新刊と古典ー本読みの工夫 [雑学]

古典を読むことは、積年の批判を乗り越えた内容にふれるという事である。
一方、新刊を読む事には現代に生きる人間のものの見方が詰まっている。
これはまるで違う活動である。

同じように本を読むといっても、その書が広げているリーチに違いがある。
古典の不思議さは、古典もまた当時は新刊であったはずが、いつの間にか
時を越えて伝えられるものになったという事だ。その意味では、古典もまた
新刊である。

ここで注意しなければならないのは、古典が書かれたコンテキストである。
我々はうっかりと現代のエートスから、古典も眺めてしまう。どうして、
その古典がそのような内容になったのかは、その時代背景が大きく影響している。
よって、安易に、内容の是非の現代の尺度で切り取ってはいけない。

一方で、現代のものに見方でしか、我々は古典を解釈できない事も事実だ。
どんなに想像力を豊かにしても、当時の人と同じように読むことは出来ない。
よって、古典を読むとは、結局のところ、現代の視点で切り取る事である。
どんなに古典読みの名人になっても、これは揺るがない事実である。誰も
過去に生きることは出来ないからだ。

かつての偉人たちの著書は、大小様々なものを集められ、批評にされされている。
正直にいって、すべての著作がおしなべて素晴らしいということはありえないだろう。
私がこのブログに書く記事にも、質の差は歴然として存在するし、まともな主張すら
ないものだってある。そういう意味で、哲学などにおいて、初期作品と後期作品を
比較検討して、その矛盾を指摘するなどの行為は、極めて愚行だと言える。

誰しも、その時に考えたことと、今考えている事に違いが生じるし、そもそも人間とは、
矛盾している。数学の例を取り上げなくても、閉じた系は矛盾な論理で構成しきれない。
厳密にいえば、どんな体系も閉じた系を作り出せば、その閉じた系のルールによって、
矛盾を生じるという事だ。数学ですら、そうなのであるから、人生などは矛盾だらけ
である。昨日の黒は、今日の白かもしれないのだ。

それは人は変わるという厳然たる事実である。諸行無常を出すまでもなく、
人は日々変わる。同じように見える人も、毎日変わっている。いや、もう少し正確に
述べれば、変わっているのがデフォルトであって、それを変わらないように頑張ってる。
それが命である。

多くの人は変わらぬ自分がいる事を当たり前に思っている。だが、生物学は、それが
とてもつもなく奇跡的な事である事を教えてくれる。我々は毎日崩れている。
熱力学の第2法則により、エントロピーは増大、形はランダムへ向かってエネルギー放散
しているのだ。それを命の仕組みによって、元に戻るように整えている。だからこそ、
我々は毎日食事をするのである。そして、それは完全にいかず、完全に行かせないように
体はルールを作り出した。それがゆえに我々は子供を作り、子孫を残すのだ。

つまり、変わらないというのは努力がいる事なのである。それはこの社会も同じである。
社会という言葉に実態がないが、通用的な意味での社会の状況は日々変わっている。
それでも、人は毎日同じように過ごす。過ごして生きること出来る。それには膨大な
仕事が行われているからだ。それはエネルギーを注入して身体を維持する命と同じ事である。

現状維持が悪い事であるという思想性もあるが、現状維持とは実は、大変な高コストである。
放おっておけば、必ず変わってしまうのがこの世である。そして現代日本は、現状維持が
社会状況変化によって無理になった段階にある。ところが、それでも、現状維持幻想を保持
している。現実から目をそらし、なんとか現状維持をしたいと願っている人々が半数以上
いる。だが、そんなものは無理なのである。

さて、ここで不思議なのは、このように変わりゆく社会において、新刊はつねにフィット
して情報やエンターテイメントを提供する。それは分かる。一方で、古典はどうか。
変わってしまった社会において、古典がのべることは、有意味だろうか?

人によって、そんな古いものを読んでもと思うことだろう。

おそろしい事に、人に変わらぬものがある。それに触れているのが古典である。
つまり、古典となった書というのは、ほおっておけば変わってしまう人間のあり方に
おいて変わらぬ事を述べているということなのだ。

人生の性というものを含んでいるからこそ、古典はいまもなお読みつがれる。
その人の性とはなにか。それは私が述べることではあるまい。
古典をぜひ紐解くのがよい。そこに描かれている情景や小道具は現代とまるで
違うかもしれない。だが、そこで起こる出来事や人々の振る舞いは、現代と何も変わらない。
その変わらなさが、古典の意味である。

もし、とある人が時間を無駄にしたくないと思ったら、真っ先に古典を読むべきなのだ。
なにしろ、そこには現代人と同じ基盤を共有する先祖の生き様が描かれているからである。
それを知ることは、これからの人間を知ることでもある。極端なことをいえば、
古典には未来が書かれているとも言えるのだ。

そのへんの啓蒙書や、ネトウヨ本とか、陰謀論や経済書などの実用書を読むのも
悪くはない。だが、本当に時間をかけるべきは、古典に触れることである。

では、新刊の立場はどうだろうか?
もちろん、新刊の中にも、人生における変わらぬなにかに触れているものがある。
そして、読むに値するものがある。著者はそれとなく知ってる人々である。
とはいえ、玉石混交の本から、それを見つけ出すのは難しいということだ。

むろん、時間が大量にある人間は何でも読めば良いわけなのだが。
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