嘘つき安倍議員の処罰 [雑学]

権力が腐敗するのは明確である。
おそろしいのは、日本の法律システムでは、政府が人事に介入できる事だ。
本来人事とは、組織内で決定するべきものだろう。それを外部である内閣が
介入できるという事は、権力集中があることになってしまう。

検事総長の決定に内閣が介入したり、
最高裁判所判事の任命に内閣が関与したりする事で、三権分立が事実上、崩壊してしまう。

このことは、内閣が人格的に全うであれば何も問題はないだろう。
だが、政治力学は異常な人間を長に据えることもある。その実例が安倍晋三であった。
彼は担がれた神輿に乗っただけの政治家であるが、それでも主体性がないわけではない。
ただ唯一の主体性は「嘘つき」という事だ。

桜を見る会の不正会計疑惑において、安倍晋三議員の秘書が起訴される予定だ。
政治家がパーティーを開くのはなぜか? そのあたりから問題を考えるべきことだが、
それは脇において、ここでは嘘つきを問題にしたい。

国会において桜の会が追求されたのは、要するに安倍晋三の後援会が金を払って
有権者にサービスをしたという点だ。これは公職選挙法に違反する行為であり、犯罪である。
票の買収は禁じられているからだ。しかし、こんなことは公然の秘密であって、多かれ
少なかれ政治家は小汚いことをしているだろう。

問題は国会という場において、嘘の答弁を繰り返したことである。
安倍の後援会側がホテル側に支払いをしていたことが明らかになった今、
安倍晋三議員が国会で繰り返していた「関与はない」とか「参加者が契約者」だとか、
すべてが嘘、嘘、嘘のオンパレードという事だ。数えた人がいうには30回ほど
嘘を証言している。

嘘がまかり通るなら、警察はいらねえ。

子供でも知っているような事ではないか。
ところが、その嘘つきが事もあろうか、日本という国の総理大臣であった事は
実にけしからん。

あれだけ、そしらぬ顔で嘘がつけるのが首相である。
彼らを与党に選んだ日本の民度もたかがしれているというものである。
そして、安倍を総理に利用した国会議員たちのレベルの酷さがわかろう。

こんなどうしょうもない人達が議員をやっている国がまともな政策を
打てるとは到底思えない。結局、二世・三世議員はつかえないのである。

民主主義を礼賛する人間は多い。だが、その実態はなんだ?
大うそつきが首相をする、そういうものを民主主義というらしい。
国会議員たちは自分たちに都合の良いように制度をつくり、
その制度の上で、自らは特権を得ているのであると勘違いをしている。

また、多くの日本人もまた、国というものに幻想を抱いている。
政治家なんて、ただのオヤジ集団である。その彼らは別段偉いわけでもない。
また賢いわけでもない。ただ利害に敏いだけなのだ。

ところが、一般国民の一部は、国会議員というと何か偉いものにでも
あったかのように、ましてや総理大臣といえば何か統治者だとでも勘違いを
する。実をいえば、彼らは我々が選んだ代理人、つまり国民の下僕である。
議員は下僕なのだから、国民のいう要求に答える義務がある。

国民が真実を教えろといえば、真実をいう責務がある。

だが、いまだに頭の中が江戸時代の日本人が多く、
封建主義的な発想でいきているがため、お上を責めることを異常なまでに警戒する。
この国はものすごい歪なアイデンティティしか持てないのだろう。
西洋から持ち込まれた諸制度は、ただのハリボテであって、日本人は
未だに封建社会に住んでいる。その矛盾を解消することもなく、ずっと今に至っている。

選挙で選んだおっさんを、統治者として崇めるようなくだらない行為に
5000円はらって参加することが嬉しいらしい。
おそらく政治家にすり寄ることで、利を得ることを考えるからなのだろう。
使う方も使われる方も同じ穴のムジナである。

ともかくも、ここにきて検察は動いた。
この事実が実に危ない事である。

安倍内閣が存続時にも、同じように秘書に聴取をすることはできたであろうし、
それによって今、明らかになっているように900万円の補填などはすぐに認定できた
であろう。それを、ホテルは領収関係を提示せず、後援会は知らぬの一点張り。
そんな主張を許してきた国会、検察。そしてメディア。さらには国民たち。

嘘つきに加担して、何を得ようとしていたのか?

検察ですら、在任中の操作を控えていた。その事実から何がわかるのか?
簡単に言えば、権力者の犯罪は隠蔽されるという事である。
そして検察はそれに対抗する手段がないという事である。というか、ただの
腰砕けた情けない集団が検察というだけかもしれないが。

結局、人々は権力におもねり、反感を買うことを避け、事大主義になる。
人間の組織は常に、絶対にそうなる。それは歴史的に明らかだ。
そして、そうなった組織は必ず潰れていく。

我々が認識すべきは、今の認識されている日本という国が崩れていくという事実だ。
どんなに高尚な理念も実行されないのであれば、それは絵に描いた餅である。

では、安倍晋三はどうなるか。
本来であれば、公職選挙法違反で罪に問われ、逮捕起訴であろう。
だが、絶対にそうはならない。代わりに秘書が罪罰を受けるだけかもしれない。
そして本人は自民党議員としてのうのうとしていることだろう。

あれだけの嘘をついても、なんのお咎めもない。
それが法治国家日本の限界である。

逆に言えば、日本では嘘つきが利を得る。嘘を称賛する。そういう歪んだ国である。

私はこの手の問題に実に怒っている。激しい怒りを感じる。
嘘をついたものが、なんの罪悪感もなく、メディアに顔をだし、
咎めを受けないのであれば、一体なんのための法律なのだ。

国の首相が嘘つきでいいならば、国民も嘘つきで良いとなる。
完全に道徳の崩壊である。

その道徳崩壊を率先していやっている政府が、学校教育において
道徳を「教科」にした。一体何を教えようというのか? 嘘つきは悪くないと
教えるつもりなのか?

いじめをしても、「ぼくはやってません」という生徒が出てきたとき、
一体、安倍晋三はどう答えるのだろう? それでいいんだよとでもいうつもりか。
人間としてやはり異常である。

政治家が人格者であることを求めてはいけないだろう。ときに必要な嘘もあるだろう。
だが、自らの罪を隠蔽する嘘はアウトである。

果たして、安倍晋三はどう処罰されるのか。

https://twitter.com/emorikousuke/status/1337337831727853569?s=20
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新刊と古典ー本読みの工夫 [雑学]

古典を読むことは、積年の批判を乗り越えた内容にふれるという事である。
一方、新刊を読む事には現代に生きる人間のものの見方が詰まっている。
これはまるで違う活動である。

同じように本を読むといっても、その書が広げているリーチに違いがある。
古典の不思議さは、古典もまた当時は新刊であったはずが、いつの間にか
時を越えて伝えられるものになったという事だ。その意味では、古典もまた
新刊である。

ここで注意しなければならないのは、古典が書かれたコンテキストである。
我々はうっかりと現代のエートスから、古典も眺めてしまう。どうして、
その古典がそのような内容になったのかは、その時代背景が大きく影響している。
よって、安易に、内容の是非の現代の尺度で切り取ってはいけない。

一方で、現代のものに見方でしか、我々は古典を解釈できない事も事実だ。
どんなに想像力を豊かにしても、当時の人と同じように読むことは出来ない。
よって、古典を読むとは、結局のところ、現代の視点で切り取る事である。
どんなに古典読みの名人になっても、これは揺るがない事実である。誰も
過去に生きることは出来ないからだ。

かつての偉人たちの著書は、大小様々なものを集められ、批評にされされている。
正直にいって、すべての著作がおしなべて素晴らしいということはありえないだろう。
私がこのブログに書く記事にも、質の差は歴然として存在するし、まともな主張すら
ないものだってある。そういう意味で、哲学などにおいて、初期作品と後期作品を
比較検討して、その矛盾を指摘するなどの行為は、極めて愚行だと言える。

誰しも、その時に考えたことと、今考えている事に違いが生じるし、そもそも人間とは、
矛盾している。数学の例を取り上げなくても、閉じた系は矛盾な論理で構成しきれない。
厳密にいえば、どんな体系も閉じた系を作り出せば、その閉じた系のルールによって、
矛盾を生じるという事だ。数学ですら、そうなのであるから、人生などは矛盾だらけ
である。昨日の黒は、今日の白かもしれないのだ。

それは人は変わるという厳然たる事実である。諸行無常を出すまでもなく、
人は日々変わる。同じように見える人も、毎日変わっている。いや、もう少し正確に
述べれば、変わっているのがデフォルトであって、それを変わらないように頑張ってる。
それが命である。

多くの人は変わらぬ自分がいる事を当たり前に思っている。だが、生物学は、それが
とてもつもなく奇跡的な事である事を教えてくれる。我々は毎日崩れている。
熱力学の第2法則により、エントロピーは増大、形はランダムへ向かってエネルギー放散
しているのだ。それを命の仕組みによって、元に戻るように整えている。だからこそ、
我々は毎日食事をするのである。そして、それは完全にいかず、完全に行かせないように
体はルールを作り出した。それがゆえに我々は子供を作り、子孫を残すのだ。

つまり、変わらないというのは努力がいる事なのである。それはこの社会も同じである。
社会という言葉に実態がないが、通用的な意味での社会の状況は日々変わっている。
それでも、人は毎日同じように過ごす。過ごして生きること出来る。それには膨大な
仕事が行われているからだ。それはエネルギーを注入して身体を維持する命と同じ事である。

現状維持が悪い事であるという思想性もあるが、現状維持とは実は、大変な高コストである。
放おっておけば、必ず変わってしまうのがこの世である。そして現代日本は、現状維持が
社会状況変化によって無理になった段階にある。ところが、それでも、現状維持幻想を保持
している。現実から目をそらし、なんとか現状維持をしたいと願っている人々が半数以上
いる。だが、そんなものは無理なのである。

さて、ここで不思議なのは、このように変わりゆく社会において、新刊はつねにフィット
して情報やエンターテイメントを提供する。それは分かる。一方で、古典はどうか。
変わってしまった社会において、古典がのべることは、有意味だろうか?

人によって、そんな古いものを読んでもと思うことだろう。

おそろしい事に、人に変わらぬものがある。それに触れているのが古典である。
つまり、古典となった書というのは、ほおっておけば変わってしまう人間のあり方に
おいて変わらぬ事を述べているということなのだ。

人生の性というものを含んでいるからこそ、古典はいまもなお読みつがれる。
その人の性とはなにか。それは私が述べることではあるまい。
古典をぜひ紐解くのがよい。そこに描かれている情景や小道具は現代とまるで
違うかもしれない。だが、そこで起こる出来事や人々の振る舞いは、現代と何も変わらない。
その変わらなさが、古典の意味である。

もし、とある人が時間を無駄にしたくないと思ったら、真っ先に古典を読むべきなのだ。
なにしろ、そこには現代人と同じ基盤を共有する先祖の生き様が描かれているからである。
それを知ることは、これからの人間を知ることでもある。極端なことをいえば、
古典には未来が書かれているとも言えるのだ。

そのへんの啓蒙書や、ネトウヨ本とか、陰謀論や経済書などの実用書を読むのも
悪くはない。だが、本当に時間をかけるべきは、古典に触れることである。

では、新刊の立場はどうだろうか?
もちろん、新刊の中にも、人生における変わらぬなにかに触れているものがある。
そして、読むに値するものがある。著者はそれとなく知ってる人々である。
とはいえ、玉石混交の本から、それを見つけ出すのは難しいということだ。

むろん、時間が大量にある人間は何でも読めば良いわけなのだが。
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不人気な人間たちー代償行為ー [雑学]

結局、金という手綱がある限り、人はいう事を聞く。これが彼らの論理である。

金でいう事を聞かないやつは、追い出し、金や地位も貪る人間たちが場を牛耳っていく。
これが組織が退廃化する原理なのだろう。そして残念だけど、すでに日本の政治はかなり
腐ってしまった。イエスマンしか周りに置かなければ、力は失われていく。歴史をみれば、
はっきりしている。

でも、上に立つ人間の多くは、どこか我欲が強いものだ。
その動機なにか。ひとつの理由は、自分が嫌われているという事実なのだと思う。

嫌われている人間は、地位に固執する。理由は簡単だ。
地位についていれば、人は周りに寄ってくるからである。
地位を失えば、人は離れていく。

まったく同じように、金もだ。金があれば人が寄ってくる。
だから、金を儲けようとする。

少なくとも、金や地位を欲する心の働きの中に、他者から求められたいという
欲求があるのは間違えない。その意味では健全に他者から求められる人間は、金や地位に
固執する必要はない。

よって、いわゆる良い人は、金や地位を求める馬力が、嫌われ者より小さい。
この馬力の差が長い目でみると、大きい差になるわけだ。大抵の場合、組織では、
いわゆる強欲な人が地位を得る。吠える人間が周りに「譲られて」立場を得る。

だから、地位が組織内の政治で決まるような場合は、これが如実にでるわけだ。

金と地位におもねる人間には、それに似た人間たちが集まる。
今の政府が重用する人間をみればはっきりしているだろう。まさに、嫌われ者の巣窟にみえる。
私は彼らと一瞬たりとも同席したいと思わない。腐臭が画面越しにも見えるではないか。

そんな人間たちを支持する庶民たち。私には全く理解不能だが、
世の中そんなものだと、彼らをむしろ利用しようとする人々を多い。結局同じ穴の狢なのだ。
その意味で、いまのどうしょうもない政府が代表となっているのは日本の程度が分かるという
事でもある。

結局、人に受け入れられない人間は、その悲しさを、地位や金で補償するしかない。
現代は、その手段が存在するという事だ。それが問題を大きくする。


神経科学の知見で面白いものがある。とある群れをつくるサルたちがいる。
彼らはヒエラルキーを持っている。いわゆるボスがいる。

ここに実験者が介入する。ボスの脳に薬剤をうって、セロトニンの量を減らすのだ。
すると、ボスは陥落する。その理由はセロトニン不足のサルは、攻撃的になるためだ。

次のボスが現れたら、そのボスにも薬剤を打つとやはり、ボスから陥落する。
攻撃的になったボスは、嫌われてしまうのである。

なんだか不思議に思わないだろうか?
人間社会では、ボスは攻撃的なヤツな事が多い。つまり嫌なやつが多い。
だが、むしろ、出世していく。サルと真逆ではないか? サルが特殊だからだろうか?

実はこのサルたちの群れでは、ボスの地位をサポートしてくれるのはメスたちと分かっている。
セロトニンが不足して攻撃的になったボスは、メスに嫌われて地位が陥落するのである。
そして、もっと落ち着いた堂々としたオスがボスになる。メスからの支持が大事であり、
好かれる個体がボスになるわけだ。実に王道だと思う。

ところが、人間社会は上記のようにまるで逆さまだ。
それは、一つに人間の組織はホモソーシャルだという指摘ができるだろう。
会社組織は、男だらけである。男の中で地位を確保するという事では、いやなやつの方が、
有利というわけだ。嫌なヤツであろうとも、役立つと思えれば男は付き従うという事である。
というより、付き従う人間がよってたかって、贔屓の人間をボスにすえるという事だ。

女性の社会進出が阻まれているのは、社会通念の問題もあるかもしれないが、
もしかしたら、このような猿的要因かもしれない。つまり、会社で人事を司る人間は、
嫌な奴なので、女性が入ってくると嫌われる事が予測される。そしたら、居心地が悪くなるわけだ。
そのような危険をおかしてまで、女性を職場に含める必要はないと思うのだろう。

よって、自分と同じような嫌なやつを周りを侍らせておくような人間たちの集団は、
女性の採用は控えるのかもしれない。まあ、現実はもっと複雑な力学が働いているのだろうが。

というわけで、サル社会とは異なり、人間社会では、いい人は出世しないのだ。
攻撃的で嫌な奴が、その能力を交渉の場などで発揮する事が、組織にとって有利だからこそ、
嫌われ者の価値は高まる。そして、それがゆえに、さらに金や地位に固執することになる。

こういう人々が、退職するとどうなるか。その事後をつぶさに検証したら、
その惨めさが浮かび上がると予測するのだが、はたしてどうだろうか。
現役時代にかせいだ金で、引退後も地位確保するのだろうか?

こういう男を量産するようならば、そりゃ、家庭でうざがられるし、伴侶にも
袖にされることだろう。仕方がないので、金でつるむ仲間を探すことになる。

ま、それも人の性なんだろう。

人生にコストがかかる人間は、その分、働かざるを得ない宿命なのだ。
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いつ「生きる?」 [雑学]

昨今は、常に前もって何かをする事を強いられる。
映画にいく。すると既に良い席は埋まっていたりする。オンライン予約があるからだ。
確かに便利ではあるが、事前にやらない人にとっては、なんだか興ざめである。
ディズニーランドに行く。ファーストパスをとると、列に並ばずに優先的に乗れる。
だが、そのためには、とても戦略的に行動しなければならない。こことここのパスを
とって、空いたタイミングで昼飯を食べて〜という事になる。

このような日常的な些細なことは、もしうまくいかなくてもある程度次の機会があり、
問題がない事が多い。だが、そうもいかないこともある。

旅にでる。宿について部屋があるかと聞くというような事をする人は
稀ではなかろうか。事前に予約すると、値段はぐっと下がるからだ。
すると、計画が大事になる。

ところが旅も長くなれば、帳尻が合わなくなる事もしばしばある。
その時に、宿の都合があったり、どこか施設の予約があったりすると、
それに合わせようとすることになる。宿などは特にキャンセルがもったいないからと、
無理にでも行こうとしてしまう。

計画はあくまで計画であって、常に変更を迫られるものであるが、
現代はそれを極端にまで嫌う。予定が立たないものは、あってはならないというくらいにだ。
その一方で、計画は必ず遂行しなければならないものとして、存在している。

これはいわゆる「脳化」である。
もっといえば、システム化である。人が自らの行動をシステムの中に埋没させていく。
その動機は、得か損かであり、損になる行動は避けようとする。一部の人は得を目指し、
多くの人は損を避ける。そういうシステムになっていく。

頭がで考えたことは実行されるべきという、ある意味での原理主義が、
社会のあらゆる分野に根をはやしてしまった。

例えば、年金。若い頃に年金を払っていなければ、年老いた時に年金を受け取れない。
25年間かつては収め続ける必要があった(今は確か10年に短縮されたはず)。

しかし社会が前提とした構造は、日々移り変わっていく。
かつての人々が楽観的に予測したような社会ではなくなった。
それにも関わらず、計画は実行される。なぜなら、25年という計画だからだ。
そして、今も働き始めた社会人はこの仕組に足を踏み入れている。

こうなると、現実と計画は齟齬をきたす。
当然ながら、どこかで破綻するに決まっているのだが、その責任を誰もとりたくないので、
崩壊するまで待っているというのが現状である。

一方で、このような計画社会は人々の心を苦しめる。
一度、加担したら、そこから抜け出すことが圧倒的に損になるからだ。
加入した時間が長いほど、損である。その結果、計画された社会に組み込まれたら最後、
逃げ場はない。正確にはあるのだが、その逃げ場はひどいものになりがちだ。

すると、人々は計画された社会にどうやって組み込まれるのかに腐心する。
それを子供に押し付けるのが、受験勉強であろう。受験で良い成績を収めておけば、
損にはならないと。常に後ろには、崖が迫ってきて、気を抜いたら落っこちるというような
仕組み。それが、現代のシステム化された社会である。

このような仕組みでは、常に明日以降を見つめて過ごすことになる。
来年は、再来年はどうなるか。そんな風に考えて行動することになる。
それは、翻ってみれば、今をおざなりにする行動である。

既に幸福研究から、幸福に大事なのは「今ここ」であると知られている。
今ここを堪能しなければ、幸福などありえない。ところが、現代人は今ここよりも、
明日のこと、1ヶ月後の事、いや場合によっては定年後の40年後などを想定して生きる。
そうして今ここをないがしろにしてしまう。

あまりにも虚しいと思うのは私だけだろうか?

今、国会では任命問題が話題である。
その不可解なやり口は、森友などと全く同じであろう。
おそらく、陰険にも、部下がやったとしっぽを切るつもりらしい。パターン化された行為である。
証拠が出そうなものは、隠蔽する。不誠実で嘘つきな自民党はまだまだ続くらしい。
ウソだと誰でも分かるような言い訳をどうして信じる? 支持している人間の無関心さに
辟易している。

こいつらのやりたいことは、ただ一つ。他人を思うように動かしたい。それだけである。
その先に、国が豊かになるとか、庶民が幸せになるなど、これっっぽちも考えていない。
自分たちの思うように人間を動かして、自分たちだけ利益があがればいいのだ。

だが、システム化された社会では、嘘つき野郎たちの言い分を咎めることすら難しくなる。
事の本質を理解する人間たちがいくら喚いても、システム内において物事を決めるのは、
ごく一部の人間である。その人間たちが考案した計画を実行させるために、反対する他者を
押し切る。そのせめぎあいが表に出てくると、今回のような問題となるのだ。

若い人間は知らないのかもしれないが、これは現政権のやり口は、中国や北朝鮮やかつてのソ連
などの共産圏の手法である。権力装置を利用して、いうことをきかす。これがために共産圏は
その力を失った。どれほどトップが強権であっても、自由闊達に生きる人間たちの発展には
かなわないのである。

むしろ、国の権力を強めるほど、国自体は弱くなる。計画されたものは、現実にするしかない。
そういう社会が共産圏の計画経済であった。それはもう時代が無理と証明した。ところが、
現政権は、それをやろうとしている。金や権力構造を利用して、まさに、共産主義的な強権政治へ
と突き進んでいる。私は、その悪臭に耐えるつもりはない。

得をしようとする、いや、大勢がやっているのは、損をしないようにする事だ。
そのためには、強権的な政治には迎合する事だと思っている。だが、それこそが大損である。
目先の小さな利益を求める事で、日本はどんどんやせ細っている。

こんな時代に敏感な女性たちはどうして子供を持とうと思うだろうか?
仮にもったとして、どうして不安にならずにいられようか?

問題の本質は、日本の社会システムである。それを変えられるのは政治家や官僚たちだが、
彼らは、そんなことを考えている余裕はない。自分たちの利益だけを優先する。その利益とは
トドのつまり仲間への分配である。政治家は自分の派閥に、官僚は自分の省庁に利益が得られる
政策しかやらない。

結果として、庶民はどうでもよいということになる。みなさん、いいですか? 自民党は
庶民のみなさんをどうでもいいと思ってる。それは事実です。そして、一部の票田にだけ、
よろしくおねがいしますと頭を下げ、それ以外の連中は、選挙にこなくていいと追い出しに
かかっている。この現状で、選挙に行くなんて、バカみたいとかいっている人は、行かない事の
バカさ加減を考えたほういいのである。

その一方で、政治家にろくな奴はいないのも事実である。ではどう選挙しろと?
結局、政治という面倒なものを各人が、適当に打ち捨てて、自分たちは目先の金に振り回された
結果として、クソみたいな政治家が牛耳る世界になってしまったのである。

さて話を戻そう。
日本のシステム化は、IT化によってますます進むだろう。
それは、あらっぽい因果関係の論理によって補完される。だが、現実とはそのとおりではない。
ところが、計画を事実化するという事が、目的化してしまう。なぜなら、計画は間違えられない
からである。計画自体が失敗であると断定する以外に、この袋小路からは抜け出せないにもかかわらず、
計画した人間の責任を問えないために、失敗はつねに現場のせいとなる。

これは自体が失敗しているあらゆる組織や場面にいえることだ。
計画とは所詮、皮算用である。ところが皮算用が失敗する事を許さないという考えが、この世界に
はびこってきた。それは金をだしたのだから、その対価をよこせというモンスターと一緒である。

投資にも似ている点がある。金をだしたのだからと事業に文句を言う。金で人が動くと思っている
からだ。そして投資をしたらば、儲かるだろうという計画があるからだ。損をする事だってある
というアホでも分かる論理が理解できない人間が多すぎるのである。だから、投資に保障をつけろ
とかいい出す。

国はここに加担する。株で損益がでたら、税金や年金で補填する。ありえない所業である。

計画にしっぱいした人間は負け組ではなかったのか?
国は何度も失敗しているが、負け組にならないという傲慢さをもつ。
一方で、庶民は失敗すると文無しになる。この非情なまでの不公平・不平等に私は文句がある。
それが不当な文句だろうか?

東京電力は地震対策に失敗した。じゃあ、ひとまず潰して、対応する会社を新しく作ればいい。
しかしそうはしない。税金を費やして、失敗の補填をする。このような話は日本中に溢れている。

正義などこの国にはない。あるのは仲間内のルールだけだ。

そして、そのルールの一つが、システム化である。養老流にいえば、こうすればああなる。
これにがんじがらめになっているのが庶民の人々である。

なぜだが、この仲間内ルールを支持する一部の庶民がいる。
あんたらも国から被害を受けてるのに、なんで国の肩をもつ? 私には全く理解不能である。
あなたの払った税金が、政治家や官僚たちによって浪費されているわけだ。それで良しという
のか?

だが、計画された社会に長いこと据え置かれた人間はすぐに「まあ、いいじゃないか」とか
「秩序を乱すほうがだめだ」とか、長いものに巻かれる事大主義に陥る。大人が腐るとは
このことだ。

こんな大人たちのどこが「生きてる」というのか。
生きながら、死んでいるといったら、不遜であろうか。

計画が思うように進まないのは当たり前である。その当たり前を直視すること。
そして、計画はほどほどに、今という時間を精一杯過ごす事が大事であろう。
そうしなければ、「生きている」ことにはならない。

現代日本では残念だが、そんな風に生きる術は限られている。
金を儲け続けるという事のために、人々は日々を費やし、人生を大いに費やして”幸福”に生きる。
どんなものに価値を見出すかは自由である。むろん私はそれに与しない。
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驚き、怒り、そして苛立ち [雑学]

うまく言い表せないがメールによる自分の過失によって、人を怒らせてしまったようだ。
それに後悔している一方で、そこまで怒るか?という気分になった。
むろん、相手を怒らせた事は申し訳なく思っている。

端的に言えば、私の書いた内容が「性差別」であると断言されたのだ。
そこで、相手は強い口調で抗議してきた。私の瑕疵を非難するように。

ミスったという気持ちだ。こうなる可能性をもっと深く読むべきだったのだ。
なぜなら潔癖症の相手だったという事をうっかりしていたのだ。

自分が不快に思わないことでも、誰かにとっては不快ということもある。
よって自分を基準にする事はできない。といって、相手の基準をとるとして、
すべての基準などわかりようがない。私としては今回の内容は許容されると
踏んだのだが、全然ダメだったということだ。つまり私の全くの見込み違いであった。

メールには続きがあり、私の尋ねている内容がそもそも変であると指摘してあった。
ざっくり言えば、私がこの内容を作り出そうと思った事自体が性差別であるという
主旨なのだ。

相手の立場に納得した。なるほどと。
相手の言い分は、相手の立場にたつともっともなのだ。
そして、私は相手にとって自分が差別主義者であると理解したのである。

自分が知らぬ間にいわゆるハラスメントをしているという事に気づいたわけだ。


よほど私が酷いことを書いたかと思われるかもしれない。
そこで念の為、他の友人に同じ事を聞いてみた。

多少の不快さは示されたが、さすがに性差別とかそういう事は全くなかった。
前者とはえらい反応の違いだ。自分がおよそ想定していた問答が繰り返されて話は終わった。

ここで新しい知見を得た。つまりこれは解釈の問題でもあると。
私の行動が、とある人には完全なる性差別に見える。
別のある人にとっては、ありふれた問いかけに見えたというわけだ。

もちろん、後者が鈍感であるとか、私に遠慮して前者と同じコメントは
しなかっただけという可能性もある。そうだとしても、表現はまるで違う。


この前者から来たメールを読んだ時のいやーーな気分を再度考えてみたい。

まず非難されている事はすぐに分かった。
そして、それは多分にフェミニズムの話であった。ジェンダーに拘るなという形で
逆説的にとことんジェンダーに拘る議論である。そして、その観点からいえば、
私は確かに、女性に阿る形の形式を採用した。なぜなら、私の内容は
女性たちに教える事柄だからだ。聴衆の事を最優先して考慮したものだった。

そこには私が思う女性像というものが反映されている。きっとこんなことに興味が
あるだろうという推測である。まず、この推測が友人には不当に思えたわけだ。
つまり、女性であるということ前提に取捨した内容が差別なのだと。そんなことを
しなくても良い場面で、それを意図するのは女性差別なのだと友人は言う。

この論理はわからんでもない。女性が興味がありそうな話題として「浮気」を
用いていたからだ。そして私は、この「浮気」という題材を使うことが許容されるか
どうかを尋ねていた。私のバランス感覚では、ブラックジョーク的な意味合いであり、
気になる人がいるかもしれないなという配慮から、尋ねたわけである。まあ、ちょっと
危険かもしれないけれど、より関心を引けるかもという欲を出したのだ。

むろん、それを気に食わないと思う人が出ても仕方がない。だが、それを差別とまで
いうかと。しかしそれがハラスメントの本質なのだろう。私には大したことがなくても、
相手がそう思えば、それはハラスメントなのだ。その意味で私は友人に対する差別主義者になった。

更に、こんな例示を用いることは女性を侮辱しているという風に話が続く。
つまり暗に、私が女性を低く見積もっているために、このような例示を作り出そうとする
のだという。分かりやすくや親しみやすくと考慮した例示という配慮自体が侮辱なのだと。
もちろん、私にはそんな意図はない。ただ内容を噛み砕く方が良いだろうという判断である。
だが、考えようによっては、そう見える。

私はある意味で、私の行為にそのような意図をわざわざ見つけ出した友人に
驚いたのである。そして、自分の思考を鑑みて、指摘が全くの的外れとは言えないと
思った。なぜ、「浮気」という内容を含んだ例示をあえて作り出したか。
それは、女性はきっとこの手の話題に強い興味を持つだろうという事、そんな風に興味を
引かなければ、説明内容の概念を理解しないのではないか、つまり向学心が低く聞こうとも
しないと見積もったからである。まさに、友人の指摘の内容に心当たりがあるのだ。

いや正確に言えば、指摘された瞬間に、そういう意図が浮かび上がったといってもいい。
フェミニストである友人は、私すら意識していなかった「私の意図」を説明したのである。

繰り返すが、私は内容を作り出す時に、上記のようなことは一切考えていない。
ただ、説明の通りがよいように、理解を促すために例示をこさえた。小賢しく欲目を
だした内容なので、友人に危険がないかを聞いたわけである。ところが返ってきた返事は
完璧なバツであるという結果だったのだ。そして不快を背負った友人は、私の行為を
性差別であると断定した。


私はその反応を嫌悪した。当然だ。意図した事ではないのだ。だが、多くのハラスメント者は
自分は悪気はないと述べる。そうか、私も同じロジックの中にいる。そして、ハラスメントの
被害者だけが問題だというあの論に従えば、私の行動が友人にハラスメントと解釈されれば、
それは立派なハラスメントなのだ。この理解から、私は友人に内容を再考する旨を伝えた。

私はこの手の批判に弱い。なぜなら、善良でいることに対するコンプレックスがあるからだ。
そして、友人の期待に添えなかった事もまた心苦しかった。相手を失望させたであろうという
あの感覚だ。

そして、ある種の絶望を感じるのである。私が常識と考える行動で、相手が傷つくならば、
私はどうすべきなのかと。私の常識を変更し相手の常識に合わせる事が最善というのか。
これについては後に触れるとしよう。


さてここまでは友人の論に乗った場合である。ここからは私が思う解釈を述べたい。
私は私を擁護する権利がある。

まず、指摘の事柄が友人のいう通りであったとしよう。
私のやったことが性差別であったと。そうだとして、それをどのように示すべきか。
相手にどう伝えるべきかは考慮すべきことだ。それは内容とは無関係な作法である。

どんなに不快であったとしても、怒りを感じたとしてもそれをそのままに伝えるのは、
非常識である。友人のメールにはその怒りを感じる。かなり不愉快なものだ。私は、
その不快さに耐えなければならない理由はない。ここに友人の復讐が間違えなくある。
自分が受けた不快さを、同じ程度の不快さで仕返してやろうという意図だ。これは
邪悪だと思う。


批判を続けよう。
相手の言動のなかにジェンダーバイアスを探そうと思えば、常に探せる。
ここに疑問がある。ハラスメントの性質上、こちらがそれと意図せずに
相手を傷つけるということを基準にするならば、それはこちらの考えとは
無関係とも言える。常に相手の問題なのだ。

これはハラスメントが解消しない理由でもある。価値基準としてどうして、常にハラスメントを
受けたと考える側に立つ事が是とされるのだろうか。それが正義といえるのだろうか?

価値相対的に考えれば、価値観は対等であるべきだ。
ハラスメントを受けた側の価値観とは、意図しようとしまいが相手を傷つけてはいけないという
正義である。だが、通常、加害者に意図がなければ、それは過失であろう。過失を咎めるのは
許容されるが、相手に向かって面と向かっての性差別であると侮辱をぶつける事は許容されるのか。

たとえば一人の男がいて、私が何気なくちらっと目を合わせたとする。その男にとって、
見られる行為は喧嘩を売られたと解釈する。そして、男は私に殴りかかる。このケースで
果たして悪いのはどちらだろう? 見ることで喧嘩を売ってしまうことになると知らなかった
私が悪いのか。つまり、私の過失は、殴られることに相当するといえるのか?

私が受けた批判はこの類似系である。私は知らずと相手に性差別をした。
その時に、私は相手から言葉による侮辱を受けた。私はその非難を受けるほどの酷いことをした
というのだろうか?

上記の男であれば、言いがかりであって不当だという人が多いだろう。
だが、下記ならばどうだ? 場合によっては私に非があるという人がいるだろう。
ダブルスタンダードだと私は思う。

仮にだ。私が目を合わせることを喧嘩を売ることと同値だと知っていたとする。
それでもなお、殴りかかるほうが悪いのではないか。なぜなら、その行為そのものが
社会的悪と知られているからだ。

下記でも同じであろう。たとえ不当な扱いを受けたとしても、相手を侮辱しても良い
という事にはならない。言葉も十分に暴力である。つまり同じく社会悪である。
もし会社で、相手に面と向かってバカとかアホなどと罵れば、法規にふれる。
同様に相手に向かって、性差別であると断定する事は、かなり危険な行為である。
侮辱になる可能性を知った上で、使用していると受け取られるはずだ。

そして、私は反応に対して驚きと、その侮辱に怒りを感じたのである。
私はこの侮辱に対して抗議する。そこまで言われる筋合いはない。
友人と言えども、それを明確に口にして、相手が不快に思わないとは思ってないだろう。
なぜ、そんな言い方をするのだろうか。

もう少し、掘り下げて説明したい。

この友人は許容度の幅狭いともいえる。他の人が問題にしないことでも、
センシティブに問題にする。それはこの友人が海外にいることとも関係するだろう。
きっと、フェミニズムが行き届いた世界に住んでいる友人にとって、私が作り出した
ものに潜在的な差別を感じたのだろう。もしくは違和感を。そして、それを表現する
のが海外流である。私はこういう事で不快なのだと相手にいうのだ。

これによって、海外では女性たちの尊厳が確保される。不当な対応には抗議せよと。
その不当性に私の作ったものは該当したのだろう。そして、いつも通りに相手を
非難したのである。あなたの行為は性差別であると。

これが私が類推する友人の対応である。

一方で、私はそれに驚く。私は自分の行為は、配慮であり良かれと思ってした事である。
その良かれと思った事を不当性だと指摘された。もともと、侮辱するつもりならば、
私は友人の反応は仕方無しと思う。だが、こちらの配慮こそが差別であると指摘されて
狼狽したのである。

差別の指摘ポイントを繰り返すと、私が女性というターゲットにフォーカスしたこと、
そして、理解を促すために、話を単純化した例示(「浮気」を含む)を提示した事だ。
それらが性差別であるという。男女で区別した事を用意したことが男女差別になり、
例示の単純化が女性への侮辱であるという。女性を見下している証だといいたいのだろう。

私は、相当な言いがかりに思う。私は女性たちに説明をする仕事がある。
だからこそ、女性たちの理解を促すために資料を作り出した。なるべく関心を引くようにだ。
そして、女性たちに対して、おかしなことになっていないかを確認するために女性である
友人に尋ねたのである。

その結果、その配慮そのものが私の女性差別から生まれていると指摘された。

私は、配慮したことは認めるし、女性が関心を寄せそうなものを利用した。
その意味で私は女性を区別した。間違えなく区別をしたのである。
しかし、この区別した結果として、女性たちが失うものなど無い。

だが、友人はそれによって女性たちの尊厳が削られるという。
なるほど、男性と同じに扱われなかったという感情をもつならばそうかもしれない。
そこに平等性の問題がある。

結局の所、友人の私に対する侮辱は、女性を特別に扱うなという観念にいきつく。
まさにフェミニズムである。

私は十分に、友人の意見を理解している。ここまで読んでいただければ、それは
理解されるだろう。そして意見を尊重している事も。実際に、資料の内容は、
大方、無味乾燥な話題に作り変えた。例示の単純化は、そのまま残すつもりではある。

友人の意見を理解出来る分、私には、あのような文面で攻撃的な批判を受けたことに
苛立ちや怒りを感じるのである。そんな風に表現しなくても、私は友人のいうことを
理解できるし、行動基点を変えることが出来る。むしろ、あのような食って掛かる
ような言い方によって、友人の意見を否定し破棄しようかと思ったのが正直な所である。

ヒステリックな感情言葉で、人が行動を変えると思うのは、幼い行動である。
怒りは90秒で沈静化するとも言われている。文面を書きながら、怒りを表現する
のは、怒りたいからそうしているのだというアドラーの意見がぴったりだろう。

自ら怒りや苛立ちを選び取って、私に向かって投げかけたのだ。おそらく復讐のために。
そして、私はそれに抗議する。私が意図せずに差別したという意見は尊重するが、
それをもって、私を侮辱してもいいはずがない。その行為は不当である。



長くなっているが関連があるので、あと3つの話題を。

1.意図しない差別
  常識とは社会の中で身につくものだ。私は幼い頃から、女性に配慮するように教育された。
  女性を気に食わくても殴らない。言い負かして泣かせたりしない等だ。これは
  社会的区別である。当たり前の教育であろう。

  ものすごい穿った見方をすれば、私は「女性差別を促されて育った」という事になる。
  
  今持って女性を男性と同等に扱って良いという形式で社会は動いていない。
  つまり、女性と男性は扱いが違うのが現状の日本社会である。それが良いとか悪いとかは
  別の話だ。

  性に応じた区別があり、それが行動に結びつくと社会的役割いわゆるジェンダーになる。
  そのようなものがある理由は、それが妥協的に選ばれてきたという事であろう。
  よって、これらを基盤にして、男女で区別をする行動がとってしまう事がある。
  それが本質的に区別無用のさいでも、差をつけてしまうのが性差別である。

  だから、これを理念によって区別をするなというのは、無理だ。
  そして性区別が全面的に解消されるべきだろうか?
  
  フェミニズムが区別不要な特定の事柄について平等性を促す。女性が女性である
  ために虐げられてはいけないのだと。その理屈には納得するし、賛同はする。
  とりわけ、現代の仕事は力を必要としない。ならば、大抵の事は男女で同じ事が
  可能である。

  もう一歩踏み込んで、男性差別をも含んで解消すべきであろうとも思う。

  大抵の意図しない差別は、この社会が強制した性区別ないし性差別に由来する。
  意図しない差別が発生し、それを指摘された時、私のように反省する人は少ない。
  ましてや、私の友人のように感情的に批判されたら、なぜ私が悪いのだ?となる
  のが普通だろう。批判がエスカレートすれば、なお、自分は悪くないと思うだろう。
  なにしろ、現実的に悪くないのだから。不当な批判と感じるのは仕方がないのだ。


2.フェミニズムの中のファシズム性
  その一方で、社会全体が性差別を助長しているのだとしたら、どれほど一部の
  人間が、その差別を叫んだ所でどうにもならないだろう。出来るとしたら、大人ではなく
  子どもたちに性区別をへらすように教育することくらいである。

  事実、かつてより現代の若い子はその区別は小さいと思われる。その意味では、
  社会は確実に進んでいくのかもしれない。

  私が今回体験したのは、私の構造のフェミニズム的解釈であった。私の狼狽は、
  このフェミニズム的思想のあとから来た感に由来する。私の行動は、社会において
  さほど問題とされないだろう。仕事の資料内容を女性用にしたというだけである。
  しかし、フェミニズムの視点では、それは不当な行為である。では、何がフェミニズム的に
  正しくて、何が間違えなのだろう?

  フェミニズムの考えは、現状の社会批判よりスタートする。つまり、問題があって、
  それを解消するためなのだ。よって、問題が先行しなければならない。事前にそれが
  問題であると確定できないのである。性差別によって給与が違うとか、出世の扱いが
  違う等は、たしかに主張されるべきことだ。そういうものは無いほうが良い。

  一方で、女性への配慮はどうだろうか? 例えば、女性専用車両は男性差別ではない
  のか? いや男性からの性差別を予防するという意味で存在している。その意味で
  差別の解消である。こういう前向きな女性への配慮を良しとするのがアファーマティブ
 ・アクションである。採用においても、放おって置くと男性ばかりが採用されてしまう。
  その時に、一定の枠を備えようという事だ。そこでは、必ずしも同基準を採用しない。
  しばしば多少の嵩上げがある。

  このダブルスタンダードはフェミニズム視点では肯定するのだが、問題はすぐに分かる。
  その行為がむしろ、差別的であるという事なのだ。差別的状況を差別によって解消する
  。なんだかもやもやすることだろう。そして、その程度はどうやって決めればいいのか。

  そして、私の例では逆に、区別することが不当扱いされる。差をつけた行為が性差別
  であると。

  こうなると、フェミニズムは平均台の上を歩くような行為となる。一部では区別をとり
  払い、一部では進んで差別を行う。そして、トータルで差別をなくそうという事になる。
  しかし、本当にそれでうまくいくのだろうか?

  この時、フェミニズムは思想的な強制をもたらす。会社役員の中に必ず女性が1人必要だ
  というルールがあるとしたら、自由に人選はできなくなる。しかし、それを遂行する
  事が社会的に求められるとしたら、そうする他無い。これがフェミニズムによる強制
  である。そして、社会全体がその思想方向へ進まされるとしたら、一種のファシズムと
  なる。過度にフェミニズムを遂行する事は、思想強制でもある。

  私は、その渦中にある。フェミニズムにより思想変換を迫られている。私がこの思想に
  賛同して変更する場合は良いだろう。しかし、個人の思想と相容れない場合にはどう
  だろう?

  私が性差別主義者だという事を肯定するとしたら、どうだろう? 私はフェミニズムに
  よる批判はまるで無視する事ができる。そして自分の良心に従って行動するだろう。
  この時、自分の行動が反フェミニズムだとして、それをフェミニズムの観点から断罪
  できるだろうか? 私には大いに疑問だ。価値観の多様性と抵触する。

  フェミニズム的価値観が、他の価値観の上位に来ると考える事は肯定出来るだろうか?

3.PCの話題。
  昨日PCの記事を取り上げた。
  昨今のアメリカでは、PC疲れとも言われている。

  私は今回の友人からの批判によって、それも些細な事での批判によって、
  PC疲れの意味がよくわかった。自分にとって悪意なくやっている行為が、
  社会的な価値観が変容したために、非難されるべきことに変わってしまった社会。
  それを生きるのは結構たいへんだろう。「ニガー」といえば、怒られ、「ブラック」
  といえば、非難され、アメリカンアフリカンと呼ぶ事になったアメリカ。チャイナ服など
  特定の民族衣装をもともとの民族ではない人が来たりする事で、文化的盗用と言われたり。
  
  PCを満たそうとする苦しくなる事もあるのではないか。といって、余計な騒動は
  ごめんだろう。よって、右へ習うことになる。それが社会全体に広がればPCを規範
  とした社会になってしまう。

  フェミニズムも同様だ。私が何気なくやった行為は、気がついたらフェミニズムに
  抵触していた。言われてみれば、その理屈は理解できる。ある程度寄り添える。
  けれど、自分の今までの行動を隅から隅まで、それに対応できるわけはない。

  私はいわゆる日本人である。そして、日頃多少の失敗はあろうとも、
  つつがなく生きている。そこに突然あたらしい規範が訪れ、貴方は間違えだと
  言われて、はいそうですか。なんてうまくいくはずがないのである。



私の友人は、およそ自分の価値観が「正義」であると思っているはずだ。
それはフェミニズムに準拠している。その価値観からみれば、私は差別した事になろう。
私は私で区別はしたが、差別した、つまり不当な取り扱いをした覚えはない。ここに
大きな違いがある。解釈の違いがある。微妙すぎて、遠目からはわからないほどの違いが。

同じ行為が、そのままで良いという価値観と、変えるべきだという価値観が対立したとき、
我々はどういう選択をするべきなのだろう? 

誰にでも不変な規範など存在しないのではないか。
今回の事を受けて、この価値の普遍性について考えてみようと思う。
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安倍政権退陣ーようやく先に進めるー [雑学]

安倍晋三内閣総理大臣が「病気」を理由に辞任する。
ここまで、7年と8ヶ月。なんと長く異常な政権がいた事か。

実に多くのことを「改革」してしまった。
基本的に、良くしたものは存在しない。
むしろ、大抵の政策により日本の状況は悪化ないしは退化した。

安倍政権の政策の本質は「いいなり」という言葉に集約される。
唯一の主張は、憲法改正だけだった。だが、それも殆ど進んではない。

過去の記事に既に書いたので、ここでは繰り返さないが、
安倍晋三という人間はスネ夫に似ている。虎の威をかる狐のようなものだ。
岸や晋太郎という流れからきた政治への参画。おそらくさほど興味などなかったのだろう。
その彼がとったスタイルは、金をばらまいて仕事をした気になるというものであった。

顕著なのは外交である。600兆円とも言われる金をこの8年間でばらまいた。
相手国に言われるがまま、もしくは金さえ配れば相手を懐柔できるとの魂胆であったろう。
おもちゃで友達を買収するスネ夫と全く同じである。そこに理念や共感などまったくない。
なにしろ、安倍自身にそんなものなどないからだ。

こういう人物が便利だなと思ったのは、その周りである。
安倍にすり寄り、巨額の税金を優遇してもらうという手法だ。
モノが売れない時代で、頼れるのは税金だけとなった産業界。
メディアはとりわけ顕著で、政権から流れてくる金で息をつないだわけだ。

図式としてはシンプルで、メリトクラシーによる人材評定が徹底されるほどに、
儲けられる人間と儲けられない人間が増えた。資本主義は時間によって金が増える
社会である。よって、資本を次に機会に投じられる人間の経済性は年々良くなり、
カツカツないしはマイナス収支の人にとってはどんどんと苦しくなる。それは
「平和」という事でもある。

この「平和」の時代には、格差が生じる。運悪く能力や状況に恵まれなかった人は、
生活を安定化させる手段を失う。根無し草状態になった彼らは、末端の仕事を請け負う。
その仕事とは工場の組立工や農業の収穫要員だったりする。どんなに習熟しようとも、
技量を得ることが出来ない。そのため、低賃金を余儀なくされる。そのような彼らが
家族をもち、子供が出来ると、子どもたちの能力開発には大きなブレーキがかかる。

このような格差が蓄積すると、始めから這い上がれない人々が出てくる。
彼らの一部は、現状を打破するために特殊な仕事に足を突っ込んでいく。そこでは、
少なからず対価を得られるからだ。詐欺から、強盗、万引など違法かグレーな
商売に手を染める。もしくは裏の世界の門を叩く。女性なら、売春やキャバクラなどで性を売る。
そのようなものであればまだ許容されるかもしれないが、そこから社会に承認される
状態になるには、かなりの運やガッツが必要だろう。

このような不安定化が一部に限定され、スケープゴートとして機能しているうちは
問題は小さい。だが、社会の3割程度が不安定に晒されると、社会の屋台骨が揺らぐ。

そうして、ほころびは小さな所からスタートする。給与が減る、増えるかわからないと
実感する人々は、買い控えをするようになる。このくらいであれば、企業は多少のコスト
ダウンをはかれば対応出来た。ところが、買い控えの人間がどんどん増えていく。

その要員は、多方面に渡る。
・高齢化が進み消費が減る。質量ともに減ってしまう。
・社会が高齢者を助けるために、税を増やす。結果として、需要を換気するはずの
 若者世代の手取りが減る。
・教育等の高給を得るための仕事につくためのコスト(投資)が年々値上がる。
 結果として、高給取りは一部になる。
・需要喚起するための世代の手取りが減れば、企業はモノが売れないために、コスト
 ダウンをする。そのためにまずは人件費がカットされる。そうしてますます労働者の
 手取りがへる。
・また、労働者として移民をつかう、もしくは工場が海外移転する。
・すると工場労働の雇用すら減ってしまう。
・企業はモノが売れないので、いよいよ行政に泣きつく。正社員を維持するのが難しい
 ので派遣労働を増やすよう要望し、それが達成される。
・労働者は、手取りが増えず、仕事だけが増えていく。人件費抑制なので労働力は増えない。
 一人あたりの仕事量は年々ふえ、労働時間が増大する。
・労働そのものが負担となると、生活時間が削られる。結果として、余暇がへり、
 消費が減る。また、家庭環境は悪化する。
・若者たちは二重・三重に苦を味わっている。社会的圧力として、良い大学に入れと
 いう。だが、その能力を持つものはいつも一定数のみだ。一方で、大学入ったから
 といって、正社員を約束されたわけではない。仮に正社員になったとして、長時間
 労働で薄給という可能性だってある。いや、派遣社員になって不安定な中、それでも
 他の選択肢がなく、仕事に精をだすしかないという事になる。そういう人々が半分
 くらいいる。
・金のある若者はごく一部になり、親世代のように遊び呆けることは不可能となった。
 結果として、若者をターゲットした商売は採算が取れなくなる。

・他にたくさんあるが、とにかく良い材料は見当たらない。

トータルとして、デフレが起こり、モノが売れない時代になった。それは少子化に
拍車をかけ、老人たちは医療進歩や食糧事情の改善のために寿命が伸びて社会の
負担となった。

一方で、日本はバブル崩壊後の20年を無為に過ごした。大人たちは責任を放棄した。
バブルがあたかも自然現象かのように、そのつけを国が肩代わりした。不良債権問題など、
結局、私企業を国が助けたのだ。これは市場原理的にあり得ない。同じことは、東京電力
にも言える。完全な寡占企業である。フクシマ原発が爆発してメルトダウンしても、
東京電力はなくならなかった。そして、国によって保障が注ぎ込まれたのだ。原発とは
いざとなれば、多大な問題をはらむ存在である。それを理解した上でなお、その技術を
使い続けるのかいなか、考えるべきであろう。

ちなみに原発についていえば、本質的に維持不可能な高コストな発電方式である。
そのコストというのは、発電そのものではない。原発を管理するコストである。
放射性廃棄物は自然分解しない。崩壊するまでに10万年とも言われる時間がかかる。
よって、ゴミ箱がない発電方式であり、そのゴミを管理することを子孫に永続的に
押し付ける事になる。そのコストを加味したら、天文学的な高コストである。
それを解決できないのであれば、今すぐに撤退するのが正しい。だが、原発にロマンを
感じた一部の科学者と、そこに投資した国、電力会社はもう引き返せないといって、
滝壺に突っ込もうとしている。その滝壺に一部が突っ込んだのがフクシマだったのだが、
未だに、存続しようとしている事に、強い欺瞞を感じざるを得ない。

このような社会情勢の中、2011年の選挙で安倍政権が誕生した。
その直前に民主党が、官僚やアメリカのいいなりに成り始めていた。
消費税の導入と法人税の減税、TPPへの加入である。メディアはここぞと一斉に
民主党を叩いた。結果、順当に自民党に票が入ったのである。

政権を奪取した自民党は、まるで民主党であった。消費税を増税し、TPPを批准した。
フクシマの後始末は何もせず、犠牲者にわずかばかりの支援をして、うやむやにした。
その一方で、安倍政権は仲間たちに金を配り続けた。

最大の功罪は、日銀を借金漬けにして、二度と引き返せない状態にしたことだろう。
MMTなんという論が跋扈するほどに、政府は借金を発生させた。その一方で、産業を
買い支えると宣言し、そのとおりに株を買い続けた。また、アメリカの国債を買った。
つまり、株価の釣り上げと、為替の抑制を人為的に行ったのである。その上で、年金の
プールを金融につぎ込んだ。

だが、本質はこうだ。ミレニアムに既に日本社会環境は悪化していた。そして、その
悪化を立て直すのではなく、制度をそのままに破壊され続けるまで、続けると決めたのだ。
誰がというのであれば、自民党がそのような日本にしたし、そのような自民党を日本国民
が支えたのだ。多くの日本人が、痛みを引き受けることを放棄したわけだ。

けれども時間はとまらない。払わなければならない年金は膨大になっていく。
仕方がないので、年金は増額し、介護保険料なる税金も増やした。それでは結局
たりないので、政府は国債を発行して、その金を年金に流している。実をいえば、
国債によって作り出した金は老人たちを支えるために使われているのである。
およそ、300兆円はそのために使われた。

要するに老人向け「ベーシックインカム」はとっくに実施されているという事だ。
そして、それは老人向けであって、若者は搾取の対象でしかないのだ。

安倍政権になって、株価があがり、為替が下がり、大企業の一部は儲かった。
企業の内部留保はますます増加した。要するに、金を動かす人々にとって、安倍政権は
好ましい政治であったのだ。一方で、庶民にとっては、労働力を安く買い叩かれ、
なけなしの手取りからものを買う時に10%もの税金を取られる事になった。保険料は
増え、実質的な増税があちこちで行われたのだ。その結果、不景気にあえいでいる。

構造的にみれば、この8年で、大企業と金融業界は儲けた。それはもうかなり儲けた。
そして、それは国の異常な政策たとえばアベノミクスなどによって、実現した。
その結果、社会的歪はますます大きくなり、不当に低い賃金で働かされる労働者が増えた。
社会は分断されたのだ。

こうして、そもそも平和時に格差が広がるものを、社会制度的にさらに格差を
冗長する政策を行った。これがこの20年の自民党政治である。3年っぽっきりの
民主党政治など無視していいだろう。

何度も何度も、ここで繰り返してきたが、若者はこの状態に文句をいうべきだ。
はっきり言おう、若者は搾取対象であると。奴隷よりかはマシだが、奴隷よりも、
自尊心を奪われた。その意味では、奴隷よりも状況は悪い。自分の生活がみっともない
と思うのは、若者自身のせいではない。時代のせいである。今は、それを若者自身の
せいにする仕組みになっている。

安保法制に対する活動としてシールズというものが立ち上がった。私にはあれは
一つの機運になると思った。だが、すぐに鎮火した。一方で世界では、環境問題
についてグレタ氏が立ち上がり、今アメリカではBLMが広がった。日本の若者は、
何も知らないか、長期政権化した安倍に親近感を覚えてしまった。そして、自らを
奴隷化する事に励んでいる。もっと知らないと、搾取されるだけになるぞといいたい。

少し付け加えるなら、勉強・受験という椅子取りゲームに若者は参加させられている。
椅子取りゲームは、絶対に敗者が生まれる仕組みである。その仕組に参加したという
ことは、勝たねばならないという事になる。負けると惨めな人生が待っていると脅される
からだ。むろん、嘘である。大人は簡単に嘘をつくので注意する必要がある。

さて、ここで若者は大人のずるさに気がつく必要がある。そのずるさとは、
椅子取りゲームの椅子の数は、大人の事情ですぐに変えられてしまうという事だ。

ロスト・ジェネレーションとは、いざ椅子取りゲームになった段階で、椅子を
減らされた人々である。そうして、本来励んできた椅子取りゲームが厳しいものになった。
社会から排除されたと感じた一部は、社会に恨みをもったし、それをクリアできなかった
と自分をせめた人は自殺をしてしまった。

このゲームのずるさがある。椅子に座れなかったのは本人が悪いという言い訳が成り立つことだ。
大人たちは、自分たちの椅子を年金という形で確保したくせに、若者には自分たちの椅子が
減ることを恐れて、椅子を用意しなかった。その上で、若者に「お前らは努力が足りない」
とか「甲斐性がない」などとのたまうのである。腐れ外道である。

今もなお、国は借金をして、老人たちの椅子を確保し続けている一方で、若者に対する手当は
殆どない。むしろ、若者には借金をしろとまでいう。どこまでバカにしているのだろう?
まあ、若者は票が少ない。政党を維持する人々は、ターゲットを高齢者に絞るだろう。
これが、民主主義の欠陥である。マジョリティになれなかった人たちが虐げられるのが
議会制民主主義なのだ。

世代論を回避する人々は、この椅子取りゲームの勝者である。各世代に勝者がいるので、
世代論を無意味と破棄する。それは発言力のある学歴がある人々にこそ内面化されている。
よって、この事が問題視されることはない。だが、明らかなる世代格差がある。
世代論を亡きものにする議論であったら、嘘つきと思うべきである。

結局、安倍自民党は、大企業優遇の政策を推し進めた。その恩恵は今の老人たちと、
大企業につとめる人々、官僚および椅子取りゲームに勝利した若者たちである。
あとは、この仕組を維持するために犠牲になった。その上で、犠牲になった人々に
自己嫌悪を植え付けた。「椅子取りゲームに勝てなかったのは、自分が悪いのだ」と。


これが事実である。だから、世間で意見を聞くと、安倍政権の評価は分断されるのだ。
自分の置かれている状況によっては、安倍政権を支持するだろうし、批判される。
一部の人間はいい思いをしただろう。例えば金融だ。金をつかった賭け事に興じた
人々は、確度の高いレースをした。その結果、8000円程度で買った株を2万ほどで
売ることが出来た。資本が大きい人々がどれほど儲けたことだろうか。その儲けた金とは、
国の借金である。国が株式市場に金を突っ込んだ。その金を、取引に参加した人間たちが
掠め取ったというわけだ。結果としてだが。彼らは負ける可能性があったのだから、
その賭けに買った我々の文句を言うなとのたまうだろう。そして、それなら、お前も
参加すればいいのだと。

だが、元々を考えてみると、それは言いがかりだとも気がつく。利殖するだけの余った
資本がある人間は、椅子取りゲームの椅子に座った人間である。それを忘れてはいけない。
そこに座れなかった人間は、利殖に回す金はない。あっても、たかが知れている。
そして、負けるリスクをとることが出来ないのだ。

この辺りもまた大いなる欺瞞だと思う。私には不正義に思える。国がした借金を、
金持ちたちがゲームをして山分けするというイベントがあったわけだ。そのイベントに
参加するには手元に資本がないとだめだった。手元にないのはお前のせいだという
理屈が出てくる。だが、そもそも、国の借金を金持ち同士で分配するということ自体が
不正義そのものだろう。その借金は、むしろ、金のない人々を支えるために使われる
べきではないのか? すでに金を持っている人々になぜ、さらなる金を分配する必要がある?


私はとにかく、こういう一見するとまともに見える、大いなる欺瞞が許せない。
なぜなら、その利得は若者や弱者からの搾取だからだ。国借金のために消費税があがった
のだから、その金は弱者からのものも含む。それを金バラマキイベントに参加するか
しないかで区別するのは、国による完璧な差別行為だと考えるからである。
ならば、全員に等しく配るのが正しいのではないか? 一部だけでうまくやる事で、
社会から搾取する行為はやはり変であろう。


ホリエモンなどが言う。貧乏にあえぐのは、自分の努力が足りないからだろうと。
少し調べれば、もっとマシな職があるのにそれを探さないのは、怠慢だからだろうと。

たしかにそれには一理ある。情報を得るというのも能力だからだ。
だが、国が集めた金は、国民になるべく不公平にならない形で使うべきであろう。
それが無理というなら、国などやめてしまえという事になる。国が税金をとる理屈が
崩壊するからだ。最適な予算分配など存在しない。つねに偏ったものになる。だが、
それでもなお、バランスをとろうと努力すべきであろう。

安倍政権には、このような発想は一切ない。ただ、嘆願され、金や票を融通する人々に
金を配る。それがおよそ日本の政治家の仕事なのだ。公平性などそもそも担保されない
のだ。よって、税金とは体制側の人間に都合で使徒が決定される権力以外の何者でもない。

安倍政権がやったのは、結局、このような社会分断を作り出したという事だ。
正確に言えば、社会の構造上、分断する以外にできることはなかったということだ。
世代間格差を増やし、富めるものと貧するものを分断した。貧するものは情報弱者でも
ある。金儲けイベントに参加することもままならず、経済格差が固定されていく。

そういった中で、少なくない人々が貧困化し、そのカウンターとして一部が富化した。
それをとにかく冗長したのが安倍政権である。

理念もなにもない。ただ周りの言いなりで動いた。だから便利だった。
その便利な操り人形は、存在の自己矛盾の中で、病気を引き寄せた。おそらく身体は
正直だったのだ。からっぽな行動を8年もやらされて、耐えていること自体が不可思議だったのだ。

社会正義ってなんだろうか。
問題は、安倍政権そのものではない。それはあくまで象徴に過ぎない。
その政権が倒れてもなお、人々の生活は変わらず進む。

安倍の貢献は、忖度といった、政治と経済界のズブズブ関係をあからさまにし、
隠蔽を重ねに重ねた結果、裸の王様になるということが、どれほどみっともないかを
顕にした点であろう。私は、愚昧な政権がなくなって、せいせいした。

その一方で、これから出てくる次のリーダーは、どう舵をとるのか、それが
問題であろう。まともな大人を望むのだが、きっともう無理なのだ。

日本は名実ともに沈没する。今回の安倍の辞任とはその号砲である。
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敗戦の日 [雑学]

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6368360

こんなニュースがあがっていた。
まず第一に、政教分離の原則に反する。よって、この行為はおかしいというべきである。
少なくとも、私的な行為であるときちんと銘打つべきであるし、だとすると報道する事
ですらないだろう。誰がどこに行こうが勝手にすればいいのだ。それを報道するという
ことの意味を問いたい。

次に、靖国神社に行くといういう意味だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
(ちなみに靖国神社のHPに行こうとすると、安全ではないとFireFoxが教えてくれる。)

1869年に建てられている。明治天皇による。
この神社は、簡単に言えば「選抜死者の墓地」である。
246万人の集合墓地だと思えば、解釈としては正しい。

その内訳は、新政府軍のために戦った人々から、先の敗戦までの軍人を祀っている。

さすがにこの人数になると、誰がどういう経緯で祀られているのかの判別は不能になろう。
現在では、とにかく戦死者に数えられる人は「強制的」に祀られる仕組みである。
よって、これに違和感を覚えた人も当然いる。

勝手に祀るんじゃないという反発もある。
Wikiには、こうある。
「合祀に関して、靖国神社広報課では戦前戦後を通して祭神合祀にあたっての
 遺族への連絡はするが事前の合意は取らない、としており、本人・遺族の意向は
 基本的に考慮されずに神社側の判断のみで行われている。」

「このため、遺族が不満を抱き裁判に至っているものもあるが、靖国神社による
 遺族に対する同意なき合祀によって、原告遺族らの法的利益が侵害されたと
 認められる判決は下されていない。」

気がついたら、勝手に神社の神様になっていたという人々が沢山いるという事だ。
靖国神社に参拝するという事は、これらの人々に頭を下げに行くという意味合いがある。
大問題なのは、戦犯と言える人々と、戦争で犠牲になった人々を一緒くたにまつって
いる事だ。そして、もっと問題なのは戦死者の選別が行われている点である。

第二次世界大戦までという線引の意味や、そのこだわりはなんなのか?
やはりそこに、主義や主張を感じるのは致し方ない事であろう。
それは「明治政府や明治維新」という象徴としての靖国神社という事への違和感である。

もし、良心に基づいた先祖への敬意ということであるならば、
どのような形であれ、戦争に従事し亡くなった方全てを追悼すべきではないか?
その意味では靖国神社とは「戦没者差別」の温床でもある。

加えていえば、神社とは墓ではない事だ。
日本の伝統という事でいうならば、墓は寺にすべきである。
靖国寺という事であればまだ、私は許容できる。だが、なぜ神社なのか?
全く不明である。ここにも、「特別性」という選別意識を感じる。


つまり靖国神社の存在自体が、明に暗に、特別視されているという事だ。
そこが様々な思想的な問題を生み出し、政治的な問題を生じさせる要因である。

私は、靖国神社をどう思うかは各人が考えれば良いと思う。その程度の事だ。
政治家が参拝したければ勝手に行けば良いのである。報道などする必要すらない。
特別視することが、最大の問題だからだ。信仰の自由という点において、好きに
するのが良い。

一方で、公的な存在が参拝をするという意味では話が違ってくる。
それを喧伝するような事は間違っているだろう。例えば、日本が読売ジャイアンツを
応援していると、ジャイアンツに寄付をしています。という事であったらどうだろう?
かなり違和感を感じないか? 一方で、個人的に大好きだから、応援すると言われたら
どうだろう。別段なにも感じないだろう。全く同じことである。その意味では、
政治家の参拝もすべからく私的なものとみなし、職務外に行えば良いのである。


こうかくと、およそ私が「非国民」であるというような批判もでてこよう。
それについて言わせてもらえば、なぜ特定の戦死者だけを祀り上げてる神社への
コメントが「非国民」なのかと言わせてもらう。また、同じ理屈でいうならば、
多くの戦乱が日本にはあったわけで、なぜ「明治期」だけを特別視をして、
それに対する心情をもって他者をジャッジできるというのか?

先の大戦において身内をなくされた方々のお気持ちを察することは、
別に靖国神社への賛同でしめす必要など全くないのである。


さて、今日は敗戦の日である。
不幸にも戦争に巻き込まれて亡くなった方々全てに私は追悼の意を表す。
ご冥福をお祈り致します。

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強い違和感ーその正体とは? [雑学]

少しプライベートな話題を。
こういう事を誰に言えばいいのか、ちょっと不明なのでここに記す。

昨日久しぶりに後輩の一人とZoom飲みをした。
元気そうで何よりだったのだけど、その会話の中で違和感を感じた事がある。

それは「アベノマスク」についての事だ。
彼がいうには、アベノマスクのマスク自体の意味はともかくも、
政府がマスクを投入するというアナウンスによって、マスク価格の下落効果が
あったというのだ。

それを聞いて、私は「は?」となったわけなのだが、
信用している後輩である。何か根拠があるのかもと思い返した。

私の見解ではあれは一種のパフォーマンスであったという認識である。
そして、何らかの利権構造による税金横流しの一環であるという把握であった。
よって、後輩が述べたことを吟味したことすらなかった。ましてや良い効果が
あったという認識すらなかった。

500億円ほどの予算をつけて、あの小さいマスクを何ヶ月にも渡って、
1住所に2枚送りつけるという事業。まずは批判点をあげると、

1.そもそも布マスクの実用的効果が不明なために、何のために配布するのかの
  第一義的意味が不明。配るならマトモに使えるものを配る必要があろう。

2.あのタイミングでマスクを配るという事に、どれほど意味があるのかという疑問。
  4月の頭に決めて、実際は5月の中頃より配布されているが、使用率は如何ほど
  あるというのか。きちんと事後的調査を行うべきだろう。

3.税金使徒が許容される範囲とはいい難い点。半不良品みたいなものに、
  一枚あたり、200円程度らしい。実際にはもう少し安かったようだが、
  これが適正なのかどうか不明。

4.選定業者の不透明さ。当初こそ、発表されなかった1社は最終的に発表された。
  ユースビオという会社は、そもそもマスクを製造販売していたわけでもなく、
  結局、輸入業者という形で受注している。どうにもキナくさい。こういう不可思議な
  金の動きがあるために、税金使徒に不信感が生まれる。他4社とも随意契約らしいのだが
  その根拠もまた不透明である。


さて、細かい事は、Wikiに譲ろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アベノマスク#cite_note-150

この中で、実際に後輩が言うような効果があったというソースは、
政府側がしゃべった事だけに過ぎないとわかった。菅官房長官が「マスク配布による
マスク価格の押しさげた」という主旨のことを述べたらしい。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/16762
東京新聞の記事によれば、価格が高騰したのは、中国からの輸入が滞り、
供給が減った事に起因しているとの事。そして、4月あたりから値下がりに
なったのは、その供給がまた再開されたからだという。

私としては、そりゃそうだろうと素朴に思うし、まあ、当たり前の見解と感じる。

百歩譲って、アベノマスクが政府がいうその意味通りの効果がある仮定したとして、
アベノマスクが投入されたからというのは、どうにも因果関係が見えてこない。

4月1日に政府がマスクを配るとアナウンスし、4月7日に閣議決定している。
実際の配布は4月の下旬からだが、5月10日の時点で4.3%の配布率。
6月20日頃に全国的に配布終了との事。

マスクが手元に来るから、マスク需要が減ると考えて、マスクの在庫を放出して
売り始め、それによってマスクの値が下がったという考えだろうか。
すると、マスクが配布されたという発表後からのマスクの値下がりがどの程度か、
また、輸入の回復がどのタイミングであったのかを考慮すればある程度、関係がみえるだろう。


まずはマスクの価格変動。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000027.000021601.html
このサイトを信用するならば、マスクの価格が下がり始めたのは4月24日である。

政府が配るといった事自体が影響したというなら、発表からこの23日間の
価格維持はどういう事を意味するのだろう? もし政府がマスクを配るなら、
マスク需要が減ると考えたとして、23日間もほったらかすだろうか?
マスクが配布されるまでは、価格変動はないと見越した結果というのだろうか?
素朴には、政府がマスクを配るというアナウンスに、市場が反応しているとは言い難い。

実際にマスクを手にしていないからだというのだとしたら、逆に
この4月24日あたりで配布されていたのは東京の一部に過ぎない(4月17日より)
https://www.j-cast.com/trend/2020/05/25386627.html?p=all
よって、政府が配り始めたから、価格が下がったのだとはやはり言い難い。

ましてや配布状況がオフィシャルに報道され始めたのは5月に入ってからだ。
5月8日のアナウンスをみれば、実際に配布がある事が明らかだったのは、東京だけだ。
https://web.archive.org/web/20200508155021/https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/mask.html

よって、マスクを配るというアナウンス4月1日や7日においては、
マスクの価格に影響を与えず、実際にマスクの価格変動が始まった4月24日頃には
マスクの配布はまだほとんど始まっていなかったという事実が見てとれる。

つまり、マスクを配布するという政府の行動が、マスクの価格を押し下げ、
在庫を放出する事につながったとは、言い難いのだ。

ではなぜ、4月24日過ぎからマスクの価格が下がったのだろう?
東京新聞の記事に依拠すれば、単に需要過多で、供給が追いつかなかったものが、ようやく
4月終わり頃に追いついてきたという事になる。

https://toyokeizai.net/articles/-/344425
一般的にはこういう図式で需要と供給が変化する。問題は、いつ在庫が増えてきたかであろう。

https://pricesearch.jp/article/retail-05/
このサイトのECサイトにおけるメーカーの販売数をみると、2月から急激に増え3月で
ほとんど在庫を売り払って、4月以降は品薄であると分かる。よって、4月の終わり頃までは
そもそもマスクがなかったのだ。5月に入って少し回復が見え始める。ということは、
まさに、4月24日頃から、売り切れ状態にあったマスクの供給がみえてきたという事が
想定される。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000004.000049563.html
4月27日に、トリニティという会社から、原価マスク販売のアナウンスが流れている。

https://ecdatalab.nint.jp/2020/06/01/mask_price/
ここをみると、既に1月の段階で価格高騰傾向がみられており、3月頃にはかなりの水準に
まで落ちてきている。加えて、ECサイトにおける原価マスク販売というアナウンス。

この辺りが通販サイトにおけるマスク価格変動のポイントだったのだろう。ということは、
4月中に供給の目処がつき、5月に向かって順次出荷された結果、じわじわと下がっていった
ということなのだろう。

東京新聞の業者のコメントが、もっともに聞こえる。
つまりアベノマスクなどほとんど関係なしに、市場の需要と供給のバランスで価格が
下がったのだろうという事だ。

そもそもアベノマスクは布製であり、繰り返しつかうことが前提のマスク。
不織布のマスクは競合ではないとも言える。よって、アベノマスクがマスクの価格低下を
もたらしたとする根拠はとても薄いといえよう。

価格変動のタイミングは、アベノマスクの動向とは関係しているようには見えないし、
ましてや配布されきったのは、結局6月の終わり頃だったのだ。

最後にどストレートな記事を。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6113eb8a311bdcc92089fc62e91e9f3e14c66695

3つのマスク価格下落の要因とあり、
1.中国などからの供給が増えたから(供給増える)。
2.ガーゼマスクに信頼感が出て自作派が増えたから(需要下がる)。
3.国内メーカーのマスク事業への参入(供給増える)。

ということで、ここではアベノマスクの成果を、ガーゼマスクでも代替可能であると
示した点にあるとし、自作派が増えて需要が減ったと考察している。なるほどありえる。
だが、それをもって、アベノマスクに意味があったとはとてもいえない。マスクを洗えば
大丈夫と広報すればいいだけのことだったのだ。それに果たして、自作の割合なんて
如何ほどというのか。

ざっと周りを見渡しても、せいぜい100人に数人程度ではないだろうか。それに、
自作するのは簡単に買えないというただそれだけの理由に過ぎないだろう。3つの要因に
入れるほどですらないはずだ。これは阿った可能性すらある。

どっちみち、マスクとしての使いみちがないアベノマスクが効果を
発揮したわけではないという結論でよかろう。




さて、それで問題はなんだったか。
それは、信頼する後輩のリテラシー問題なのではないかと。

そも直感的に、アベノマスクが愚策だと感じる。これが私の最初の印象だ。
筋が悪いとまずは感じる。この違和感は、マスクのクオリティのしょうもなさや、
利権構造を知る前から発生している。政府が1住所に2枚マスクを配るという、そのなんとも
言えないやり方だけで既に駄目な政策であると感じる。その配布コストや時間コストが直ぐに
頭をよぎるのだ。そのうえでマスク自体がどういうものなのかという事が出てきて、いよいよ
アウトだと確定した。これが私の初期判断である。

そしていざ配布されたのちも、使用者はほとんど存在せず、ただマスクを受注した業者が
儲かっただけ、政府は何か国民に対策したという雰囲気づくりになっただけであった。
こういう政策を愚策という。そして、私は愚策が嫌いである。税金返せと言いたくなるのだ。

ところがだ、後輩はどういうソースを辿ったのか、それとも自分で考えたのか、
アベノマスクには、マスク価格を押し下げるという効果があって、それが最大の評価だろうと
のたまった。つまりマスクが使えるか使えないかではなく、マスクを配布する事で、
世の中が動いて、マスクが供給されるようになったと考えているというわけだ。

私には、とんと不可解であった。会話終了後にすぐに検索してしまった。
その結果、そのような間抜けな考察をしたのは何を隠そう、内閣府そのものであった。
菅官房長官の談話が最初にひっかかるではないか。まさか、後輩はこれを見たから
なのだろうか? もう少し調べると、安倍政権のネトウヨサポーターが、同じように礼賛
しているものがいくつか見つかり、また、右翼系のWebサイトやブログにも同じ系統の
ものが散見される。どう読んでみても、信憑性がないものばかりだ。

そうすると、後輩の見識を疑うことになる。もしかすると私が勘違いをしていて、
アベノマスクによるそういう隠れた効果があるのかと思ったのだったが、やはりそんなことはなく、
上記のように調べても、効果ゼロではなかったのかもしれないが積極的な意味など
あるわけもない。

すると後輩の情報リテラシーが浅いのではないか?と疑われ、
もし自分で考えた結論だとすると、アホなんじゃないかと思われるのだ。。

安倍政権の発表の大部分はウソ偽りのオンパレードで出来ている。だから、
もし真実を述べているとしても、まずは疑う必要がある。それくらいに嘘つきなのだ。
それを後輩が「そうなのか」と思ったのだとしたら、お前の教養はどこにある?と
つっこみたくなる。

次に自分で考えた帰結だとすると、一体どんな情報によって、データによって
そう思うのかと問つめたい。私には、そのような傾向を伺うデータを発見できなかったからだ。
もし、アベノマスクの発表と配布時期と、マスクの価格低下の時期が重なっているという
事だけを頼りに、上記のことをいっているのだとすると、典型的な相関の罠にハマった事
になる。人は無関係なものに関係性を見出す癖があるからだ。それを侵さないために
リテラシーが必要で、そのリテラシーこそが能力である。


実をいえば、このように後輩の事実把握に違和感を覚えたのは今回がはじめてではない。
前回も、この20年間の不景気を差し置いて、第二次安倍政権を「好景気」と呼んだ事に
驚いたのだ。景気がよいならば、なぜ給与が増えない? なぜ増税する? なんで消費が
盛んにならない? 一体どこをどう読めば、今が景気が良いなどと思えるのか。

そうこれまた同じ事がいえる。政府発表では景気が良いことになっていた。(先日、
景気悪くなってましたと訂正が入っていたが。。)むろん、そんな事を信用できる
はずもない。GDPの計算を書き換え、年金資金で株をかい、国債を発行し続ける。
その上で、国民には10%増税を課する。そんな政府が発表する景気判断など、どう
信じろというのか。事実、景気がよいのは国の金を横流しされる業界であり、自社株を
国が買ってくれるようなところである。そういうごく一部の人間にとっては、そう
実感できるのかもしれない。

私はこの後輩とのリテラシー的ズレに驚いている。知性としてバカとは思ってない。
論理性が低いともだ。だとしたら、一体、何が認識を違えているのだろう??
まさか、自分の実感にないことを口にするとは思えないのだ。ともすれば本当に
実感しているのかもしれない、なぜなら彼は経団連に所属する会社に努めている。

およそ、世間ずれした感覚は、そういう周りとの兼ね合いがあるのだろう。
そしてきになることは、彼がどんなソースを元に話をしているのかである。

大手のメディアはとかく政権批判をしない。むしろ政権の広報である。
そこに電通が絡み、金が動く。加えて彼はニュースに課金をしない。新聞をとったり、
雑誌を読んだりしない。もっぱらウェブサイトのニュースをベースにしている。
結果として、無料ニュースばかり見る彼が、偏った地方紙たとえば産経新聞などの
ソースを読んだとして、それをそのまま鵜呑みにすることは大いにあり得る。

先頃みかけた、内閣支持率などをみても、新聞によりとんでもない差がある。
同じアンケート結果とは到底思えないほどだった。ソースが一つであることは
とても危険である。

おそらく、彼はニコ生系のニュースや、まとめニュー速あたりを参照している
のだろう。その手の中にはネトウヨ系のソースも多分に含まれている。

そして、もっとも恐ろしいのは日常が正常であるというバイアスである。
特に若い世代ほど、今の状況を普通と考えることだろう。そんなわけがないが、
彼らは比較対象を持たないのがよく分かる。

後輩の唯一の比較対象は、2011年時の民主党である。あの時の原発問題と、
政権のゴタゴタさがよほどかメディアにバッシングされていた。そのような
言説を受けて、政府批判がウケる時代になっていた。ミンスと呼ばれた時代である。
それに比較したら「マシ」だという安倍政権。そういう認識がベーシックに存在する。

私からみたら、あまりにも愕然とする思考回路である。
そして不勉強極まりない。民主党の政治家たちの半分はもと自民党である。
似たりよったりだ。そして、政治家主導の政治を稚拙に推し進めたがゆえに、
官僚たち、既存勢力に叩きのめされたのだ。おそらくアメリカなどから圧力が
あったのだろう。アメリカに利益をもたらさぬ、邪魔する政権は、叩くというのが
日本メディアのあり方なのだから、仕方がない。

そうして、自民党に比べればいささかマトモにみえた民主党は、
自ら瓦解し、管政権でTPP、野田政権で増税と、ちぐはぐな政策を掲げて頓挫した。
私にはとても残念な出来事だった。なにより小沢内閣が誕生しなかったことが、
最大の問題だったろう。彼がどのように指揮をとるかは、ひとつ賭けになったのにと思う。

その民主党に比べたら安倍政権がマシ?? バカも休み休み言えといいたい。
ロクでもなかった民主党より輪をかけて、愚かしいのが安倍政権である。

後輩がその政権をどこかしら支持している事、そして、彼の生活は少なからずその
既存体制から益を受けている事。そういった事が頭をよぎり、いたたまれなくなった。

自分がよけば良いとお前、おもってんじゃないか? と言い出しかけた。


学歴エリートの彼は中高一貫校育ちである。
非常に偏った意見を言わせてもらえば、受験の勝利者と自覚する人間は、おぞましい自己中心的
人間である。彼らはどこか、勉強ができないことは、100%本人のせいであると思っていて、
落ちぶれた人間はただ努力が足りないだけと信じ込んでいるようにみえるのだ。

その目線の高さが、俗物っぽさを冗長する。その無神経な思想が、共同体を不安定にさせ、
分裂を生む事を理解していない。人生をゲームにみたて、その勝者になればいいという
思想が透けてみえるのだ。

私から見れば、後輩はただ未熟だなと断定するのみなのだが、果たしてそれでいいのか。
私は彼のような人間を他に知っている。その彼らもまた、安倍政権支持者であった。
保守という言葉を履き違えているような人間であった。

この違和感はどうすればいいのだろう? 人は他者に親切であるべきだ。
可能な限り、弱者は守るべきだ。出来ないことまでやる必要はないが、自分を人生の勝利者と
位置づけ、くすぶっている人々をもって、努力不足だと一蹴するのは、甚だ間違えだ。

だが、どうも、昨今の若者にはそういう面を感じて仕方がない。
とりわけ、20代後半から30代真ん中までの男にだ。とても危険を感じる。

自分がやられたらどう思うのか?という想像力の欠如があり、
ナイーブに自分の正義を当てはめる。そういうのを無邪気と書いてバカと読むのだ。
決して褒められたことじゃない。人間として、立ち方を間違えている。

都会に済む、若い男で、学歴エリート。そういう人間たちの一部にどうも、
嫌悪感を抱く。その根底にある思想に嫌悪する。それはホリエモンを信奉したり、
藤原和希を称揚したりする若者たちだ。効率主義で、役立たずに用はないという切り捨て
を感じる。心がない感じといえば分かるだろうか。

このような人間たちが国の主要な場所に生きている。官僚になったり、大企業の役員になる。
権力を掌握するわけだ。遅かれとも。私には、日本は滅びを選んだとしか思えないのだ。

他者を、とりわけ弱いものを守るという、組織として当たり前をどこか忘れやしないだろうか、
そう若者たちに問いたい。というか、お前ら、人として浅はかなままでいいのか?と言いたいのだ。
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自衛その①:資産を守る [雑学]

コロナ禍は残念ながら夢ではなく、現実だ。
そして、多くの人が今まで通りの仕事を維持しようとして頑張っている。

だが、飲食業を始めとして、人出が必要な産業はことごとくピンチになっている。
そして、それはもはやピンチというようなものではなく、破滅という道に到達しつつある。

芸術を始めとする文化活動が影響を受け、停滞し廃業する可能性もある。
近所の小売店はいよいよアウトで店をたたむかもしれない。
そうやって、経済圏が狭くなると、大手が価格決定権を強くし、ますますインフレが
加速するだろう。簡単に言えば、日々の生活が大変になるということだ。

これを指を加えているのが今の日本国民である。
自分は自分で頑張っているからと、自分を善人として扱い、小さなルールから
逸脱する人間をバッシングするというスケールの小さい所で争いを起こす一方で、
もっと大きな市や県や国と行政に対して批判することをしない。だから本質的な
解決は行われず、ならばと行政を仕切る人間たちは、自分たちに都合の良いように
税金を利用していく。

あなたの生活がこれから大変になるけれど、その責務の一旦は、政治に無関心な
あなた方にある。それはまずは忘れてはいけない。自分たちに都合のよい政策をする
人間を選ばないから、そういう目にあうのだから。国や県が何もしてくれないと思うなら、
何もしてくれないような長を選んだ自分をまずは責めるべきである。もっといえば、
全く選挙にいかない自分の自己責任である。これは仕組み上、絶えずかかる個人への責務である。

一方で、社会構造上、資本主義的な社会が運営されるという事と、人間が相変わらず
利己的であるという事が合わされば、必然的に政治は腐敗し、全体のためというより、
個人的に権力を振り回す輩が現れ、その彼らに阿る人間たちが群れをなすのは必然である。

自らが従属状態にある事に気がついた、このブログの読者はこの限りではない。
よって、ここから自衛のための方法論を考えたい。また、これから何が起こり得るのかに
ついても考慮したい。

今、マイナンバーカードの普及率は20%にも満たない。
政府はこれをなんとしても、普及させたい上に、そこの銀行座をタグ付けする事を義務化を
目指している(もしかするとすでに義務化されたか?)。遅かれ早かれ、この方向性は
強化されていくことだろう。例えば、マイナンバーカードを使わなければ税金を払えない
仕組みするなどである。強制化のはてに何があるか。それは国に依る国民の資産把握である。

かつて、大きな大名が土地を新しく与えられると真っ先に、検地が行われた。それは、
税金を収める能力を確かめるためである。そうしておいて、なるべく確実に年貢を取り立てる
ということだ。

マイナンバーカードと銀行口座とのタグ付は、同じ意味を持つ。令和における検地なのだ。
ゆくゆくは、ただの検地ではなくなる。ハイパーインフレが起こると、最終的にはデノミが
行われる。その際に、個人の資産が差し押さえられて、新しい通貨を割り当てられるだろう。
こうして、資産を実質的に取り上げられるという可能性がある。

現段階では、ただの妄想である。だが、現状の1000兆円を超えるような国債を誰が
どう返すというのだろう? 最後は負債を抹消するはずである。その際に国民資産を
召し上げるということは十分に起こり得る事だ。

デフォルトのような事が起これば、まっさきに銀行口座は閉まる。国に依る口座管理が
行われる。我々はその時に、何ができるというのか。おそらく、何もできやしまい。
ただ、ただ、資産を奪われるのみである。国とはそういう存在である事は忘れてはならない。

そんな事あるわけがない? 日本だって預金封鎖は行っている。戦後の1945年の12月に
実行されている。要するに、政府はいざとなったら、それくらいの国権を発動するという
事である。

また、今、しきりに国債を個人や企業に買わせようという動きがある。
なんで国を上げて国の借金を買うという事をさせてるのか。むろん、利率が良いというのが
謳い文句ではあるが、そもそもそれを自由に売り買いできる権利はこちらにはない。
国は、国民の貯金を市場に引きずり出したいのである。そして、できることなら、召し上げたまま
消滅させたいのだ。3年、5年、10年などの商品がある。いざがいつ起こるのかは不明だ。
だが、それが起これば、これらは紙切れになる。

そもそも金とは、債権であるとはもう散々解説した。
債権ということは誰か他者がそれを欲しがる事でしか価値を担保できない。
そして、その価値とは経済ががたつけばあっという間に暴落する。

それを化け物にしたような株(NISA)や国債(まさに債権)に資金を変換する理由は、
そこについてくる利殖だろう。うまくやる人は良いが、国がポシャれば、騙されたという
事になろう。それは賭けである。

コロナ禍において、何が起こるのか。それは経済不振である。経済不振ということは、
国という組織の不安定化である。それなのに、金や、金融商品を頼りにするというのは
そもそもが間違えである。

資産を守りたいならば、もっと現物的なものに変換する他無い。
似ても食えないけれど、銀行券よりも安全なのは金属だろう。金や銀を資産にするのは
悪くない手である。それでも資産をまもれるのかは不明だが、およそ現金や株よりマシだろう。

他には、所有権である。国という単位が傾いた時に、土地所有などがどうなるのかは
定かではないが、人のマインドはそうは変わらない。よって資産をそれ相応の土地など
有形資産に変換しておく事は意味があるかもしれない。

もっといえば体験や知識に変換するという手もある。いざとなれば貯金が差し押さえられ、
土地なども召し上げられるかもしれない。けれど、体験や知識は奪い取られることはない。
ならば、資産を使って、素晴らしい体験や知識を得る事に使うというのは一種のリスクヘッジだ。

体験は人生を豊かにしてくれる。そして知識は新しい生産物を作り出す時に役立つ。
いや、本当の知識とは生活そのものを豊かにしてくれるのだ。

そのためには時間を使うことである。まだ多くの人は感じていないかもしれないが、
自分が自由に使える時間が存在するという人がもっともリッチな時代が来る。私はそう
信じている。

現代社会は金がなければ生きられない。それは日本という国に生まれた悲劇である。
だが、朝から晩まで週5日間を労働に費やさなければならない理由はない。それを
仕方がないというのは、ただの怠慢である。金のかからない生活は見つけられるし、
それでも、かつて程、大変でもない。

ならば、持つべきは自由な時間ではないか。そういう価値観になっていくのが
これからの方向性なのだと私は思う。


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狂ってる社会にー不適合ー [雑学]

人は変わる。そりゃそうだ。
少なくとも、地球規模の物理作用からみれば、人なんてあっという間に変化する。

ダーウィンの世界には、斉一説という概念があった。
土地がじわじわと変化するという話。今となっては当たり前だが、当時は
神が世界を作ったというのが常識。そこで自然が勝手に形を変えるなんて、
とんでもない概念だった。

ところが、それから200年であっという間に概念は変更された。
その程度に人は変わる。


ちょっと前にコーチングの人に会った。
彼らは、すぐに人を変えたがる。あたかもあなたは駄目だという事を
懇切丁寧に、美辞麗句を交えて話す人々だ。その方向性は、現代社会への適応だろう。

彼らの思想にものすごい抵抗を感じていて、私はとんでもなく頑固なんだと
思っていた。だが、そうではないと気がついた。

私は彼らのいうようには変わる気はないという事だけだったのだ。

人は変わる。私も変わる。だが、鋳型に押し込められていた事に気がついて
そこから抜け出たというのに、また押し込めてこようとする。全くわからんことだ。

どうも、私がいいたいことをまるで理解できない人がいるらしい。
社会とは、共同幻想だろうに。その幻想に生きるのはあなた方の勝手だから、
私は傍観する他無い。ただ、私をそれに巻き込むなと言いたい。

とはいえ、それは無理な話で、仕方がないから、私はそれに一部付き合う。

それにしても、現代日本は異常だと思う。世界的に異常かと思ったら、
世界に出ると案外普通で驚く。それくらいに日本は異常が極端化している。
その程度に考えられないとしたら、あなたはもう日本に染まり切っている。

未だに、社会的概念こそがすべてという人間たちがゴロゴロいる。
いい加減、目を覚ませといいたいのだが、これもまた余計なこと。
彼らにとっての事実、彼らにとっての価値は、理解できるが、私にはもう不要なのだ。

自分の中にしばしば、既存概念を感じる。刷り込まれた価値観も未だに感じる。
それから目を避けてきた。そして、そうじゃないんだと気がついた。もっと、
がっぷり四つに刷り込まれた概念に集中すべきなのだ。そして、解体する事。

もっとも、まともになるにはそういう作業が必要となる。
脱洗脳みたいなものだ。
仕方があるまい。子供は否応なく、大人たちに刷り込まれてしまうものだ。


私には、変なトラウマがある。生存恐怖ともいえる。
捨てられるという恐怖。ある種の虐待的体験だ。大人が安易に口にする、
「良い子にしなさい」という脅しが、心に巣食っている。私はアダルトチルドレンかもしれない。

良い子でいたいのではない。良い子でないと、生を奪われるという脅しに屈したのだ。
それが、私の身体にある。こう書くと極端なのだが、そのような心情が心に沈殿している。

それがために、大人つまり命令を下す人間に対して構えてきた。
奴らは常に自分のためだけに、私に命令をしようと手ぐすねを引いているのだ。
そして、その根本は、そうしなければ、お前の生を奪うぞという脅しなのだ。

その意味で私は大人が嫌いである。彼らの文言の9割方は、命令であるからだ。
その命令に従うことを、社会では「成長」と呼ぶ。ふざけるな。私はそう思う。

上司がなぜ、部下に命令できるのか。それは部下の命の存続を左右するからだろう。
いや、左右するかのように社会概念化されているからだろう。本当は嘘なんだから。

大抵の大人は、他人を自分の人生のコマだと思っている。あ、より正確にかけば、
現代日本、都市に住む大人というべきか。そのような大人たちは、他者のためと
いいながら、他人に命令して生きているだけなのだ。

そのこじれた形で現れるのがハラスメントであろう。大人の論理からいえば、
ハラスメントなど存在しない。命令に従わない人が悪い。なぜなら「成長が足りない」からだ。
よって、都市の人間はハラスメントに対する抗議を疎ましく思う。そして、PCについては
どうでも良いと本音で思っている。何しろ、命令するのが大人で、その立場を確保する
ために彼らは努力してきたのだから。

その手段は金だ。金で人を脅す。これが都市の論理である。
ちゃんと仕事しないと首切るぞ、とまあ、これが大人の論理である。
煎じ詰めれば、大人とはこれしか言わない人たちである。

いつも金で脅しているので、金で脅せない人を見るとびっくりする事になる。
そして、「あいつは頭がおかしい」と言い始める。おかしいのは都市の大人たちなのだが。

昨今、モンスターという客がいる。いやいや、違うから。
昔からずっといただけで、いま急に現れたわけではない。
かつてはハラスメントと言われなかっただけで、十分迷惑していたのだ。
他人を金で脅すことになれきった人間の振る舞いは、端的にモンスターである。
その意味では、都市社会はモンスターしかいない。

あとは程度の問題だ。普通の大人は、小さなモンスター。いわゆる社会的に
成功した大人は、大きなモンスター。そういう話なのだ。他人がモンスターならば、
自分もモンスターにならないと、生きていけない。だから、都市の子どもたちは
心を病む。むろん住む場所というよりは社会概念の問題ではある。

大人は子供たちに、モンスターになれという。でも、子供の素直な感性はそれを拒否する。
すると、生を奪いにくる。行動を制約しにくる。モンスター化しない子供にはレッテルを
貼り、異分子として扱おうとしてくる。

その結果、大人の論理に屈すると私のような人間になり、反発し続けると、社会からあぶれる。
どちらにしてもろくでも無いじゃないか。

大抵の子供は、処世術を学ぶ。心と振る舞いを分離させるのだ。
そうやって、子供は自分の感性をなんとか確保する。だが、こうやって心が死んでいく人々も
少なくない。結果として、大人になるのだ。そして、いざとなれば、他人を金で脅す人間に
なる。そうせざるを得なくなる。それが現代日本の社会という場なのだから。

それに気がついて、外側へ転がり落ちてみると、よく分かる。
そうして、日本社会は、全力でアウトローを阻害してくる。実に不寛容で差別的社会である。

日本すごい番組などみると、ヘドが出そうである。よくもまあ、自分たちの振る舞いに
反省もなく、ろくでも無い人間だというのに、自画自賛できるものだなとつくづく感心する。

結局、現代の都市論理における日本人とは、そういう大人たちで構成されたモンスター
社会なのである。そして、矯正されたモンスターは、気がつくと、それが普通だと思い、
そうでない人間を攻撃するモンスターとなる。

恐ろしいのは、それを「正義」とか「倫理」とか「道徳」とか、言い放つことだ。
全部嘘である。いいか、モンスター化した人間の正義とはなにか。命令を聞け、ってだけだ。
美辞麗句に騙されてはいけない。もっとも騙されてはいけないのは日本政府にだ。国にだ。

先日も不幸があった。木村さんという女性が命を絶った。詳細は知らない。
正義の名の下に、執拗に攻撃した人たちがいるのだろう。それくらい想像に難くない。

自分が怪物になっている事に気が付かない社会で、怪物化した手足を眺める私がいる。
気がついた私は、怪物化した手足で、なんとか子供の感性を保とうともがいている。
心までは奪われまいと。

果たして、うまくいくのか、いっているのか。
狂気の方が普通になっている社会。少なくとも日本の都市は異常である。
繰り返すが、日本の都市は人間という感性からみたら、ほんとうに異常なのだ。
その中における成功とは、異常者になるという意味である。

もう少し、自分の感性に目を向けてみたらどうだろう。
私みたいに外側に出る必要はない。ただ、自分の心と向き合うというだけの事だ。
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