労働の対価とは?ー価格の恣意性ー [思考・志向・試行]

経営者と労働者の関係をつぶさに眺めると、搾取が生じている。

そもそも価格と価値にはつながりがない。ここに経済学上の大欺瞞がある。
これが繋げられるかのような幻想の元に、経済学が成り立っている。

私はマルクスの基本定理という置塩と森島によって証明された定理を採用したい。
この定理とは、価格ベースでみれば経済は公平にみえる。だが、価値ベースで
みれば、利潤が発生した場合は、搾取が起こっている。そして、本質的に我々は
価値をベースに生きている。よって、常に経営者と労働者の間には搾取が生じている。

ものすごく具体的にいえば、あなたがとある工場で1時間働いたとき、その対価として、
1080円もらうとする。この価格は一体どうやって決まるのか?ということだ。

経営側からみれば、この額は低いほどいい。できればタダが良い。だが、それでは
誰もやってくれないだろう。だから下側から上げていって、これくらいでとなる。
だが、現実的には意味ではどうやって価格が決まるのだろう?

法律では、最低賃金というものが換算されて設定されている。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/minimumichiran/

そもそも、行政がこれを決められると考えている事自体が幻想であるのだが、
現実問題、まさに現実として労働者の対価は決められている。

よって、私が経営者なら、この賃金より低くは出来ないために、これを基準に人を
探すことになる。世間の労働者は逆にできるだけ、稼げる業種を探そうとする。
そのような業種に到達するには、教育投資が必要で、自己の価値を増大させれば良いと
思っている。もちろん、愚かな発想であり、それは洗脳された思想であるのだが。

かくして、病院での清掃業では、最低賃金であり、弁護士の労働では何十倍もの価格が
労働に対して設定される。これを誰も疑わないのだが、本来はおかしいと思うはずだ。

初心者よりも経験者がより対価をもらうのは、ある程度納得できるだろう。労働生産性が
異なるといえるからだ。だが、労働そのものが同じであれば、対価はおなじになるはずである。
私が直径1mの穴をほって、誰か土建のプロが直径1mの穴をほったとして、労働は同じである。
だから、対価は同じはずだが、実際には土建のプロに何倍もの対価が与えられる。これは
異常事態である。これが現代的にいえば、正社員と派遣社員の労働対価問題である。

ところが、多くの人はそれを普通と思っている。おそらく頭が狂っているからなのだろうけども、
誰も指摘しないので私がここで指摘しておく。繰り返す、もし本当に賃金が労働対価として
設定されているならば、等しく対価が払われるべきである。逆に言えば、現実には、労働の対価
として給与が払われるわけではないとしたらどうか? そう、それが真実である。

矛盾した話にはウソがある。真実は、経営者側が労働者を実際の労働生産よりも低い賃金で
働かせる事で成り立つ論理である。労働というものが価値を生むのであれば、あなたが生産した
工業製品、農作物はあなたのものだ。それをどう売るのかは生産者の権利といえる。つまり、
あなたが車を作っているなら、労働という観念からいえば、その車はあなたが生み出したものである。
よって、車会社その車を買い取らねばならないはずなのだ。しかし、その車がうみだす利潤を
あなたが得ることはない。つまり貴方の労働に対してそのまま給与は支払われない。代わりに、
月給という謎の金が銀行に振り込まれるのである。それは最低賃金をベースに色をつけたものである。

こうかくと、原材料や工場は経営者のものであるとかいう浅はかな反論があるだろう。
だが、その原材料は誰が作ったのか?工場は誰がつくったのか? そう労働者である。では、
その労働者、その生産に対して正当な対価を得ただろうか? 否。 そこでもまた、適当な低い
賃金を支払っただけであろう。つまり、経営側が生産物を手にしている正当な理屈などないという
ことだ。

いやいや、経営者はちゃんと金を出しているじゃないというのか。じゃあ、その金もまた誰が
作ったのか? 労働者から召し上げた生産物を売っぱらった結果ではないのか? 経営者はちっとも
働いてなどいない。その対価を労働者から召し上げているだけに過ぎないのである。

でも、誰かが最初に金を渡さないと、生産物が作れないじゃないか? その疑問の最大のポイントは
労働と対価の時間差である。労働者は労働と同時に金を得るわけではない。労働から、賃金まで時間
が生じている。つまり、労働の対価物を経営者は運用して財を増やしているとも言えるのである。
そのようにして得た富を投資に回すということだ。

もっとひどい話として言えるのは、暴力である。暴力によって初期には人を使役した。奴隷などは
その最もたるものだ。植民地時代には人が家畜のように扱われ、その労働対価を溜め込んだのが経営者
である。結局の所、金持ち、財をもった人間は、他者を搾取した人々であると言える。これは厳然
たる事実である。反論など出来まい。

その搾取した財を労働対価としてばらまく事で、労働者からさらなる搾取を行う。これが経営の
本質である。他者の頬を札束で叩いて、労働力を搾り取るということだ。

念のためにいえば、特定の経営者を批判しているわけではない。経営者という機能を批判している
だけである。そして現に、それがリアルな世界において、今も目の前で行われているという事実を
描写しているのである。

普通の感性の持ち主は、そんな事をされたら逃げ出すだろう。労働などまっぴらごめんだと。
奴隷が逃げ出すのは当たり前だと思うだろう。だが、労働者はあまり辞めたり、逃げ出したりしない。
その理由は、現代国家が金というバーチャルな幻想で、国民を縛っているからである。また、
身近な他者が、すでに労働への洗脳が済んでいるからである。親、友達、教師、上司、同僚、
誰も彼もがそれを正しいという世界で、私のような言明はかくも心細い。本当を話すとはかなり
危険でもある。だが、ここにちゃんと真実を記述する必要があると考えた。

奴隷なら逃げ出す。いや、あなたが本当に奴隷ならむち打ちが嫌で、逃げたり出来ないはずだ。
客観的にみた場合と、実際に起こった場合ではまるで違う。だからこそ、労働者は逃げ出さない。
逃げたら自己が崩壊するかのように洗脳されているからだ。そして実際に、労働に耐えきれない
とき、そしてその精神的な逃げ場を失った人々は、最後の手段に出る。日本では年間に公式記録
で2万人。おそらく変死の多少の割合もまた、最後の手段に出た人々の記録である。逃げ出す場所
が見つからないために、世界から逃げ出してしまうのだ。それは絶望である。

この絶望は、当たり前だが個人の問題ではない。奴隷の人間を自己責任だと言える人間が現代に
いるだろうか? まったく同じ理屈で、労働者である人間を自己責任と言えるだろうか?否。

現代の奴隷生活つまり労働者生活では、一見すると自由があり、自分の裁量で生きているように
見える。だが、内実は常に誰かの元に、大げさにいえば国家において、利用されるべき人間として
登録されているのである。それをまずは直視すべきなのだ。

労働者として高級に見える大企業や官僚らは、奴隷頭であり、それを自己の実力であると認識
している。だが、そんな馬鹿なことはない。受験というパズルゲームの覇者は、その能力によって
奴隷頭へのきっぷを手に入れた。その能力はどこから来たのか。それは努力だけではない。遺伝
である。つまり貰い物である。貰い物をどれほど活かしたかは確かに個人の能力だろう。だが、
それだけでは決してない。ならば、そこには逆の意味での責任がある。

国家に従属するのがアホらしいという人間はグローバル会社へと移行した。いまや優秀な労働者は
グローバル企業にいる。だが、その本質は常に変わらない。労働を搾取されており、その搾取の
結果として生きている。いや、死んでいるのだと、あえて批判しておく。どんなに取り繕っても
これは真実である。豪華にみせても、所詮、労働者は労働者である。そして奴隷なのだ。

さて、労働者がつまりは奴隷であるとわかった所で、何がいいたいのか。まずは、労働が本質的に
苦しいなら逃げ出せばいいと言うことだ。奴隷として面従腹背するのは現実としては仕方がない。
それは同意する事だ。だが、それによって死ぬことなどまったくない。学校がつらくとも、会社が
つらくとも、所詮、奴隷仕事である。それはあなたの責任ではない。雇っている側の論理である。
極端に言えば、労働者に労働物を保証する義務などないのだから。

じゃあ、みんなが労働をサボったら、社会が回らないとなるだろう。そう、まさに回らないのが
社会である。そちらがまともな社会であり、現代が異常である。狩猟採集民は、農業をやっていた。
だが、それはあくまでも補助である。普通に獲物があり、自然に感謝して暮らしていた彼らは、
余剰な生産物などいらなかったのだ。必要な仕事をして暮らしていたのである。

現代社会は、必要な暮らし以上のものを追い求めるという皆精神疾患者で構成された社会である。
フロムはこれを「見栄」による労働ー消費の運動とみなした。虚栄心こそが、社会の問題なのだ。
生きるために必要なのは、多額の金ではない。日々の充実である。日々の充実は金では買えない。

金で買えないなら、なぜ日々の充実を仕事で押しつぶすのか。わざわざ、仕事で毎日の楽しみを
押しつぶして、その押しつぶした労働対価の金で、代償を求めてレジャーでウサをはらすのか。

明日を心配することがない。これが幸福の一つの形である。それ以外は殆ど些末なことだ。
明日を心配する、金の心配をする、そういう人間は不幸と呼べる。どんなに財があろうともだ。
それよりも、金はないが暮らしの心配のない赤道直下の人々の方が、はるかに幸せであろう。

21世紀の社会において、重要なのは「明日の心配がないようにするにはどうするか?」である。


労働の話からだいぶ離れてしまった。戻ろう。搾取構造によって労働者たる人々は
常に金がない状態にさらされており、それがために低賃金でも労働せざるを得なくなった。
かつての労働の駆動力、鞭打ちから、債務という形で、労働に向かって駆動しているのである。

現代社会では生きているだけで金を利用する事になる。それはつまり生きる事は債務である。
その弁済のために、労働者は労働することになる。それが国家の仕組みだからだ。いや、
極端にすれば、現代日本では生活保護がある。だが、それを推奨するわけではないし、むしろ
限りなく生き辛い仕組みに晒される。老人によっては、わざと犯罪を犯して、牢屋に入ろうと
までする。生活が困難であるということは犯罪と密接に関わっているのだ。

国が人々を食わせることが出来るなら、無理に労働することはない。労働する事がなければ、
搾取もない。もちろん、原理的に不可能だ。金を利用してそういう事は出来ない。

では希望はないのか?
私は、搾取ではなく、協力として駆動する社会システム。そういうものを求めたい。
経営者や投資家ががふんぞり返って、搾取を自己肯定して利益をがめる異常な社会を脱し、
仕事プロジェクトに参加した人々がおおよそ対等に労働対価を得る仕組み。そういう事で
初めて、日々の充実した仕事になり、人生の意義になるはずだ。

仕事がつらいという人は、アホじゃないのか? そういう時代が来る事を望んでやまないのだ。
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