタリアンの姿勢とは、暗に公共財やみんなが共有する文化などに
依存しながら、一方で、明に競争主義で得た利益を自分のものとして主張しているのだ。
論理破綻しているのだが、そこは意図的・無意識的に無視している。

なぜホリエモンが宇宙開発に力を入れているか、これでわかるだろう。
同じくリバタリアンのイーロン・マスクも同様だが、要するに公共財が存在しない
空間にシステムを構築すれば、そこの上がりは全て自分たちのものだと主張できるからだ。

火星に自分たちで基地をつくり生活の場を作り出せば、既存のシステム外なのだから、
そこでは自由を大いに謳歌できると考えているわけだ。自由を存分に活かせる世界の
構築が彼らの目指す所となる。

IT産業においてリバタリアン的思想が強い。その理由は、IT産業には既存性が希薄だったからだ。
システム自体を構築していった経緯があるために、リバタリアン的になるのも分かる。
自分たちが作ったシステムにおいて、自分たちが作り出した利益なのだから、なぜ
公共に寄与する必要があるのかと。

さて、もう気がついていると思うが、上記のリバタリアン的思想は、強者の論理である。
要するに、能力あるものがリソースを独り占めして何が悪い?という態度だからだ。

よってリバタリアンは案外、既得権益と思想的に類似する。
既得権益者たちは、利益確保できる権威や権限を持つ。かれらはそれを手に入れたのは、
メリトクラシーによると言うだろう。つまり能力主義だ。既得権益を手にするために
自分たちは努力したのだから、その努力の対価を得て何が悪い?という事になる。

時にリバタリアンと体制側というのは、対峙しているようにみえるかもしれない。
既存体制から離脱して自由を謳歌したいというリバタリアンだが、その内実は、
体制側と全く同じ思考パターンなのだ。単に、既存体制に組み込まれるが嫌な人々が、
その外側に新たに自分たちの体制を作りたいというだけの現象なのだ。

簡単に言えば、もともとの土地にいる豪族がいて、そこに新興の勢力が来たというだけ。
もともとの土地を新興勢力が既存ルールで求めたら、体制側の論理で跳ね返されるので、
新興勢力は、別の土地(宇宙や海や仮想空間)に場を求めて移動する事にしたのだ。


では、リバタリアンの何が問題か。
強者の論理なので、能力がないものには滅法冷たい上に、社会的弱者にも冷淡だ。
理屈は既に述べた。そしてリバタリアンの思想は社会的な分断につながっていく事になる。

社会的弱者が必ずしも能力がないとはいえない。また、不幸な事実によって貧困状態に
あえいでいる場合もある。本人に責務がない事も少なくない。病気や事故など様々な
要因がある。

また、社会的な体制も問題だ。日本は非正規雇用という半ば奴隷的状態を法的に許容している。
それは学歴差別や女性差別などに由来し、同じ仕事でも給与に差をつけたりする事を合法化
したものである。そういう状況は改善すべきであるが、それは体制側が許さないのである。
それをすれば既得権益が崩れるからだ。ともすれば、体制側は能力主義ではないという事
なのだ。学歴や人脈といった二十歳そこそこでの評価を使って、能力がなくても利得を
得られるというのが既得権益者たちのご都合主義である。

リバタリアンはこのような既得権益のご都合主義は忌み嫌う一方で、能力主義を第一に置く。
能力を発揮できない状況が他者に由来する場合に、それを批判する。

ところが現実問題として、能力というのは相対的だ。全てにおいて秀でるというような
スーパーマンは存在しない。そして能力には限界とピークがある。よって、能力主義を
完遂しようとすれば、必ず最後は負けることになる。つまり、リバタリアンは自分たちの
刃で、自分たちを貫くことになる。それは必然だが、彼らはそれを知らないのである。

加えて言えば、能力があることと、利益を獲得することの間には弱い相関しか無い。
逆に利得を得ている人たちは必ずしも能力があるわけでもない。これもまた事実である。
結果として、そもそも計りようがない能力なるものと、その結果である利益とつなげることが
無理なのである。

リバタリアン的な社会を目指すとどうなるか。それは要するに能力によるヒエラルキーで
あり、それは社会的な格差を生み出す。一部の人間が多くの富を得て、多くが貧困に
あえぐだろう事だろう。それで良いというのがリバタリアンなのである。
そして、皆が自己利益ばかりを追いかければ、相互不信を招き、ギスギスした社会になるだろう。
誰が公共財を保持する責務を負うのか。徹底的にリバタリアンになれば、国はあえなく崩壊する。
そして、待ち受けるのはホッブスがいったような万人による万人の闘争だろう。

暴力も能力なのだから、リバタリアンは暴力で財や生命を奪われても文句は言えまい。
能力主義とはそういう事だ。だからリバタリアンは夜警国家を主張する。その保持には
手をかすのだろう。

社会的弱者は努力不足で能力不足。だが、彼らもいずれは社会弱者になるし、努力できなくなる。
歳をとることを忘れているのである。その時に彼らは思い知るだろう。社会に包摂されない事
の悲劇を。とはいえ、彼らは財によって人を雇うという事でそれを補うつもりらしいし、
なんならテクノロジーで歳をとらないように試みるのかもしれない。

このようにリバタリアンを考えを考察すると、実社会のニュース、とりわけ新しいと
言われるニュースの方向性が分かるだろう。なぜ彼らが仮想現実や宇宙などに手をだすのか、
なぜ彼らがテクノロジーの信奉者なのか、なぜ彼らは社会問題に無関心なのか。なぜ
仮想通貨を発展させようとするのか。全て、リバタリアン的発想だという事なのだ。
そこに公共とか福祉とか、そういう発想が皆無なのが分かるだろう。そして、すべからく
金持ちや権益者たちの理屈であることも。


ここで、内田氏の考察に戻ろう。内田氏は日本においてはリバタリアンの前に
愛国が継ぎ足されると主張した。いいえて妙である。

本来リバタリアンは能力がある人間が主張するもの。ところが、世の中には「自称」リバタリアン
や「妄想」リバタリアンがいる。自分の状況をとてつもなく勘違いしているか、自分の状況を
直視できないリバタリアンが存在する。彼らは本来弱者なのだが、事大主義なためにリバタリアン
に媚びたり、憧れたりする。いや劣等感があるからこそ、自称リバタリアンになるのだろう。

その彼らが明に能力主義の個人主義を唱えることはない。なぜなら、自分の弱さが露呈する。
内田氏がいうようなあっけらかんとしたリバタリアンにはなれないのだ。そこで、愛国が
登場するのである。

愛国というスパイスによって本来反体制のリバタリアンから、体制型リバタリアンが
生まれる。彼らは、社会的弱者とは「外国人」なのだという認識を持つと内田氏はいう。

社会的弱者がリバタリアン的思想によって構造的に作り出されるという事は棚に置き、
日本における弱者とは、在日であるとか、移民であるなど、そういう人々であり、
そういう人々が、社会的福祉を「ねだっている」とか公共財を「くすねている」と考えるのだ。
だから、外国人をスケープゴートにする。もしくは社会活動する日本人が攻撃対象となる。

社会的な弱者とは、ごく普通の人々なのだ。そして誰しもがその弱者になる。
それが全く理解できないのが、愛国的リバタリアンである。
自分が社会的弱者とは認識できない程度の能力だからこそ、ネトウヨなどをやっているわけだ。

自分の生活が苦しいのは、体制側の既得権益構造やリバタリアン的思想のせいなのに、
そこに取り込まれているがゆえに、さらなる弱者を見つけて、つまり外国人を指さして
自称リバタリアンを装うという事になる。

優秀なリバタリアンもいれば、能力不足のリバタリアンもいるという事だ。そして、
後者はしばしば、愛国的リバタリアンになる。実にはた迷惑な事だ。


DaiGoのホームレス問題炎上があったが、あれは実にリバタリアンらしい発想だった。
要するに、自分のせいでそうなったのだから、放おって於けば良いという考えなのだ。
そこには、他者への共感や同情といった感情が欠如している。そして自分もそうなるかも
しれないという発想がない。

正義論を書いたロールズは、無知のベールという概念でリバタリアン的考えに一石を
投じた。もし自分が立場を入れ替えたとして、その置かれた状況に対する対応が妥当か
どうかを検討せよという主旨である。なんらかのトラブルでホームレスをやっている人がいて、
そのホームレスになった時に、何も手当しないという政策が妥当といえるかどうか。

近年では、結局、自分の置かれている状況は切り離せないのだから、そこに妥当性はないと
一刀両断する人も少ないらしいのだが、私にはやはり一考の価値があると思う。



リバタリアンは強者の論理であり、社会の構成員の多くはその論理に乗れない。
乗れるとしたら、愛国的リバタリアンになる他無い。自分に嘘をついて。

私には自己中な人にしか見えないリバタリアンだが、彼らはそれで良いという人々なのだ。

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