社会構造ー世代間搾取ー [思考・志向・試行]

本質的には日本は世代間闘争が起こってもいい。
なぜなら、今の60代が無能だった事からこの20年間、日本は経済成長しなかったからだ。
もう少し正確にいえば住専問題でつぶすべき金融機関等を残した事から、問題がスタートした。
当時のことなど、ほとんど誰も気にしてはいないが、借金を払えないという自体がおこり、
あまりに巨額だったために国が肩代わりをした。

その後、借金を作り出した連中がちゃんと責任をとったとは聞いてはない。
https://www.jacom.or.jp/noukyo/rensai/2014/06/140620-24618.php

どうやら、誰かしらが尻拭いをさせられているようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/住宅金融専門会社

このような不公平な行いから、経済はガタついていく。
緊縮に動いた90年代後半の経済。そこから、2000年に突入し、
景気後退当たり前化のようになった。

どう考えても、ここで対策を打つべきだっただろう。
村山内閣後、自民党政治が続く。
1996年から2008年まで、自民党は現状維持のために、いろいろなものを犠牲にした。
経済の立て直しというお題目のために、様々な法律が改正された。だが、根本的な
解決は果たされなかった。自民党は無能であった。

本来であれば、つぶすべき銀行や証券会社などを整理し、
債権を縮小するべきだったのだ。

土地転がしに失敗した金融は、今度は株投資や政府にたかるようになる。
国制度を変更させ、儲けるための道筋構築に奔走したわけだ。
それに加え、国民はちっとも良くならない景気にイライラし、雰囲気で小泉氏を支持した。
その結果、新自由主義的政策が既定路線化し、本当に効果があるのか不明なまま、
郵政の民営化を始め、非正規労働者の増加を決めた。

ここが大きなターニングポイントだった。竹中平蔵という悪魔のような輩による
労働者搾取の政策が大手を振ってあるき出したわけだ。これは今持って続く非正規問題である。
そしてずっとピンはねを続けているのだ。

経済が傾けば、人は財布の口をしめる。既に正規社員であった現在の60代〜70代は、
自分たちの取り分を確保することだけを考えた。政治はいかに税金を自分たちの事業に
投下させるかだけが問題となった。

現状維持のため、新入社員を減らした。その補填は非正規労働者に置き換え、
IT化による効率化でなんとかやり過ごしてきた。

結局、今の老人たちの近視眼的な社会運営によって、次世代は大きな痛手を受けた。
後人を育てる事を放棄し、自分たちの利益確保に忙しい人々。結果、若者たちはどんどんと減った。
貴重な人材たちは生活がままならないまま、非正規労働に従事し続けている。

そしていよいよ、そのような社会を作った老人たちが労働せざるを得ない社会にも
なってきた。自分たちで作り出した非正規やバイトの穴埋めを足りない年金を補填するため、
社会的なつながりを求めるために、老人たちが仕事を継続することになった。

ずっとためたはずの年金は今、安倍政権によって株価維持のために投下され続け、
国内外の投資家の懐に消えていく。ふざけるな!!である。

現状で、売国奴とは安倍政権である。操り人形であろうとも、彼らが意思を発揮する事で、
物事は変えられるが、決してそんな事はしない。ひたすらに金をばらまき、幼児的自尊心を
満足させるためだけに生きる愚昧な人々。どれほど愚弄しても、言い切れない程度に愚かな
政治である。

保守はもっと怒るべきだろうが。

こういった中で、大きな図式として、若者たちは老人たちの世話をする存在となってしまった。
こうなるとカウンター的な思想が蔓延するもの無理はない。国が「福祉的」になるほど、
若者がアオリをくらう。それを理解している若者の行動パターンはいくつかある。

一つは現状の社会組織に溶け込むことだ。正規社員として狭き門をくぐり、そこにしがみついて
生きるという事。法律はまだ正規労働者の雇用確保する。それは公務員と地続きだからだ。
この法律がきつすぎるせいで、日本経済が停滞したことも忘れずに付記しておく。

もう一つは、アウトロー的に生きることだ。特殊な才能に依拠して新しい時代のマネタイズを
利用することである。ユーチューバーやブログ、ECサイトなどは時代が養成したアウトローだろう。

更には、自分たちだけの事だけを考えるという思想に染まることだ。社会が自分たちを搾取
しようとするならば、その枠組を変える事に与し、その枠組からはみ出ようとする。そのためには
まず国からの開放を考えるという志向。つまりリバタリアンだ。

リバタリアンは過度に自由を信奉する。国という枠組みも気にしない。その一方で、
自己利益最大化を試みようとする。そのためには資本を存分を運用しようとする。
近年におけるGAFAなどのテックは、若者が情報産業の担いでとなり、資本が投下された
結果として、派手な産業になった。その根本は、金を稼ぐことを是とし、利益を最大化
するために頭を利用する事だった。

今のGAFAの台頭は要するに世代間闘争だったと言える。彼らは既存のシステムとは違う所で
巨大なマーケットを作り出したわけだ。そして既存システムを侵食し、明らかに旧システムと
新システムという別のものを構築した。


日本ではどうだろうか。大人たちは、若者を執拗にコントロール下に収めようとする。
管理教育が先鋭化していく。中学校での素行が大人になった時にまで影響する。そういう仕組
づくりをしようとしている。それは一見すると正義に基づく論理である。

どういうことか。努力をちゃんと評価しよう。そういう論理である。
心がけで出来る事を評価項目に入れるとすると、日頃の生活態度を評価することになる。
それは質ではなく、量の評価という事だ。つまり、他者より多く時間をかけたかどうかである。

一見するとまともな議論に見えるが、かなり異常であると言わざるを得ない。
なぜなら、努力賞は所詮、努力賞なのだ。能力とは別のものといえる。

この評価軸は、様々なところに波及していく。努力が能力アップにつながるのではなく、
命令に如何に従うかという事にすり替わっていく。教師のいう事を良く聞くことが評価
されるのであれば、命令に従うものが評価される、そしてそれが「努力」という名前を
帯びるわけだ。問題を起こさない人、そういうのが良いという価値観に染まることになる。

すると、高校の時の素行が評価され、その高校に行くのに中学校時の素行が評価され、
小学校の時の〜と逆向きに遡及していく。同じく未来へ向かっても、かつての素行がずっと
デジタル化され保存されていくならば、過去がずっとついてまつわることになるだろう。

結果として、どうなるか。失敗する事、迷惑をかけることは人生の損という事になる。
すると空気を読める人間は、予定調和を乱すことを嫌うようになるし、予定調和を乱す人間を
「敵」とみなすようになるだろう。

こうして、社会システムに従順な人間が生成されていく。多かれ少なかれ日本ではこれを
やらないと生き延びられない。でなければ、組織からはじかれ、いじめにあったり、不愉快な
思いをすることになるからだ。

では、こんな風に育てられた人間はどうなるだろうか。とてもじゃないが、イノベーションを
起こせるような人間にはならないだろう。いやむしろ、イノベーションを嫌う人間になるだろう。

コントロール可能な評価軸として、ルール遵守などを用いて人を縛ると、社会は急速に
窮屈なものになる。失敗を許されない社会は、みようによってはディストピアであろう。
日本は今、そのディストピア建設の最中だと言える。

この日本からGAFAに相当するものが生まれないのは当然の帰結である。
イノベーションとは既存の構造からみたら「敵」なのだから。その敵を生み出す人間をマイナス
評価する社会で、どうしてイノベーションなど起こるものか。個々人の能力という問題ではなく、
社会構造上の問題なのだ。

平和の時代とは、要するに過剰な秩序を求める時代である。過剰な秩序とはコントロールである。
それは頭脳の夢だが、身体の夢ではない。そして、我々の幸せとは常に身体から発生する。
身体の夢を叶える事が幸せなのだから、頭脳の夢を叶えようというコントロール幻想は、それが
たとえ成功しても、人々を不幸にするだけである。

我々はもう少し賢くならないとだめなのだ。
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