先へ進もうー感覚を取り戻すー [思考・志向・試行]

もうこの数年間ずっと、現状分析をしてきた。
その結果、分かったことは現状は政治的な結果として生まれてきた事だった。
そして残念ながら、科学的な事実は、政治の前には時に無力になるという事だった。
それは当然ながら、哲学にも通じる。哲学は宗教のまえになす術はないのだ。

現状の問題の多くは、社会システムから発生している。
個々人は、そのシステムの不備をみつけても、決して回避できない。
なぜなら、システムに適応して生きている人間に物事の決定権があるからだ。
過剰にシステムに適応することで、システムから利潤を最大化する事が出来る。

起業家はいかにもシーズを生み出して価値を提供しているかのように振る舞う。
周りもそういう風にみる。だが、やっていることは結局、人の欲を満たすことに
終始している。それ以上でも以下でもない。テクノロジーは、人々のもつ欲求を
満たす事に利用された時に普及し、そこに儲けが発生する。そういう仕組だ。
そして、起業家は資本をテコにより大きな利潤を得るという作業を繰り出す。
いわば、他人のふんどしで相撲をとって勝つという事だ。負けるとひどいことになるのは
よく知られたことだろう。その意味ではマイルドなギャンブルといえる。

現状のシステムは要するに、ギャンブラーと非ギャンブラーを生み出す。
大抵の人はギャンブルを避けるので、少数の博打打ちと、そのフォロワーとなる。

大きな産業に与する人々はギャンブルに勝った人と単純にいうのは無理がある。
なぜなら、日本という国は、国による産業指導があまりに強かったからだ。
国が鉱物を輸入して加工し海外へと売りさばく事に注力する社会を形成した。

その結果、日本は戦後の60年で大いなる発展を遂げたが、その後20年は見る影もない。
その理由は、潰すべき企業を潰さなかったからだ。大きくなりすぎたシステムは壊すに
壊せない。その代わりに、未来の富を手元に引き出して使った。住専問題やはじけた
バブルの借財は一体どうなったのだろう。ちゃんと精算されたのだろうか。単に国が
空いた資金の肩代わりをしただけじゃないのか。私の認識では、民間の借金の穴埋めを
国という名の元に、庶民が肩代わりをしたというのが見解である。

結局、市場原理がちゃんと働く分野では、大した儲けなど出ないのだ。
一方で、国が関与し、関所構造が生まれている場所では儲かる。
現代日本のシステムのいただけないところは、この関所構造に政府と民間の既得権益があり、
そこでは常に赤字だろうがなんだろうが、資金が補填される仕組みになっている事だ。

どうして国の予算が年々増えるのか。経済が衰退中なのだから、歳出もへるのが普通だろう。
だが、減らない。理由は、簡単で本来、ビジネスモデルが成り立たないようなものに
国が金をだして維持管理してしまうからだ。それは国家公務員の性でもある。天下り先を
作り出すことが定年後の人生に有効なために、利権を作り出しては特殊法人を作り、そこへ
国が金を流して、民間に金を配るという事をやり続けてきた。

その結果、日本の供給側は、政府の力がおよぶ半共産主義的産業になってしまった。
このような事に対する批判をかわすためなのか、国鉄はJRに、日本電信電話公社はNTTになった。
近年なら郵便局の解体、民間化である。だが、本当に民間化したのか? 嘘つきもいいところだろう。

結局、国は戦前からのパターナリズムを保持し続け、日本国民による自治など意に介せず、
すべて政府の手によって発展させてきたし、発展させようとしてきたのだ。これは、一種の
エリート主義と言えるだろう。東大卒の官僚たちが、自分たちの権限をフルに生かして日本
なる経済圏を拡張したわけだ。もちろん、戦後の国民はこれを大なり小なり歓迎したわけだ。

そうして1億層中流社会が生まれた。かつてアメリカでフォードが目指したような社会である。
制度上は資本主義だが、中身は社会主義いや共産主義であった。

パターナリズムの弊害とは、自主性の抹殺である。なにしろトップのいう事をきく奴が
必要だったのだ。やることは決まっている。アメリカの真似なのだから。その模倣を文句を
言わずに遂行する人間たちが必要であった。そうして、日本社会は働きアリを量産した。
一億総中流とはそういう事だ。

ところが、これに不満をもった人々が生まれてきた。戦前や戦中を知らない人間たちである。
彼らは、戦後の社会構造の中で、自我を強くした。それもまたアメリカなど西洋などから仕入れた
思想である。そして、受験戦争を作り出した。なにしろベビーブームで人が増えた。その一方で
国が配給する「雇用」の枠は決まっている。その雇用の枠に入り込む事が人生を豊かにすると
信じた人々は、そこへ邁進する。

農業をやっていた家で、安泰なのは長男だけだ。次男以下はそのサブでしかない。
彼らは別の何かを欲していたし、長男も農業で家を次ぐというやり方に違和感を覚えていた。
そのような個人的な感情と時代の流れがマッチして、都市に急速に人が流れたわけだ。

政府が主導して作り出した産業。主に加工業に人出が不足した。その一方で、地方は
農業など一次産業の持続だけでなく、増えた人間の処遇に困っていた。そのマッチングが
上京である。都会への移住は、家であぶれた次男や三男の行動パターンであった。

そうして、田舎を出た人々は都会でサラリーマンとなる。気がつくと、その二世が生まれた。
田舎の次男坊は、住んだ土地に墓地を作り、そこに眠った。その後をサラリーマン二世・三世が
継いでいく。そう生まれながらの労働者である。

このような事はイギリスの産業革命時にすでに理解されていた。エンクロージャである。


かつては人手として、本家の側に新しい家を立て、分家として暮らしていた人々。
嫁とは、そのような農業もしくは家業主体の生計をなりたせるために、子を生み出す装置で
あった。時代変化により、そのような暮らしは矛盾を孕んだものになってしまった。
モーパッサンの「女の一生」には、そのような娘の悲哀が表現されている。

しかし、農業だけでは金は手に入らない。入れにくい。現金がなければ暮らせなくなった時代に
金を欲するのは自然な結果であろう。かつて食うか食わざるやなどは、存在しなかった。
なぜなら、土地があり、そこには野菜や米麦がしっかりと実をつけていたからだ。

田舎の次男坊や三男坊は、いざとなれば、田舎で融通してもらうという最終手段を持っていた。
その心理的安全基地が、都会への挑戦にもなった。どうにもならなかったら、田舎の兄ちゃんに
世話になろう。そういう事だ。娘たちは、どこかへ嫁にでる運命なのだ。できるだけ程度の良い
場所にだしたい。それが親の願いだった。だからこそ、見合い結婚が本流であったし、それが
最大の問題だったわけだ。今で言えば、家とは個人事業主か有限会社のようなものである。

女性の雇用とはトドのつまり嫁であり、どこかの中小企業に就職するようなものだったと言える。
ならば、その企業について見識のある人が見定めるのは当然であるし、嫁として受け入れる方は、
コネクションなのだから、相手の素性をしろうとするだろう。まさに就職活動なのだ。

そのような過渡期を経て、サラリーマンの二世・三世が都会近郊に溢れた今、何が起こっている
のか。かつては、国のエリートが手動した欧米を真似せよというスローガンは1980年後半には
役立たなくなっていた。だが、サラリーマンたちには独創性はない。いやあったとして、それを
発揮する仕組みがない。なぜなら、言いなりになるという事が社会システムによって規範とされた
からである。

もちろん、はみ出す者たちも居た。そして現在はそのはみ出した者たちが収益を得やすい時代に
なった。政府のパターナリズムに辟易した人々は、常に一定数いたし、今はそのような連中が
生きやすい時代になりつつある。とりわけ、若い人たちにとってはチャンスであろう。既存の
枠組みに入るという努力が不要になる可能性が高いからだ。

むろん、厳しい面もある。サラリーマン人生も二世・三世になると、いよいよ文化化するからだ。
その子どもたちは労働者としてどうやれば成功するかという点を軸に教育されるからだ。
自分がそうやってきたというだけの思考停止の親から受けた教育は、子供の心を歪ませる。
時代はもう変わったのだけど、取り残されているのは親の方なのだけど、子供はその間で苦しむ。
敏感な子供は、大人の社会が要請する大いなる矛盾に反抗するか、離脱するかであろう。


だいぶ語ってしまったが、本論に戻ろう。
現実的に今から何を志向し、何を思考するのか。

上記より簡単に理解されるのは、金という仕組みにどっぷりと浸かると危険ということだ。
また、その社会システムに自己を最適化することの危険性もわかる。人生があまりにも変化に
富んでいるというのがその理由だ。21世紀の日本、いや世界的にみても、人生の有り様が
様々に変化した。かつてのように日本は家を単位として、暮らす事はもうしていない。
地方でわずかに残ってはいるが、むしろ、長男として生まれた奴はいささか不幸にも見える。

一方で、サラリーマンの子どもたちもまた不幸に見える。なぜなら、自分の拠り所がなにもない
世界に放り出されてしまうからだ。価値観がないといってもいい。仮に親と同じ職につきたいと
思っても、同じ企業が採用してくれるとは限らない。いやほとんどないだろう。同族経営以外で
そのような事が起こる方が稀なケースだ。

戦前・戦中を過ごした老人が、今の人を無駄な「自分探し」とか揶揄する。彼らは思考が不足
している。そうではない。生きるために必要なベースがまるで違うのだ。家業があって、いざと
なれば家業を継いでいる兄ちゃんに融通を聞いてもらえるわけではないサラリーマン世帯の
子どもたちは、自分の拠り所を保てるわけがないのだ。だから、その拠り所を求めて彷徨うことは
当然の行為である。それはまるで、里子に出された子供が大人になって、本当の親を追い求める
事と似ている。

現代の枠組みにおいて、多くの子供達は自分が何をすべきなのか不明なまま生きている。
かつての子どもたちは、むしろ何をすべきかが強く規定されていた。長男は家を継ぎ、次男や三男
はそのサポートであった。畑は小さくすると収量が減る。土地をバラせば、元にはもどせない。
そういう知恵が家制度を作り出した。要するに子孫が無事に過ごせるようにという思いが、
家制度の根幹にある。ところが、戦後の社会状況は、この強い規定をまったく覆した。

むしろ、子どもたちは何にも規定されてなさすぎている。かつての子供は、自分が成すべきことが
決まっている世界に反発した。その反発はアメリカなどに象徴されている。アメリカとはイギリス
の私生児である。イギリスという規範から逃れ、自主自立を求め大陸へ移動した人々なのだ。彼ら
に憧れるのは、戦後日本の子どもたちにとっては当然であったろう。だからこそ、これがしたいと
いう欲求に直球で勝負した。なにしろ、ほおっておくと、自分のやるべきことが決まってしまう
からだ。誰と結婚するのか、どんな仕事をするのか、そういうものの大方が他者に決められてしまう。
そういう世界からの脱出こそが、彼らにとっての人生の目的であった。

21世紀のサラリーマンの子供達は、その逆をやらねばならない。一部を除けば、誰も子供のあり方を
規定してくれない。だから反発する理由もない。親に反発する理由がそもそもないのだ。だから、
今の子供に強い反抗期などあるはずもない。ある方が異常である。それはよほど親が枠を作りすぎた
結果なのだから。それはハラスメントである。ハラスメントに反抗するのは当たり前だっただけ
なのだ。

今の親は、大抵の場合、子供の未来を規定できない。こうしろと言ったところで、そう出来るわけ
ではない。ある意味では良い時代になったのだろう。だが、元来パターナリズムの社会だ。自由に
やりなと言われて、はいと言える人間がどこにいるというのだろうか。21世紀に日本が没落する
と予想出来るのは、自由にやりなと言われて、呆然としてしまう人間がおおいという点にある。
自分で考えて行動する事を規制され続けた結果、自分で考えた事をどう実現するのかという点で
まったく劣る人間たちの群れになってしまったのだ。

大学生たちの多くは目的不在である。親は子供の人生を規定できない。子どもたちはなんとか
ヒントを得ようとして、安易な物語に飛びつく。誰かが作り出した妄想や、成功者として評判たかい
何かに自己同一化しようとする。その結果、自分のポテンシャルや、状況がそぐわないことに
絶望してみたり、権利を主張してみたりする。なんにでもなれるはずなのになぜそうなれないのか?
と。大人たちが無責任に、万能感を付与した結果である。

一時が万事、こんな風に日本は出来ている。社会構造変化が個々人の心理に深く食い込み、
その結果として人々は大なり小なり、迷いを生きている。迷わない人間は異常だけれど、
迷いすぎる人間もまた異常である。迷わない人間は、誰かの欲望を自己に取り入れて過ごしている。
つまり思考停止なのだ。たまたま野球がうまかった。だからプロになった。だが本当に自分は
それを目指したかったのか? そんな風に野球人生を過ごしてしまってから、自問するなど、
全く手遅れなのだが、そのような心理状態は、うつ病を招く。

これはサラリーマン人生にだって同じこと。周りが大卒で働きに出る。思考停止して自分も
仕事につく。それなりの場所に就職して、結婚し家庭を築いて、そろそろ定年になる。だが、
本当にそれで良かったのか? それが望みだったのか? 当然の悩みなのだ。ユングはこれを
中年の危機と呼んだ。何をすべきかを規定されていない人間は、選んだもの、いや選ばされたもの
を懐疑する。懐疑の結果は、基本的に深い闇へと繋がっている。ユングはこの状況を乗り越えた
ものこそが、大いなる自己実現を手にすると言ったらしいが。現実には、気がつくのが遅くて
大抵は手遅れを許容しつつ、自分の人生は、まあ悪くなかったなと、自分で慰める事になる。

要するに21世紀の日本に生きるとは、迷う事である。どんな人生を選んでも、それが良かった
のかどうか。誰にも不明なまま、漠然と生きるほかない。

むろん、答えは出ている。価値観は自分で決めるしか無いと。だが、自分でそれを決められるほどの
強さをどれほどの人が持っているというのだろうか? 大抵の人は、そんなに強いはずがない。
岡本太郎のように自分の価値観を、自分で作りあげられる人は稀としか言えない。

フロムのいう自由からの逃走とは、結局、この漠然とした世界観に生じるのだろう。
何をすべきかという行動規定が、自然とは現れない社会。自分で、自分の能力を見極めて、
最適な仕事を選び取ろうとする行為。本質的には不可能である。ロジックで物事は決められない。
とりわけ将来のことなど、誰にもわからないのだ。万事塞翁が馬なのだから。

誰にも将来の計算などできないのだと、本当に信じられたとしたら、何をすべきのかは明確である。

人は生物なのだ。外界の状況をセンシングし、身体を調整し、何が不足で何を求めるのか、
身体は知っている。その身体の求めに応じて人は行動すれば良い。そこにしか帰着できる
ものがないのだ。文化や価値観などは、他者から吹き込まれたものに過ぎないからだ。

身体からの求めとは、我々には感情としてしか認知されない。これはなんかいい感じがする。
これはなんか嫌な感じがする。その感覚こそが我々を開放へと導く。

損か得かを考えると、感覚には騙されるだろう。あんまり好みじゃない人だけど、金持ちだから
学歴があるから、だから結婚する。そういうような理性は、損得には有効に働く。おそらく、
間違えてはいない。世間が言う幸福にはありつけるだろう。だが、先のような迷いの世界へと
導かれる可能性が大いにある。それも、その得が世間であまりにも評価されてしまう時にはだ。

医者になった。他者の病気を治したい。そういう純粋な感情がベースにあるなら、それもいい。
だが、医者になる事がステータスだからとか、医者は儲かるとか、そういう得か損でなったら、
どうなるか。おそらく、人間の内面が分裂することだろう。そして、感覚を黙殺するに違いない。
その抑圧した、見て見ぬ振りをした感覚から復習される日は遠からず来るはずだ。

これはプロ野球選手でも、サラリーマンでも、なんでもいい。自分の感覚を裏切って、
損得で物事を進めた時に、人はもうすでに道を誤っている。そして残念なことに、その誤りに
気がついたときは大抵は手遅れなのだ。その手遅れであるという感覚こそは、身体や心の病気に
つながっていく。うつ病の多くは、感覚を裏切ることから生まれてくる。感覚を黙殺できなく
なっていてもなお、黙殺し続けると、どこかで堤防が崩壊してしまうのだ。

そうならないために、何をするのか。そう、身体の訴えを聞くことだ。
感情や感覚を頼ることだ。とりわけ、重大なことについては。何か嫌な感じがする。
それはその人に与えられたかけがえのない贈り物である。こちらにいくと何かいい感じがする。
そういうものをなるべく選ぶのだ。すべて自由になることなどはアリはしない。だが、決定的に
これは駄目だというものがある。理屈にならなくても、駄目なものから目を逸してはいけない。

そうやって日々を重ねていくこと。老子のいうタオとはそういう事なのだろう。
何かを選ぶという事ではなく、自然と足の向く方へと進む。気がついて後から振り返って
あれが選択だったという風に。こちらから、選び取るものではない。選び取ったと考える時点で
それはすでに失敗かもしれないのだから。


先に進むために、個人が何が出来るのか。およそ、感覚に嘘をつかない事。
損得の前に、価値観を据えること。そういう風に過ごすこと。あまりに抽象的であるが、
それが21世紀に必要な価値観だと思う。

社会がどうあるべきか。それについてはまたの機会に考えてみたい。
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