意識論考01 [思考・志向・試行]

たまには目線を変えて、科学的な事を気にしてみようと思う。

起源問題は問えない。我々は生まれてしまった存在である。
気がついたら生まれていたのだ。

その我々が、意識を意識する。不思議なことだが、我々は意識に気がついた。
というより、意識そのものが私達自身でもある。


現代科学では、心身一元論の立場を取る。私もこれだ。
この考えでは、いわゆる肉体から離れた心的なものを肯定しない。
(肯定しないのであって、否定しているわけでもない。)

よって、魂とか先祖の霊とか、そういうものは概念であって、
物理的実体とは考えない。また、そういう意味では来世や現世という考えも用いない。
(これらの概念を社会的な意味や、方便という意味では否定しない。)

精神的な活動はすべからく、身体に依拠していると考える。
とりわけ、脳という中枢神経系の働きとして意識を捉えることになる。

この時点で特定の人は、反発するかもしれない。
しかしながら、現象論的に意識を捉えると、魂などのような存在を物理的実体と
みなすことは出来ない。(要するに証拠がない。)

とはいえ、精神が存在しないと言っているわけではない。
それは、働きとして我々の自己存在そのものである。

少し横道にそれるが、意識というものを確固たる実態として認識している人がいる。
つまり存在としての意識である。だが、実際の意識は「働き」である。

なぜそう言えるのか。それは簡単で意識が途絶・変容されうるという事実からである。
例えば、睡眠を考えれば良い。意識は睡眠によって断絶される。
異なる例は、酒や薬を考えれば良い。意識は酒によって鈍麻する。薬によって変容する。
つまり、物理的実体によって干渉されるもの、それが意識の機能である。

結局、意識とは物理的実体から切り離されて意識が存在しているわけではなく、
中枢神経系が働く事によって駆動される働きという事である。
(少なくとも21世紀の科学的知見は、それ以上のことを主張出来ない。)

比喩表現をしておけば、「川」を考えれば良い。
川を構成しているのは地形と水である。地形と水がなければ川は存在出来ない。
そして、川はそこに厳然と存在するが、そこに「在る」わけではない。
水をせき止めれば、川はなくなってしまう。川という実体は物理的な流れであって、
水そのものでも、地形そのものでもない。水が重力に従って動き、一定量の水が
集まった時に生じている現象である。「川」は物理的実体を伴っているが、
物理的実体そのものではないのだ。

意識も同じように考える。身体における脳という臓器の働きが、意識である。
つまり、意識という現象がそこにある。

意識が現象だとすると、現象を支える実体が必要となる。
その代表的要素が、神経細胞である。(少なくとも現段階では最有力の物理的基盤)

神経細胞の働きについては神経科学を援用する事になる。
・神経は活動電位を生じる。
・神経細胞同士はネットワーク(神経回路)を構成している。
・神経細胞の活動は電気化学的である。
・神経細胞の信号伝達は、化学物質に依存する。
 など。

実に様々な事が知られてきているが、大きく言えば、信号を伝達する性質と、
信号の伝達を可変する仕組みがある。神経細胞がやっているのは、
「信号伝達と信号伝達効率の可変」である。

単一の神経細胞の挙動が意識を生み出すのか?

次回はこれについて検討していきたい。

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