この不安感のわけー他者との軋轢ー [その他]

たった今、私は強い不安感をもっている。それは、友人に怒られてしまったからだ。

喧嘩などはあってもいいと思うが、今の私がおっているダメージは、なかなか解消が難しい。
というのも、私なりに良かれと思った行為が、相手にとって不快だったからだ。
それを批判されるのは正直つらい。


言い分が違うから対立するというのとは違う。
傷ついている友人がいて、その友人が苦しんでいる(ように見える)。だから、
良かれとうっかり助言してしまったのだ。軽率であったと思う。

友人はPTSDに悩まされているという。精神科にも通うほどらしいのだ。
その人に向かって、何かをいうのは難しい事。慎重さが必要だった。
だが、うっかりと、気安く「状況は変わっていくよ」と言ってしまったのだ。
そして「(いずれ変わるから)あんまり現在の心境に囚われない方がいい」
と言ってしまったわけだ。

友人にとって、それがいつ訪れるか分からないから苦しんでいる。
それなのに、この人は無責任にも「変わる」という。そんな事どうしていえるのだ?と
憤慨してしまったのだ。

心の在り様が変わらないから苦しんでいる人に、心の有様は時間で変わるのだといって
しまったのである。実際的には、それは事実なのだけど(沢山の例がある)、だが渦中の人に
とってそれは酷な言い方であろう。何しろ、苦しさは自分じゃあ変えられないのだ。

私にもうつ傾向だった時がある。その時は自分の心の状態を変えられるわけじゃない事は
よく分かっていた。そして、結局時間とおかれている状況の変化によって、心の状態は
変わった。渦中に居るときに、私ならば「大丈夫、いずれ状態は変わるさ」と未来の自分に
いって貰えたら助かったろうなと感じていた。だから、うっかりと友人にそれを言ってしまった
のだ。

だが、友人には友人の世界観があり、異なった形で生きている。だから私が言って欲しかった
言葉が同様に有効であるとは限らないわけで、むしろ、批判されているように響いたのだろう。
余計な親切大きなお世話。そういう結末だったわけだ。

そして、私は善意を批判されて驚くとともに、自分の動揺にも気がついたのだ。
相手の立場に立つのは時に困難なこと。良かれがむしろ最悪の結果を招いたとき、
私はかなり動揺するのだと。良かれと思うことこそが、不正解みたいなとき、そして、
相手を傷つけたとき、どうにもならない欺瞞に陥る。

こういうときは、ひとまず謝るほか無い、複雑ではあるが。
先ほど謝りメールを書いたのだが、自分がいやになる瞬間である。


この世で恐ろしいことの一つは、悪ではないのかもしれない。
むしろ善こそが恐ろしい。善と思った行為こそが、最悪であったときが恐ろしい。
大切に相手をおもうゆえに、相手を傷つけたのなら一体なんなのだと。

ときおり感じていたこの感覚。これから逃げたいと思ってしまう。
他者と関わると、どうしても時にこういう感情を抱く。
それは強い恐怖心である。それは自分が不用意に他者を傷つけるという事。

悪気があるわけじゃない。こちらが普通にしていても、相手を傷つけることがある。
それが怖さになるのだ。自分が何か間違えた人間なのではないか?と感じるのだ。
そして、何かが足りていない自分が悪いのだと考えてしまう。その自己嫌悪もまた
恐ろしいのだ。

一度そのような感情を抱いた相手に対しては、どうしても距離が出てしまう。

当たり前なのだが、他者とまるきり同じ考えや感覚の人は居ない。
だから、時に善意が悪意に見えたりする。おそらくそれは他者からみた私もそうなのだろう。
衝突しながら、ああ、こういう人なのだと互いに理解するほか無い。

つまり、当たり前なのだ。このような衝突は。そして、それを避けてしまう私の
心の問題なのだ。自分でははっきりとわからないのだが、どうも私自身の心に棘が
ささっているらしい。

それが現れるのは、他者が怒りを表出した時らしいとまで分かってきた。
そして、それが第三者に向けられていても恐怖し、ましてや自分に向けられたら、
さらなる恐怖である。こんなに恐怖を覚えるのはなぜか? これは普通だろうか?

他者の怒りに対して、過剰に反応してしまっているのではないか?
それが最近の私の課題である。これは小さい頃からだ。


怒りを使った他者支配をしていた人がいる。それは祖父だ。
気に入らないことがあると祖父はすぐに怒りを表明した。そして、自分の欲求を
通したのである。私は祖父の怒りのつぼを探すことになった。それを避けるように
行動したのである。このような事が今の私に作用しているのだと思う。

私には他者の怒りを避ける傾向がある。もちろん、多くの人もそうだろう。
だが、私は極端に避けている気がするのだ。それは対人関係に影響する。
他者の怒りを避けているということは、じぶんの怒りも避けてしまう。つまり抑制だ。

こうして、怒るべき時におこれない自分がいる。そして他者の怒りに過剰に
反応してしまうのだ。おそらく何も起こらないのにだ。

アドラー的に考えてみる。課題の分離だ。
相手が怒っているのは、私のせいではない。私がきっかけかもしれないが、
私が相手を怒らせようとした事でなければ、私には怒らせる意図は無い。
それなのに相手が怒るとすれば、それは相手の課題なのだ。

ウェイトレスがうっかり水をこぼしたとき、怒鳴ったりして怒りをあらわにする人も
いれば、大丈夫ですよと状況に対処する人もいる。この違いはその個人に由来するものだ。
では、怒りとは何か?

怒りとは他者を操る手段である。少なくとも状況に対する攻撃的対処である。
私は不快だぞと訴えているわけだ。そしてその不快さを相手にみせつけることで、
相手をコントロールするわけだ。

これは幼児が泣き喚いて親をコントロールするのと同じである。
上司が部下を怒るのも、妻が夫をなじるのも、まるで同じことだ。

私にはどうやら祖父との関係を通じて、怒りに対する自己嫌悪を抱くように
学習したらしい。好意をもつ相手の怒りに対する対処に過剰に反応してしまうのだ。
それはいつしか、怒られたくないから何かをするという消極的な行動へと発展した。
私はそのような心根があることを自分に隠蔽してきてしまったのだ。

他者の怒りに直面した時、まさに今だが、その時こそ、対応を考えるときなのだ。
動揺している自分をちゃんと見つめ、その動揺は大丈夫だと言い聞かせる。
そして、可能な限りアサーティブに対処する。私の課題である。


話を友人に戻そう。
友人は最近よく口にしていたのが「私の気持ちは誰にも分からない」である。
そう、私は気がついていたのだ。友人の心境を。

私が友人にしたことは、よけいな「お説教」になってしまったのだろう。
教えてあげるオヤジという奴だ。何も分からないくせに、何をえらそうにという奴である。

もちろんこちらにその意図はない(あったら問題だ)。だが、こういうのは課題の分離
である。こちらの意図とは別に、相手が不快に思ったのなら、それに対処するほか無い。
むろん、私にも軽率さがあった。誤りメールはしたので、後は友人次第であろう。



さてもう一歩、進めて考えてみる。
トラウマは無意識的作用であるといえるだろう。本人の意図には関係が無い。
だからフロイトは、このトラウマを原因として精神疾患が生まれると考えた。
そして無意識であるから、それを本人が自分で何とかできるものではなく、他者との
関わりによって状態を変えようというのが精神分析であった。

現代では記憶のメカニズムの問題であるとも考えられている。
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3445/1.html
https://toyokeizai.net/articles/-/141463


一方で、アドラーはトラウマを別の角度から考える。
極端なことをいえば、アドラーはトラウマなどないという。過去と未来とは人間にとって
現在そのものであろう。すると現在をどうするのかで、人の今後の人生は形作られる。

アドラーの新しいトラウマの解釈はいつでも目的論となる。とある目的のために、
トラウマが利用されるというのだ。

引きこもりになったのは、いじめが原因だからだ。いじめというトラウマのせいだと
解釈される。だが、アドラーはいう。引きこもりたいから、いじめという原因を作り
出したのだと。因果関係がさかさまに見えるが、そこがまさにアドラーの本質である。

トラウマをベースに生きるとしたら、そして、トラウマを克服できないのだとしたら、
一生、それを引きずって生きることになる。だから、原因を取り除こうと精神分析や
治療をほどこす。むしろ、過去の捉え方の問題じゃないのか?とアドラーは言う。

それは現在がうまくいかないから、トラウマなるものを作り出しているのだと。
いや、現在の目的のためにトラウマを作り出すのだと。

アドラーがフロイトと袂を分かつのは、この辺りが問題なのだろう。過去を現在の自分が
どう捉えるかを、原因とみなすことで、状況を理解し、心的安寧を得られるのであれば、
それは一つのやり方だと個人的には思う。一方で、アドラーのいうようにそれは解釈に
過ぎないという言明もまた確かなのだと思う。なぜなら過去や未来など、そもそも存在
しないからだ。

過去というのは、記憶である。記憶とは現実ではないのだ。主観的な何か作用がうんだ、
幻想である。それを材料にして、ヒトは未来をつむぐ。これもまた想像であり、創造である。
よって、過去も未来も、ヒトがその能力を発揮して生み出す産物である。

トラウマとは、現在の自分が、トラウマたる過去を生み出した結果とみなせるわけだ。
そして、それがあると確信すれば、それはますます確かなものとして生み出される。
こうしてフィードバックが働けば、トラウマは明示化されるのだ。

フロイトがやっている事は儀式に近いのだ。本来は存在しない過去を作り出し、その過去を
滅却する事で、その人に心の安寧を与えるというわけだから。トラウマとは身代わりのような
ものとも言える。

記憶は残る。強い感情をともなった記憶は確かに残る。それは、そのような状況を避けろと
叫ぶためだ。生死に関わるがために記憶は強化される。それが誤りであってもだ。ここが
最大の問題なのだ。

さて、友人はどうか。確かに友人の体験はつらいものだろう。そのつらさからくる欝や
PTSDは友人にしか分からない。それを他者がどうこういうべきではない。私は軽率だった。
だが、その一方で、他者を介在しなければ、また過去の捉え方を変更するのは難しい。
治療とはおそらく、他者につらさを理解してもらうことではなく、本人が過去を捉えなおす
事で起こる。本人が過去をつらいものであると思い込むほど、それは強化されてしまうのだ。

事態を客観的に捉えなおそう。
私の言明に、過剰に反応してきたということは、そこに何かがあるのだ。とりわけ、
他者に分かられては困るという何かが。友人の瑕疵をあげつらうわけではないが、
友人に潜む意図があるのだと、アドラーは語る。

もっと別なんらかの要因があるのではないかと私は考える。過去の体験によってPTSDと
診断されたのは直接的原因かもしれない。だが、それを過去のものであると切り離せない
のは、それを利用することで何か有効なことが起こるとアドラーなら考えるだろう。

目の前の仕事から逃れたい。現状の何かから抜け出したい。そのような恐れこそが、
トラウマを強化するのではないか。私はアドラーを援用するとそう思えるのだ。
そして、それを自覚する方が、状態は緩和されるに違いないと。

人は目的のためなら、病気にだってなる。良い言い訳が出来るように、人は求めたものを
ひきつける。友人もまた、何らかの目的をもってトラウマを顕在化させているのではないか。
冷たいようだが、このような解釈もまた可能なのだ。

同じことは私自身にもいえるのだろう。他者の怒りに過剰反応するという事で、
何か大事なものを守っているのである。不安感が生まれたわけを直視する必要があるのだろう。


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女王の教室ー強いメッセージー [思考・志向・試行]

天海祐希主演のドラマ「女王の教室」を観た。その感想に絡めて、登戸事件を考えたい。
下記、ドラマのネタバレを含むので留意されたい。



さて、女王の教室は徹底して、強いメッセージのドラマだった。
そのベースにあるのは、子供の問題は親の問題であるという事だ。

一見すると、先生と生徒の物語であり、子供たちの成長ストーリーに見えるだろう。
だが、脚本家が狙ったのは、そこではない。むしろ大人たちがどうあるべきかと訴えているのだ。


子供に現実社会を諭すかにみえる主人公、阿久津先生は、実は社会人に向かって親に向かって
声を発しているのである。そして、子供たちが抱える問題は、親や家庭問題の一部なのだと
訴えているのである。

大人が子供をおもちゃのように、自己の道具化をする。その結果として、子供は自発性を
スポイルされる。そのようにして主体性を失った子供が大人になり、その大人はずっと親に
支配されて生きるのである。それは親が死んだ後ですら続くのだ。そうして、大人はずっと
精神的な子供のまま一生を終えていく事になる。

そのような親の元で、子供が果たしてまともに育つだろうか? このドラマはそこに最大の
メッセージがあるのだ。クラス担任が気に入らなければ、変えろ言ったり、何かをクレームを
つけるような親たち。そういう子供な大人は、このドラマをみて反省すべきである。

その点で子供たちは立派である。描かれている描写は非常に極端である。極端であるがゆえに、
雑にはなるが、分かりやすく作ってある。決して、子供たちがみて感情移入するような金八
のようなものではない。説経を感情的にたれるという生ぬるいものではなく、事実、現実の
事をそのまま子供に伝えているのだ。

たとえば、阿久津先生のクラスにおいて、成績によってクラス委員を決めるという手段。
これは社会では人事評価である。テストによって成績を決めるクラスの方が、その結果の
明確性からむしろまだマシかもしれない。会社の人事にはたぶんに、人間関係が絡むからだ。

阿久津先生の在り方が傲慢に見えるという人がいるならば、それは愚昧な世論に思考が
絡めとられているからといえる。阿久津先生の方針は、実社会におけるルールをごく単純化
したものといえる。たとえばルールを逸脱したものには罰を与える。それはルールを守る
事が社会の構成員になるという事を意味するからだ。ルールがおかしければ、変えればいい。
阿久津先生は、決してそれを否定しない。むろん、肯定もしない。なぜならルールを運用する
のが大人だからだ。


昨今では、とかく消費者マインドがあらゆる世代に蔓延している。サービスを受ける側では
不平や不満をいうのが当たり前だと。教育とはそういうものから一線を画す。教育は役立つから
やるのではない。教育を通じて我々は二つのことをクリアーする。

一つは、子供から大人になること。
もう一つは、仲間になること。


多くの大人はバカであるために、稼ぐことが大人になる事だと信じて疑わない。
日本では男性差別が横行していて、男が仕事をしないという事を烈しく断罪する。
その一方で、精神的な子供ばかりが量産された。スポイルしたのはもっぱら日本の母である。
かつての農村部では家事・畑仕事などをしながら子育てする事が当たり前であった。
それが、欧米的な、もっぱらアメリカ型生活が”理想”として日本に持ち込まれ、核家族化し、
多数のサラリーマンを作り出した。その結果、専業主婦が生まれる。これはごく最近の出来事
である。伝統でもなんでもない、新しい習慣である。

この層が、子供を「監視」「管理」し続けた。それはいわゆる承認の問題でもある。
母親はあらゆる可能性を押しつぶして、子供の成長を守るものとして日本では定義される。
結果として、子供たちはその感情の軋轢をそのまま受けるのだ。母親の期待を子供は一身に
あびることになる。優しくてたまたま能力があった子供は親の期待をかなえてゆく。そうして
主体性を失っていく。親が心配し、子供によかれとする行動が、往々にして子供の命の活性を
奪うのだ。そのような子供は結果として、精神的なゆがみを抱え、生きづらい生活を送る。

母親は夫に対して生活を依存する。それはまた屈折した感情を生み出すだろう。
選択権がない人生として、自分を規定するほかない母親は、子供に自分の夢を託すという
愚昧な行為に及ぶ。子供は犠牲者となるのだ。


阿久津先生は、このような愚かな親たちの支配に疑問を持つように促す。それは意図された
ものではないかもしれない。しかし、阿久津先生が事実を語る限りにおいて、それをどう
捕らえ、行動を変えるかは子供たち次第なのだと阿久津先生は考えている。むしろ、美辞麗句
を並べ、優しいふりをする事が阿久津先生のもっとも嫌悪すべき行為なのだろう。それは子供
たちから思考を奪い、与えられた娯楽で、消費者として、労働者として生きろという意味なのだ
から。

「目覚めなさい」と阿久津先生は何度も繰り返す。これは子供だけに向けているわけではない。
むしろ、大人に向かって投げかけているのだ。現状社会がどういうものかを直視し、どう対応
するのか。その訓練として学校という解釈である。

なんのためにあなたはそれをするのか? そう問いただす阿久津先生は、考えろと伝えて
いるのだ。そして価値観は自分で見出し、それをまずは親や周りに理解してもらうのだと。

阿久津先生の素晴らしさは、生徒の主体性を決してバカにしないという点であり、事実を
決してゆがめないという事であろう。もっとも、あれだけ徹底してニヒルに振舞える人間など
誰もいない。ドラマという事がそれを可能しているのだが、極端な人間描写が物語に芯を
与えている。本作のスピンオフに二つの外伝がある。まだ観ていないが、おそらくこの教師の
あり方を説明したものになっているのだろう。


それにしても、当時はかなり衝撃的な内容であったと推察する。また、当時の私がそれを
みたら、なんという先生なのだろうと短絡的に見たことだろう。歳を重ねると物事をより
俯瞰的にみられるものだ。この脚本家の意図はかなり成功したのだと思う。

各論的なことにフォーカスすると、この物語の主人公は志田未来演じる神田和美であるが、
彼女の性格が家族構成によって現れたものだと説明される。ドラマをみてすぐに違和感を
感じるのは、この主人公の両親の描写である。旦那から愛されない、つまり承認を得られない
母親は、とかくドジを繰り返す。皿を毎回割るのだ。その一方で、旦那は浮気を疑われ、
それをごまかす。そして妻に小言をいうのだ。教育については旦那は無責任であり、妻に
一任している。典型的な核家族を描いているのだろう。

旦那と妻が何かと衝突すると、子供たちは動揺をする。この時、性格が形成されるのだ。
不快な場面を消滅させるため、和美はわざと声をあげてみたり、お茶をこぼしたりする。
完全に大人が悪い状況で、子供にその尻拭いをさせているのだ。ドジを演じる和美によって
場が緊張が開放される。これがこの家族のスタイルなのだ。本来なら、母親と父親の人間関係
不和である。大人が解決すべきことを、子供が代わりにやるがため、子供の性格が変化する
のだ。かつてはこれをアダルトチルドレンと呼んだ。脚本家はそれを当然あたまに入れている。

そして、和美はこの感性、つまり不和の存在を緩和するという性質を帯びて学校に現れるのだ。
だからこそ、和美は学級において問題児でもあり、解決策を導く役にもなる。それは不和を
嫌うからでもある。仲良くしたいという欲求、友達が欲しいという欲求は、家庭内不和からの
影響があると脚本は訴えているのだ。

女王の教室に出てくる家庭はすべて歪んでいる。それは離婚などで家族構成が歪んでいるから
ではない。大人たちの心根が歪んでいるというメッセージなのだ。泥棒を働いてしまうエリカ
という生徒。実は裕福であり、典型的な金持ちの子供という設定である。この子は自分の事だけ
を考えるという設定で登場する。自分が犯した罪を、和美に押し付ける。そして自分は悪くない
んだと決め込むことで、自己欺瞞を解消しようとする。このような性向は金持ちの家の風土として
描かれているのだ。

また一方で、両親が離婚し、お爺さん(おかま)に育てられる松川尚瑠輝演じる真鍋由介も
また家庭からの影響を強く受けた。クラスのお荷物として描かれるが、決して、みんなに嫌われて
いるわけではない。彼の存在はクラスにおけるジョーカーである。王はかつて批判者を粛清して
きた。だが、時に王も間違える。そんなとき、芸をもって王を揶揄する人物がいた。それが
ジョーカーである。ジョーカーは王に向かって批判しても許されたのである。表向きは、
ジョーカーの戯言であり、裏向きには世論の反発や、批判である。教養あるものなら、そのような
自己批判をしてくれる存在の重要性を知っているはずだ。宮崎駿はインテリであるが、彼の
代表作「ナウシカ」にもジョーカーは現れる。トルメキアの王にはジョーカーが侍っている。

さて、話を戻せば、そんな由介の役割は実に大きい。彼もまたクラスの緊張緩和に貢献する。
問題視されつつも、実は彼や和美こそが、本来的な人間の在り様であるとドラマは訴えるのだ。
なぜなら、彼らは自分で考えて行動する人間であり、少なくとも他者との関係性の困難を「愛」
で乗り越えるからだ。愛というより、「慈悲」というべきか。それとも友情というべきか。
ともかく、和美は他者との関係を諦めない。そういう強さを持つ。


ドラマツルギーは転回をへて、解決に向かう。よってこのクラスが阿久津という先生が
投げかける問いによって、次第に結束を深めていくのは脚本的には当然なのだが、最後まで
阿久津と和美らが打ち解けることは無かった。ここがこの物語の一番すごいところだろう。
安易なドラマであれば、ここで笑顔を浮かべて、和解する。すると今までの行為は陳腐化する
だろう。悪役を引き受けるというような安易な解釈は許さないのである。

あくまで阿久津は社会の事実を伝えるメッセンジャーであり、そのメッセージに対して、
自己で考えて行動して応える。これが脚本家の描いた教育像だったのだ。



さて、登戸事件を考えよう。
https://brandnew-s.com/2019/05/28/noboritomutekinohito-tr000/


ワイドショーでは、原因探しに懸命になる。引きこもりであったとか、両親の離婚であるとか。
問題はそこではない。この社会の問題である。一人の人間をなぜ社会が放っておくのか。それが
最大の問題なのだ。また、同時になぜ引きこもるのか。それもまた問題なのだ。

心の弱さとか、本人の問題というのは安易な言明である。原因を探したつもりになって事件を
もてあそんでいるに過ぎない。また、もっと監視カメラをつけろとか、ひきこもりを監視しろ
などというのは、もっとも愚昧な言明である。むしろ解決策は逆であろう。

一人の人間を人間として扱わない社会こそが、社会的圧力による自殺を誘導し、また社会に対する
怒りを醸成させ、腐敗した精神状態を作りだす。原因というのであれば、社会と本人ともに原因が
あるのだ。

他者を仲間だと思う。これは教育の成果である。経験がなければ哺乳類は他者を仲間だとは
認識しない。仲間だと思えるには、他者との交流が不可欠なのだ。交流が断たれたとき人は、
他者を同じ仲間だとは思えなくなる。相手が他者を人と思っていなければ、コミュニケーション
は成り立たない。その時、人は侮辱を感じ、疎外を感じるのだ。感情が外へ向けば、怒りに
なり、内へむけば不安になる。今回の犯人は、感情を外へと発露したのだろう。

どれほど疎外感を感じ続けたのか。社会からの断絶を意識すればなお、社会から断絶される。
負のフィードバックによって、ますます孤立化する。仲間を自ら減らしてしまうのだ。一方で、
社会の仕組みも不可思議である。自ら声をあげなければ、誰も手を差し伸べない。では声を
あげるとはどういう事か? 行政に対するなら、自分を社会的疎外者であると認めなければ
ならない。自分を直視し、自分がそれに該当するのであれば、自ら動けるだろうと社会人は
高をくくっている。だが、そんなことを平然と出来るのであれば、そもそも孤立化などしない。

定年退職したオヤジたちが、街をうろうろしている。彼らのうちに多少の趣味でもある人は良い。
だが、大抵はやることもなくパチンコや図書館などに通いつめているだけだ。彼らは小銭を持つ
ゆえに、完全に孤立する事は無い。だが、人としての交流がどれほどもてるか。金銭ではない
関係性をどれほど日々もてているのか。それがひきこもりと、どれほど違うというのか。
私には大いに疑問である。彼らから小銭を奪ったら、ひきこもりになるのではないか?

日本の社会、とりわけ都市やそのサテライトでは、人は人間ではなく、労働者や消費者として
扱ってしまう。名の無い一エージェントである。無差別殺傷は全く許されるべきではない。
だが、これが象徴するのは、「私はここにいた!」という叫びに聞こえるのだ。人生の最後に
悪意をもって、自己の存在証明をしたのだと。悲しいではないか。実に哀しいのだ。

現代社会が世知辛いのは、一つには教育の失敗なのだ。大人になることも、仲間になることにも
失敗した大人たちが支配する社会。それが令和と呼ばれる現代である。それを我々は直視し、
問題解決を和美のように試行錯誤するしかないのだ。








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喪失とは? [雑学]

ここに来て、様々なものを喪失した。
人間関係や物などだ。

正直まだ凹んでいる。果たしてこれで良かったのかと後悔もある。
選択を迫られる状況自体が本来的によろしくないと安富氏はいう。
西洋的な選択ではなく、東洋的なタオによる歩みが重要であると。

日々は選択の連続というが、本当は違う。ヒトは小賢しくなったために、
世界を予期したり、予定を立てられると思い込んでいる。そして、そうならなかったら、
誰かを責めれば良いと思っている。しかし、本来的には思い通りになる自然などほとんどない。

だからこそ、ヒトは可能な限り環境を変えてきた。建物をつくり、土地を改良した。
なんとか自分たちの思うようにしたいという貪欲がその動機になった。

実際には、こうなればいいなという事と、実際は乖離している。
そして、今、私は何をそもそも目的にしていたのかと茫漠とした思いにある。

喪失したものは、自分を変えることで保持する事は可能であった。
要求された事に応える事で、喪失を減らすことは出来たのだ。
だが、私はそれを是としなかった。なぜかは自分でも分からない。
でも、要求された事は自分にとって、自然ではないと思ったのだ。

何かを得るために努力をする。当たり前に思えるだろう。
だが、その当たり前を疑ってみたらどうか。努力を疑うのではない。
得る事を疑うのだ。なぜ、それを得ようとしているのかと。

生まれて、生きて、死ぬ。このプロセスの中で、生物としては繁殖する事が
目的となる。そのための社会制度がある。繁殖しない社会制度は滅ぶのだから。
よって、社会から要請される事に従うのは、ある意味で自然なことだ。その一方、
ヒトには思考する力がある。その力によって我々は思い悩むことになる。それを
「選択」と呼んだり、「苦悩」と呼ぶわけだ。

思考できるが故に、有りもしない幻想を抱いて「後悔」をする。人の性質である。
それをまさに自分は行っているのだ。幻想と分かっていても、後悔はするのだ。
そういう風にヒトは出来ているらしい。


おそらく自分が後悔している事の一つは、果たして自分の主義に凝り固まっただけに
過ぎないのではないかという疑念である。友人関係にしろ、恋人関係にしろ、距離感の
原因は私の考えに因る。私が考え方を変えれば、関係は継続出来た。では、関係性の喪失
につながる私の考えは、如何にして確かだというのだろう?

自分にとってのナチュナルな考えが、最大の間違えかもしれないのだ。
それがために自分は確かに喪失をしたのだ。喪失という結果だけを捉えれば、それはマイナス
であり、ネガティブなこと。ここから直ちに、自分の考えが間違えだったのだと考えることも
出来るだろう。だが、果たしてそうなのか?

ありのままの自分を受け入れてもらうとは難しいだろう。それはワガママでもある。
その一方で、自然な自分でなるべくいようとすることは、間違えなのだろうか?

喪失という結果は、自分の考えから言えば、必然的だったと思う。
状況と自分の考えに齟齬があり、相手の願いと相容れない。ならば、関係性が失われる。
だが、こちらが合わせて、相手は合わせないというのもまたおかしな話であろう。
こちらの考えを理解し、関係を喪失しない事だってありえるのだ。

自分に正直でいる事。これが今の私にとっての「価値」である。それはこのブログを
書いてきた結果でもある。その正直な自分に向き合うことで、人が離れていくなら、
それもまた自分の価値からの帰結なのだ。

ではなぜ後悔が生まれてしまうのか。


自分に正直になったのだから、仕方がないのだけど、今まで自然と維持されていたものが
変わりゆく事は、やはり寂しいのだ。決して積極的に喪失を望んだわけじゃないからだ。
相手を尊重したからこそ、相手と自分の間にある溝を受け入れ、別れとなったのだ。

私が分かっている事は、私が合わせる事は可能であったということだ。そういう「選択」が
可能であったのに、私はやらなかった。それがもたらした喪失は、果たして肯定されるべき
ことなのかどうか。むしろ、私が合わせることをしなかったのは私の怠慢であって、それが
原因で喪失したのではないか。

後悔は、自分の意志によって違った結果を生み出せたのではないかという過去の回想であり、
それが過去である限り変更不可能であるため、自責の念にかられる事にある。
つまり、後悔とは自分で自分を責めている状態なのだ。実に良くない。

違う結果をもたらすには、自分を偽る他なかったはずだ。それは自分に正直であるという
自愛の精神から外れてしまう。だからこそ、自分に対する正直さを貫く事で、自愛を全う
したはずなのだ。その結果が今の喪失である。ならば、喪失自体は自愛の結果とも言えるのだ。

また一方で、後悔の要因は、ニュアンスの問題でもあるけれど、社会通念上「そうあるべき」
という形からの逸脱した結果だからという事でもある。他者との関係性の喪失は、社会的には
あまり褒められたことではない。いや、私のライフスタイルでは勝手にそう思っているだけ
かもしれない。だが、安易な関係性の喪失は、はやり忍耐の不足と帰結されるはずだ。


後悔の一つの要因は、社会的に是認されている行動や状態に向かわなかった事による。
それが自助努力による帰結である場合においては、後悔はない。やることをやったと言えるからだ。
ところが、ねじれ現象があって、私の本性として、社会的に是認される状態を求めていなかった。
そして、社会的に是認される行動や状態を目指さない方向へと、自ら進んでしまったのだ。

社会的にこうあるべきという事は、分かっている。だが、それを自分が値する事なのかと
考えてしまうという低い自己肯定感と、一方で、そもそも社会的に要請されていることが
おかしなことではないか?と疑問を感じてしまうのだ。結果として、関係が難しくなる。


すると、そもそも私が現代社会の価値観に疑いを持っているがために、日常生活上における
態度にもそれが反映され、その結果として喪失を招いたというわけだ。必然的な流れがある。

ここまで来て分かることは、私は後悔する必要性はないということだ。そして、そもそも、
自分がまさに望んだ結果を得たとも言えるのだ。

だが、矛盾した自己がいる。私だってヒトである。喪失は悲しいこと、寂しいことだ。
だから、向社会的行動を自己の信条に合わなくても、とるべきではなかったのかと後悔する。
相手に合わせて、自分を変える事だって出来るのだから。

変わった自分を、今の私は「他者の期待」に応えると捉えている。それは自分の一部の
修正であるが、決して自分を大事にした結果ではない。それはやや矛盾があるわけで、
仮面をつけた事と同じになりはしないか。それが自分になってゆくのか?

相手が正しいと思う価値観に、こちらが合わせることがしばしば「成長」とか「成熟」など
と形容される。果たしてそうだろうか? それは相手の価値観であってこちらのものではない。
ならば、私はそんなものを必要とする事はない。そしてそれは「成長」でも「成熟」ですらない。
ただ、相手による精神的搾取である。こういう事はあまりにも何気なく行われているがために
気が付かれないが、この違和感は常に感じる必要がある。

こうかくと、如何にも私が自己中でワガママにみえるかもしれない。自愛と、自己中心的とは
まるで違うことだ。自分の気持を大事にして、相手と折り合いをつけてゆく。これが自愛である。
自己中心的とは、むしろ相手のような要望を他者におしつける人物の事だ。これは相手が相手の
ためを思って行う言動ですら、その範疇である。「これはあなたのためを思って言っている」
というのは、基本的に他者操作であり、相手にとっての利益であり、あなたのためではない。


安富氏や深尾氏による、魂の脱植民地化の話や、タガメ女、カエル男の話からいえば、
現代日本ではあまりに、上記のようなワガママな要望が通っているために、誰もそれを
疑わないのだ。上司が言うこと、教師が言うこと、親が言うことに疑念無く従う事が是とされる。
それは、ただの思考停止という。彼らが言うことが唯一の価値ではない。むしろ、彼らは
すべからく間違っていることだってある。


さて後悔に話を戻そう。社会通念上よろしいと思われる状態に、努力して向かわなかった自分。
だからいささかの後悔がある。やろうと思えば出来たからだ(と思っているからだ)。だが、
自分の正直な気持ちからいえば、それは是とされなかった。その結果として他者が去っていく。
悲しい。寂しい。喪失は辛いものだ。自分の行動の結果ではないのか。これを避けることは
出来たのではないか。そう思ってしまうのだ。


だが、すでに分かっているように、私は後悔する必要はない。自分に正直になるという
信念に基づいて、行動したのだ。それだけ自分を肯定したのだ。他者に流されることなく。
それが結果をみておののいている。こんな事になるなんてと。そして自分に正直になるという
信念を疑いだしている。自分を曲げておけば、いや変えておけば、この結果にはならなかった
のではないかと。この2つの間で私は揺れている。

もちろん、答などない。時に自己を抑え、時に自己主張して生きる、それが人生なのだ。
でも私も弱い人間である。自分の信念を疑うことだってある。
今回はそういう話だった。この話を読んで、どう思っただろうか。

私はただの頑固で、信条なるもので関係を壊すような男だと思っただろうか?
天の邪鬼であると考えるだろうか? もう少しうまくやればいいのにと。

だが、自分の正直になる事がこれからの私の人生にとって大事なのだと信じているのだ。
たとえ、それが喪失であっても、その後悔よりも、自分を偽った後悔の方がずっとずっと
大きいのだと私は思っているのだ。

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労働の対価とは?ー価格の恣意性ー [思考・志向・試行]

経営者と労働者の関係をつぶさに眺めると、搾取が生じている。

そもそも価格と価値にはつながりがない。ここに経済学上の大欺瞞がある。
これが繋げられるかのような幻想の元に、経済学が成り立っている。

私はマルクスの基本定理という置塩と森島によって証明された定理を採用したい。
この定理とは、価格ベースでみれば経済は公平にみえる。だが、価値ベースで
みれば、利潤が発生した場合は、搾取が起こっている。そして、本質的に我々は
価値をベースに生きている。よって、常に経営者と労働者の間には搾取が生じている。

ものすごく具体的にいえば、あなたがとある工場で1時間働いたとき、その対価として、
1080円もらうとする。この価格は一体どうやって決まるのか?ということだ。

経営側からみれば、この額は低いほどいい。できればタダが良い。だが、それでは
誰もやってくれないだろう。だから下側から上げていって、これくらいでとなる。
だが、現実的には意味ではどうやって価格が決まるのだろう?

法律では、最低賃金というものが換算されて設定されている。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/minimumichiran/

そもそも、行政がこれを決められると考えている事自体が幻想であるのだが、
現実問題、まさに現実として労働者の対価は決められている。

よって、私が経営者なら、この賃金より低くは出来ないために、これを基準に人を
探すことになる。世間の労働者は逆にできるだけ、稼げる業種を探そうとする。
そのような業種に到達するには、教育投資が必要で、自己の価値を増大させれば良いと
思っている。もちろん、愚かな発想であり、それは洗脳された思想であるのだが。

かくして、病院での清掃業では、最低賃金であり、弁護士の労働では何十倍もの価格が
労働に対して設定される。これを誰も疑わないのだが、本来はおかしいと思うはずだ。

初心者よりも経験者がより対価をもらうのは、ある程度納得できるだろう。労働生産性が
異なるといえるからだ。だが、労働そのものが同じであれば、対価はおなじになるはずである。
私が直径1mの穴をほって、誰か土建のプロが直径1mの穴をほったとして、労働は同じである。
だから、対価は同じはずだが、実際には土建のプロに何倍もの対価が与えられる。これは
異常事態である。これが現代的にいえば、正社員と派遣社員の労働対価問題である。

ところが、多くの人はそれを普通と思っている。おそらく頭が狂っているからなのだろうけども、
誰も指摘しないので私がここで指摘しておく。繰り返す、もし本当に賃金が労働対価として
設定されているならば、等しく対価が払われるべきである。逆に言えば、現実には、労働の対価
として給与が払われるわけではないとしたらどうか? そう、それが真実である。

矛盾した話にはウソがある。真実は、経営者側が労働者を実際の労働生産よりも低い賃金で
働かせる事で成り立つ論理である。労働というものが価値を生むのであれば、あなたが生産した
工業製品、農作物はあなたのものだ。それをどう売るのかは生産者の権利といえる。つまり、
あなたが車を作っているなら、労働という観念からいえば、その車はあなたが生み出したものである。
よって、車会社その車を買い取らねばならないはずなのだ。しかし、その車がうみだす利潤を
あなたが得ることはない。つまり貴方の労働に対してそのまま給与は支払われない。代わりに、
月給という謎の金が銀行に振り込まれるのである。それは最低賃金をベースに色をつけたものである。

こうかくと、原材料や工場は経営者のものであるとかいう浅はかな反論があるだろう。
だが、その原材料は誰が作ったのか?工場は誰がつくったのか? そう労働者である。では、
その労働者、その生産に対して正当な対価を得ただろうか? 否。 そこでもまた、適当な低い
賃金を支払っただけであろう。つまり、経営側が生産物を手にしている正当な理屈などないという
ことだ。

いやいや、経営者はちゃんと金を出しているじゃないというのか。じゃあ、その金もまた誰が
作ったのか? 労働者から召し上げた生産物を売っぱらった結果ではないのか? 経営者はちっとも
働いてなどいない。その対価を労働者から召し上げているだけに過ぎないのである。

でも、誰かが最初に金を渡さないと、生産物が作れないじゃないか? その疑問の最大のポイントは
労働と対価の時間差である。労働者は労働と同時に金を得るわけではない。労働から、賃金まで時間
が生じている。つまり、労働の対価物を経営者は運用して財を増やしているとも言えるのである。
そのようにして得た富を投資に回すということだ。

もっとひどい話として言えるのは、暴力である。暴力によって初期には人を使役した。奴隷などは
その最もたるものだ。植民地時代には人が家畜のように扱われ、その労働対価を溜め込んだのが経営者
である。結局の所、金持ち、財をもった人間は、他者を搾取した人々であると言える。これは厳然
たる事実である。反論など出来まい。

その搾取した財を労働対価としてばらまく事で、労働者からさらなる搾取を行う。これが経営の
本質である。他者の頬を札束で叩いて、労働力を搾り取るということだ。

念のためにいえば、特定の経営者を批判しているわけではない。経営者という機能を批判している
だけである。そして現に、それがリアルな世界において、今も目の前で行われているという事実を
描写しているのである。

普通の感性の持ち主は、そんな事をされたら逃げ出すだろう。労働などまっぴらごめんだと。
奴隷が逃げ出すのは当たり前だと思うだろう。だが、労働者はあまり辞めたり、逃げ出したりしない。
その理由は、現代国家が金というバーチャルな幻想で、国民を縛っているからである。また、
身近な他者が、すでに労働への洗脳が済んでいるからである。親、友達、教師、上司、同僚、
誰も彼もがそれを正しいという世界で、私のような言明はかくも心細い。本当を話すとはかなり
危険でもある。だが、ここにちゃんと真実を記述する必要があると考えた。

奴隷なら逃げ出す。いや、あなたが本当に奴隷ならむち打ちが嫌で、逃げたり出来ないはずだ。
客観的にみた場合と、実際に起こった場合ではまるで違う。だからこそ、労働者は逃げ出さない。
逃げたら自己が崩壊するかのように洗脳されているからだ。そして実際に、労働に耐えきれない
とき、そしてその精神的な逃げ場を失った人々は、最後の手段に出る。日本では年間に公式記録
で2万人。おそらく変死の多少の割合もまた、最後の手段に出た人々の記録である。逃げ出す場所
が見つからないために、世界から逃げ出してしまうのだ。それは絶望である。

この絶望は、当たり前だが個人の問題ではない。奴隷の人間を自己責任だと言える人間が現代に
いるだろうか? まったく同じ理屈で、労働者である人間を自己責任と言えるだろうか?否。

現代の奴隷生活つまり労働者生活では、一見すると自由があり、自分の裁量で生きているように
見える。だが、内実は常に誰かの元に、大げさにいえば国家において、利用されるべき人間として
登録されているのである。それをまずは直視すべきなのだ。

労働者として高級に見える大企業や官僚らは、奴隷頭であり、それを自己の実力であると認識
している。だが、そんな馬鹿なことはない。受験というパズルゲームの覇者は、その能力によって
奴隷頭へのきっぷを手に入れた。その能力はどこから来たのか。それは努力だけではない。遺伝
である。つまり貰い物である。貰い物をどれほど活かしたかは確かに個人の能力だろう。だが、
それだけでは決してない。ならば、そこには逆の意味での責任がある。

国家に従属するのがアホらしいという人間はグローバル会社へと移行した。いまや優秀な労働者は
グローバル企業にいる。だが、その本質は常に変わらない。労働を搾取されており、その搾取の
結果として生きている。いや、死んでいるのだと、あえて批判しておく。どんなに取り繕っても
これは真実である。豪華にみせても、所詮、労働者は労働者である。そして奴隷なのだ。

さて、労働者がつまりは奴隷であるとわかった所で、何がいいたいのか。まずは、労働が本質的に
苦しいなら逃げ出せばいいと言うことだ。奴隷として面従腹背するのは現実としては仕方がない。
それは同意する事だ。だが、それによって死ぬことなどまったくない。学校がつらくとも、会社が
つらくとも、所詮、奴隷仕事である。それはあなたの責任ではない。雇っている側の論理である。
極端に言えば、労働者に労働物を保証する義務などないのだから。

じゃあ、みんなが労働をサボったら、社会が回らないとなるだろう。そう、まさに回らないのが
社会である。そちらがまともな社会であり、現代が異常である。狩猟採集民は、農業をやっていた。
だが、それはあくまでも補助である。普通に獲物があり、自然に感謝して暮らしていた彼らは、
余剰な生産物などいらなかったのだ。必要な仕事をして暮らしていたのである。

現代社会は、必要な暮らし以上のものを追い求めるという皆精神疾患者で構成された社会である。
フロムはこれを「見栄」による労働ー消費の運動とみなした。虚栄心こそが、社会の問題なのだ。
生きるために必要なのは、多額の金ではない。日々の充実である。日々の充実は金では買えない。

金で買えないなら、なぜ日々の充実を仕事で押しつぶすのか。わざわざ、仕事で毎日の楽しみを
押しつぶして、その押しつぶした労働対価の金で、代償を求めてレジャーでウサをはらすのか。

明日を心配することがない。これが幸福の一つの形である。それ以外は殆ど些末なことだ。
明日を心配する、金の心配をする、そういう人間は不幸と呼べる。どんなに財があろうともだ。
それよりも、金はないが暮らしの心配のない赤道直下の人々の方が、はるかに幸せであろう。

21世紀の社会において、重要なのは「明日の心配がないようにするにはどうするか?」である。


労働の話からだいぶ離れてしまった。戻ろう。搾取構造によって労働者たる人々は
常に金がない状態にさらされており、それがために低賃金でも労働せざるを得なくなった。
かつての労働の駆動力、鞭打ちから、債務という形で、労働に向かって駆動しているのである。

現代社会では生きているだけで金を利用する事になる。それはつまり生きる事は債務である。
その弁済のために、労働者は労働することになる。それが国家の仕組みだからだ。いや、
極端にすれば、現代日本では生活保護がある。だが、それを推奨するわけではないし、むしろ
限りなく生き辛い仕組みに晒される。老人によっては、わざと犯罪を犯して、牢屋に入ろうと
までする。生活が困難であるということは犯罪と密接に関わっているのだ。

国が人々を食わせることが出来るなら、無理に労働することはない。労働する事がなければ、
搾取もない。もちろん、原理的に不可能だ。金を利用してそういう事は出来ない。

では希望はないのか?
私は、搾取ではなく、協力として駆動する社会システム。そういうものを求めたい。
経営者や投資家ががふんぞり返って、搾取を自己肯定して利益をがめる異常な社会を脱し、
仕事プロジェクトに参加した人々がおおよそ対等に労働対価を得る仕組み。そういう事で
初めて、日々の充実した仕事になり、人生の意義になるはずだ。

仕事がつらいという人は、アホじゃないのか? そういう時代が来る事を望んでやまないのだ。
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