日本論考ー価値論ー [思考・志向・試行]

まず冷静に考えてみる。

我々いや、少なくとも日本に生まれた庶民は、構造的にどういう存在なのか。
フランスの炭鉱で労働者を定期的に供給するためにマンションが生まれた。
その意味は、資本主義構造の維持とそのための仕組みである。そう、我々の存在自体が
既存社会構造維持のための構成物の一つである。

人々がどう考えようが社会構造が先に存在し、我々は常に遅れて現れる。
その意味でこれを読む殆どの人間は、労働者として生まれてきた。それは、働きアリが
働きアリとして生まれてくる事と何も違いはない。

かけがえのない人生。
我々はもちろん、このような感覚の元に生活している。だが、その自覚とは無関係に、
自らの行動が社会により強く規定されている事に気がつくだろう。もし、生まれてくる
タイミングがもっと早ければ、農民となっていたかもしれない。もっと昔なら狩猟採集
生活を送る存在として生きていたかもしれない。どう生きるのかについて我々は自分で
思うよりも選択肢はない。自己責任が聞いてあきれる仕組みだ。

子供の頃考えたことの一つは、バキュームカーの労働者についてだ。
私が子供の頃はまだ下水が完全ではなかったために、時折バキュームカーが走っていた。
否応なく臭い。子供ごころには、なんていう仕事なんだと思っていたし、よく続けられる
ものだと不思議に思っていた。嫌悪する程に仕事がなんたるかは分かっていなかったが、
その仕事が決して進んで望むような職ではないとは、感じていた。

そしてその心情から反対方向へと、「マシ」な職につくには勉強でそれなりの成績を
収めねばならないと思い込まされていた。いや、おそらく事実なのだろう。学歴により、
ある程度の職業選択が存在する。ただ、一方で学歴による規定もある。つまり選択という
より、特定の型に押し込められるという事だ。

バキュームカーのオヤジたちは、社会構造上、そのような職につかざるを得なかった人々である。
職業に貴賎はないと言いたいところだが、やはり、みんなが進んでつきたがる職とそうでない
職は明らかに存在する。そして、学歴社会とはみんな就きたくない職に、誰かを押し込める
役割を持つ。それが現代的構造である。

もちろん、どんな職もそれが成り立つという意味で社会に役立っている。反社会組織でも、
犯罪的仕事だとしても、それらは金が動くという事実が、その職の存在意義を担保する。
社会悪だろうが、なんだろうが、人々の欲望がそこに存在するという事だ。

さて、一方で華やかな職の人々もいる事だろう。そして、自分の仕事や置かれている環境に
満足をしている人だっている。それは生活安定し、それなりの収入があり、仕事が順調であり、
家族と安穏に過ごせるという事だろう。そうして、自分は恵まれているなと感じているはずだ。

社会とはつくづく不公平だなと思う。その一方で、いや五十歩百歩だろうとも思うのだ。

先の疑問に戻ろう。我々庶民は、なんのために存在するのか。
人の生きる意義はなにか。何をして生きるのか。

言えることは、誰にも自分の存在意義はわからないということだ。
そして、その意義は自分で決定する他無いという真実だ。

人の安心というのは思いの外、安易だ。それは「みんなと同じ」に集約される。
もうちょっと正確に言えば、「みんなに受け入れられている」である。過激な発言、過激な行動
をしようとも、周りがそれでいいと言えば同じ事だ。しかし、社会とはそれでは動かない。
憎たらしいやつをぶっ殺したりすると、周りが存在を拒否する。そういうのがこの社会である。

個人の感覚は、ものすごい狭い領域に押し込められ、その中における許容こそ、みんな求めている。
他者承認というものだ。一部には、他者承認より自己承認が大事であると言説が流行った。
アドラーなどはその一端だろう。それは他者承認欲求が行き過ぎた社会におけるアンチテーゼと
して機能している。だが、人々の作り出す社会は常に「他者承認ファースト」である。それを
無視して人生を送ることはかなりハードである。

日本に生きる庶民は、ここで思考停止する。
他者に受け入れられる事。求めるべくは更に、他者より関係性を切望されること。
この事に集約される。後は生理的な欲求に過ぎない。人々は、この生まれくる欲求の実現を
合法的にやるか、非合法的にやるか、それだけなのだ。そして、これらの欲求をベースとして
社会は回る。

社会は人々が寄り集まって構成された構造体であるが、そこに成り立つルールは、
文化であり、人類普遍的なルールはおよそわずかしか無い。ルールは人々の頭の中に刷り込まれる。
よって、別の場所で育てば、「常識」が変わり、それは別の文化においてしばしばトラブルに
なり得る程度に揺れ幅がある。

日本に生きる人々の頭の中には、働いて金を稼ぐという事が「常識化」している。
ちょっと前の日本人は、労働とは作物を作ることであったし、その行為は自己の命の保証でも
あった。律令制が完成してから、人々は常に、被支配であったし、おそらくまだまだそのような
社会を構成していくのだろう。被支配であるという状態は、常識であり、疑うものではない。

疑うことが出来ない日本人も多い。というより、ほとんどの人間は疑わない。
疑わない事は、ときに幸福である。社会が要求する行為を実現する人間ほど、高給をとるし、
その金によって、多くの人々を従わせる事が出来る。だが、それがなんだというのか。

日本人は基本的に、生きているだけでみかじめ料を取られる。逆に言えば、みかじめ料を払うから
日本人であると認定されるのだ。多くの国では、みかじめ料を払う契約をすれば、その国の国民に
なれる。国とは本来的には「契約」的なものなのだ。

残念ながら、日本で生まれた個体は、全て日本人であると認定されてしまう。そういうルールが
現代では採用されている。その意味では契約であるようで、強制加入という意味では、NHKの
受信料みたいなものだ。そして、日本人として生き延びるとは、一生を日本という国との契約で
過ごすという事である。

およそ、その事は奴隷的でもある。国という抽象化された存在に対する奴隷なのだ。
日本というブランドが押し付けられた、脳内に、身体に、烙印をおされた存在としての個人。
それが日本庶民である。日本語を話し支配者の言いなりになるという存在。

ではどこに支配者がいるのか。大枠的には、金の使いみちを決定する力をもつもの。
それが支配者となる。それが資本主義を採用する日本の仕組み。だから、人々は金を
切望する。そして、金を持つものを恭しく扱う。それは、一種の恐れである。金は時に
攻撃的だからだ。人によって、それを眼前に引き出す人がいる。金が凶器であるという側面を
人々は実は知っている。だからこそ、金がある所には、人々の様々な思惑が張り巡らされるのだ。

その意味では、多くの人が金の使いみちに口を出す。日本における意思決定は、個人に帰する
事は少ない。大抵は「雰囲気」で決まる。多くの人が納得するようにと、時にまぬけな使用に
なろうとも、不公平な配分は人々の不満を引き起こす。

山本七平氏による「空気の研究」。日本では物事は空気で決定される。山本氏は空気の醸成は、
アニミズムに存在すると看破した。外部に絶対性を見出し、その物や物事との関係性を固定化
する事で、人々は空気を醸成させる。本来は、すべての物事には「善と悪」が織り込められている。
だが、人々はいとも簡単に特定の存在を白か黒で判断する。本質的に無理をしているので、
その歪みがどこかに噴出する。先程、言及した社会悪的職業にも、存在の合理性があるわけだが、
実をいえば価値は、事柄には内在しない。人々の心の中にしか価値が存在しない。

よって、価値のすり合わせが必要となる。その時、人々が対象物をどう感じているのか、
考えているのかが問題となるのだ。誰かが大きな声で、これには価値があると断じたとして、
その価値が自動的に決まるわけではない。逆に言えば、価値とは常に相対的なのだ。

とはいえ、現代では価値は、貨幣的価値を想定する、というものだ。ややこしいが、
貨幣を信奉する宗教にだいたいの日本人は入信しているし、そのコンセプトに価値があると
考えられている。みんながそう考えれれば、それに価値が付与される。そういう事なのだ。

本人の価値観とは無関係に、みんなの持つ価値観が強く、空気を規定する。


では何が問題なのか。それは価値観が事実と食い違う価値を持つことがあることだ。
戦争は悲惨なことだ。だが、時に戦争を賛美する人々が現れ、その空気が他者を巻き込み、
醸成した空気が批判を許さなくなる。悲惨であるという事実から、価値観が乖離し、
人々の思い込みの中に埋没する。

現代であれば、それは科学的事実と価値観の乖離だろう。
科学的な事実はある種の普遍を担保する。生物は自然発生しないし、神の奇跡は今の所
証明されていない。同じく、金の実存性も科学的には証明されない。国という実体や、
個人という実存もまた科学的には証明されない。しかしながら、人々はこれらに価値を
見出す。その時、物事と価値観との間に絶対を持ち込むことで人々は、その価値観に
縛られていく。自らの思い込みによって、自らが縛られていくのだ。

コロナというウィルスによって人々は行動を制限されている。
それは一種の空気だ。人々はコロナという目に見えないウィルスの存在を絶対視し、
悪という概念を貼り付けた。そうして自分の内部にそのウィルスの存在を刻み込み、
ウィルスと自己同一化した。結果として、我々はコロナウィルスというものが指し示す
何か全てに操られる。そして、その数ヶ月前に芽生えた価値観は、驚くほどのスピードで
人々の間を感染し続けた。

結果として、実体ではなく我々は自己の内部のウィルスに蝕まれている。

とはいえ、コロナウィルス自体は実に科学的なものだ。その敵がどういうものであるか、
じわじわと明らかになってきた。わかるにつれて対策も打てる。現在の最善は、
とにかく人が人と接触しないこと。これに尽きる。

価値観は転倒した。いや、していない。
それが理由に、日本では株価が上昇し2万円台を回復した。意味不明である。
政府がETFなどで、株を買いまくっている。その金の一部でコロナ対策をすべきなのにだ。
それを知っている投資家は価格が上がることを予期して買いに出る、もしくは売りにでる。

世間ではコロナで移動するなという自体が続いているのに、そんな事はどうでもよいと、
金儲けを考えている人間たちが少なくとも、日本にはいるし、政治にも反映されている。
そうして、今日もまた不公平な金の分配が行われている。実に狂っていると思う。

もしかすると、政府の人間たちはこの期に人々の操作を強めるのかもしれない。
それはコロナの科学的な事実とは全く無関係だ。警察が街を徘徊し、暗黙の圧力を加える。
まさに共産圏の人々の生活である。10万円給付も、マイナンバーと口座をタグ付けるための
操作とも言える。政府の人間たちは、なんらかの利益がなければ金を配ることなどしない。

経済活動を阻害しておいて、国はろくに経済的なサポートをしない。それもまた
一般的な日本人の価値観であろう。少なくともそれで良いという人間たちが政治をやっている。
そして、その価値観を庶民は指を加えて黙認しているのだ。選挙に行きもしない人々は、
多額の税金を収める働きアリとしての人生が待っている。ある側面からみれば、本人たちが
感じてる幸福とは、アリに対して与えられたわずかなアメに過ぎないのかもしれない。

総体として駆動するシステムを考えた時、誰が悪いという話ではなくなる。
有責性など問えない。日本にある空気とはそういうものだ。そして、価値観は空気によって
汚染される。事実と価値は乖離し、その齟齬をまた価値観で覆っていく。

どんなに科学的な知見があろうとも、人々の行動を制限できず、
コロナは対策されないままに、1年くらいたってしまうのだろう。そして、五輪は行われず、
日本経済は取り返しがつかないほどにダメージを負ってしまうだろう。


人々は価値観を事実から発揮するべきだ。それが唯物史観でもある。
人がもつ生物としての欲求から派生した価値観を除けば、残りの価値観とはすべて妄想である。

人々は妄想の世界を生きる。ブランドや俗物的な価値とは、結局、偏執的な価値観の学習結果
である。そのような価値観に染まるには、繰り返された宣伝で十分である。人々はあらゆる
媒体から、宣伝という洗脳を受ける。そこに集約された資本がますます人々の妄想に火をつける。
人は自ら作り出した「価値観=妄想」によって、人生を縛り付ける。そういう事を平気でやるのだ。

くだらない事をまともだと思うのも勝手だが、残念なほど、事実とはむき出しである。

権威主義は、結局、自己肯定でしかない。自分の受けた教育、自分の味わった感覚、それを
自画自賛する事。それがいかにすごいかという宣伝。人々がその言葉を信じてすごいと思えば、
作戦は成功である。中身などは、途中から関係なのである。人々の妄想を駆動すればいい。

スノビズムは、結局、妄想の産物である。
事実をきちんと見つめれば、どんな価値観も、個別性があるだけなのだ。
個人にとっての価値は決定される。だが、普遍的価値を決定する事はなかなか困難だ。
生物的要請に従う価値観は、普遍であろう。人類普遍な価値は確かに存在する。

その一方で、文化的な価値とは、常に学習のたまものである。
価値は作り出すものであって、付与されるものではない。
何がすごいのか、かっこいいのか、素晴らしいのか。個人の好みでしかない。

そのような価値観のうちに、資本主義社会に従って生きるとは、どれほどか惨めだろう。
金に力があるのは、多くの人が幻想を抱くからだ。普遍な事などではまったくない。
それは赤ん坊に札束をみせればすぐに分かることだ。未開の土地の住人にパルプのペラペラな
物体をみせても同じことだ。いや、もっといえば、日本国内において、外国の貨幣をちらつか
せても同じ事だ。まさに価値観にすぎないとわかるだろう。

だが、我々は金という価値観から逃れるすべがない。少なくとも社会が構造化された世界において
それをすべての人間が利用する概念である限り、本質的な無価値は、有価値として扱われる。

結局、金とは暴力である。暴力という強制力として存在している。人が働くとはそういう意味だろう。
少なくとも日本においてはだ。本質的な仕事とは、金銭とは無関係である。

コロナ禍において、なお、金のために人々の群れの中に移動していくのならば、
まさにある種の価値観に囚われている。仕方がないのだ、金という暴力に絡め取られているのだから。

商店は、家賃が払えないと。非正規で解雇されてしまった人は、家賃が払えないと。
結局、自分が存在するという事を人質にとられていて、それをなんとか取り戻すためには、
労働を売らなければならない。その厳然たる事実。誰も助けてくれないという事実。

大いなる欺瞞があることに気がつくだろう。自己の存在は金に奪われているという事実に。
明日生まれくる新しい命は、資本主義社会では、すでに値踏みが始まっているのだ。
新しいドレイは一体どんな形で資本となる労働を提供してくるのだろうかと。

このどうしようもない事実もまた、「人生は素晴らしい」という価値観と衝突する。
そして、人々は逃避する。現実からの逃避なのだ。かけがえのない人生。個人という価値観で
肥満太りした現代人には、それ以外によりどころなどないだろう。裏側にあるどうしょうもない
事実から目をそらすには、ますます「人生は素晴らしく」なければならないのだから。

人々が欲望を満たせば満たすほど、世界は金であふれる。その金はまた、金を要求してくる。
人生とは、はじめから借金地獄なのだ。少なくとも資本主義社会では、そうなっている。
借金を返し続ける事で、なんとか生きながらえている。そのためならば、人々はうっかり殺し
までする。そのくらい、人々は欲望をドライブしてきたし、ドライブすることが素晴らしいと
いう文化に染まった。むろん、せいぜいここ50、60年くらいの価値観に過ぎないだが。

コロナ禍は、この価値観を転倒させるだろうか。相変わらず、金に拘泥する政治家たちが
社会を牛耳るこの社会で、コロナという自然は、人々の頭にこびりついた金という価値観を
変更できるだろうか。否応なく変更を余儀なくするのだろうか。


我々は、新しい価値観への岐路にいるのか、それとも既存の価値観の頑強さを目の当たりにする
だけなのか。コロナ禍は、それを明らかにしてくれるだろう。私はそう期待したい。
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