一種の環境適応ー金持ちの傾向ー [雑学]

衣食足りて礼節を知るらしいのだが、どうもそれだけじゃないらしい。

金というものが流通して、およそ数千年が立ったところだ。
未だに遺伝レベルの変遷は際立っていないことだろう。だが、これからは分からない。

思うに、現代は人が溢れている。そして、分業が進み、他人が実際に人なのかすら
わからなくなってきている。つまり記号としての他者という認識が進んでしまったわけだ。
こうなると、そのような他者は、他者を資源とみなすことになるだろう。

そして、現代ではそのように振る舞える人間に有利な時代といえる。
一昔前ならば、そのような態度をとれば村八分になった人たちが、
むしろ、金を多く得られる状況なのだ。そしてさらにいえば、金持ち争わずという
文句も虚しく、金持ちは基本的に「嫌なヤツ」であるといえる。

これは美人が性格がいいという話と似ていることだ。
特定の立場からみれば、基本的に力ある奴らは嫌なヤツに決まっているし、
その意味では、金がある人達は嫌な奴なのだ。

そこまでいうなら、証拠をみせろって?

ならば、証拠をあげよう。
https://gigazine.net/news/20190318-money-costing-your-humanity/
https://gigazine.net/news/20200224-mercedes-bmw-own-men-assholes/

一つは金持ちになると、他者への共感や倫理観が失われてしまうという話。
もう一つは、高級車に乗っているやつは嫌な奴だという話である。

どちらも納得である。基本的に金持ちは鼻持ちならない。
その彼らが金持ち同士でつるむのは仕方あるまい。そして、庶民は金持ちとは仲良くなりようも
ないのだ。

おそらく、庶民の方が本来は生き延びやすい性質だったはずだ。
それは向協力行動を取りやすいからである。本来、人も動物であるので、協力的である
個体が長く生きられたのだ。それは今も継続中ではある。

ところが、金を儲けるというポイントにおいては別だ。金はむしろ、独断的な人や
我の強い人間のところに集まる。利益を確保しようという意思が強くなければ金は
集まらないからだ。そういう人間は本来的には、嫌がられる人々である。しかし、
近代のような金によって社会が駆動される世界では、むしろ生存率を上げるに違いない。

つまり、嫌な奴、嫌なやつになれる才能をもつ個体が、金持ちになる可能性がたかく、
そのような個体の人間たちが子孫を増やす傾向があるとしたら、人間社会はますます
非共感的な人間たちで溢れていくだろう。

今は、もともとのプロトタイプの人間が多くいるのだから、そこから搾取すればいい。
だが、ときが進むほどに、搾取する人間たちは減ってくる。また天変地異が起これば、
協力的個体が有利になる。金持ちは平時にしか活躍できない人間たちだからだ。

およそ、人間社会が金を基盤に、金への適応力によって進化するならば、そして、
その適応をますます先鋭化させていくならば、いざ、環境が変わった時に自滅するのも
また過剰適応した人々であろう。その時こそ、優しい人間たちが生き延びるのだ。

現代は仕方がない時代である。平和が続けば金儲けに集中できる個体が有利である。
しかし、本来的な自然への対処や共同体では、他者と協力できる人間が有利であった。
今後、社会がAI社会へと変貌するなかで、人々に要求されるのが、かつてのような良心的
倫理的な振る舞いなのか、それともがめつい競争を勝ち抜く、サイコパスのような心境なのか。

これから数百年、数千年にわたる攻防によって定まっていくのだろう。

ともあれ何が言いたいのか。金持ちはもっと謙虚になれということだ。
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社会構造ー世代間搾取ー [思考・志向・試行]

本質的には日本は世代間闘争が起こってもいい。
なぜなら、今の60代が無能だった事からこの20年間、日本は経済成長しなかったからだ。
もう少し正確にいえば住専問題でつぶすべき金融機関等を残した事から、問題がスタートした。
当時のことなど、ほとんど誰も気にしてはいないが、借金を払えないという自体がおこり、
あまりに巨額だったために国が肩代わりをした。

その後、借金を作り出した連中がちゃんと責任をとったとは聞いてはない。
https://www.jacom.or.jp/noukyo/rensai/2014/06/140620-24618.php

どうやら、誰かしらが尻拭いをさせられているようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/住宅金融専門会社

このような不公平な行いから、経済はガタついていく。
緊縮に動いた90年代後半の経済。そこから、2000年に突入し、
景気後退当たり前化のようになった。

どう考えても、ここで対策を打つべきだっただろう。
村山内閣後、自民党政治が続く。
1996年から2008年まで、自民党は現状維持のために、いろいろなものを犠牲にした。
経済の立て直しというお題目のために、様々な法律が改正された。だが、根本的な
解決は果たされなかった。自民党は無能であった。

本来であれば、つぶすべき銀行や証券会社などを整理し、
債権を縮小するべきだったのだ。

土地転がしに失敗した金融は、今度は株投資や政府にたかるようになる。
国制度を変更させ、儲けるための道筋構築に奔走したわけだ。
それに加え、国民はちっとも良くならない景気にイライラし、雰囲気で小泉氏を支持した。
その結果、新自由主義的政策が既定路線化し、本当に効果があるのか不明なまま、
郵政の民営化を始め、非正規労働者の増加を決めた。

ここが大きなターニングポイントだった。竹中平蔵という悪魔のような輩による
労働者搾取の政策が大手を振ってあるき出したわけだ。これは今持って続く非正規問題である。
そしてずっとピンはねを続けているのだ。

経済が傾けば、人は財布の口をしめる。既に正規社員であった現在の60代〜70代は、
自分たちの取り分を確保することだけを考えた。政治はいかに税金を自分たちの事業に
投下させるかだけが問題となった。

現状維持のため、新入社員を減らした。その補填は非正規労働者に置き換え、
IT化による効率化でなんとかやり過ごしてきた。

結局、今の老人たちの近視眼的な社会運営によって、次世代は大きな痛手を受けた。
後人を育てる事を放棄し、自分たちの利益確保に忙しい人々。結果、若者たちはどんどんと減った。
貴重な人材たちは生活がままならないまま、非正規労働に従事し続けている。

そしていよいよ、そのような社会を作った老人たちが労働せざるを得ない社会にも
なってきた。自分たちで作り出した非正規やバイトの穴埋めを足りない年金を補填するため、
社会的なつながりを求めるために、老人たちが仕事を継続することになった。

ずっとためたはずの年金は今、安倍政権によって株価維持のために投下され続け、
国内外の投資家の懐に消えていく。ふざけるな!!である。

現状で、売国奴とは安倍政権である。操り人形であろうとも、彼らが意思を発揮する事で、
物事は変えられるが、決してそんな事はしない。ひたすらに金をばらまき、幼児的自尊心を
満足させるためだけに生きる愚昧な人々。どれほど愚弄しても、言い切れない程度に愚かな
政治である。

保守はもっと怒るべきだろうが。

こういった中で、大きな図式として、若者たちは老人たちの世話をする存在となってしまった。
こうなるとカウンター的な思想が蔓延するもの無理はない。国が「福祉的」になるほど、
若者がアオリをくらう。それを理解している若者の行動パターンはいくつかある。

一つは現状の社会組織に溶け込むことだ。正規社員として狭き門をくぐり、そこにしがみついて
生きるという事。法律はまだ正規労働者の雇用確保する。それは公務員と地続きだからだ。
この法律がきつすぎるせいで、日本経済が停滞したことも忘れずに付記しておく。

もう一つは、アウトロー的に生きることだ。特殊な才能に依拠して新しい時代のマネタイズを
利用することである。ユーチューバーやブログ、ECサイトなどは時代が養成したアウトローだろう。

更には、自分たちだけの事だけを考えるという思想に染まることだ。社会が自分たちを搾取
しようとするならば、その枠組を変える事に与し、その枠組からはみ出ようとする。そのためには
まず国からの開放を考えるという志向。つまりリバタリアンだ。

リバタリアンは過度に自由を信奉する。国という枠組みも気にしない。その一方で、
自己利益最大化を試みようとする。そのためには資本を存分を運用しようとする。
近年におけるGAFAなどのテックは、若者が情報産業の担いでとなり、資本が投下された
結果として、派手な産業になった。その根本は、金を稼ぐことを是とし、利益を最大化
するために頭を利用する事だった。

今のGAFAの台頭は要するに世代間闘争だったと言える。彼らは既存のシステムとは違う所で
巨大なマーケットを作り出したわけだ。そして既存システムを侵食し、明らかに旧システムと
新システムという別のものを構築した。


日本ではどうだろうか。大人たちは、若者を執拗にコントロール下に収めようとする。
管理教育が先鋭化していく。中学校での素行が大人になった時にまで影響する。そういう仕組
づくりをしようとしている。それは一見すると正義に基づく論理である。

どういうことか。努力をちゃんと評価しよう。そういう論理である。
心がけで出来る事を評価項目に入れるとすると、日頃の生活態度を評価することになる。
それは質ではなく、量の評価という事だ。つまり、他者より多く時間をかけたかどうかである。

一見するとまともな議論に見えるが、かなり異常であると言わざるを得ない。
なぜなら、努力賞は所詮、努力賞なのだ。能力とは別のものといえる。

この評価軸は、様々なところに波及していく。努力が能力アップにつながるのではなく、
命令に如何に従うかという事にすり替わっていく。教師のいう事を良く聞くことが評価
されるのであれば、命令に従うものが評価される、そしてそれが「努力」という名前を
帯びるわけだ。問題を起こさない人、そういうのが良いという価値観に染まることになる。

すると、高校の時の素行が評価され、その高校に行くのに中学校時の素行が評価され、
小学校の時の〜と逆向きに遡及していく。同じく未来へ向かっても、かつての素行がずっと
デジタル化され保存されていくならば、過去がずっとついてまつわることになるだろう。

結果として、どうなるか。失敗する事、迷惑をかけることは人生の損という事になる。
すると空気を読める人間は、予定調和を乱すことを嫌うようになるし、予定調和を乱す人間を
「敵」とみなすようになるだろう。

こうして、社会システムに従順な人間が生成されていく。多かれ少なかれ日本ではこれを
やらないと生き延びられない。でなければ、組織からはじかれ、いじめにあったり、不愉快な
思いをすることになるからだ。

では、こんな風に育てられた人間はどうなるだろうか。とてもじゃないが、イノベーションを
起こせるような人間にはならないだろう。いやむしろ、イノベーションを嫌う人間になるだろう。

コントロール可能な評価軸として、ルール遵守などを用いて人を縛ると、社会は急速に
窮屈なものになる。失敗を許されない社会は、みようによってはディストピアであろう。
日本は今、そのディストピア建設の最中だと言える。

この日本からGAFAに相当するものが生まれないのは当然の帰結である。
イノベーションとは既存の構造からみたら「敵」なのだから。その敵を生み出す人間をマイナス
評価する社会で、どうしてイノベーションなど起こるものか。個々人の能力という問題ではなく、
社会構造上の問題なのだ。

平和の時代とは、要するに過剰な秩序を求める時代である。過剰な秩序とはコントロールである。
それは頭脳の夢だが、身体の夢ではない。そして、我々の幸せとは常に身体から発生する。
身体の夢を叶える事が幸せなのだから、頭脳の夢を叶えようというコントロール幻想は、それが
たとえ成功しても、人々を不幸にするだけである。

我々はもう少し賢くならないとだめなのだ。
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科学とはー解体ー [思考・志向・試行]

科学とは何か。

キリスト教的文脈でいえば、神の法則であり、神の声だ。
現代ではサムシングと言われる形で、この手の話は解釈され、
「インテリジェントデザイン」などと呼ばれることもある。

要は世界を神が作ったという言説をやんわり言い換えただけなのだが、
科学の本場であるヨーロッパでは、科学思想とは神の法則を導くものとみなされている。
もしくは暗に仮定されている。

一方で、我々が科学をするときは、むしろ無味乾燥な、価値中立的なものとして、
科学は日本の文脈に登場する。神とは無縁の存在、むしろ対比されたものとして科学が
解釈されている。だからこそ、「科学的にいえば」という言い方がなされるわけだ。
科学的に証明されているというのは、物語ではなく事実として証明されているということと
同値という事だ。もちろん、それは一つの解釈に過ぎない。

科学的という言説によって、あたかもお墨付きを得られると考えている人々は多い。
そのようなイメージによって科学が駆動されているかのように。だが、実践では、
多分に人の考えというものが解釈に介入する。どんな実験結果も人の頭を通り抜けない
限り形として現れないというだけをみても、科学が客観的で実存的であるというのは
言い過ぎであるとわかろう。

では、科学の本質は何か。それは要素限定的言明である。
違う言葉でいえば、要素還元主義だ。デカルトが志向した考えである。
結果として、科学はあらゆるものをその要素によって説明をしようとする行為といえる。
水であれば、H20という分子で、塩であればNaClという物質で説明しようとする。
現象や物性を、それらを構成する要素によって解釈するというのは科学の一論法である。

ところが、我々は名指しした現象自体を知りたい事が多い。
たとえば、恋。恋という現象がどうして生じるのか。文学的にも、社会学的にも、生物学的にも
説明が可能であろう。脳科学的にいえば、恋とは脳における現象という事になる。

そこで脳における恋が生じている際の挙動を調べることが科学的であるかのように考えられる。
だが、果たしてそれで恋が分かるというのだろうか?

正確にいえば、それは恋という事象の物性的基盤を調べるという事であって、決して「恋」を
調べることではない。そして、恋の要素分解とは、物性に帰するだけではなかろう。心的要素
もあるだろう。化学物質だけが恋の要素ではないのだ。

ましてや、恋という状態を脳という物性の性質説明で、何かをわかった気がする人はまれだろう。
むしろ、ロミオとジュリエットの物語でも読んだ方が、百倍も恋を理解するのではないか。
結局の所、科学における要素還元は各要素を調べ上げ、それら同士の関係性を調べ上げることで
あるが、それによって、もともとの総体であった現象や物性を説明するわけではないのだ。

それらは現象や物性に潜む要素の性質であって、総体の説明ではない。
同様に、脳の機能を神経細胞で説明するのは、一つの見方に過ぎず、決して脳機能自体の説明
ではないと言える。あくまで調べているのは神経細胞自体なのだ。かつておばあさん細胞と
いう思考実験があるが、まさにこのことだ。H2Oを調べても、水自体の挙動や性質は見えてこない。

もちろん、要素を理解する事で全体のとある傾向を知ることはできる。しかし、知りたいものの
対象が全体であるならば、全体をみる必要がある。それが科学には苦手なのだ。

もし、脳機能を観たいというならば、脳がその機能を発揮している状態を計測する他無い。
その機能を発揮している状態とは、端的に日々の生活や仕事であろう。そのような状態における
脳の活動をみることで始めて脳機能を観たといえる。

だが実際には脳をそのような実際に使っている状態で計測する事はできない。
大抵は実験室や装置に押し込められ、そこで無味乾燥な刺激提示によって活動を計測されるに
過ぎない。そして、それらのデータは神経活動自体であって、脳の機能を測っているわけではない。

つまり、脳の機能という対象を知りたければ、脳の機能が発揮されている状態そのものを観察
する必要があるということだ。水を要素還元してH2Oにする事で見えてくるものがある一方で、
水が温度によって相転移する事は明らかに出来ない。同じく神経細胞に還元しても、脳が全体と
して何をしているのかは不明瞭なままである。ましてやどうやって機能を実現しているかなど、
謎でしかない。

むしろ、脳機能が果たされているのが実際の生活の場であるというならば、人同士の作り出す
総体、小さいものであれば共同体、大きなものであれば国というものに対置して、人を眺めた
ときに始めて脳機能が見えてくるともいえる。脳機能の多くは、世界を認識するためのもので
その世界とはヒト社会の事であるからだ。そしてヒト社会での振る舞いを決定するのが脳なのだから。

すると社会を知ろうとしてヒトの挙動を調べたときに始めて、脳機能なるものがあぶり出されること
になる。このようなプロセスを経てようやく、脳機能の主要な側面を知ることになるのだ。

科学の要素還元主義は結局、中身の要素について詳しくなるだけに過ぎない。
そして、それは知りたいものを切り刻み、個別の要素を知るという作業に過ぎない。

生命を知りたいという欲求は、生物を知るべきであって、分子やタンパク質を知る事ではない。
分子生物学の人間たちは、この当たり前をどこか忘れている。DNAはひとではない。生命でもない。
命という現象を支えているパーツに過ぎないのである。

科学における還元主義が万能に見えたのは、物理学の大成功によるものだろう。
次々に小さなものに目を移していった結果、多くの成果を上げた。だが、人を知るという作業に
おいて、小さな物にフォーカスするという行為は、木をみて森を見ずという、まさに古人の警句
そのものになる。

科学的に証明されているとか、科学の解体による理解とは、ひとつの見方に過ぎないという事を
頭の片隅においておくのが賢明だろう。
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生きることー「希望のしくみ」より [思考・志向・試行]

養老氏とスマナサーラ氏の対談本であり「希望のしくみ」をパラパラめくってみた。

結局、日本人はいつのまにか共同体を失い、居場所をなくしてしまったらしい。
仕方がないのでそれを家族に求め、それで安心する人々で溢れかえってしまった。
自由とは実に不自由なのだ。結局、誰かの真似をする他無い。

人生とは、希望の事だ。
では希望とはなにか。

決して大金が手に入る事じゃない。
むしろ、金が入るということは何かしでかしているわけで、その精神的対価は大きい。

とある小学生が坊さんに聞く。「人生の意味とは?」
その坊さんはいう「まずは自分が楽しみなさい。そして、周りの人を楽しませなさい」と。

およそこれで十分であろう。人生の意味とはそういうものだ。
そして、意味を与えるのは自分の信念ではなく、神でもなく、周りとの関係である。
それがサルとして生まれた我々の本性なのだ。個人で完結する事ではないのだ。

多くの人は行為に見返りを求める。その感性がそもそも可笑しいのだ。
自己犠牲というのは本来的にはあり得ない。自分がやりたいからやっているだけのこと。
他者をなじる人はよく覚えておくことだ。その行為は自己満足に過ぎないのだと。

例えば、子供に勉強しろと強制する親。よくあるのは子供のためという言い訳だ。
そうじゃない。この場合、親の願望を子供に押し付けている。この欺瞞が子供には
気持ち悪い。これは旦那にとっても同じこと。家事をやらせているという事がめぐって、
損得の感情を生み出す。貸しがあるかのように感じた旦那は家庭から遠ざかるだろう。
居心地が悪いのは当たり前だからだ。

自分が犠牲になって良いことなどなにもない。必要なのは他者への貢献感だけだ。
それ以上でも以下でも、おかしなことになる。日本ではすぐに貢献というと生活のあらゆる
面をコミットする事を要求する。それは変だ。個人ができる事をやりさえすれば、それで
十分である。個々人のさける労力で他者へ貢献すればいい。そういう事が希望である。

昨今は、とにかく損得で物事を考える人々が増えた。それは多分に、要求過大だからだ。
これくらいなら、という要求は案外困難である。ところが頼む方は簡単なために、いくらでも
頼もうとするし、それが金さえ与えれば実行されると思っている。むしろ金がいくらあっても、
実行されない事の方が多いというのにだ。

知恵は金では買えないという当たり前の事実を日本人は忘れてしまった。
ましてや、真なるイノベーションには、金など関係ない。むしろ思想こそが重要だ。
それはどう生きるかまでを含む事になる。

日本人はとかく大事なことを他者に預け過ぎているのだ。
そして、世間がいう「正しい生活」を過ごすことで心の安寧を図ろうとする。それが
どれほど悲惨でも、それを維持する事に全力を注ぐ。だがそれは金ではどうにもならない。
ただひたすらに時間をかけてコミュニケーションし、関係を育てていくしか無い。

希望がないと言われて久しい日本。
でも、人々がそのなけなしの良心をほんの少し出して、周りを楽しませたら、
それで十分に豊かな国になるはずなのだ。

それに対して大きな対価を求める人間ばかりになってしまったのが最大の問題なのだが。

結局、世の中なの偏執なまでの不平不満とは、自分への見返りが自分の想定しているものより
小さいところからスタートする。むろん、不正なことや悪についての不平は公にすべきである。
だが、実際の不平不満は大抵、自分の扱いが軽いという事程度の事に過ぎないのだ。
自分をきちんと処遇してもらいたいという感覚。結局、自分の存在を肯定してもらいたい。
ただそれだけなのだ。

ならば、まずは他者に善を施すしか無い。それをすっかり忘れている日本人たちなのだ。
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経済格差における壁 [雑学]

昨日書いたものを読み直して、間接的な悪について断罪していた。
その相手は、大企業や官僚たちについて述べていたので、つい口調が強くなっていた。

一方で、非正規でなんとか食いつないでいる人々もいる。
そういう人々にとって、仕事は違う意味で命綱だ。というか命綱にさせられている。

資本主義の基本は、貨幣経済をベースに拡大再生産をすることだ。
そして、資金とは利子によって積み増される。つまり未来を食いつぶすことである。
丁寧に説明する気はもうない。前の記事やどこぞのサイトなりで調べてほしい。

この仕組では、未来の富を手元に引き寄せる事を利用している。そして、それは
一般に借金という名で知られている。カネの方からみれば、それは富の拡大であるが、
労働の責務の発生でもある。ここまでは仮に許容したとしよう。だが、利子はだめだ。
未来のカネを借りて、そこに利子を付けるのは当然かのよう見える。それは社会が
借金をし続けるという前提において始めて成立する。一言でいえば、拡大再生産である。

人々が大きく減るような事が起こると、一度資産はちゃらになる。偏りが減る。
その後、人の数も増大する。経済が安定し生活しやすくなれば、人の数が増えるのは当然だ。
人の数が増えていくフェーズでは、借金は成り立つし、利子も成り立つ。なぜなら、カネの
量は誰かが借金をすることで増えるからだ。カネを借りる側は、人が増えるので購買する人間
の数が増えると予想できるから借りるのだ。投資分を回収できるだろうと。そこには、労働力
を一定の価格で買えるという設定が必要である。

そこで有効なのが年功序列賃金だ。こうしておけば、賃金は安く抑えられる。いずれあがると
いっておけば当初はあげなくていい。そうして労働力をめいっぱい引き出す。そのためには、
早めに一人前にする必要がある。だから何も知らんやつでも、地頭がよく、従順なやつを大量に
必要とした。金の卵というやつだ。

こうして日本人は戦後に、安い賃金で兵隊マインドをもって、目一杯働いた。そこでは、
安い労働力があり、人口が増えるタイミングであり、多くの人は家財道具を求めていた。
マスプロダクトが成立する基盤があった。それを資本主義が支えていたわけだ。借金して、
投資するほうが儲かる。多くの労働者は、田舎の次男坊や三男坊である。それらが
都会へと移動して今の日本社会を形成した。

このマインドにおいては、仕事はするほどに儲かった。素早く大量に生産する事が競争力
であったし、そうやって市場に商品を投下すれば、みんな一心不乱に消費した。先ごろの
中国と同じである。見かけの豊かさに人々は飢えていたからだ。

もともとの大家族が分裂し、家族の数が増えることで、一人あたりの消費財はずっと増えた。
それが供給を支えていた需要の中身だ。土地もみんな買い求めた。先祖伝来の土地に住めない
不幸を、都会ぐらしの幸福と言い換えて、都市郊外に家を買った。その時はまだ成長フェーズ
だったからだ。

だが、みんながそれをやったらどうなるか。資源は有限なのだ。日本の土地は有限だ。
一方で、カネは理論上、無限に増える。だから供給は滞り、需要はうなぎのぼりになる。
結果はインフレである。とりわけ土地はインフレしやすいのだ。なぜならみんなが欲しがる
からである。それは経済が回っていて、カネが増えるほど、人々の手元にカネが増え、家や
土地を欲しがるという構造なのだ。そうして家や土地は高騰する。

じゃあ、そのカネを紡ぎ出せばいいと考え始める。賃金の高いところに就職することが大事だと。
これが就職の競争となり、受験の競争となった。虚しいことだ。考えてみれば、みんなが土地や家
を求めて生きる人間になった結果である。

ともかくもカネを得ようと競争をし、その競争の勝者になりたがった。その結果はどうか。
誰も買えないくらい高騰し、バブルは弾け飛んだ。借金を返せなくなったわけだ。得られるはず
の未来の儲けは、みんなが買えなくなった段階ですでに無くなっていたというわけだ。
これを政府が肩代わりし、その後、その債務の返済をしたはずだがどうなっているのやら。

カネを多く得ようという活動は人々を労働にしばりつけた。多くの残業を生んだ。その結果、
カネは対して得られなくなり、人々は数を増やすのが困難になった。子供を育てるのにかかる
コストも急激に増えた。結局、経済がブレーキなって子どもたちは減った。それはつまり、
将来借金をしてカネを増やす人間を減らしたということだ。

こうして、日本はカネを生み出せなくなった。当然である。人が減れば需要は減る。そのような
フェーズにいつかは到達するものだ。これは当然の帰結である。資本主義は資源が有限であれば、
必ず停滞する。そしてカネの回転が停滞すれば利子は返済不能になり、社会が破綻するのだ。
資本主義とは、人口オーナス期にしか成り立ち得ない仕組みなのだ。

その後、どうなるのか。簡単だ。人の数がへれば、借金は減りカネは減る。カネが減れば、
売上が減る。売上がへれば、需要も減る。供給力はあっても、人々の間にカネがなければ
始まらない。でも、企業がやるのは、コストの削減である。ものが売れないなら、商品の
コストを下げればいい。そのもっともたるや人件費である。仕事の能率をあげ、そのために
人を減らした。そのピークポイントがミレニアムであり、世代としては氷河期世代である。

この世代にカネを賃金として与えなかったために、その下の世代は更に減り、さらなる需要低下
を招いた。そしてそれが延々と20年も続いたのだ。普通であれば、経済は終わっているはず。
資本主義の原理からいえば、拡大再生産ができなければ、破綻する。だが破綻していない。

なぜか?

実に簡単だ。誰かが借金したのだ。誰が? そう政府である。需要が減ったことの反動として
現状維持をするには、カネを誰かが供給する他ない。そのカネとは政府の借金から来た。
政府が国債を発行し、市中の銀行にばらまき続けたのだ。もしくは国の特殊法人から、
カネが民間に公共事業や入札という形で流れ続けた。

その一方で、人々の給与は減り続けた。売上を理由に企業はコストをカットし続けたからだ。
カットしたコストは、金融資産に回す。企業体自体がすでに消費財の供給では売上が確保
できないからだ。金融資産を手にして、企業は売上を確保しようとしている。その売上の
中身とは、株の売上や投資信託等だ。土地を転がしたりして、儲ける。なにしろ工場をつくって
も、みんなが買ってくれないわけで、当然ながら、そうなる。

庶民が騙されているのは、国の借金は誰かが使っているということだ。それを好き放題できるのは
政治家と官僚たちであり、そのおこぼれを預かるために大企業などは彼らを接待する。そうして
規制というやり方や、キックバックというやり方で仕事をせしめている。国だよりなのだ。

こうして、現状維持をしようとやっきになった企業体は、国のカネを頼りにした。
これが今の安倍政権支持なのだ。安倍がどんなに阿呆でも、どんなにくだらん人間でも、
現状維持をすすめている限りにおいて、彼らは支持するのだ。

要するにこれはシステム的欠陥によるものなのだ。なぜ非正規社員が世にあふれ、パソナのような
ピンはね会社が儲かるのか。それは人の数が増えなくなったこと。これにつきるのだ。
つまり資本主義のシンプルな教義、拡大再生産が滞ったからだ。

こうなった以上、非正規社員たちは、仕事があるだけまし。というだろう。
多少ブラックだろうがなんだろうが、食い扶持が大事であって、仕事に大義などいらん。
そうなるのは当然だ。

同様に、官僚たちだって、安倍がどんなにくだらんやつでも、自分の生活を維持するためには
汚いことだってやるほかない。良心が咎めたら、仕事をやるしかない。やめられる勇気は
非常に尊い。ほとんどの人は出来ない勇気あることだ。悪にしか思えない仕事を生活のためと
割り切ってやる方が、普通だからだ。

非正規社員が、しょうもない仕事でもやめずにやり続けるのは、生きるために必要だからだ。
都会において、かかる費用を稼ぐにはそれなりの苦労がある。そして、その苦労をしている
ところで、国は勝手に始めた国債という借金をたてに、増税を行った。そう、借金のつけを
ほんらい引き受けるべき人間たちが責任逃れをしているからだ。かつて未来の富を使った
人間たちである。今の老人だ。

今の老人たち。彼らは知らずと、国がかってに破綻するはずのものを借金で支えたのだ。
彼らの責任を放棄した。そしてその責任を今の日本全体が受けている。それをなお、拡大
している。

くだらん仕事が生まれるのは、資本主義が国家に操作されたためだ。簡単に言えばそうなる。
悲惨な人生を送っているのは、人口オーナス期に生まれてしまったためだ。
資源は有限なのに、カネは無限になってしまったからだ。結局そういうことなのだ。

国は記号としての労働者を助ける。なぜなら彼らが「資源」だからである。
だが、国は個人としての人は助けない。国に貢献しない存在は本音をいえば迷惑だからだ。
それを安倍政権は見事に顕にした。アホらしいほど見事にだ。だから、弱者を切り捨て、
富者をますます助けるように政策を変更し続ける。

日本国民は現状日本に怒らなければならない。
その一方で、現状の生活をやめねばならない。今の生活を<豊か>だというのならば、
その豊かな生活をやめるべきなのだ。資本主義という仕組みは人口増加時にしか有効じゃない。
資源が無限じゃなければ有効じゃない。これが原理であって私の見解などではない。原理的に
絶対、確実に、資本主義は息詰まるという話なのだ。それは、人口が永遠に増えないし、
資源が永遠に確保できないからである。おとぎばなしでもないんでもない。

非正規社員で歳をとり、明日の仕事がわからない人々がいる。
大局的にみれば、人は減っているために仕事はあるのだ。だが、カネが回らない。
カネが回らないから、ポストをつくって雇うことが出来ないのだ。

カネは老人たちと企業がもっている。彼らがカネを手放すとき、ようやく賃金があがる。
老人はもはや増えすぎた。それが日本なのだ。自らが生産しない人間たち。生物として
破綻しているのだ。生き物として不自然なのである。不労所得の人間も企業も老人も。
そして、そういう人間にカネが集まる仕組みー資本主義ーこそ不自然なのだ。

この状態があと30年も続くはずがない。もう破綻への序章はすぎた。これから
転機を迎えるのだ。早ければ、オリンピック後である。そのときに我々は何をすべきか。
カネは信用してはならない。信用とは人である。そして生産手段である。それ以外を
信じちゃいけないのだ。
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乗り越えられない壁ー生活ー [思考・志向・試行]

仕事がいきなりなくなるとなったら、あなたはどうするだろうか?
きっと、開口一番「困る」という事だろう。その理由はひとえに金だ。

金は、金と書くがこれは語弊があるので、カネと言い換えよう。
もはやカネは金ではない。金属であった頃の名残はない。今はただの信用に過ぎず、
妄想的存在である。人々がそれがあると信じるから存在しているもの。それがカネだ。

さて、経済社会では、このカネがものをいう。とにかくこれがないと生活が成り立たない。
そういうふうに社会が組み上がってしまった。すると人々の欲求はこれをどうやって、
手にいれるのかである。

かつてはカネが今ほどいらなかった。モノがさほどなかったからであり、モノが大量に
生産できなかったからである。だが、今は違う。モノはそこかしこに溢れ、カネさえあれば、
手に入る時代になった。そして、カネはモノだけではなく、いろいろな点で利用され始めた。
一つには、優れたものの尺度である。優れたものはカネがかかる、もしくはカネを大きく動かせる。
そういうイメージである。

これによって、人々はますますカネを手に入れようと必死になっている。
ではどうやって手に入れようか。多くの人は労働を売ることで手にいれようとする。
それが一番単純だからだ。しかし、それは従属の世界への入り口でもある。
一度足を踏み入れると、次から次に絡め取られ、身動きが取れなくなる。そういう仕組みだ。

家族をもつと、多くの人はローンを組む。特に家だ。
家族を養うという意味と家のローンを払い続ける。これが一種のワナになっていて、
人々は簡単に仕事を放棄できなくなる。何しろ借金の額が大きい。その一方で、自分の稼ぎは
単調増加もしくは停滞でしかない。それが雇われの限界である。だから人は、できるだけ大きな
額を提示してくれる場所を探すし、そういう場所であると始めからわかっている大企業を目指す
わけだ。その理由はカネである。そして、それに付随する優れたというイメージである。

一方で、社会には倫理というものがある。その倫理は様々な社会的な作用によって生まれている。
もっぱらは、仲間内のルールといったものだ。そのルールにおいて倫理が決まる。他人のものを
奪ってはいけないというのは現代日本のルールの一つである。難しく言えば所有権である。
とりわけ私的所有についてはかなり厳重に守られている。

不思議だとは思わないか。店に陳列しているときは、店のもの、つまり他者のもの。ところが、
一旦、カネをだして交換すると、途端に自分のものに変換される。この所有の感覚こそが、
現代人を支配しているエートスである。この感覚は必ずしも常に発揮されるとは限らない。
とりわけ、持ち運びできないようなものについては。

土地を所有するとか、債権を所有するとか、何を意味するのだろう? 原則的には、土地は
みんなものだ。債権とはみんなの頭の中にある概念だ。どちらも持ちようがない。だが、人は
そこに実在を作り出し、あたかもその権利が存在するかのように振る舞う。誠に不可思議だ。

さて、カネによって所有できるとわかった人間はとにかく欲しい物をカネで買おうとする。
そして、カネを労働によって得ようとする。すると、仕事こそが重要であると思いこむ。

仕事とは本来、誰かの必要という事であった。そこにどれほどの対価があるかは別問題。
誰かがやらなければならない事柄、それが仕事だったのだ。ところが、人が余るようになった
結果、仕事を作り出すようになった。意味がない仕事でも、意味があると思わせるように
言説が酷使された。そうやって仕事をしたかのようにみせ、その結果として、カネを得る
ようになった。高級な仕事とはもはやそんなのばかりである。誰かの役にたつよりも、
仕事をしているかのようにみせる。だからこそ、演出が過剰になり、大量の書類を用いる。
それでも、カネを得られるのだからと、無意味な事を続けていく。

カネに人生を売ってしまった人は、どんなことがあっても仕事をやめられない。
ましてやアリバイ作りのような仕事ばかりしていた人は、よそに移ろうにも何も武器がない。
結果としてますます仕事にしがみつく。仕事は命綱にいつしかなってしまったのだ。

こうして、ブラックだろうがなんだろうが、そこにいる他無い。多少の理不尽いや相当な
理不尽でも、とどまり続けようとする。残業だってする。上司の機嫌取りだって必要ならやる。
そうやって魂を売ることで、カネを確保する。

その何が悪いか? いや何も悪くない。人の好き勝手の事だ。

だが、問題は仕事の性質が変わったときの事だ。自分の組織が会社ぐるみで行う非倫理的行動。
たとえば公害だ。社会的に見れば悪でも、自社からみればそれが善である。これをまともに受け止める
と心が引き裂かれるはずだが、そうならないために、社会的な悪には目をつぶる。東京電力の
福島原発の事故のようなものだ。そして、自社の善のために原発を動かし続けるわけだ。
その心は、カネである。それ以外に社会的に不毛な仕事が続くはずがない。

自分の仕事が悪につながっているとして、それをやらないという選択肢は生殺与奪を
奪われたローンを抱えた労働者には出来ない。そして、悪と知りながらも「仕方ない」と
言い訳をして仕事をし続けるのだ。放射線物質を垂れ流しても、仕事をし続ける東京電力のように。

この状態の人を私は軽蔑する。どこにも良いわけなどありえないからだ。
ましてや、問題事象から目をそらし、批判にあったら、むしろ開き直るような態度。
どこにも酌量の余地はない。ただの悪人である。

そして、大抵の社会悪は、ただの悪人から生じている。つまり、ただの凡人の「仕方がない」
によって生じている。悪とは凡人の現実逃避の蓄積の結果である。そして、自らがカネの
奴隷になったくせに、自由にしている人をみると、嫉妬で怒り狂うのだ。

自ら乗り越えられない壁を構築した。そして、その壁の中からいろいろ叫んでいる。
出られないのは、私のせいではない。だから私は悪くないと。

愚かな群衆とはこのことだ。悪いことをする人間は悪いやつに決まっている。
ただ、そのようなシンプルなことがものすごく軽視されているのが現代なのだ。
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