喪失とは? [雑学]

ここに来て、様々なものを喪失した。
人間関係や物などだ。

正直まだ凹んでいる。果たしてこれで良かったのかと後悔もある。
選択を迫られる状況自体が本来的によろしくないと安富氏はいう。
西洋的な選択ではなく、東洋的なタオによる歩みが重要であると。

日々は選択の連続というが、本当は違う。ヒトは小賢しくなったために、
世界を予期したり、予定を立てられると思い込んでいる。そして、そうならなかったら、
誰かを責めれば良いと思っている。しかし、本来的には思い通りになる自然などほとんどない。

だからこそ、ヒトは可能な限り環境を変えてきた。建物をつくり、土地を改良した。
なんとか自分たちの思うようにしたいという貪欲がその動機になった。

実際には、こうなればいいなという事と、実際は乖離している。
そして、今、私は何をそもそも目的にしていたのかと茫漠とした思いにある。

喪失したものは、自分を変えることで保持する事は可能であった。
要求された事に応える事で、喪失を減らすことは出来たのだ。
だが、私はそれを是としなかった。なぜかは自分でも分からない。
でも、要求された事は自分にとって、自然ではないと思ったのだ。

何かを得るために努力をする。当たり前に思えるだろう。
だが、その当たり前を疑ってみたらどうか。努力を疑うのではない。
得る事を疑うのだ。なぜ、それを得ようとしているのかと。

生まれて、生きて、死ぬ。このプロセスの中で、生物としては繁殖する事が
目的となる。そのための社会制度がある。繁殖しない社会制度は滅ぶのだから。
よって、社会から要請される事に従うのは、ある意味で自然なことだ。その一方、
ヒトには思考する力がある。その力によって我々は思い悩むことになる。それを
「選択」と呼んだり、「苦悩」と呼ぶわけだ。

思考できるが故に、有りもしない幻想を抱いて「後悔」をする。人の性質である。
それをまさに自分は行っているのだ。幻想と分かっていても、後悔はするのだ。
そういう風にヒトは出来ているらしい。


おそらく自分が後悔している事の一つは、果たして自分の主義に凝り固まっただけに
過ぎないのではないかという疑念である。友人関係にしろ、恋人関係にしろ、距離感の
原因は私の考えに因る。私が考え方を変えれば、関係は継続出来た。では、関係性の喪失
につながる私の考えは、如何にして確かだというのだろう?

自分にとってのナチュナルな考えが、最大の間違えかもしれないのだ。
それがために自分は確かに喪失をしたのだ。喪失という結果だけを捉えれば、それはマイナス
であり、ネガティブなこと。ここから直ちに、自分の考えが間違えだったのだと考えることも
出来るだろう。だが、果たしてそうなのか?

ありのままの自分を受け入れてもらうとは難しいだろう。それはワガママでもある。
その一方で、自然な自分でなるべくいようとすることは、間違えなのだろうか?

喪失という結果は、自分の考えから言えば、必然的だったと思う。
状況と自分の考えに齟齬があり、相手の願いと相容れない。ならば、関係性が失われる。
だが、こちらが合わせて、相手は合わせないというのもまたおかしな話であろう。
こちらの考えを理解し、関係を喪失しない事だってありえるのだ。

自分に正直でいる事。これが今の私にとっての「価値」である。それはこのブログを
書いてきた結果でもある。その正直な自分に向き合うことで、人が離れていくなら、
それもまた自分の価値からの帰結なのだ。

ではなぜ後悔が生まれてしまうのか。


自分に正直になったのだから、仕方がないのだけど、今まで自然と維持されていたものが
変わりゆく事は、やはり寂しいのだ。決して積極的に喪失を望んだわけじゃないからだ。
相手を尊重したからこそ、相手と自分の間にある溝を受け入れ、別れとなったのだ。

私が分かっている事は、私が合わせる事は可能であったということだ。そういう「選択」が
可能であったのに、私はやらなかった。それがもたらした喪失は、果たして肯定されるべき
ことなのかどうか。むしろ、私が合わせることをしなかったのは私の怠慢であって、それが
原因で喪失したのではないか。

後悔は、自分の意志によって違った結果を生み出せたのではないかという過去の回想であり、
それが過去である限り変更不可能であるため、自責の念にかられる事にある。
つまり、後悔とは自分で自分を責めている状態なのだ。実に良くない。

違う結果をもたらすには、自分を偽る他なかったはずだ。それは自分に正直であるという
自愛の精神から外れてしまう。だからこそ、自分に対する正直さを貫く事で、自愛を全う
したはずなのだ。その結果が今の喪失である。ならば、喪失自体は自愛の結果とも言えるのだ。

また一方で、後悔の要因は、ニュアンスの問題でもあるけれど、社会通念上「そうあるべき」
という形からの逸脱した結果だからという事でもある。他者との関係性の喪失は、社会的には
あまり褒められたことではない。いや、私のライフスタイルでは勝手にそう思っているだけ
かもしれない。だが、安易な関係性の喪失は、はやり忍耐の不足と帰結されるはずだ。


後悔の一つの要因は、社会的に是認されている行動や状態に向かわなかった事による。
それが自助努力による帰結である場合においては、後悔はない。やることをやったと言えるからだ。
ところが、ねじれ現象があって、私の本性として、社会的に是認される状態を求めていなかった。
そして、社会的に是認される行動や状態を目指さない方向へと、自ら進んでしまったのだ。

社会的にこうあるべきという事は、分かっている。だが、それを自分が値する事なのかと
考えてしまうという低い自己肯定感と、一方で、そもそも社会的に要請されていることが
おかしなことではないか?と疑問を感じてしまうのだ。結果として、関係が難しくなる。


すると、そもそも私が現代社会の価値観に疑いを持っているがために、日常生活上における
態度にもそれが反映され、その結果として喪失を招いたというわけだ。必然的な流れがある。

ここまで来て分かることは、私は後悔する必要性はないということだ。そして、そもそも、
自分がまさに望んだ結果を得たとも言えるのだ。

だが、矛盾した自己がいる。私だってヒトである。喪失は悲しいこと、寂しいことだ。
だから、向社会的行動を自己の信条に合わなくても、とるべきではなかったのかと後悔する。
相手に合わせて、自分を変える事だって出来るのだから。

変わった自分を、今の私は「他者の期待」に応えると捉えている。それは自分の一部の
修正であるが、決して自分を大事にした結果ではない。それはやや矛盾があるわけで、
仮面をつけた事と同じになりはしないか。それが自分になってゆくのか?

相手が正しいと思う価値観に、こちらが合わせることがしばしば「成長」とか「成熟」など
と形容される。果たしてそうだろうか? それは相手の価値観であってこちらのものではない。
ならば、私はそんなものを必要とする事はない。そしてそれは「成長」でも「成熟」ですらない。
ただ、相手による精神的搾取である。こういう事はあまりにも何気なく行われているがために
気が付かれないが、この違和感は常に感じる必要がある。

こうかくと、如何にも私が自己中でワガママにみえるかもしれない。自愛と、自己中心的とは
まるで違うことだ。自分の気持を大事にして、相手と折り合いをつけてゆく。これが自愛である。
自己中心的とは、むしろ相手のような要望を他者におしつける人物の事だ。これは相手が相手の
ためを思って行う言動ですら、その範疇である。「これはあなたのためを思って言っている」
というのは、基本的に他者操作であり、相手にとっての利益であり、あなたのためではない。


安富氏や深尾氏による、魂の脱植民地化の話や、タガメ女、カエル男の話からいえば、
現代日本ではあまりに、上記のようなワガママな要望が通っているために、誰もそれを
疑わないのだ。上司が言うこと、教師が言うこと、親が言うことに疑念無く従う事が是とされる。
それは、ただの思考停止という。彼らが言うことが唯一の価値ではない。むしろ、彼らは
すべからく間違っていることだってある。


さて後悔に話を戻そう。社会通念上よろしいと思われる状態に、努力して向かわなかった自分。
だからいささかの後悔がある。やろうと思えば出来たからだ(と思っているからだ)。だが、
自分の正直な気持ちからいえば、それは是とされなかった。その結果として他者が去っていく。
悲しい。寂しい。喪失は辛いものだ。自分の行動の結果ではないのか。これを避けることは
出来たのではないか。そう思ってしまうのだ。


だが、すでに分かっているように、私は後悔する必要はない。自分に正直になるという
信念に基づいて、行動したのだ。それだけ自分を肯定したのだ。他者に流されることなく。
それが結果をみておののいている。こんな事になるなんてと。そして自分に正直になるという
信念を疑いだしている。自分を曲げておけば、いや変えておけば、この結果にはならなかった
のではないかと。この2つの間で私は揺れている。

もちろん、答などない。時に自己を抑え、時に自己主張して生きる、それが人生なのだ。
でも私も弱い人間である。自分の信念を疑うことだってある。
今回はそういう話だった。この話を読んで、どう思っただろうか。

私はただの頑固で、信条なるもので関係を壊すような男だと思っただろうか?
天の邪鬼であると考えるだろうか? もう少しうまくやればいいのにと。

だが、自分の正直になる事がこれからの私の人生にとって大事なのだと信じているのだ。
たとえ、それが喪失であっても、その後悔よりも、自分を偽った後悔の方がずっとずっと
大きいのだと私は思っているのだ。

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