科学とはー解体ー [思考・志向・試行]

科学とは何か。

キリスト教的文脈でいえば、神の法則であり、神の声だ。
現代ではサムシングと言われる形で、この手の話は解釈され、
「インテリジェントデザイン」などと呼ばれることもある。

要は世界を神が作ったという言説をやんわり言い換えただけなのだが、
科学の本場であるヨーロッパでは、科学思想とは神の法則を導くものとみなされている。
もしくは暗に仮定されている。

一方で、我々が科学をするときは、むしろ無味乾燥な、価値中立的なものとして、
科学は日本の文脈に登場する。神とは無縁の存在、むしろ対比されたものとして科学が
解釈されている。だからこそ、「科学的にいえば」という言い方がなされるわけだ。
科学的に証明されているというのは、物語ではなく事実として証明されているということと
同値という事だ。もちろん、それは一つの解釈に過ぎない。

科学的という言説によって、あたかもお墨付きを得られると考えている人々は多い。
そのようなイメージによって科学が駆動されているかのように。だが、実践では、
多分に人の考えというものが解釈に介入する。どんな実験結果も人の頭を通り抜けない
限り形として現れないというだけをみても、科学が客観的で実存的であるというのは
言い過ぎであるとわかろう。

では、科学の本質は何か。それは要素限定的言明である。
違う言葉でいえば、要素還元主義だ。デカルトが志向した考えである。
結果として、科学はあらゆるものをその要素によって説明をしようとする行為といえる。
水であれば、H20という分子で、塩であればNaClという物質で説明しようとする。
現象や物性を、それらを構成する要素によって解釈するというのは科学の一論法である。

ところが、我々は名指しした現象自体を知りたい事が多い。
たとえば、恋。恋という現象がどうして生じるのか。文学的にも、社会学的にも、生物学的にも
説明が可能であろう。脳科学的にいえば、恋とは脳における現象という事になる。

そこで脳における恋が生じている際の挙動を調べることが科学的であるかのように考えられる。
だが、果たしてそれで恋が分かるというのだろうか?

正確にいえば、それは恋という事象の物性的基盤を調べるという事であって、決して「恋」を
調べることではない。そして、恋の要素分解とは、物性に帰するだけではなかろう。心的要素
もあるだろう。化学物質だけが恋の要素ではないのだ。

ましてや、恋という状態を脳という物性の性質説明で、何かをわかった気がする人はまれだろう。
むしろ、ロミオとジュリエットの物語でも読んだ方が、百倍も恋を理解するのではないか。
結局の所、科学における要素還元は各要素を調べ上げ、それら同士の関係性を調べ上げることで
あるが、それによって、もともとの総体であった現象や物性を説明するわけではないのだ。

それらは現象や物性に潜む要素の性質であって、総体の説明ではない。
同様に、脳の機能を神経細胞で説明するのは、一つの見方に過ぎず、決して脳機能自体の説明
ではないと言える。あくまで調べているのは神経細胞自体なのだ。かつておばあさん細胞と
いう思考実験があるが、まさにこのことだ。H2Oを調べても、水自体の挙動や性質は見えてこない。

もちろん、要素を理解する事で全体のとある傾向を知ることはできる。しかし、知りたいものの
対象が全体であるならば、全体をみる必要がある。それが科学には苦手なのだ。

もし、脳機能を観たいというならば、脳がその機能を発揮している状態を計測する他無い。
その機能を発揮している状態とは、端的に日々の生活や仕事であろう。そのような状態における
脳の活動をみることで始めて脳機能を観たといえる。

だが実際には脳をそのような実際に使っている状態で計測する事はできない。
大抵は実験室や装置に押し込められ、そこで無味乾燥な刺激提示によって活動を計測されるに
過ぎない。そして、それらのデータは神経活動自体であって、脳の機能を測っているわけではない。

つまり、脳の機能という対象を知りたければ、脳の機能が発揮されている状態そのものを観察
する必要があるということだ。水を要素還元してH2Oにする事で見えてくるものがある一方で、
水が温度によって相転移する事は明らかに出来ない。同じく神経細胞に還元しても、脳が全体と
して何をしているのかは不明瞭なままである。ましてやどうやって機能を実現しているかなど、
謎でしかない。

むしろ、脳機能が果たされているのが実際の生活の場であるというならば、人同士の作り出す
総体、小さいものであれば共同体、大きなものであれば国というものに対置して、人を眺めた
ときに始めて脳機能が見えてくるともいえる。脳機能の多くは、世界を認識するためのもので
その世界とはヒト社会の事であるからだ。そしてヒト社会での振る舞いを決定するのが脳なのだから。

すると社会を知ろうとしてヒトの挙動を調べたときに始めて、脳機能なるものがあぶり出されること
になる。このようなプロセスを経てようやく、脳機能の主要な側面を知ることになるのだ。

科学の要素還元主義は結局、中身の要素について詳しくなるだけに過ぎない。
そして、それは知りたいものを切り刻み、個別の要素を知るという作業に過ぎない。

生命を知りたいという欲求は、生物を知るべきであって、分子やタンパク質を知る事ではない。
分子生物学の人間たちは、この当たり前をどこか忘れている。DNAはひとではない。生命でもない。
命という現象を支えているパーツに過ぎないのである。

科学における還元主義が万能に見えたのは、物理学の大成功によるものだろう。
次々に小さなものに目を移していった結果、多くの成果を上げた。だが、人を知るという作業に
おいて、小さな物にフォーカスするという行為は、木をみて森を見ずという、まさに古人の警句
そのものになる。

科学的に証明されているとか、科学の解体による理解とは、ひとつの見方に過ぎないという事を
頭の片隅においておくのが賢明だろう。
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