先へ進もうー感覚を取り戻すー [思考・志向・試行]

もうこの数年間ずっと、現状分析をしてきた。
その結果、分かったことは現状は政治的な結果として生まれてきた事だった。
そして残念ながら、科学的な事実は、政治の前には時に無力になるという事だった。
それは当然ながら、哲学にも通じる。哲学は宗教のまえになす術はないのだ。

現状の問題の多くは、社会システムから発生している。
個々人は、そのシステムの不備をみつけても、決して回避できない。
なぜなら、システムに適応して生きている人間に物事の決定権があるからだ。
過剰にシステムに適応することで、システムから利潤を最大化する事が出来る。

起業家はいかにもシーズを生み出して価値を提供しているかのように振る舞う。
周りもそういう風にみる。だが、やっていることは結局、人の欲を満たすことに
終始している。それ以上でも以下でもない。テクノロジーは、人々のもつ欲求を
満たす事に利用された時に普及し、そこに儲けが発生する。そういう仕組だ。
そして、起業家は資本をテコにより大きな利潤を得るという作業を繰り出す。
いわば、他人のふんどしで相撲をとって勝つという事だ。負けるとひどいことになるのは
よく知られたことだろう。その意味ではマイルドなギャンブルといえる。

現状のシステムは要するに、ギャンブラーと非ギャンブラーを生み出す。
大抵の人はギャンブルを避けるので、少数の博打打ちと、そのフォロワーとなる。

大きな産業に与する人々はギャンブルに勝った人と単純にいうのは無理がある。
なぜなら、日本という国は、国による産業指導があまりに強かったからだ。
国が鉱物を輸入して加工し海外へと売りさばく事に注力する社会を形成した。

その結果、日本は戦後の60年で大いなる発展を遂げたが、その後20年は見る影もない。
その理由は、潰すべき企業を潰さなかったからだ。大きくなりすぎたシステムは壊すに
壊せない。その代わりに、未来の富を手元に引き出して使った。住専問題やはじけた
バブルの借財は一体どうなったのだろう。ちゃんと精算されたのだろうか。単に国が
空いた資金の肩代わりをしただけじゃないのか。私の認識では、民間の借金の穴埋めを
国という名の元に、庶民が肩代わりをしたというのが見解である。

結局、市場原理がちゃんと働く分野では、大した儲けなど出ないのだ。
一方で、国が関与し、関所構造が生まれている場所では儲かる。
現代日本のシステムのいただけないところは、この関所構造に政府と民間の既得権益があり、
そこでは常に赤字だろうがなんだろうが、資金が補填される仕組みになっている事だ。

どうして国の予算が年々増えるのか。経済が衰退中なのだから、歳出もへるのが普通だろう。
だが、減らない。理由は、簡単で本来、ビジネスモデルが成り立たないようなものに
国が金をだして維持管理してしまうからだ。それは国家公務員の性でもある。天下り先を
作り出すことが定年後の人生に有効なために、利権を作り出しては特殊法人を作り、そこへ
国が金を流して、民間に金を配るという事をやり続けてきた。

その結果、日本の供給側は、政府の力がおよぶ半共産主義的産業になってしまった。
このような事に対する批判をかわすためなのか、国鉄はJRに、日本電信電話公社はNTTになった。
近年なら郵便局の解体、民間化である。だが、本当に民間化したのか? 嘘つきもいいところだろう。

結局、国は戦前からのパターナリズムを保持し続け、日本国民による自治など意に介せず、
すべて政府の手によって発展させてきたし、発展させようとしてきたのだ。これは、一種の
エリート主義と言えるだろう。東大卒の官僚たちが、自分たちの権限をフルに生かして日本
なる経済圏を拡張したわけだ。もちろん、戦後の国民はこれを大なり小なり歓迎したわけだ。

そうして1億層中流社会が生まれた。かつてアメリカでフォードが目指したような社会である。
制度上は資本主義だが、中身は社会主義いや共産主義であった。

パターナリズムの弊害とは、自主性の抹殺である。なにしろトップのいう事をきく奴が
必要だったのだ。やることは決まっている。アメリカの真似なのだから。その模倣を文句を
言わずに遂行する人間たちが必要であった。そうして、日本社会は働きアリを量産した。
一億総中流とはそういう事だ。

ところが、これに不満をもった人々が生まれてきた。戦前や戦中を知らない人間たちである。
彼らは、戦後の社会構造の中で、自我を強くした。それもまたアメリカなど西洋などから仕入れた
思想である。そして、受験戦争を作り出した。なにしろベビーブームで人が増えた。その一方で
国が配給する「雇用」の枠は決まっている。その雇用の枠に入り込む事が人生を豊かにすると
信じた人々は、そこへ邁進する。

農業をやっていた家で、安泰なのは長男だけだ。次男以下はそのサブでしかない。
彼らは別の何かを欲していたし、長男も農業で家を次ぐというやり方に違和感を覚えていた。
そのような個人的な感情と時代の流れがマッチして、都市に急速に人が流れたわけだ。

政府が主導して作り出した産業。主に加工業に人出が不足した。その一方で、地方は
農業など一次産業の持続だけでなく、増えた人間の処遇に困っていた。そのマッチングが
上京である。都会への移住は、家であぶれた次男や三男の行動パターンであった。

そうして、田舎を出た人々は都会でサラリーマンとなる。気がつくと、その二世が生まれた。
田舎の次男坊は、住んだ土地に墓地を作り、そこに眠った。その後をサラリーマン二世・三世が
継いでいく。そう生まれながらの労働者である。

このような事はイギリスの産業革命時にすでに理解されていた。エンクロージャである。


かつては人手として、本家の側に新しい家を立て、分家として暮らしていた人々。
嫁とは、そのような農業もしくは家業主体の生計をなりたせるために、子を生み出す装置で
あった。時代変化により、そのような暮らしは矛盾を孕んだものになってしまった。
モーパッサンの「女の一生」には、そのような娘の悲哀が表現されている。

しかし、農業だけでは金は手に入らない。入れにくい。現金がなければ暮らせなくなった時代に
金を欲するのは自然な結果であろう。かつて食うか食わざるやなどは、存在しなかった。
なぜなら、土地があり、そこには野菜や米麦がしっかりと実をつけていたからだ。

田舎の次男坊や三男坊は、いざとなれば、田舎で融通してもらうという最終手段を持っていた。
その心理的安全基地が、都会への挑戦にもなった。どうにもならなかったら、田舎の兄ちゃんに
世話になろう。そういう事だ。娘たちは、どこかへ嫁にでる運命なのだ。できるだけ程度の良い
場所にだしたい。それが親の願いだった。だからこそ、見合い結婚が本流であったし、それが
最大の問題だったわけだ。今で言えば、家とは個人事業主か有限会社のようなものである。

女性の雇用とはトドのつまり嫁であり、どこかの中小企業に就職するようなものだったと言える。
ならば、その企業について見識のある人が見定めるのは当然であるし、嫁として受け入れる方は、
コネクションなのだから、相手の素性をしろうとするだろう。まさに就職活動なのだ。

そのような過渡期を経て、サラリーマンの二世・三世が都会近郊に溢れた今、何が起こっている
のか。かつては、国のエリートが手動した欧米を真似せよというスローガンは1980年後半には
役立たなくなっていた。だが、サラリーマンたちには独創性はない。いやあったとして、それを
発揮する仕組みがない。なぜなら、言いなりになるという事が社会システムによって規範とされた
からである。

もちろん、はみ出す者たちも居た。そして現在はそのはみ出した者たちが収益を得やすい時代に
なった。政府のパターナリズムに辟易した人々は、常に一定数いたし、今はそのような連中が
生きやすい時代になりつつある。とりわけ、若い人たちにとってはチャンスであろう。既存の
枠組みに入るという努力が不要になる可能性が高いからだ。

むろん、厳しい面もある。サラリーマン人生も二世・三世になると、いよいよ文化化するからだ。
その子どもたちは労働者としてどうやれば成功するかという点を軸に教育されるからだ。
自分がそうやってきたというだけの思考停止の親から受けた教育は、子供の心を歪ませる。
時代はもう変わったのだけど、取り残されているのは親の方なのだけど、子供はその間で苦しむ。
敏感な子供は、大人の社会が要請する大いなる矛盾に反抗するか、離脱するかであろう。


だいぶ語ってしまったが、本論に戻ろう。
現実的に今から何を志向し、何を思考するのか。

上記より簡単に理解されるのは、金という仕組みにどっぷりと浸かると危険ということだ。
また、その社会システムに自己を最適化することの危険性もわかる。人生があまりにも変化に
富んでいるというのがその理由だ。21世紀の日本、いや世界的にみても、人生の有り様が
様々に変化した。かつてのように日本は家を単位として、暮らす事はもうしていない。
地方でわずかに残ってはいるが、むしろ、長男として生まれた奴はいささか不幸にも見える。

一方で、サラリーマンの子どもたちもまた不幸に見える。なぜなら、自分の拠り所がなにもない
世界に放り出されてしまうからだ。価値観がないといってもいい。仮に親と同じ職につきたいと
思っても、同じ企業が採用してくれるとは限らない。いやほとんどないだろう。同族経営以外で
そのような事が起こる方が稀なケースだ。

戦前・戦中を過ごした老人が、今の人を無駄な「自分探し」とか揶揄する。彼らは思考が不足
している。そうではない。生きるために必要なベースがまるで違うのだ。家業があって、いざと
なれば家業を継いでいる兄ちゃんに融通を聞いてもらえるわけではないサラリーマン世帯の
子どもたちは、自分の拠り所を保てるわけがないのだ。だから、その拠り所を求めて彷徨うことは
当然の行為である。それはまるで、里子に出された子供が大人になって、本当の親を追い求める
事と似ている。

現代の枠組みにおいて、多くの子供達は自分が何をすべきなのか不明なまま生きている。
かつての子どもたちは、むしろ何をすべきかが強く規定されていた。長男は家を継ぎ、次男や三男
はそのサポートであった。畑は小さくすると収量が減る。土地をバラせば、元にはもどせない。
そういう知恵が家制度を作り出した。要するに子孫が無事に過ごせるようにという思いが、
家制度の根幹にある。ところが、戦後の社会状況は、この強い規定をまったく覆した。

むしろ、子どもたちは何にも規定されてなさすぎている。かつての子供は、自分が成すべきことが
決まっている世界に反発した。その反発はアメリカなどに象徴されている。アメリカとはイギリス
の私生児である。イギリスという規範から逃れ、自主自立を求め大陸へ移動した人々なのだ。彼ら
に憧れるのは、戦後日本の子どもたちにとっては当然であったろう。だからこそ、これがしたいと
いう欲求に直球で勝負した。なにしろ、ほおっておくと、自分のやるべきことが決まってしまう
からだ。誰と結婚するのか、どんな仕事をするのか、そういうものの大方が他者に決められてしまう。
そういう世界からの脱出こそが、彼らにとっての人生の目的であった。

21世紀のサラリーマンの子供達は、その逆をやらねばならない。一部を除けば、誰も子供のあり方を
規定してくれない。だから反発する理由もない。親に反発する理由がそもそもないのだ。だから、
今の子供に強い反抗期などあるはずもない。ある方が異常である。それはよほど親が枠を作りすぎた
結果なのだから。それはハラスメントである。ハラスメントに反抗するのは当たり前だっただけ
なのだ。

今の親は、大抵の場合、子供の未来を規定できない。こうしろと言ったところで、そう出来るわけ
ではない。ある意味では良い時代になったのだろう。だが、元来パターナリズムの社会だ。自由に
やりなと言われて、はいと言える人間がどこにいるというのだろうか。21世紀に日本が没落する
と予想出来るのは、自由にやりなと言われて、呆然としてしまう人間がおおいという点にある。
自分で考えて行動する事を規制され続けた結果、自分で考えた事をどう実現するのかという点で
まったく劣る人間たちの群れになってしまったのだ。

大学生たちの多くは目的不在である。親は子供の人生を規定できない。子どもたちはなんとか
ヒントを得ようとして、安易な物語に飛びつく。誰かが作り出した妄想や、成功者として評判たかい
何かに自己同一化しようとする。その結果、自分のポテンシャルや、状況がそぐわないことに
絶望してみたり、権利を主張してみたりする。なんにでもなれるはずなのになぜそうなれないのか?
と。大人たちが無責任に、万能感を付与した結果である。

一時が万事、こんな風に日本は出来ている。社会構造変化が個々人の心理に深く食い込み、
その結果として人々は大なり小なり、迷いを生きている。迷わない人間は異常だけれど、
迷いすぎる人間もまた異常である。迷わない人間は、誰かの欲望を自己に取り入れて過ごしている。
つまり思考停止なのだ。たまたま野球がうまかった。だからプロになった。だが本当に自分は
それを目指したかったのか? そんな風に野球人生を過ごしてしまってから、自問するなど、
全く手遅れなのだが、そのような心理状態は、うつ病を招く。

これはサラリーマン人生にだって同じこと。周りが大卒で働きに出る。思考停止して自分も
仕事につく。それなりの場所に就職して、結婚し家庭を築いて、そろそろ定年になる。だが、
本当にそれで良かったのか? それが望みだったのか? 当然の悩みなのだ。ユングはこれを
中年の危機と呼んだ。何をすべきかを規定されていない人間は、選んだもの、いや選ばされたもの
を懐疑する。懐疑の結果は、基本的に深い闇へと繋がっている。ユングはこの状況を乗り越えた
ものこそが、大いなる自己実現を手にすると言ったらしいが。現実には、気がつくのが遅くて
大抵は手遅れを許容しつつ、自分の人生は、まあ悪くなかったなと、自分で慰める事になる。

要するに21世紀の日本に生きるとは、迷う事である。どんな人生を選んでも、それが良かった
のかどうか。誰にも不明なまま、漠然と生きるほかない。

むろん、答えは出ている。価値観は自分で決めるしか無いと。だが、自分でそれを決められるほどの
強さをどれほどの人が持っているというのだろうか? 大抵の人は、そんなに強いはずがない。
岡本太郎のように自分の価値観を、自分で作りあげられる人は稀としか言えない。

フロムのいう自由からの逃走とは、結局、この漠然とした世界観に生じるのだろう。
何をすべきかという行動規定が、自然とは現れない社会。自分で、自分の能力を見極めて、
最適な仕事を選び取ろうとする行為。本質的には不可能である。ロジックで物事は決められない。
とりわけ将来のことなど、誰にもわからないのだ。万事塞翁が馬なのだから。

誰にも将来の計算などできないのだと、本当に信じられたとしたら、何をすべきのかは明確である。

人は生物なのだ。外界の状況をセンシングし、身体を調整し、何が不足で何を求めるのか、
身体は知っている。その身体の求めに応じて人は行動すれば良い。そこにしか帰着できる
ものがないのだ。文化や価値観などは、他者から吹き込まれたものに過ぎないからだ。

身体からの求めとは、我々には感情としてしか認知されない。これはなんかいい感じがする。
これはなんか嫌な感じがする。その感覚こそが我々を開放へと導く。

損か得かを考えると、感覚には騙されるだろう。あんまり好みじゃない人だけど、金持ちだから
学歴があるから、だから結婚する。そういうような理性は、損得には有効に働く。おそらく、
間違えてはいない。世間が言う幸福にはありつけるだろう。だが、先のような迷いの世界へと
導かれる可能性が大いにある。それも、その得が世間であまりにも評価されてしまう時にはだ。

医者になった。他者の病気を治したい。そういう純粋な感情がベースにあるなら、それもいい。
だが、医者になる事がステータスだからとか、医者は儲かるとか、そういう得か損でなったら、
どうなるか。おそらく、人間の内面が分裂することだろう。そして、感覚を黙殺するに違いない。
その抑圧した、見て見ぬ振りをした感覚から復習される日は遠からず来るはずだ。

これはプロ野球選手でも、サラリーマンでも、なんでもいい。自分の感覚を裏切って、
損得で物事を進めた時に、人はもうすでに道を誤っている。そして残念なことに、その誤りに
気がついたときは大抵は手遅れなのだ。その手遅れであるという感覚こそは、身体や心の病気に
つながっていく。うつ病の多くは、感覚を裏切ることから生まれてくる。感覚を黙殺できなく
なっていてもなお、黙殺し続けると、どこかで堤防が崩壊してしまうのだ。

そうならないために、何をするのか。そう、身体の訴えを聞くことだ。
感情や感覚を頼ることだ。とりわけ、重大なことについては。何か嫌な感じがする。
それはその人に与えられたかけがえのない贈り物である。こちらにいくと何かいい感じがする。
そういうものをなるべく選ぶのだ。すべて自由になることなどはアリはしない。だが、決定的に
これは駄目だというものがある。理屈にならなくても、駄目なものから目を逸してはいけない。

そうやって日々を重ねていくこと。老子のいうタオとはそういう事なのだろう。
何かを選ぶという事ではなく、自然と足の向く方へと進む。気がついて後から振り返って
あれが選択だったという風に。こちらから、選び取るものではない。選び取ったと考える時点で
それはすでに失敗かもしれないのだから。


先に進むために、個人が何が出来るのか。およそ、感覚に嘘をつかない事。
損得の前に、価値観を据えること。そういう風に過ごすこと。あまりに抽象的であるが、
それが21世紀に必要な価値観だと思う。

社会がどうあるべきか。それについてはまたの機会に考えてみたい。
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日本論考ー価値論ー [思考・志向・試行]

まず冷静に考えてみる。

我々いや、少なくとも日本に生まれた庶民は、構造的にどういう存在なのか。
フランスの炭鉱で労働者を定期的に供給するためにマンションが生まれた。
その意味は、資本主義構造の維持とそのための仕組みである。そう、我々の存在自体が
既存社会構造維持のための構成物の一つである。

人々がどう考えようが社会構造が先に存在し、我々は常に遅れて現れる。
その意味でこれを読む殆どの人間は、労働者として生まれてきた。それは、働きアリが
働きアリとして生まれてくる事と何も違いはない。

かけがえのない人生。
我々はもちろん、このような感覚の元に生活している。だが、その自覚とは無関係に、
自らの行動が社会により強く規定されている事に気がつくだろう。もし、生まれてくる
タイミングがもっと早ければ、農民となっていたかもしれない。もっと昔なら狩猟採集
生活を送る存在として生きていたかもしれない。どう生きるのかについて我々は自分で
思うよりも選択肢はない。自己責任が聞いてあきれる仕組みだ。

子供の頃考えたことの一つは、バキュームカーの労働者についてだ。
私が子供の頃はまだ下水が完全ではなかったために、時折バキュームカーが走っていた。
否応なく臭い。子供ごころには、なんていう仕事なんだと思っていたし、よく続けられる
ものだと不思議に思っていた。嫌悪する程に仕事がなんたるかは分かっていなかったが、
その仕事が決して進んで望むような職ではないとは、感じていた。

そしてその心情から反対方向へと、「マシ」な職につくには勉強でそれなりの成績を
収めねばならないと思い込まされていた。いや、おそらく事実なのだろう。学歴により、
ある程度の職業選択が存在する。ただ、一方で学歴による規定もある。つまり選択という
より、特定の型に押し込められるという事だ。

バキュームカーのオヤジたちは、社会構造上、そのような職につかざるを得なかった人々である。
職業に貴賎はないと言いたいところだが、やはり、みんなが進んでつきたがる職とそうでない
職は明らかに存在する。そして、学歴社会とはみんな就きたくない職に、誰かを押し込める
役割を持つ。それが現代的構造である。

もちろん、どんな職もそれが成り立つという意味で社会に役立っている。反社会組織でも、
犯罪的仕事だとしても、それらは金が動くという事実が、その職の存在意義を担保する。
社会悪だろうが、なんだろうが、人々の欲望がそこに存在するという事だ。

さて、一方で華やかな職の人々もいる事だろう。そして、自分の仕事や置かれている環境に
満足をしている人だっている。それは生活安定し、それなりの収入があり、仕事が順調であり、
家族と安穏に過ごせるという事だろう。そうして、自分は恵まれているなと感じているはずだ。

社会とはつくづく不公平だなと思う。その一方で、いや五十歩百歩だろうとも思うのだ。

先の疑問に戻ろう。我々庶民は、なんのために存在するのか。
人の生きる意義はなにか。何をして生きるのか。

言えることは、誰にも自分の存在意義はわからないということだ。
そして、その意義は自分で決定する他無いという真実だ。

人の安心というのは思いの外、安易だ。それは「みんなと同じ」に集約される。
もうちょっと正確に言えば、「みんなに受け入れられている」である。過激な発言、過激な行動
をしようとも、周りがそれでいいと言えば同じ事だ。しかし、社会とはそれでは動かない。
憎たらしいやつをぶっ殺したりすると、周りが存在を拒否する。そういうのがこの社会である。

個人の感覚は、ものすごい狭い領域に押し込められ、その中における許容こそ、みんな求めている。
他者承認というものだ。一部には、他者承認より自己承認が大事であると言説が流行った。
アドラーなどはその一端だろう。それは他者承認欲求が行き過ぎた社会におけるアンチテーゼと
して機能している。だが、人々の作り出す社会は常に「他者承認ファースト」である。それを
無視して人生を送ることはかなりハードである。

日本に生きる庶民は、ここで思考停止する。
他者に受け入れられる事。求めるべくは更に、他者より関係性を切望されること。
この事に集約される。後は生理的な欲求に過ぎない。人々は、この生まれくる欲求の実現を
合法的にやるか、非合法的にやるか、それだけなのだ。そして、これらの欲求をベースとして
社会は回る。

社会は人々が寄り集まって構成された構造体であるが、そこに成り立つルールは、
文化であり、人類普遍的なルールはおよそわずかしか無い。ルールは人々の頭の中に刷り込まれる。
よって、別の場所で育てば、「常識」が変わり、それは別の文化においてしばしばトラブルに
なり得る程度に揺れ幅がある。

日本に生きる人々の頭の中には、働いて金を稼ぐという事が「常識化」している。
ちょっと前の日本人は、労働とは作物を作ることであったし、その行為は自己の命の保証でも
あった。律令制が完成してから、人々は常に、被支配であったし、おそらくまだまだそのような
社会を構成していくのだろう。被支配であるという状態は、常識であり、疑うものではない。

疑うことが出来ない日本人も多い。というより、ほとんどの人間は疑わない。
疑わない事は、ときに幸福である。社会が要求する行為を実現する人間ほど、高給をとるし、
その金によって、多くの人々を従わせる事が出来る。だが、それがなんだというのか。

日本人は基本的に、生きているだけでみかじめ料を取られる。逆に言えば、みかじめ料を払うから
日本人であると認定されるのだ。多くの国では、みかじめ料を払う契約をすれば、その国の国民に
なれる。国とは本来的には「契約」的なものなのだ。

残念ながら、日本で生まれた個体は、全て日本人であると認定されてしまう。そういうルールが
現代では採用されている。その意味では契約であるようで、強制加入という意味では、NHKの
受信料みたいなものだ。そして、日本人として生き延びるとは、一生を日本という国との契約で
過ごすという事である。

およそ、その事は奴隷的でもある。国という抽象化された存在に対する奴隷なのだ。
日本というブランドが押し付けられた、脳内に、身体に、烙印をおされた存在としての個人。
それが日本庶民である。日本語を話し支配者の言いなりになるという存在。

ではどこに支配者がいるのか。大枠的には、金の使いみちを決定する力をもつもの。
それが支配者となる。それが資本主義を採用する日本の仕組み。だから、人々は金を
切望する。そして、金を持つものを恭しく扱う。それは、一種の恐れである。金は時に
攻撃的だからだ。人によって、それを眼前に引き出す人がいる。金が凶器であるという側面を
人々は実は知っている。だからこそ、金がある所には、人々の様々な思惑が張り巡らされるのだ。

その意味では、多くの人が金の使いみちに口を出す。日本における意思決定は、個人に帰する
事は少ない。大抵は「雰囲気」で決まる。多くの人が納得するようにと、時にまぬけな使用に
なろうとも、不公平な配分は人々の不満を引き起こす。

山本七平氏による「空気の研究」。日本では物事は空気で決定される。山本氏は空気の醸成は、
アニミズムに存在すると看破した。外部に絶対性を見出し、その物や物事との関係性を固定化
する事で、人々は空気を醸成させる。本来は、すべての物事には「善と悪」が織り込められている。
だが、人々はいとも簡単に特定の存在を白か黒で判断する。本質的に無理をしているので、
その歪みがどこかに噴出する。先程、言及した社会悪的職業にも、存在の合理性があるわけだが、
実をいえば価値は、事柄には内在しない。人々の心の中にしか価値が存在しない。

よって、価値のすり合わせが必要となる。その時、人々が対象物をどう感じているのか、
考えているのかが問題となるのだ。誰かが大きな声で、これには価値があると断じたとして、
その価値が自動的に決まるわけではない。逆に言えば、価値とは常に相対的なのだ。

とはいえ、現代では価値は、貨幣的価値を想定する、というものだ。ややこしいが、
貨幣を信奉する宗教にだいたいの日本人は入信しているし、そのコンセプトに価値があると
考えられている。みんながそう考えれれば、それに価値が付与される。そういう事なのだ。

本人の価値観とは無関係に、みんなの持つ価値観が強く、空気を規定する。


では何が問題なのか。それは価値観が事実と食い違う価値を持つことがあることだ。
戦争は悲惨なことだ。だが、時に戦争を賛美する人々が現れ、その空気が他者を巻き込み、
醸成した空気が批判を許さなくなる。悲惨であるという事実から、価値観が乖離し、
人々の思い込みの中に埋没する。

現代であれば、それは科学的事実と価値観の乖離だろう。
科学的な事実はある種の普遍を担保する。生物は自然発生しないし、神の奇跡は今の所
証明されていない。同じく、金の実存性も科学的には証明されない。国という実体や、
個人という実存もまた科学的には証明されない。しかしながら、人々はこれらに価値を
見出す。その時、物事と価値観との間に絶対を持ち込むことで人々は、その価値観に
縛られていく。自らの思い込みによって、自らが縛られていくのだ。

コロナというウィルスによって人々は行動を制限されている。
それは一種の空気だ。人々はコロナという目に見えないウィルスの存在を絶対視し、
悪という概念を貼り付けた。そうして自分の内部にそのウィルスの存在を刻み込み、
ウィルスと自己同一化した。結果として、我々はコロナウィルスというものが指し示す
何か全てに操られる。そして、その数ヶ月前に芽生えた価値観は、驚くほどのスピードで
人々の間を感染し続けた。

結果として、実体ではなく我々は自己の内部のウィルスに蝕まれている。

とはいえ、コロナウィルス自体は実に科学的なものだ。その敵がどういうものであるか、
じわじわと明らかになってきた。わかるにつれて対策も打てる。現在の最善は、
とにかく人が人と接触しないこと。これに尽きる。

価値観は転倒した。いや、していない。
それが理由に、日本では株価が上昇し2万円台を回復した。意味不明である。
政府がETFなどで、株を買いまくっている。その金の一部でコロナ対策をすべきなのにだ。
それを知っている投資家は価格が上がることを予期して買いに出る、もしくは売りにでる。

世間ではコロナで移動するなという自体が続いているのに、そんな事はどうでもよいと、
金儲けを考えている人間たちが少なくとも、日本にはいるし、政治にも反映されている。
そうして、今日もまた不公平な金の分配が行われている。実に狂っていると思う。

もしかすると、政府の人間たちはこの期に人々の操作を強めるのかもしれない。
それはコロナの科学的な事実とは全く無関係だ。警察が街を徘徊し、暗黙の圧力を加える。
まさに共産圏の人々の生活である。10万円給付も、マイナンバーと口座をタグ付けるための
操作とも言える。政府の人間たちは、なんらかの利益がなければ金を配ることなどしない。

経済活動を阻害しておいて、国はろくに経済的なサポートをしない。それもまた
一般的な日本人の価値観であろう。少なくともそれで良いという人間たちが政治をやっている。
そして、その価値観を庶民は指を加えて黙認しているのだ。選挙に行きもしない人々は、
多額の税金を収める働きアリとしての人生が待っている。ある側面からみれば、本人たちが
感じてる幸福とは、アリに対して与えられたわずかなアメに過ぎないのかもしれない。

総体として駆動するシステムを考えた時、誰が悪いという話ではなくなる。
有責性など問えない。日本にある空気とはそういうものだ。そして、価値観は空気によって
汚染される。事実と価値は乖離し、その齟齬をまた価値観で覆っていく。

どんなに科学的な知見があろうとも、人々の行動を制限できず、
コロナは対策されないままに、1年くらいたってしまうのだろう。そして、五輪は行われず、
日本経済は取り返しがつかないほどにダメージを負ってしまうだろう。


人々は価値観を事実から発揮するべきだ。それが唯物史観でもある。
人がもつ生物としての欲求から派生した価値観を除けば、残りの価値観とはすべて妄想である。

人々は妄想の世界を生きる。ブランドや俗物的な価値とは、結局、偏執的な価値観の学習結果
である。そのような価値観に染まるには、繰り返された宣伝で十分である。人々はあらゆる
媒体から、宣伝という洗脳を受ける。そこに集約された資本がますます人々の妄想に火をつける。
人は自ら作り出した「価値観=妄想」によって、人生を縛り付ける。そういう事を平気でやるのだ。

くだらない事をまともだと思うのも勝手だが、残念なほど、事実とはむき出しである。

権威主義は、結局、自己肯定でしかない。自分の受けた教育、自分の味わった感覚、それを
自画自賛する事。それがいかにすごいかという宣伝。人々がその言葉を信じてすごいと思えば、
作戦は成功である。中身などは、途中から関係なのである。人々の妄想を駆動すればいい。

スノビズムは、結局、妄想の産物である。
事実をきちんと見つめれば、どんな価値観も、個別性があるだけなのだ。
個人にとっての価値は決定される。だが、普遍的価値を決定する事はなかなか困難だ。
生物的要請に従う価値観は、普遍であろう。人類普遍な価値は確かに存在する。

その一方で、文化的な価値とは、常に学習のたまものである。
価値は作り出すものであって、付与されるものではない。
何がすごいのか、かっこいいのか、素晴らしいのか。個人の好みでしかない。

そのような価値観のうちに、資本主義社会に従って生きるとは、どれほどか惨めだろう。
金に力があるのは、多くの人が幻想を抱くからだ。普遍な事などではまったくない。
それは赤ん坊に札束をみせればすぐに分かることだ。未開の土地の住人にパルプのペラペラな
物体をみせても同じことだ。いや、もっといえば、日本国内において、外国の貨幣をちらつか
せても同じ事だ。まさに価値観にすぎないとわかるだろう。

だが、我々は金という価値観から逃れるすべがない。少なくとも社会が構造化された世界において
それをすべての人間が利用する概念である限り、本質的な無価値は、有価値として扱われる。

結局、金とは暴力である。暴力という強制力として存在している。人が働くとはそういう意味だろう。
少なくとも日本においてはだ。本質的な仕事とは、金銭とは無関係である。

コロナ禍において、なお、金のために人々の群れの中に移動していくのならば、
まさにある種の価値観に囚われている。仕方がないのだ、金という暴力に絡め取られているのだから。

商店は、家賃が払えないと。非正規で解雇されてしまった人は、家賃が払えないと。
結局、自分が存在するという事を人質にとられていて、それをなんとか取り戻すためには、
労働を売らなければならない。その厳然たる事実。誰も助けてくれないという事実。

大いなる欺瞞があることに気がつくだろう。自己の存在は金に奪われているという事実に。
明日生まれくる新しい命は、資本主義社会では、すでに値踏みが始まっているのだ。
新しいドレイは一体どんな形で資本となる労働を提供してくるのだろうかと。

このどうしようもない事実もまた、「人生は素晴らしい」という価値観と衝突する。
そして、人々は逃避する。現実からの逃避なのだ。かけがえのない人生。個人という価値観で
肥満太りした現代人には、それ以外によりどころなどないだろう。裏側にあるどうしょうもない
事実から目をそらすには、ますます「人生は素晴らしく」なければならないのだから。

人々が欲望を満たせば満たすほど、世界は金であふれる。その金はまた、金を要求してくる。
人生とは、はじめから借金地獄なのだ。少なくとも資本主義社会では、そうなっている。
借金を返し続ける事で、なんとか生きながらえている。そのためならば、人々はうっかり殺し
までする。そのくらい、人々は欲望をドライブしてきたし、ドライブすることが素晴らしいと
いう文化に染まった。むろん、せいぜいここ50、60年くらいの価値観に過ぎないだが。

コロナ禍は、この価値観を転倒させるだろうか。相変わらず、金に拘泥する政治家たちが
社会を牛耳るこの社会で、コロナという自然は、人々の頭にこびりついた金という価値観を
変更できるだろうか。否応なく変更を余儀なくするのだろうか。


我々は、新しい価値観への岐路にいるのか、それとも既存の価値観の頑強さを目の当たりにする
だけなのか。コロナ禍は、それを明らかにしてくれるだろう。私はそう期待したい。
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