意外とみんな分かってない [雑学]

何が必要な事なのか。
簡単な事で、自分が真に欲する物を得る事、ではないか。



大抵の人は、誰かが欲する物を得ようとする。それが人の心理。

あなたが学生で受験勉強を頑張っているとする。その結果、合格したとして、
本当にそれをあなたは望んだのだろうか? 周りが羨むから、周りから一目置かれるか、
親や先生が喜ぶから、そういう事ではなかったか? 

あなたが就活してなんとか滑り込んだ会社で、我慢し続けるのは、
その会社にいるという事で得られる金だけでなく、周りがちやほやするから、
自尊心を満足する事に気を取られてはいないか?

ちょっと旅行にいく。その時、何しにいくのか。テレビや雑誌でよくみた
あの景色を観たいだけじゃないのか? そこへ行ったと誰かに報告したいだけじゃないか?

少しいい服を買う。その時、その服を本当に望んで買っているだろうか。
ハイブランドを身に着けているという自分に喜んでいるだけじゃないか?
そうみられることに安心したいだけじゃないか?

あらゆる人の行動の中に、他人が入り込んでくる。それは仕方がない事だ。
だからこそ、本当に自分がそれを望むのかは考えたほうがいい。

100人の美女・美男にモテるよりも、大好きなあの人とデートに行くほうが
ずっとずっと嬉しいだろう。

どんなに高価なプレゼントをもらうより、孫から似顔絵をもらう方がずっとずっと
嬉しいだろう。

何を欲しているのか。もちろん、虚栄心を満たしたい人はいる。
空虚な気持ちを、俗物でうめ合わせる事をして、目を逸らすことはできる。
でも、満足しないだろう。そりゃそうだ、自分の本当に欲することをやらないからだ。

自分がしている仕事。満足しているだろうか。明日もまた仕事したいなと思えるだろうか。
もちろん、大変なこともあるだろう。それでも、好きで仕事が出来ているだろうか。
きっと、仕事が好きな人は、まるで興味がない仕事をして大金を稼ぐより幸せだろう。


自分を知ること。賢人たちは必ずそういう。
その意味は、知ることというよりも、自分の状態に嘘偽りない行為をすることだ。

結婚や就職というステータスのために、やりたくもない事をしているなら、
それは自分を裏切っているわけで、幸福とは言い難いだろう。

それでも、現実は大変だという人がいる。確かに現実は甘くない。
少しでもよい条件や、よい関係を望むことは大事だ。だが、それは本当か?

ハンバーグを食べたい人が、高価なステーキを食べて、より満足するだろうか。
確かに世間的な価値は高い。でも、じぶんが食べたかったのはハンバーグじゃないのか。

そうやって自分の行動が、どれほど自分の元々の欲求に沿っているのか、自覚した事は
あるだろうか。

大抵のことは習慣なのだ。そして、習慣を飽くことなく繰り返して人は死んでしまう。
本当に望んだものを欲することもなくだ。

あなたは本当に望むものを望んでもいい。望むのは自由だ。
だが、考えてほしい。それは本当にあなたが望んだものなのか?
大金を得ることや、誰かれにもモテる事は本当にあなたが望むものなのか。

自分ののぞみが、ただのビー玉でも、構いはしない。誰かに馬鹿にされたとしても、
自分が望んだことを欲するのだ。ダイヤじゃなきゃいけないという事などない。

経験として、高価なものを得る機会がない人は、そんなの知らないからやってみなくちゃ
わからないし、やってみたいというだろう。それも一考だ。だが、そんなものあっても
なくても、幸福は変わらない。プライベートジェットを買えないから不幸だと思うのなら、
その心根が不幸だと言えるだろう。

では何が自分にとって必要なのか。
そう、それを知るには結局、自分を知るほか無い。自分が何をするのが満足なのか。
それを掴み、実行出来た人は幸福なのだ。

幸福とは感じるもの。手に入れるものじゃない。
多くの人は案外とこの違いを忘れているのだ。
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近畿財務局の虚偽答弁ー週刊文春 [雑学]

話題の雑誌を買ってみた。珍しいことだ。
というのも、無念の赤木氏の遺書が掲載されているとの事だからだ。

公務員が公文書を改ざんさせられるというのはどれほど苦痛なことか。
自ら進んで改ざんする論文捏造とは違い、強制的に犯罪に手を染めさせられるのだから、
そのストレスは相当に大きかったはずだ。そして、その行為に抵抗しきれなかった無念さを
思うと、心が痛い。改めてご冥福をお祈り致します。

さて、中身をみてみると、直接的な指示の出どころとして、佐川元局長が挙がっている。
そうあの虚偽答弁の佐川氏だ。今はどんな思いで自宅で過ごしているのか。


多くの国民は、あれが犯罪に当たるとは分かってない事だろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/文書偽造の罪

当然ながら、赤木氏が行ったことは公文書の改ざんである。
だが、行ったのは赤木氏であっても、指示したのは上司である。その上司たちの名前を列挙すれば、

佐川理財局長、当時の理財局次長、中村総務課長、田村国有財産審理室長ほか幹部、
担当窓口の杉田補佐である。

少なくとも赤木氏に公文書の改ざんを命じたのは彼らであった。

そして当然ながら、近畿財務局を監督するのは財務省である。
近畿財務局が単独で改ざんをするはずはないので、財務省からの指示であることは疑い得ない。

結局、政治権力を用いて、国有財産を格安で特定の人物(籠池氏)に売り飛ばしたというのが
その実態である。その際の細かい詳細が明らかになるのを恐れ、その改ざんを担当したのが、
末端の赤木氏という事だ。

誰が悪いのか。時の政府与党、安倍政権である。そしてそれを取り巻く自民党であろう。
彼らの自己愛が、赤木氏という一人の公務員を追い詰めたのである。

これは政治家による事実隠蔽であるし、それは犯罪である。
法的に処罰されるべきは誰か。少なくとも直接指示を出した佐川氏には完全なる責務がある。
では、その佐川氏をそのように行動させたのは誰なのか。

なんのために、一度作成した公文書を書き直す必要があるのか。
誰のために、なんのために?


金や権力というのは人をおかしくする。相当に異常だ。
組織の長とはなんのためにいるのか。それは、組織を守るためなのか、それとも、
個人の保身のためか。

私には、彼ら公務員がなぜ財務省のいう事を聞くのかということだ。
既に作成済みの書類なのだから、それをそのまま野党議員の求めに応じて提出すればいい。
それで仕事は終わっただろう。なぜ改ざんするのか。なぜ犯罪を犯すのか。



私自身にも身に覚えがないわけではない。組織とは恐ろしいところだ。
その組織において周りが当然として行うグレーな行為。誰も逆らわないし、反論しない。
そうまでして波風立てない。そういう風土に恐ろしいものを感じた事がある。
もう辞めると決意してからは、グレーな仕事をやんわりと断るようにした。
だが、それが当たり前だと信じ込んでいる同僚は、私の行為を不審に思っただろう。
そう、反対する方が「おかしい」とみなされるのだ。

そうしておいて、いざという時は、やったのはお前じゃないかと責任逃れをする。
一人でまともな事をいっても、疎まれるだけで、決して得をしない。むしろ、
どれほどか損をする。まともな人が損をするのである。

私は、少なくとも赤木氏の死に対して、とほうもない怒りを財務省に感じる。
そして、その発端となった安倍総理にだ。権力を用いて、証拠を隠蔽させたこと。
それは決して許されることではない。相当な罰を受けてしかるべきであろう。
ましてや人が死んでいるのだ。その異常さはもっと知られてしかるべきだろう。

安倍晋三は最低でも議員を辞め、そうそうに法の処罰をうけるべきだ。
加えて、赤木氏を追い詰めた直属の上司たちも同様に法の裁きを受けるべきだ。

社会正義があるならば、司法が、司法と呼べるならそれくらいは最低でも実行せよ。

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一種の環境適応ー金持ちの傾向ー [雑学]

衣食足りて礼節を知るらしいのだが、どうもそれだけじゃないらしい。

金というものが流通して、およそ数千年が立ったところだ。
未だに遺伝レベルの変遷は際立っていないことだろう。だが、これからは分からない。

思うに、現代は人が溢れている。そして、分業が進み、他人が実際に人なのかすら
わからなくなってきている。つまり記号としての他者という認識が進んでしまったわけだ。
こうなると、そのような他者は、他者を資源とみなすことになるだろう。

そして、現代ではそのように振る舞える人間に有利な時代といえる。
一昔前ならば、そのような態度をとれば村八分になった人たちが、
むしろ、金を多く得られる状況なのだ。そしてさらにいえば、金持ち争わずという
文句も虚しく、金持ちは基本的に「嫌なヤツ」であるといえる。

これは美人が性格がいいという話と似ていることだ。
特定の立場からみれば、基本的に力ある奴らは嫌なヤツに決まっているし、
その意味では、金がある人達は嫌な奴なのだ。

そこまでいうなら、証拠をみせろって?

ならば、証拠をあげよう。
https://gigazine.net/news/20190318-money-costing-your-humanity/
https://gigazine.net/news/20200224-mercedes-bmw-own-men-assholes/

一つは金持ちになると、他者への共感や倫理観が失われてしまうという話。
もう一つは、高級車に乗っているやつは嫌な奴だという話である。

どちらも納得である。基本的に金持ちは鼻持ちならない。
その彼らが金持ち同士でつるむのは仕方あるまい。そして、庶民は金持ちとは仲良くなりようも
ないのだ。

おそらく、庶民の方が本来は生き延びやすい性質だったはずだ。
それは向協力行動を取りやすいからである。本来、人も動物であるので、協力的である
個体が長く生きられたのだ。それは今も継続中ではある。

ところが、金を儲けるというポイントにおいては別だ。金はむしろ、独断的な人や
我の強い人間のところに集まる。利益を確保しようという意思が強くなければ金は
集まらないからだ。そういう人間は本来的には、嫌がられる人々である。しかし、
近代のような金によって社会が駆動される世界では、むしろ生存率を上げるに違いない。

つまり、嫌な奴、嫌なやつになれる才能をもつ個体が、金持ちになる可能性がたかく、
そのような個体の人間たちが子孫を増やす傾向があるとしたら、人間社会はますます
非共感的な人間たちで溢れていくだろう。

今は、もともとのプロトタイプの人間が多くいるのだから、そこから搾取すればいい。
だが、ときが進むほどに、搾取する人間たちは減ってくる。また天変地異が起これば、
協力的個体が有利になる。金持ちは平時にしか活躍できない人間たちだからだ。

およそ、人間社会が金を基盤に、金への適応力によって進化するならば、そして、
その適応をますます先鋭化させていくならば、いざ、環境が変わった時に自滅するのも
また過剰適応した人々であろう。その時こそ、優しい人間たちが生き延びるのだ。

現代は仕方がない時代である。平和が続けば金儲けに集中できる個体が有利である。
しかし、本来的な自然への対処や共同体では、他者と協力できる人間が有利であった。
今後、社会がAI社会へと変貌するなかで、人々に要求されるのが、かつてのような良心的
倫理的な振る舞いなのか、それともがめつい競争を勝ち抜く、サイコパスのような心境なのか。

これから数百年、数千年にわたる攻防によって定まっていくのだろう。

ともあれ何が言いたいのか。金持ちはもっと謙虚になれということだ。
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経済格差における壁 [雑学]

昨日書いたものを読み直して、間接的な悪について断罪していた。
その相手は、大企業や官僚たちについて述べていたので、つい口調が強くなっていた。

一方で、非正規でなんとか食いつないでいる人々もいる。
そういう人々にとって、仕事は違う意味で命綱だ。というか命綱にさせられている。

資本主義の基本は、貨幣経済をベースに拡大再生産をすることだ。
そして、資金とは利子によって積み増される。つまり未来を食いつぶすことである。
丁寧に説明する気はもうない。前の記事やどこぞのサイトなりで調べてほしい。

この仕組では、未来の富を手元に引き寄せる事を利用している。そして、それは
一般に借金という名で知られている。カネの方からみれば、それは富の拡大であるが、
労働の責務の発生でもある。ここまでは仮に許容したとしよう。だが、利子はだめだ。
未来のカネを借りて、そこに利子を付けるのは当然かのよう見える。それは社会が
借金をし続けるという前提において始めて成立する。一言でいえば、拡大再生産である。

人々が大きく減るような事が起こると、一度資産はちゃらになる。偏りが減る。
その後、人の数も増大する。経済が安定し生活しやすくなれば、人の数が増えるのは当然だ。
人の数が増えていくフェーズでは、借金は成り立つし、利子も成り立つ。なぜなら、カネの
量は誰かが借金をすることで増えるからだ。カネを借りる側は、人が増えるので購買する人間
の数が増えると予想できるから借りるのだ。投資分を回収できるだろうと。そこには、労働力
を一定の価格で買えるという設定が必要である。

そこで有効なのが年功序列賃金だ。こうしておけば、賃金は安く抑えられる。いずれあがると
いっておけば当初はあげなくていい。そうして労働力をめいっぱい引き出す。そのためには、
早めに一人前にする必要がある。だから何も知らんやつでも、地頭がよく、従順なやつを大量に
必要とした。金の卵というやつだ。

こうして日本人は戦後に、安い賃金で兵隊マインドをもって、目一杯働いた。そこでは、
安い労働力があり、人口が増えるタイミングであり、多くの人は家財道具を求めていた。
マスプロダクトが成立する基盤があった。それを資本主義が支えていたわけだ。借金して、
投資するほうが儲かる。多くの労働者は、田舎の次男坊や三男坊である。それらが
都会へと移動して今の日本社会を形成した。

このマインドにおいては、仕事はするほどに儲かった。素早く大量に生産する事が競争力
であったし、そうやって市場に商品を投下すれば、みんな一心不乱に消費した。先ごろの
中国と同じである。見かけの豊かさに人々は飢えていたからだ。

もともとの大家族が分裂し、家族の数が増えることで、一人あたりの消費財はずっと増えた。
それが供給を支えていた需要の中身だ。土地もみんな買い求めた。先祖伝来の土地に住めない
不幸を、都会ぐらしの幸福と言い換えて、都市郊外に家を買った。その時はまだ成長フェーズ
だったからだ。

だが、みんながそれをやったらどうなるか。資源は有限なのだ。日本の土地は有限だ。
一方で、カネは理論上、無限に増える。だから供給は滞り、需要はうなぎのぼりになる。
結果はインフレである。とりわけ土地はインフレしやすいのだ。なぜならみんなが欲しがる
からである。それは経済が回っていて、カネが増えるほど、人々の手元にカネが増え、家や
土地を欲しがるという構造なのだ。そうして家や土地は高騰する。

じゃあ、そのカネを紡ぎ出せばいいと考え始める。賃金の高いところに就職することが大事だと。
これが就職の競争となり、受験の競争となった。虚しいことだ。考えてみれば、みんなが土地や家
を求めて生きる人間になった結果である。

ともかくもカネを得ようと競争をし、その競争の勝者になりたがった。その結果はどうか。
誰も買えないくらい高騰し、バブルは弾け飛んだ。借金を返せなくなったわけだ。得られるはず
の未来の儲けは、みんなが買えなくなった段階ですでに無くなっていたというわけだ。
これを政府が肩代わりし、その後、その債務の返済をしたはずだがどうなっているのやら。

カネを多く得ようという活動は人々を労働にしばりつけた。多くの残業を生んだ。その結果、
カネは対して得られなくなり、人々は数を増やすのが困難になった。子供を育てるのにかかる
コストも急激に増えた。結局、経済がブレーキなって子どもたちは減った。それはつまり、
将来借金をしてカネを増やす人間を減らしたということだ。

こうして、日本はカネを生み出せなくなった。当然である。人が減れば需要は減る。そのような
フェーズにいつかは到達するものだ。これは当然の帰結である。資本主義は資源が有限であれば、
必ず停滞する。そしてカネの回転が停滞すれば利子は返済不能になり、社会が破綻するのだ。
資本主義とは、人口オーナス期にしか成り立ち得ない仕組みなのだ。

その後、どうなるのか。簡単だ。人の数がへれば、借金は減りカネは減る。カネが減れば、
売上が減る。売上がへれば、需要も減る。供給力はあっても、人々の間にカネがなければ
始まらない。でも、企業がやるのは、コストの削減である。ものが売れないなら、商品の
コストを下げればいい。そのもっともたるや人件費である。仕事の能率をあげ、そのために
人を減らした。そのピークポイントがミレニアムであり、世代としては氷河期世代である。

この世代にカネを賃金として与えなかったために、その下の世代は更に減り、さらなる需要低下
を招いた。そしてそれが延々と20年も続いたのだ。普通であれば、経済は終わっているはず。
資本主義の原理からいえば、拡大再生産ができなければ、破綻する。だが破綻していない。

なぜか?

実に簡単だ。誰かが借金したのだ。誰が? そう政府である。需要が減ったことの反動として
現状維持をするには、カネを誰かが供給する他ない。そのカネとは政府の借金から来た。
政府が国債を発行し、市中の銀行にばらまき続けたのだ。もしくは国の特殊法人から、
カネが民間に公共事業や入札という形で流れ続けた。

その一方で、人々の給与は減り続けた。売上を理由に企業はコストをカットし続けたからだ。
カットしたコストは、金融資産に回す。企業体自体がすでに消費財の供給では売上が確保
できないからだ。金融資産を手にして、企業は売上を確保しようとしている。その売上の
中身とは、株の売上や投資信託等だ。土地を転がしたりして、儲ける。なにしろ工場をつくって
も、みんなが買ってくれないわけで、当然ながら、そうなる。

庶民が騙されているのは、国の借金は誰かが使っているということだ。それを好き放題できるのは
政治家と官僚たちであり、そのおこぼれを預かるために大企業などは彼らを接待する。そうして
規制というやり方や、キックバックというやり方で仕事をせしめている。国だよりなのだ。

こうして、現状維持をしようとやっきになった企業体は、国のカネを頼りにした。
これが今の安倍政権支持なのだ。安倍がどんなに阿呆でも、どんなにくだらん人間でも、
現状維持をすすめている限りにおいて、彼らは支持するのだ。

要するにこれはシステム的欠陥によるものなのだ。なぜ非正規社員が世にあふれ、パソナのような
ピンはね会社が儲かるのか。それは人の数が増えなくなったこと。これにつきるのだ。
つまり資本主義のシンプルな教義、拡大再生産が滞ったからだ。

こうなった以上、非正規社員たちは、仕事があるだけまし。というだろう。
多少ブラックだろうがなんだろうが、食い扶持が大事であって、仕事に大義などいらん。
そうなるのは当然だ。

同様に、官僚たちだって、安倍がどんなにくだらんやつでも、自分の生活を維持するためには
汚いことだってやるほかない。良心が咎めたら、仕事をやるしかない。やめられる勇気は
非常に尊い。ほとんどの人は出来ない勇気あることだ。悪にしか思えない仕事を生活のためと
割り切ってやる方が、普通だからだ。

非正規社員が、しょうもない仕事でもやめずにやり続けるのは、生きるために必要だからだ。
都会において、かかる費用を稼ぐにはそれなりの苦労がある。そして、その苦労をしている
ところで、国は勝手に始めた国債という借金をたてに、増税を行った。そう、借金のつけを
ほんらい引き受けるべき人間たちが責任逃れをしているからだ。かつて未来の富を使った
人間たちである。今の老人だ。

今の老人たち。彼らは知らずと、国がかってに破綻するはずのものを借金で支えたのだ。
彼らの責任を放棄した。そしてその責任を今の日本全体が受けている。それをなお、拡大
している。

くだらん仕事が生まれるのは、資本主義が国家に操作されたためだ。簡単に言えばそうなる。
悲惨な人生を送っているのは、人口オーナス期に生まれてしまったためだ。
資源は有限なのに、カネは無限になってしまったからだ。結局そういうことなのだ。

国は記号としての労働者を助ける。なぜなら彼らが「資源」だからである。
だが、国は個人としての人は助けない。国に貢献しない存在は本音をいえば迷惑だからだ。
それを安倍政権は見事に顕にした。アホらしいほど見事にだ。だから、弱者を切り捨て、
富者をますます助けるように政策を変更し続ける。

日本国民は現状日本に怒らなければならない。
その一方で、現状の生活をやめねばならない。今の生活を<豊か>だというのならば、
その豊かな生活をやめるべきなのだ。資本主義という仕組みは人口増加時にしか有効じゃない。
資源が無限じゃなければ有効じゃない。これが原理であって私の見解などではない。原理的に
絶対、確実に、資本主義は息詰まるという話なのだ。それは、人口が永遠に増えないし、
資源が永遠に確保できないからである。おとぎばなしでもないんでもない。

非正規社員で歳をとり、明日の仕事がわからない人々がいる。
大局的にみれば、人は減っているために仕事はあるのだ。だが、カネが回らない。
カネが回らないから、ポストをつくって雇うことが出来ないのだ。

カネは老人たちと企業がもっている。彼らがカネを手放すとき、ようやく賃金があがる。
老人はもはや増えすぎた。それが日本なのだ。自らが生産しない人間たち。生物として
破綻しているのだ。生き物として不自然なのである。不労所得の人間も企業も老人も。
そして、そういう人間にカネが集まる仕組みー資本主義ーこそ不自然なのだ。

この状態があと30年も続くはずがない。もう破綻への序章はすぎた。これから
転機を迎えるのだ。早ければ、オリンピック後である。そのときに我々は何をすべきか。
カネは信用してはならない。信用とは人である。そして生産手段である。それ以外を
信じちゃいけないのだ。
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自己利益最大化のはてに [雑学]

桜を見る会の問題点は、ごく単純に日本国の首相が票を買収しているという点だ。
これをちゃんと報道しているところはあるのだろうか?

ともかく、選挙の法律は票を買収することを禁じている。
これが建前である。だが、おそらく多くの候補者は手を変え品を変え、
有権者を買収してきたのだろう。だからこそ、今回の問題も、問題にならないのだ。
そして、時にこれを弱みにつけこんで、行動を制約したりするのだろう。
トップの流れに逆らうような行動をすると、ホコリを晒すという具合にだ。
脅しのネタということなのだ。

現代政治の根幹は「擬貴族主義」である。要するに能力とは無関係に、
親やオジなどが政治家だったから、自分も政治家であるという事だ。
これが徹底的に民主主義をスポイルした。結局、利権構造が数十年のうちに出来上がり、
そこから逸脱すると迷惑がかかるという事で、いつまで経ってもまともな議論は
行われなくなる。まともな事をいう事自体が問題視されてしまうのだ。

とにかく日本では民主主義など役立った試しは殆どない。
2008年、せっかく民主党政権が出来て、状態が変わるかとおもいきや変わらなかった。
それどころか、抵抗勢力である学閥によって、メディアをつかった政治家叩きが起こった。
鳩山氏や管氏や小沢氏に対するひどい言明は覚えがあろう。

なぜ民主党政権が潰されたか。それは、民主党が推し進めようとしていた政策が、
既得権益層の不利益になるからだ。ごく単純な話である。

そもそも、国民国家とはおおよそ「富国強兵」のために明治に確立したものだ。
その心は国民を兵士にし、総力戦を試みる事だ。ところが戦争に負けてからも、
この体制は維持された。それがために日本は”成功”したのである。エンクロージャーによって
都市部に集められた労働者とはつまり、経済戦争のための兵士であり、彼らの頑張りによって
日本は高度成長を果たした。アメリカによって誘導された社会システムは結局なんにも機能せず、
日本は社会主義で有り続けたのだ。それは全体主義によって駆動されたわけだ。

日本における同調圧力は、結局、この明治期に作られた概念セットである。
江戸時代は、幕府の支配があったわけだが、諸国は諸国に過ぎなかった。その日本が外国から
きた国民国家に対抗するために、自ら国民国家になったのだ。その時必要だったのは、
命令が一律に行き渡るという事であり、命令に従順な人間の製造であり、長をたてるマインド
セットである。まあ、奴隷のようなものだ。

これは実にうまく機能し、実際の心根はともかく行動として、反発する人間は殆どいなかった。
裸足のゲンではこのような抵抗を試みる描写が少なくない。理念によって不利益を受けるなら、
理念を簡単に捨てるのが人間なのだ。人は弱いものだとわかる。

結局、この従順さは戦後も発揮され、今の今まで来てしまったわけだ。
そして、平和時代にはそぐわないシステムがいよいよ崩壊しかかっている。

この崩壊を自民党がもとに戻すのではないかと思った人々がたくさんいた。
そして、安倍がそのパペットに任命された。彼らの正義は、経団連と官僚、そしてアメリカの利権
拡大である。それは巡って庶民の生活の圧迫になる。多くの規制が既得権益つまり学閥に締められて
いるためだ。政府はとにかく金が動くところに顔をだす。安倍政権は、あまりにも正直なので、
まんま行動する。それで何が問題か?と開き直っている。雨乞いのような政策をし、国家の金を
友達に優遇する。そういう人間だと分かった学閥人間たちはこぞって、彼らの後ろに並んだわけだ。
そして、そのおこぼれを貰うことを是として生きている。

では、なぜ多くの人がそういう事になるのか。それは国民国家という明治期に作られたシステムが
すでに崩壊しかかっているからだ。それは毎年積み上がる国債をみれば明らかだろう。石井紘基氏が
調べたように、日本国民はおおよそが国の金に依存して生きている。国の金がなければ、こまる
事業がたくさんある。それは、官僚たちが作り出した天下りポストのせいであり、規制のせいである。
この国に本質的な競争など無い。あるのは学歴エリートが自分の事だけを考え、国から金を絞りだす
仕組みを省庁上げて構築しているというだけである。誰も国のことなど考えちゃいないのだ。

国が傾く。その時、頼れるのはなにか。既得権益はそのパイプにすがるだろう。経団連は
政府にすがるのだ。官僚はその立場を利用して国システムから金を奪いに行く。その周りには、
大企業を始め、さまざまな中小企業がまとわりつく。こうして、国が借金をしないと回らない
事になっていく。むろん、借金は利子が発生するためにこれはもうオワッタ。もう日本は破綻する。
もとに戻せる自体ではない。あとはそれがいつ来るのかという事だけだ。

結局、ピンチを感じるほど、既存のシステムや過去の栄光にすがる。まさにパニックである。
それが今の日本なのだ。だから、安倍政権は支持される。なにしろ時代錯誤の政策を推し進める
のだから。日本の実態にそぐわないことをやろうとするからだ。かつて国民国家としての成長期に
やった事柄を再生産するというアホな事に注力しているからだ。だからこそ、企業のトップは
政府のケツを舐めるということだ。

学歴エリートたちが沈みゆく日本経済において元をとろうして、日本が傾くのを加速させている、
そう見ることもできる。社会保障システムの崩壊は近い。そもそも、国の借金がひどい。保証など
していられないわけだ。その借金は国民にむけてばらまかれた。残念ながら、その流れは特定の
場所、つまり友達か、金融業など資本をもつ人間に向かってしか流れないのだが。。庶民はきっと
20年後に騙されたと嘆くのだろう。いざ自分が老人になったとき、年金がないという自体は
起こり得ると思ったほうが良い。

こんな社会でマトモに働く方がどうかしていると私は思う。
そして、多くの人が薄々感じているように正社員におさまった人間の行動原理は、
「なるべく仕事をしない」である。給与に対して競争原理のない立場では、たくさん働くほうが
損をするからだ。当然である。そのしわ寄せが若者にのしかかる。非正規社員として若者が
使い捨てにされる社会の到来だ。様々な分野で、社会が人的資源を使い捨てている。

このように眺めた時、若者の、とりわけエリートが愚かにも安倍政権支持化するのは理解できる。
彼らはたまたま能力を持って生まれた。それはこの学歴差別社会では有利な資質である。それを
フルに活用して、自分の地位を安定化することがリアルな現実への対処法だと理解する。すると、
受験エリートは、自分の持てる力を自分の立場を奪い取ることに全力で注ぎ込む。それは反面で
みれば、他人はどうでもいい、弱者などどうでもいいという事になる。そこまでいかずとも、
他者の痛みや苦しみは、二の次三の次になるのは当然の思考だ。

このような心性をもった若者が現代をみれば、得をするのは政権に阿っている人々であると
すぐに分かる。ならば俺もその列に並ぶのだと、勇んで勉強に励むのだ。むろん、各個人の
心境になっていえば、「どうにかしてそういう立場(つまり学歴エリート)にならないと
俺・私は終わってしまう」という激しい焦燥感である。悲しいかな、こんな気持をもった人間が
日本ではエリートとなり、組織の意思決定を担う。宮台氏の言説を借りるなら、「人間もどき」
である。彼らは失敗を最大に恐れる。なぜなら、失敗はこのエリートへの道が塞がれる事を
意味するからだ。そして、それは生存の危機だと思いこんでいるからだ。

エリートたちは正社員という既得権益に入り込んで安心し、今の社会構造が維持するように
思考し行動する。だから、自分たちにとって心地よい内容を世間に流布する。自分の人生を
全肯定するメディアである。そして、そのためにはあらゆる努力を惜しまない。そうやって
見方によっては実に惨めな人生を彩っているのである。決して、エリートは幸福とは限らないと
いえば十分だろう。

万事塞翁が馬という故事によれば、未来などわからないはず。ところが、平和とは恐ろしい。
未来予測ができると思いこむだけの時間がある。今の時代ならたっぷり20年は洗脳され続ける。
だから、その学閥エリートたちが作り出した「幸福のスタイル」を追い求める事になる。
そして、それがかなわないとなると、ヒステリーを起こすのだ。それは時に犯罪などのトラブル
を引き起こす。それでもなお、アリもしない幻想を求めて、今日も会社に出かけていく。なぜなら
未来が見えると思っているからだ。そして、その社会が押し付けてくる価値観にどっぷりと適応
する。

適応しきった人々が社会のトップで毎日意思決定している。そういう社会を想像してみれば
いい。その問題は明らかだろう。既存のシステムが崩壊したら、とっても困るのはまさに、
社会に過剰適応した人々である。彼らは生活が何たるかを知らない。今クビになったら、文字
通り路頭に迷うだろう。それが学閥エリートの行く末である。だから、現代のシステムが崩壊
しないために様々な手を尽くそうとする。安倍政権の政策はすべてそのためにあると言っても良い。
現状維持。これがすべてなのだ。少子化問題や高齢問題も、現状が維持されるためには、、という
接頭句によって、全て説明できる。官僚が頭がいいなんて幻想であって、彼らは実に安直である。

過去の記事で体制と非体制の話を書いた。安富氏による分類である。
この体制側人間というのは、学閥人間の言い換えでもある。彼らは社会のどこに広がるのか。
国だけじゃない。大企業にも、医者や弁護士にも、社会的ステータスのある場には、およそ
学閥人間がいる。彼らはその個々の場で、自分の立場を堅固にするために日々努力しているのだ。

ではそうではない人はどうか。その人々はある意味では幸福である。学閥エリートたちに
くっついていれば、おこぼれが貰えるグループである。従順で、単純。要はいい人である。
簡単に騙されてくれるので、人々を動員したい人たちには大人気である。これが流行っていると
宣伝すれば、すぐに追随し、テレビをダラダラと鑑賞する。半径五メートルくらいが世界で
あって、それ以上のことは考えないし、考えられない。自動機械的でもある。だが、彼らの
内面は学閥エリートよりは幸福かもしれない。努力などしなくても良い仕事をとにかく、
日々こなしていれば、それなりの給与が振り込まれる。むろん相当に低いのだが、所詮そんなもの
だと諦めているがために、その状態は一生変わらない。でも、変な精神的な負担は少ない。
同じような人たちと結婚したり、つるんだりして、働きアリのように生きるのだ。そうして、
彼らは同じ労働者を再生産する。

自分の意思を持たない人々といってもいい。誰かの言説に簡単に騙される。人の類型はここに
ある。残念ながら、彼らは自分の存在を懐疑しないので、不幸であるがゆえに幸福である。

現代は恐ろしいことに、この2つがまだ混ざってはいるが、明らかに分離局面を迎えていて、
もうそんなに遠くない未来に、別の生き物となるかもしれない。労働に生きる人間と、支配する
人間とに。極端にいえばそういう事になる。そして、そのような状態に生物的に最適化する。
その結果、双方幸福度は高まるのかもしれない。

このような時代に、何をすべきなのか。
少なくとも、あと50年もこの社会のままのはずはない。つまり社会諸制度が変革される
可能性が高い。よって、今も子どもたちは既存の思考に染まらないことだ。どうすればいいかは
私だってわからない。ただ、今の子供達がおとなになって、その時に彼らが社会のありようを
決定してくるはずだ。その時、我々大人は邪魔かもしれない。とにかく、子供たちには、
生きるための本質的なことを身に着けさせるほか無い。それはどうやって衣食住を金という
システムに強く依存せずに確保するかという知恵である。金が危険なのはもう何度も言ってきた。
その証拠に、現政府は預金口座と背番号をタグ付けようとしている。いよいよ預金封鎖の
仕組み構築に手をだしてきたというわけだ。

次に大事なのは、システムへの過剰適応をやめることだ。むろん、脳の可塑性には限度がある。
残念なことに、30代以上は既存の価値観から逃れられない。変わる可能性はほぼ皆無である。
多くの人が洗脳されきった社会エートスの中で、自己を見つめるのは不可能だろう。
よって、おっさん、おばさんは諦めてもらおう。そして次の世代のためにも、早めにコロッと
おなくなりになるのが良いのだ。とはいっても、社会システムで食えなくなれば、簡単に
変わるのだろう。敗戦後にがらっと思想を変えたように。私が期待するのはそのくらいである。

現代の価値観を信奉するのもとにかく危険だ。その原理は自己の利益の最大化と、他者の
存在否定である。これが現代日本のまっとうな価値観である。これがインストールされていない
人は、日本社会で相当に苦しんでいる事だろう。自分勝手で、不遜なやつじゃないと立場を
守りにくい。優しい人間はこの社会では淘汰されていく。あと100年もしたら日本人の大半は
嫌なヤツになってしまうかもしれないというくらいだ。もちろん、これが可能なのは、社会
システムが盤石であるからだ。社会システムが崩れた今日、むしろ、カウンターの優しい奴
じゃないと辛い時代になるかもしれない。

他者の存在を気にかけ、自己利益の最大化だけではない価値観をもつ人間。そういう人間が
大事なのだ。つまり、友達に優しく、家族にやさしく、周りを考えられる人間だ。いうは
簡単だが、実行は難しい。なぜなら、人は自己利益最大化のために生きているようなものだ
からだ。

ひとつ注釈をするならば、自己利益最大化とは、自分が良ければ他者がどうでもよいという
事だけではない。他者の喜びが自己利益となる人だっている。アダム・スミスがいったように
道徳的人間ならば、まさに自己利益だけを追い求める事が善である。自分の価値観が、他者との
協力の上にある幸福を目指すならば、まさに自己利益最大化は社会貢献となるわけだ。これは
正しい。だが、現代日本ではそういう意味ではなく、自分の利益とは金銭であり立場であり、
それを確保するためなら、他人を蹴落としても良いという価値観の事だ。

こうして考えてみると、知識社会では、学歴がものをいう。その彼らの能力は、親から譲られた
ものだ。つまり本質的には本人の努力ではない。そういう資質を自分のためだけに使うという
セコイ人間を日本は奨励している。そりゃ、日本社会が傾くに決まっている。セコイ人間になれ
と言われて、それを全肯定する社会だ。他人に優しいはずがない。自分の脳力を自分でせしめ、
あわよくば他人の能力をも自己利益最大化に利用する。これが資本主義社会だ。この枠組で
世間が喧伝する幸福に到達できるのは、ごく一部だろう。エリートはそれを目指して日々奮闘し、
庶民は、日々が楽しきゃそれでいいと過ごす。これが実態である。

かつては社会全体がパイを増やしていた。だから庶民も生活が豊かになることを実感できた。
ところが、20年停滞した。日本はもう抜本的な事がない限り、立ち上がることはない。
その時に煽りを食うのは、庶民である。学歴エリートは庶民から巻き上げた金を国からボロっと
手にするので、どうでもよいのだ。そして、そんな人間たちが社会システムを維持している。
そりゃ、庶民の暮らしは苦しくなる。当然の帰結である。

今更、社会全体のパイを増やす、つまり人口増加を果たすという事ができるのか。少なくとも、
今の現状では無理。ただし、方法がある。それは「戦争」である。

戦争が起これば、日本の金は価値を失う。そして、全てではないが、かなりの既得権益の枠組みが
崩壊する。まあ、リセットのようなものだ。戦争は人口を減らすために、急激な人口増が
見込まれる。そのフェーズになれば、発展という社会に生きることができよう。だが、現実的
だろうか?

昨今の戦争は背後に核がある。現場ではサイバー攻撃やドローン攻撃だ。人間の出る幕ではない。
こんな時代に壊滅的な戦争があるだろうか。起こったらある意味で世界の破滅だろうに。

となれば、結局未来はディストピアである。
日本の庶民は愚民化し、その枠組で幸福追求がなされる。
一方で、エリート、とくに若い世代のエリートは英語や中国語を駆使して、海外に出ていく。
日本というアイデンティティではなく地球人というアイデンティティに生きるだろう。
そうしてマトモな意見が徐々に通る社会になっていく。知能も格段に増すだろう。

ダーウィンは物理的隔離や性淘汰による進化を想定した。
だが、現代はミーム的に人間たちが組織化しつつある。いずれ、この2つは階級となり、
差別化されていくのかもしれない。事実、社会的隔離によってユダヤ人の一部は知能を
亢進させた。同様に生存圧によって、脳が退化するグループと、進化するグループが出てきても
不思議はないのだ。

考えてみれば、この時代に、自己利益最大化をやめろと訴えたって、
自己の生存圧によって妨げられている。要するに沈みゆく船では、他者を貶めても罪に問われない
ということだ。果たして本当にカウンターはあり得ないのか。

人というサルは一人では生きられない。どんなに金を積んで有料老人ホームに入っても、
狂った介護者に殺されてしまうかもしれない。そういう時代だ。他者を助けるという能力を
もう一度回復するしか道はないのではないか。それ以外に何があるというのか。私はそう思うのだが、
どうだろうか。

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年賀状問題 [雑学]

あけましておめでとうございます。
毎度読んでいただいている方々に感謝致します。
本年もよろしくご愛顧のほどを。


さて、年賀状。いくつくらいもらうものなのだろうか。
私は、自分からは出さない主義になってかれこれ10年以上たつ。
来たら返事をする。年賀状にさほどの意味を感じていないが、
それでも、礼儀はあると思う。だから、返答は確実にしている。

ところで、全然年賀状がこなくなる人がいる。
別段問題はないのだけど、どうしたのかなと思って、直接会った時に
言われたのは「戻ってきて届かないんだよ」との事。

そう、ときおり引っ越しをしていたので、住所が変わって返送される事があるのだ。

変わった直後はこちらにはちゃんと年賀状が届く。転送を申し込んであるからだ。
そして、来たら返事をする私は、確実に新しい住所を年賀状で知らせている。
ところが、それを受け取った側は住所録の変更をやらない。

結果として、翌年向こうから年賀状がくると住所不定で年賀状が返送されてしまう。
そうすると向こうはどうおもうのか。「引っ越したのに連絡がないのか。。。」と。
がっかりする。なんなら「そういう事か。。」とまで思うのかどうかは、判断不能だが、
明らかに私のせいになっている気がするのだ。

全く間違えだと言いたい。ちゃんと返信した年賀状に新しい住所を載せている。
ちゃんと読まないのは、そっちの不手際だと私は思う。そして、不手際を知ると、
こっちもまた「ちゃんと読んでないのか。。。」となる。

困ったもんである。こうして、年々年賀状はヘリ、一時は25枚程は書いていたが、
どんどん減った。今は10枚弱にまで減った。

いまやラインやメールなどで連絡ができる時代。年賀状を書く理由もさほどなくなってきた。
だが、そういう友人たちは、日々それなりに連絡をとっているものだ。
むしろ、年賀状とは疎遠な人に向けて送るものだと認識をするべきかもしれない。
疎遠だからこそ、年賀状という形で済ます、それでいて思い出してもらう。
そういう良い機会なのだと思う。およそちらっとみるだけかもしれない。それでも、
その瞬間、ああ、彼はこうしているのかと、認識出来るのだから。

ま、そんなふうに思っても、私はこちらから出す気にはならないのだ。
筆不精でもあるけれど、この風習にそんなに乗り気になれないからだ。

これはSNSでも同じかもしれない。
フォロワーを増やしたい人がたくさんいる。けれど、私は案外どうでもいい。
注目を浴びたいという欲求は普通よりずっと少ないのだ。

このブログは、もっぱら自分のために書いてきた。
考えの整理であり、備忘録でもある。そのうえで、誰かが読んで何かを得たなら、
私は嬉しい。そういう感じなのだ。

ともあれ、もし私への年賀状が届かなかったら、きちんと昨年の年賀状を見直して
欲しい。また、皆さんのところに不在で返送された年賀状があったら、昨年の
年賀状をチェックして欲しい。そこにきっと、新住所が書かれている可能性は
思った以上に大きいはずである。

まあ、こんな所で、新年の挨拶とさせて頂きます。
本年が皆さんにとって、良い年でありますように。
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喪失とは? [雑学]

ここに来て、様々なものを喪失した。
人間関係や物などだ。

正直まだ凹んでいる。果たしてこれで良かったのかと後悔もある。
選択を迫られる状況自体が本来的によろしくないと安富氏はいう。
西洋的な選択ではなく、東洋的なタオによる歩みが重要であると。

日々は選択の連続というが、本当は違う。ヒトは小賢しくなったために、
世界を予期したり、予定を立てられると思い込んでいる。そして、そうならなかったら、
誰かを責めれば良いと思っている。しかし、本来的には思い通りになる自然などほとんどない。

だからこそ、ヒトは可能な限り環境を変えてきた。建物をつくり、土地を改良した。
なんとか自分たちの思うようにしたいという貪欲がその動機になった。

実際には、こうなればいいなという事と、実際は乖離している。
そして、今、私は何をそもそも目的にしていたのかと茫漠とした思いにある。

喪失したものは、自分を変えることで保持する事は可能であった。
要求された事に応える事で、喪失を減らすことは出来たのだ。
だが、私はそれを是としなかった。なぜかは自分でも分からない。
でも、要求された事は自分にとって、自然ではないと思ったのだ。

何かを得るために努力をする。当たり前に思えるだろう。
だが、その当たり前を疑ってみたらどうか。努力を疑うのではない。
得る事を疑うのだ。なぜ、それを得ようとしているのかと。

生まれて、生きて、死ぬ。このプロセスの中で、生物としては繁殖する事が
目的となる。そのための社会制度がある。繁殖しない社会制度は滅ぶのだから。
よって、社会から要請される事に従うのは、ある意味で自然なことだ。その一方、
ヒトには思考する力がある。その力によって我々は思い悩むことになる。それを
「選択」と呼んだり、「苦悩」と呼ぶわけだ。

思考できるが故に、有りもしない幻想を抱いて「後悔」をする。人の性質である。
それをまさに自分は行っているのだ。幻想と分かっていても、後悔はするのだ。
そういう風にヒトは出来ているらしい。


おそらく自分が後悔している事の一つは、果たして自分の主義に凝り固まっただけに
過ぎないのではないかという疑念である。友人関係にしろ、恋人関係にしろ、距離感の
原因は私の考えに因る。私が考え方を変えれば、関係は継続出来た。では、関係性の喪失
につながる私の考えは、如何にして確かだというのだろう?

自分にとってのナチュナルな考えが、最大の間違えかもしれないのだ。
それがために自分は確かに喪失をしたのだ。喪失という結果だけを捉えれば、それはマイナス
であり、ネガティブなこと。ここから直ちに、自分の考えが間違えだったのだと考えることも
出来るだろう。だが、果たしてそうなのか?

ありのままの自分を受け入れてもらうとは難しいだろう。それはワガママでもある。
その一方で、自然な自分でなるべくいようとすることは、間違えなのだろうか?

喪失という結果は、自分の考えから言えば、必然的だったと思う。
状況と自分の考えに齟齬があり、相手の願いと相容れない。ならば、関係性が失われる。
だが、こちらが合わせて、相手は合わせないというのもまたおかしな話であろう。
こちらの考えを理解し、関係を喪失しない事だってありえるのだ。

自分に正直でいる事。これが今の私にとっての「価値」である。それはこのブログを
書いてきた結果でもある。その正直な自分に向き合うことで、人が離れていくなら、
それもまた自分の価値からの帰結なのだ。

ではなぜ後悔が生まれてしまうのか。


自分に正直になったのだから、仕方がないのだけど、今まで自然と維持されていたものが
変わりゆく事は、やはり寂しいのだ。決して積極的に喪失を望んだわけじゃないからだ。
相手を尊重したからこそ、相手と自分の間にある溝を受け入れ、別れとなったのだ。

私が分かっている事は、私が合わせる事は可能であったということだ。そういう「選択」が
可能であったのに、私はやらなかった。それがもたらした喪失は、果たして肯定されるべき
ことなのかどうか。むしろ、私が合わせることをしなかったのは私の怠慢であって、それが
原因で喪失したのではないか。

後悔は、自分の意志によって違った結果を生み出せたのではないかという過去の回想であり、
それが過去である限り変更不可能であるため、自責の念にかられる事にある。
つまり、後悔とは自分で自分を責めている状態なのだ。実に良くない。

違う結果をもたらすには、自分を偽る他なかったはずだ。それは自分に正直であるという
自愛の精神から外れてしまう。だからこそ、自分に対する正直さを貫く事で、自愛を全う
したはずなのだ。その結果が今の喪失である。ならば、喪失自体は自愛の結果とも言えるのだ。

また一方で、後悔の要因は、ニュアンスの問題でもあるけれど、社会通念上「そうあるべき」
という形からの逸脱した結果だからという事でもある。他者との関係性の喪失は、社会的には
あまり褒められたことではない。いや、私のライフスタイルでは勝手にそう思っているだけ
かもしれない。だが、安易な関係性の喪失は、はやり忍耐の不足と帰結されるはずだ。


後悔の一つの要因は、社会的に是認されている行動や状態に向かわなかった事による。
それが自助努力による帰結である場合においては、後悔はない。やることをやったと言えるからだ。
ところが、ねじれ現象があって、私の本性として、社会的に是認される状態を求めていなかった。
そして、社会的に是認される行動や状態を目指さない方向へと、自ら進んでしまったのだ。

社会的にこうあるべきという事は、分かっている。だが、それを自分が値する事なのかと
考えてしまうという低い自己肯定感と、一方で、そもそも社会的に要請されていることが
おかしなことではないか?と疑問を感じてしまうのだ。結果として、関係が難しくなる。


すると、そもそも私が現代社会の価値観に疑いを持っているがために、日常生活上における
態度にもそれが反映され、その結果として喪失を招いたというわけだ。必然的な流れがある。

ここまで来て分かることは、私は後悔する必要性はないということだ。そして、そもそも、
自分がまさに望んだ結果を得たとも言えるのだ。

だが、矛盾した自己がいる。私だってヒトである。喪失は悲しいこと、寂しいことだ。
だから、向社会的行動を自己の信条に合わなくても、とるべきではなかったのかと後悔する。
相手に合わせて、自分を変える事だって出来るのだから。

変わった自分を、今の私は「他者の期待」に応えると捉えている。それは自分の一部の
修正であるが、決して自分を大事にした結果ではない。それはやや矛盾があるわけで、
仮面をつけた事と同じになりはしないか。それが自分になってゆくのか?

相手が正しいと思う価値観に、こちらが合わせることがしばしば「成長」とか「成熟」など
と形容される。果たしてそうだろうか? それは相手の価値観であってこちらのものではない。
ならば、私はそんなものを必要とする事はない。そしてそれは「成長」でも「成熟」ですらない。
ただ、相手による精神的搾取である。こういう事はあまりにも何気なく行われているがために
気が付かれないが、この違和感は常に感じる必要がある。

こうかくと、如何にも私が自己中でワガママにみえるかもしれない。自愛と、自己中心的とは
まるで違うことだ。自分の気持を大事にして、相手と折り合いをつけてゆく。これが自愛である。
自己中心的とは、むしろ相手のような要望を他者におしつける人物の事だ。これは相手が相手の
ためを思って行う言動ですら、その範疇である。「これはあなたのためを思って言っている」
というのは、基本的に他者操作であり、相手にとっての利益であり、あなたのためではない。


安富氏や深尾氏による、魂の脱植民地化の話や、タガメ女、カエル男の話からいえば、
現代日本ではあまりに、上記のようなワガママな要望が通っているために、誰もそれを
疑わないのだ。上司が言うこと、教師が言うこと、親が言うことに疑念無く従う事が是とされる。
それは、ただの思考停止という。彼らが言うことが唯一の価値ではない。むしろ、彼らは
すべからく間違っていることだってある。


さて後悔に話を戻そう。社会通念上よろしいと思われる状態に、努力して向かわなかった自分。
だからいささかの後悔がある。やろうと思えば出来たからだ(と思っているからだ)。だが、
自分の正直な気持ちからいえば、それは是とされなかった。その結果として他者が去っていく。
悲しい。寂しい。喪失は辛いものだ。自分の行動の結果ではないのか。これを避けることは
出来たのではないか。そう思ってしまうのだ。


だが、すでに分かっているように、私は後悔する必要はない。自分に正直になるという
信念に基づいて、行動したのだ。それだけ自分を肯定したのだ。他者に流されることなく。
それが結果をみておののいている。こんな事になるなんてと。そして自分に正直になるという
信念を疑いだしている。自分を曲げておけば、いや変えておけば、この結果にはならなかった
のではないかと。この2つの間で私は揺れている。

もちろん、答などない。時に自己を抑え、時に自己主張して生きる、それが人生なのだ。
でも私も弱い人間である。自分の信念を疑うことだってある。
今回はそういう話だった。この話を読んで、どう思っただろうか。

私はただの頑固で、信条なるもので関係を壊すような男だと思っただろうか?
天の邪鬼であると考えるだろうか? もう少しうまくやればいいのにと。

だが、自分の正直になる事がこれからの私の人生にとって大事なのだと信じているのだ。
たとえ、それが喪失であっても、その後悔よりも、自分を偽った後悔の方がずっとずっと
大きいのだと私は思っているのだ。

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政治リテラシーー若者の場合 [雑学]

若者が政治を考える時、その根拠はどこからくるだろうか。

http://www.garbagenews.net/archives/2153474.html

このサイトのデータによれば、若者は新聞を読まない。一方で、ネットからの情報を
摂取している。ここに大きな断絶がある。

まず大前提として、情報に金を払わないということだ。これが意味するところは大きい。
インターネットの黎明期に、各新聞社はウェブに乗せる記事を渋ったものである。
実際、新聞で読む内容とネットのニュースにはある程度の断絶があり、Webのニュースは
希薄だった事を覚えている。肝心なことは書かれていない、というのが感想だった。

つまり、ネットのニュースは適当だったわけだ。それは現状でどれほど変わったのか。
そこまでニュースサイトを巡るわけでもないし、新聞を読むわけでもない。だが、
そんなに変化があるとは思えない。おそらく相変わらず適当な見出しだけのWebニュースが
垂れ流されているのだろう。


さて、これを背景にした時、若者にとっての政治ニュースはかなり偏向する。
一部のインテリを除けば、大抵の若者はネットニュースを見る。だがそこには大した
記事は乗らない。むしろ、Webニュースメディアは個性的な物が多く、言い切り型や
耳目を集めるタイプのニュースが多い。記事を最後までちゃんと読む若者はいないだろう。

この事から言えるのは、多くの若者は社会の上辺ニュースのみ見聞きするという事だ。
だからこそ、それらニュースサイトのスポンサーになっている意見に同調しやすくなる。

https://www.asahi.com/politics/yoron/

この支持率グラフが正常なのかは不明だが、一応のベンチマークとしよう。
このグラフ、スグレモノで年代別の支持率が目に見えて変化する。明らかに20代は
現内閣の支持者が増えている。おそらくそれは、さらされている情報に比例するのだろう。
ウェブニュースでは、明らかに政権に有利な情報が溢れている。ごく少数の意見もあたかも
多く存在するかのようだ。若者はそれを意識できない。なぜなら、社会人は政治の話を
全くしないからだ。実は、社内の上司達の半数は安倍政権に懐疑的である。ましてや
今、退職しつつある団塊世代は政権に批判的だ。だが、それを若者はしらない。

結果として、非常に歪んだ形で支持が行われている。
私からみれば、安倍政権の政治は、まさに20代の若者にこそ不利になっている。
繰り返す、若者に不利な政策を進めているのだ。もう一度いおうか、と言いたくなるくらい
なのだが、どうも若者はいつの時代も愚からしい。

アベノミクスの失敗と、その弊害について少し列挙してみよう。
・赤字財政の増加
・景気の後退
・給料の減少
・非正規雇用の増加
・年金・医療費負担の増加
・防衛費拡大ー戦争可能性の増大

・行政による不正・捏造
・内閣人事局による権力統合(三権分立の危機)
・友達への税金横流し

・辺野古問題ー民意無視の政治
・バラマキ外交

・医療・福祉支援のカット
・消費税の増税
・教育資金のカット

・メディアへの介入(特にNHK)

一見すると良くなったと思われること。
・失業率の回復
・株価の上昇
・GDPの増加

正直問題だらけだと思う。この政権は。政治はある程度汚くやる事が求められる。
それは分かるが、一介の庶民である私にすら、見えている異常さがこれだけある。
ということは、内実はもっと酷いはずだ。漏れているものなど氷山の一角なのだから。

一見すると良くなったように見える所だけ、若者はニュースで摂取しているのだろう。
愚かしいが、それで何かをわかった気になっているなら、本当にお人好しである。
物事には裏がある。ウェブニュースという金をとらないメディアがどれほどまともな
事をいっているのか疑問にもつ必要がある。時折、変なニュースを見かけると、
産経新聞か読売である事が多い。だが、そんな事を疑うことなく若者はニュースを鵜呑みに
するのだろう。誠に残念である。

失業率の回復は、単純に団塊が抜けて、人手が減っているからだ。一方で、非正規が増えている。
つまり、安い労働力として全体が買い叩かれている。とはいえ、内訳はこうだ。
団塊世代が退職する。すると、その穴埋め的に新人採用が入る。これは健全である。
一方で、退職した団塊世代はまだ金がいる。そこで、就職を図るとどこへいくのか、それは
医療・介護業界なのである。要するに、退職した団塊が増える前から、年寄りが増えていて、
そこに人手がほしい状態が常態化していたのである。若者の一部と、リタイヤ組の団塊世代が
福祉業界に入っていっているということなのだ。では、給与面はどうか?昨今のニュースでも
福祉業界の財政は厳しい事が明らかである。

https://www.mag2.com/p/money/167311

つまり、失業率の回復はアベノミクスの成功ではないのだ。時代の潮流という要因が大きい。
だが、こんな提灯記事が出てしまう。若者はこのような記事を読んで、なんだ安倍政権でいいじゃん
とでも思うのだろう。
https://www.newsweekjapan.jp/noguchi/2017/10/post-14.php

ここまで意見が割れるという事自体が、そもそも疑わしい。判断を保留するか、
自分で調べる他ないのだ。こういうのがウェブ時代の難しい所である。

(本来、大学の教授たちというのは、合理的な考え方をする人たちだ。ならば、
 全員がおおよそでは、同じ方向を向くというのが当然なのだが、真逆を行く事がある。
 ということは、専門家ですら、判断つきかねる話なのだと庶民は認識すべきなのだ。
 それをどちらかに与するのは本来的に危険なのだ。)

株価の上昇は、日銀やGPIFやJ-REITなどによる買支えの効果は拭えない。
年金資金を株に注ぎ込んでいる。多くの上場企業はこれをやってほしいのだ。
株価が上がった所で、内部留保の金で自社株を買う。
こうして税金を減らし、自社経営安定化を図る。それがために現政府をヨイショする。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-07-14/2018071403_01_1.html

一度におよそ700億円を投じる。これを年間になんども繰り返すのがGPIFの株買いだ。
企業によっては、筆頭株主が日銀というおそろしい所もで始めた。どう考えても不健全である。

GDPの増加については、このブログでも何度も取り上げてきた。詳細は明石氏のブログが
良い参考になろう。どう考えても捏造である。厚生労働省の不祥事といってもいい。

https://hbol.jp/186420
http://i-shinsho.shueisha-int.co.jp/kikan/014/
参考:http://blog.monoshirin.com


私は別に安倍政権を叩きたいわけではない。彼らの思想や存在など、どうでもいい。
だが、そのやっている事がデタラメなのだ。デタラメがまかり通る社会はいずれ崩壊する。
その崩壊する日本に私が住んでいるという悲しさがこの記事を書かせているのだ。そして、
怒りが、何度もこの手の話に言及することになる。


最近は、考えが変わってきていて、事実をみせても、訴えても、先のウェブ記事のように
政権擁護の内容がある限り、若者はひっかかり続けるのだと認識した。では、どうやって
本当の事を理解すればいいのだろうかとも思う。

私がただ、リベラルだから、その価値観に立って記事を探しているに過ぎないという事は
大いにある。提灯記事が正しくて、それが事実なのかもしれない。だが、私の直観がそれを
許さない。何かが違うと感じるのだ。それは自然にしていたら、そういう事はありえないという
実感である。それは川が上流から下流へと流れるという事と何も変わらない。もし逆さに流れた
ら、おかしいんじゃないか?と思うだろう。もちろん、そんな事もありえる。大地震やポロロッカ
のような事はあり得るのだが、そんな事は滅多にあるものではない。

そのような自然な感性から、安倍政権の政策を眺めた時、そして自分の生活を鑑みた時、
安倍政権が言っている成果なるものがどう考えても実感できないのである。前提条件として、
人口が減っている時代に、「成長」しているとか、景気が回復しているとか、株価があがるとか
すべからく、有り得そうもない事柄なのだ。有り得そうもない事が起こっているという事実は、
何かおかしな話があるんじゃないかと思うのが自然である。

その直観をたどっていくと、やはり同様におかしいという人たちが存在しているのだ。
それを妄言という人々もいるのだろう。景気のいい話で何が悪いのだと。だが、バブル前と
バブル後の流れを脇でみていた自分からいえば、景気が良いという状態が異常さによって
保たれているという可能性にすぐに思い至るのだ。それは自然ではないからである。

そんなに良い話だけが存在する方がおかしい。これは汎ゆる詐欺にいえる。
結婚詐欺、投資詐欺、詐欺行為では良い話しかしない。物事には必ず良し悪しがある。
良い話にひっかかる人は、自分が得したいという強欲に絡め取られている。もしくは
人が良いだけだ。若者は、自分が得できればいいと考えていて、失業率が下がったときけば
それがどんな意味なのかを問わず、自分に有利なら良いと思うのだろう。詐欺にひっかかる
カモのセリフである。「そんなこととは思わなかった。。。」如何にも、20年後の若者が
言いそうなセリフである。いや、五年後かな。


財政負担はもはや引き返せない段階にきた。あとはどうやってマイルドに崩壊するかである。
現在の借金は、太平洋戦争時と同じ程度になってしまった。我々は平和時に戦争している
のである。その金は、全国に津々浦々、誰かの給与として、主にアベ友の懐に収まる。
そうして、給与体系を維持しようとする。もはや、成り立っていないのに、取り繕う事に
腐心しているのだ。その一端が、なんども出てくるデータの捏造や不正である。

消費税10%になれば、嗜好品に打撃がくる。日用品はどんなに節約しても、ないという
わけにはいかないからだ。嗜好品のもっともたるものは服装だろう。ZOZOの未来は危ない。
また、車の未来も危ない。他もあらゆる嗜好品の消費は減る。今までは出来たことが、若者には
できなくなる。車は元より、旅やレジャーなども上の世代ほどにはできやしない。だが、
それを提供する側にはいるのだ。そして、それらサービスは一部を除いて潰れていく。

来年以降、日本は更に厳しさを増すだろう。国は国債を発行するが、購入する団体がないと
いう状態が近づいてきた。足りなければ借金すれば良いという発想はもはや不可能である。
じゃあ、今まで借りたやつはどうするのか?利子のぶんくらいは消費税でまかなえるだろう。
だが、税制は明らかに減る。国は消費税ではない形で金を取りに来るだろう。それは特別税
である。その一端は、たとえば出国税である。同じく、人々の生活に直接関わる部分で金を
巻き上げにくるだろう。

それを効率的にやるためには、決済は電子的に記録したほうがいい。だからこその電子処理
であり、電子マネーであり、その記録簿としてのマイナンバーカードである。人々は大増税
時代を生きることになる。税金が多いと、生活は苦しくなる。生活が苦しいと仕事が苦しい。

逆に考えれば、分かるだろう。サービスを提供する側が、消費者の懐具合を気にするわけだ。
すると、なるべく安くしようとする。しかし、その分、給与は減る。だから、自分が消費する
時は、金を使わないことを考えるようになる。すると、サービスを提供する側が倒れる。
よってサービスは消滅する。定価販売する他ない小売店は、その打撃を最初に受ける。だから
地方の駅前はシャッター街になる。金がない人々は、大型店舗であるイオンに流れるからだ。
体力のある企業は薄利多売でなんとか食いつなぐのだ。だが、それもいずれ給与は頭打ちだ。

結局、現在の安倍政権のやり方は、消費を減らすだけである。サービスは悪化し、ならば
そんなものはいらんと、みんな買わなくなる。ま、今までが無駄なものを買いすぎていた
とも言えるのだが。

出口はあるのか?? 人々は賢い消費者をめざす。同じものならなるべくネットで買う。
イオンなどで少しでも安く買う。これを多くの人がやれば、売上が減るのは当然である。
売上が減れば、労働者としての給与が減る。そしたら、買いたいものがあっても、買えないのだ。

本来的には、政策としてはあくまで減税路線にいくしかないのだ。人々の手元に金をもたせる。
特定の論者は、そうすると貯金をして使わないという常套句がある。だが、人々に金が貯まる
仕組みがなければ、使わないではないか。なぜ使わないのか、それは将来が心配だからである。
国の状態が良くないというのはみんな分かっている。だから、金を使わない。将来的に金を
稼げるかわからないからだ。それに加えて、老人たちは働きたくない。だから、カネを使わない。
ないわけではないが、使う場面がないのである。老人たちにくばる金は減らす他ない。だが、
その老人たちが一番票を持っている。という矛盾。

金を一番欲している若者は、金がない。だから様々なことをバーチャルで済まそうとする。
それは工夫なのだが、それによって金は動かない。だから、小売店は若者向けのサービスを
やめてゆく。金が欲しい若者の一部は、ホリエモンなどに憧れる。意識高い系の誕生である。
金があれば、色々出来るじゃないか。そして、起業などをする。そういう流れが一部にある。
一方で、地道に金を手にいれようとする人々で溢れている。そのために若者は大学へ行く。
少しでもましな会社に務めるために。

だが、まともな会社は忙しい。日々に忙殺される。そうやって忙殺された結果として、
生活の不満度があがる。真面目にやっているのに給与はふえず、サービス残業の毎日。
真剣に労働はしてても、終わりがみえない仕事。かつてより仕事量は確実に増えているのに、
売上は減っているからだ。仕事では無駄が溢れ、その無駄を組織が押し付けている。だが、
若者には、それに抵抗するすべがない。抵抗すると、追い出されてしまうからだ。こうして、
老人たちの手足になって、労働を提供する存在となる。

その憂さ晴らしは、きっとネットで行われるのだろう。そして、威勢のいい安倍政権に
雰囲気だけでライドするのだろう。それは恰も野球観戦するかのようだ。愚かなことだが、
この程度の事が毎日、毎日起こっている。その積み重ねが現代である。

何か間違えているんじゃないか? と私の自然がささやく。

一方で、多くの人は、「ま、我慢すればいいか」である。我慢をするとどうなるか。
病気になる。精神的な我慢でも、身体的な我慢でも、大抵の我慢は病気の元である。
病院にいけば、医者が待ち受ける。その医者たちは、国民から巻き上げた国民保険から
多額の金を受け取る。国民保険とはおよそ、税金である。

人々は、労働を社会に提供しその対価である金を得る対価として、時に生活を壊し、
精神的な不満足を抱え、身体的な問題にぶちあたる。病気になれば、病院にいってまた
金を払う。金を生み出すマシーンのようだ。

1984では、まだ主人公に思考があった。だが、現代日本人は何か考えているのか?
マトリクスを馬鹿にした人々は、社会的支配層にその労働を吸い取られている事に
気が付かない馬鹿なのか?

おそらく、日本人として全うに生きるとは、少しもマシではない生活である。
いや、もう少しちゃんというべきだ。都市部においてサービス業に従事する人々は、
まともな生活をしないで一生を終えるのだ。まるで、家畜のようなものである。
牛や豚は肉を提供するが、人は労働を提供する。他者のために。そういう構造になっている。

給料が銀行口座に入る。するとその金を使った投資で儲けた銀行は、株主に配当を配る。
その配当は、要するに投資するだけ資産をもった人間にだ。その人物たちは誰なのか。
我々が普通に暮らすだけで、彼らが儲かる仕組みになっている。それが不労所得の中身である。
それを担保するには資産が必要で、その資産とは大抵誰かの犠牲の上にある。

社会を正当に知ると、悲しみしか出てこない。だが、それでも前を向く思考を考えたい。

若者よ、もっと考えることだ。これからの時代はどう考えても、金じゃないものから
対価を得ることに注力すべきだ。幸福は、常に金からは生まれない。幸福は人との関わり、
自然との関わりから生まれる。それは既に答えなのにだ。真理と言える。あらゆる宗教や
科学は、それを訴え続けている。ならば、なぜ必要以上の金に注力する必要があるのか。

過渡期である今。豊かさとは、人生とは、幸福とはなにか。そういう事に真剣に向き合う
人だけが、幸せを選び取れる。そういう時代になったのだと私は思う。急がばまわれなのだ。
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怒りー安倍政権に向けてー [雑学]

どうにも、怒りが沸いてきて仕方がない。
安倍政権に関わる事柄は、すべからく嘘に塗り固められている。
どう客観的にみようが、彼らが憲法を守らず、都合の悪いことは隠し、
その上で、金をちらつかせてそれらが報道されないように圧力をかけ、
やりたい放題である事は、実に許しがたい所業といえる。


これは自分の中の正義が許さないと、瞬時に湧き上がる感情だ。
ところが、多くの権力構造に組み込まれた人間たちは、それを「清濁あわせ呑む」とか
「大人の事情」とか「必要悪」などと多大な言い訳を行って、なかったことにする。

彼らにとっては、自己保存のためならば、何をしても良いというのが、
ルールである。そのために、影響力を持つものに対して、あらゆる形で干渉し、
彼らの邪魔をさせない、もしくは、彼らの味方になるように行動する。

社会に公平な正義など、存在しないといえるだろう。
在るとすれば、各人にとって都合の良い正義だけだ。だが、そんなものは正義ではない。
その意味では、あらゆる正義は成り立たないというテーゼが是認されている。

さて、今回も沖縄の辺野古基地建設反対の住民投票が有効投票に対して70%を越えた。
沖縄の民意として、基地に反対なのだ。そういう結論が出た。では、政府は何かするのか。
しない。何もするはずがない。政府とは常に、そういう存在である。国民のために
何かする組織ではない。国民から金をとりあげ、支配者たちのために使うのが国である。
そのように考えるのが庶民の知恵である。国は基本的に国民にとって悪である。

いや、そうはいっても公共事業や、福祉などがあるというだろう。だが、それは
先人たちの涙ぐましい努力によって、国に認めさせた行為であって、国はそもそも、
そんなことはしなくないのだ。結果として、現に日本では福祉や教育への資金は減らされ、
じわじわと首がしまっている。

これを自己責任という人間がいる。それは嘘だと断言しよう。人生には運不運がある。
たまたま、時代の潮流にのった人々が儲けているが、彼らが儲かったのは社会の成員が
いてこそだ。儲からなかった人々が必ずしも、努力が足りなかったというわけではない。

ならば、社会全体に寄与する必要があるのは誰しもが同じこと。だが、実際には、
自分だけよければよいという成員が増えすぎた。結果、日本は今、瀕死の状態にある。
その一番の原因は、中高年だろう。自分たちの事だけがよければよい。だから、福祉や
教育など、自分に直接関係ない事に税金を使う政策は不人気となる。誰も将来の
事を考えて、良い社会を残そうとか、資源を守ろうなどと思わない状況になってしまった。


こういう時代には、安倍のような首相が役に立つ。特に経団連など巨額の仕事を国から
得る人々は、利用しやすい人間がトップである事が重要なのだ。だから現政権は変わらない。
その立場を安倍らは利用して、彼らの思想を政治に持ち込んでいる。このような動きは、
第二次世界大戦のドイツそのものだ。ヒトラーが始めた政治によって景気を回復したドイツ
は、財界がヒトラーを支援し、ヒトラーはその思想を政治に持ち込んだのである。

結果として、第二次世界大戦はあのような結果になった。それを保護したのは財界の人間たち
である。このような動きは、現代日本そのものであろう。ただし決定的に違うのは、日本では
安倍政権の経済政策はまったくの間違えで、事実、何にも成果が上がっていない。GDPを増えて
いないし、景気も回復していない。株価は年金などの資金をつかって底上げしただけであるし、
失業率の回復は、団塊がいなくなるために起こっている人手不足のせいである。その一方で、
経費削減のための非正規雇用やバイトの割合を増やし、人件費を抑制し続けた。

その結果、景気は回復せず、円安の結果として物価上昇を招いた。スタグフレーションである。
物価が上昇しているのに、景気は後退する。あたりまえであろう。みんな所得が減っている
のに、物価があがれば、買い物をしなくなる。儲けが減れば給料は増やせない。

給料が増やせない業界は、仕方がないので首切りをする。首をきっても状況を維持できない
人たちは、国に頼ることにした。だから、国に面と向かって文句はいえないのだ。なぜなら、
彼らの給料を国が支えているからである。場合によっては法律を用いてさえ、国は法人を
押さえ込む。国民を押さえ込む。

こうして、国の仕事に依存させて、企業集団を実質上、しばりつけておくのは政治的手法
なのだろう。このことが直ちに問題ではないのだが、問題は、安倍政権の思想的偏向である。
戦争をする国にする事や、中国や朝鮮とあえて対立的にみせている事。憲法改正をするという
事は問題は無いが、その中身の酷さは閉口する。時代遅れもいいところだ。だが、その時代
遅れに価値を見出すのが、中高年の人々である。そして20代の無知な若者だ。

今まではあまり、触れなかったが、言葉にしておかないと危険だと思うのであえて触れる。
それは、厳然と世代格差や世代間思想の違いである。現状で年金をもらっている人間たちは
逃げ切り世代といえる。一方で、40代以下の人々にとっては、年金は税金のようなものだ。
制度上、破綻している。だが、それを続けている。明らかに不正義である。だが、そんな
事は中高年はお構いなしだ。自分たちだけよければそれでいいという自己中心的な人々が
大半をしめている。それが最大の問題なのだ。

では何が悪か。それは、システムの要請を無批判に受け入れることである。国が言うから、
県がいうから、経営者が言うから、上司がいうか、だからやる。およそ大馬鹿者である。
そして、悪人である。じゃあ、あなたは権力構造の上位から指示されたら、人を殺すのか?
おそらく殺すのである。それが、システムの要請に無批判であるという意味なのだ。

自分が殺されるか、相手を殺すかとなったら、大義名分とともに、喜び勇んで人を殺す、
それが大半なのだ。これは歴史的事実であり、おそらくこれからもそうなのだ。

現に、安倍政権の悪事に対して、何も反応できていない。つまり無関心なのだ。
無知は罪である。罪ではないかもしれない。罰なのだ。無知とはそれだけで罰を受ける。
それが、政治的な問題なのだ。知らなかったでは、すまされないほど、非道が行われる。
それも法の下に。それがいかに恐ろしいことか、先の戦争時に知ったはずなのだが、
もう忘れてしまったらしい。そして、自分がよければそれでよいと、安倍政権の尻馬に
のって稼ごうとする。その金がもしかすると、ただの紙切れになるかもしれないというのに。

悪事が悪事として認定されない世界では、正義など無意味である。現状の日本では正義は
無意味と等しい意味しかない。われわれはもっと考えないとまずいのだ。誰かがうまいこと
やってくれるというのは、もはや幻想である。

明日のご飯や、幼い子供の世話、今日の会議や、半年後の取引のことが多くの人にとって
重要である。それに忙殺されて生きている。だが、なぜ忙殺されているのかを問う人間は、
私くらいしかいない。残念ながら、まともな人は数少ない。ここまで書いてもなお、これを
読んだ人々は、現状のおかしさに疑問を持たない。不思議でならないのだ。

おかしいと思うためには、現状の外側に違う価値観があると認識する事だ。
実際に、そういう価値観は存在している。だが、島国日本では、違う価値観は「悪」なのだ。
そして、自分たちがやってきた成功体験にいつまでもしがみつく。沈没船にしがみつく
人々は、その後どうなるのか、どうしてわからないのか。

沈没船がまだ浮く可能性を秘めているうちに、私は何とかしたいとおもってこれを書いている。
もちろん、険しい。安倍政権が終わったときは、ある意味で現日本が終わったときになるだろう。
その後について、語ろう。その後を語れる人々を増やそう。その後について考えよう。

もし、日本円が紙くずになったとして、そこから何が出来るのか。
おそらくそういう思考こそが、これから10年において重要なのだと思う。

多くの人は盲目的に生きている。その盲目さこそが、「悪」だと指摘した。もちろん、
これも伝わらないだろう。その愚かさゆえに、盲目でいられるのだから。だが、自分たちが
如何に醜い姿をしているのか理解しなければ、それをどうにかしようなどとは思わないだろう。

私の予想は、日本は結局、駄目になりきらないと制度は変わらないのだと思う。
現状維持のまま、経済が失墜し、場合によってはデフォルトし、紙くずとなったときから
再スタートが始まる。その時に、我々は何をするべきか。今から考えておこう。
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ふと思い立つー2019年抱負 [雑学]

なんか、急にダイエットをしたくなった。
それはSNSダイエットである。

最近は本ばかり読んでいるのだが、一方で、ネットに向かうとFacebookやTwitterなどのSNSを
ついつい触ってしまうことが多い。客観的に自己を観察すると、かなり無意味な時間を過ごして
いる事に気がつく。これでは人生の浪費だろう。

テレビを漫然とみている家族をバカにしていたが、自分も漫然とネット、とくにSNSをやって
しまっているではないか。別に生産性がある事に時間を割り振るというわけではない。
むしろ、別の形の無駄な時間の過ごし方を考えたいのだ。

本をよむのは、その一つの手段である。だが、本はさすがに3時間も読むと、
疲れてくる。だから、映画を観たり、ネットをするのだが、このネットがくせもので、
無意味な時間過ぎる。むしろ、この時間をエクササイズや瞑想に当てればいい。

というわけで、無駄なSNS活動を意識的にやめてみようと思う。Facebookは連絡手段でも
あるので、時折みないと困る可能性がある。一方で、Twitterはニュースの摂取に利用している。
この辺りをどれくらいダイエットできるかがポイントだろう。

自分の行動がかなり一定なものにはまり込んできたことを危惧しないとまずい。
少し、デジタルから遠ざかる工夫をしてゆこう。

2019年はひとまず、SNSダイエットをしたいと思う。

そのために、今、Firefoxにブロックサイトというアドオンを追加した。
Facebookを見られないようにしてしまう。それから同じように、ついクリックしてしまう
サイトをブロックした。これがどう効果が出てくるかは分からないが、しばらくこの状態で
過ごしてみようと思う。

それから、スマホも触る時間を減らしたい。そのためには、強制的に使えない時間を
作るべきだろう。

少し意図的に、ネットから遠ざかり、アナログな情報ツールの割合を増やしたい。
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