プリウス事故ー原因考察ー [その他]

まずは、今回池袋で犠牲になってしまった方々のご冥福をお祈り致します。

この手の話はあまり興味が無いのだけれど、事故現場付近を知っていたので、
少し興味が湧いた。

https://www.shogogor.com/gennnnba/3765/
https://news.yahoo.co.jp/byline/kunisawamitsuhiro/20190420-00123047/
https://bluesea0925.com/accident/7365/

状況は上記のサイトなどを参照すればだいたい理解できるだろう。
ポイントは、

1.高齢者ドライバーの技能低下問題
2.プリウス固有の問題
3.車の技術問題

4.運転手問題(報道後の追記)

この辺りだろうか。

1.高齢者ドライバーの技能問題

 高齢者になれば判断力が低下するのは仕方がない。つまり事故の確率は当然高まるといえる。
 操作ミスもあれば、判断ミスもある。また運転ミスも出てくるだろう。まずは、これらが
 起こるのは人ならば当たり前だと仮定するところからだ。

 人のせいにする人は、いざという時にあなたも言い訳不能となる事を忘れている。
 
 ヒューマンエラーは「どうしてそんな事したんだ!」ではなく、「それはあり得ることだ」
 で考えるべきことだ。車なら一番の危険性は、不用意にアクセルを開けてしまう事である。
 そんなの小学生でも分かることだ。ならば、例えばうっかりアクセルを開けてしまった時、
 どうすれば事故を最小限に抑えられるか、それを車会社は考えないきゃいけないのだ。

 一方で、人間の能力低下は間違えなくある。だから、歳をとったら、ブレーキテストのような
 ものを導入して検査するとか、免許の更新期間を短くして、認知能力を確認するなど検討した
 方がいいだろう。正直、警察署の免許書き換えの視力検査などのいい加減さをみていると、
 何をみているのだろう?と疑問になる。ただ”やった感”だけにみえるのは私だけじゃないだろう。

 結局、ヒューマンエラーが起こりそうな場合は、乗らないに限る。そして、それを防ぐ
 技術が必要になのだ。

 すると問題は生活空間の問題で、車がないと生活が著しくむずかしくなる場所には住めない。
 対応策は、タクシーやバスなどによる移動可能性の担保、誰かが買い物を代行するなどだろう。
 これは車だけの問題じゃなくて、地域の問題である。真剣に考える時だと思う。

 追記:

   2の追記を書いていて思ったのだが、今回のこの報道は、高齢者から免許を剥奪したい
   という意図も伺える。個人的にはちゃんと運転できるドライバーなら何歳でも構わない
   と思う。だから、高齢だから運転はだめというのはおかしな話であると付け加えておく。

   むしろ、暴走したり煽ったりするドライバーなど、明らかに運転に不向きな人からは、
   年齢に関係なく免許を剥奪すべきだと思う。そっちの方が問題かもしれない。


2.プリウス固有問題

  上記のサイトにもあるように、プリウスのシフトレバーはいささかイレギュラーだ。
  このようなインターフェースが時に問題を起こすことは容易に想像できる。これは
  トヨタのミスである。慣れろというのは簡単だが、他車と違う事は紛れもないこと。
  うっかりミスをさせる仕組みのまま放置しているなら、それは製造者の問題である。

  次にハイブリッド車固有の問題だ。シフトバイワイヤでは、アクセルやブレーキが
  電子制御されている。アクセルがそのままエンジンに影響を与えるのではなく、アクセル
  開度を信号に変更し、その信号をエンジンやモーターに送って動かすわけだ。
  http://news.livedoor.com/article/detail/13557570/
  https://www.tdk.co.jp/techmag/salon/car/car050926a.htm (参照)

  当然ながら、この部分は今回の事故原因になりえる。

  このシステムの異常が起これば、アクセル開度の信号が誤動作をしても不思議はない。
  アクセルを足の力で押してないのに、アクセルが押しっぱなしになるという誤動作が
  起こり得る。この構造がどうなっているかは、プリウスの仕組みを実際に知らないと
  分からない。しかし原理上、運転手の挙動と車が切り離されている事は、その間の
  不具合は確実に起こる事だ。問題はその程度である。

  追記:

   たとえばこれだ。
   https://response.jp/article/2010/03/16/137725.html

   この乗車していたジェームス・サイクス氏がウソをついていないのであれば、
   明らかになんらかのバイワイヤトラブルが考えられる。

   また不具合一覧がある。
   http://carinf.mlit.go.jp/jidosha/carinf/opn/search.html?selCarTp=1&lstCarNo=960&txtFrDat=1000/01/01&txtToDat=9999/12/31&txtNamNm=プリウス&txtMdlNm=&txtEgmNm=&chkDevCd=7&page=3

   これらをうちいくつかは明らかにメカニカルな問題やヒューマンエラーではなく、
   車が暴走している可能性が伺える。車側の問題も間違えなくあるといえる。

   トヨタはこれらをただの不具合や、ヒューマンエラーというのかもしれないが、
   今回のような出来事が他の場面で起こったら、今回の事故のようなことは十分に
   あり得る。
 
   どうやら人為的なご操作のみならず、明らかな不具合がある。それがプリウスであり、
   おそらく車の技術的問題なのだ。もちろん、殆の状況ではこんな不具合はないはずだ。
   特定の動作、特定の場合に起こるのではないかと思われる。

  追記2:
    上記のサイトで、どの型が急発進系のトラブルを起こしているかを調べてみた。
    2ZR-5JM、2ZR-3JM、2ZR-1NM、1NZ-3CM、1NZ-2CM という5つの型番だ。

    そのうちの一つに気になる事柄として
   「ハイブリッドバッテリーの充電レベルが高くなった状態での減速時、突然エンジンが
    吹ける事がある。」というものがある。

    5つの型番に共通した事故として、減速時の次のアクションで急発進が起こっている
    事である。駐車場や停車状態からの挙動で異常が起こった。しかも、この中には、
    ブレーキしか障っていないのに暴走したケースがあり、しかもログにはアクセル開度が
    開いていたとあった。

    滅多にない症状なのかもしれないが、プリウスはハイブリッド車であり、回生ブレーキ
    を積極的に採用している。その効率化の仕組みが不具合を起こしていると推測できる。
    特にバッテリーからの過剰放電などで、おかしな事が発生している可能性は否めない。

    特に2ZR-3JMをご使用の方は、低速走行時に気をつけることだ。報告が一番多かった。

    追記3:https://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-14/2016121401_04_0.html
    
     この3年前の事故を見ると、型番がDAA―ZVW30とある。これが車体の型式で
     エンジンの型式は2ZR-3JMである。上記のよく急発進系のトラブルを起こす車種と
     同じである。いよいよ怪しい。

    おそらく同じことが今回の池袋で起こったとしても不思議ではない。だとすると、
    ドライバーのせいではなく、全面的にプリウスに問題がある事になる。


  追記:
  
    まだ報道が続いている。プリウス固有の問題としてtwitterにあがっていたのは、
    シフト問題で、プリウスではNにいれた状態でアクセルを踏んでも動かず、そのまま
    Dに入れることが可能だという事らしい。つまりアクセルががっつり開いているのに、
    車がない動かない状態があって、そこに急にDに入れたら、そりゃ暴走すると。

    他のメーカーでは、ブレーキを踏まないとDに入らない仕組みらしい。それは合理的
    といえる。これがことの本質だとしたら、プリウスの設計上の問題+運転者の特殊な
    動作によって、今回の事故が引き起こされた可能性がある。

    もちろん、真実はちゃんとした検証を必要とするだろう。

3.車の技術問題

  車の技術として、バイワイヤが主流となった。つまり、車が電子部品化してる事になる。
  その安全性はおそらく恐ろしいほどのテストを経たもので、殆ど問題はないのだろう。
  だが、モノである限りに絶対はない。例えば、熱い場所に置かれた場合の部品の精度や
  バッテリーの経年劣化などで、マイコンがおかしな挙動をしないとは限らないのだ。
  どんなに設計上で、きっちり制御しようとも、モノは壊れるものである。それは家電を
  一つでも持っているならば分かることだろう。

  ヒューマンエラーは絶対に起こる。そして、モノとしては絶対に壊れる。
  では、どう対策するのか。ここが肝心なのだ。

  運転操作を誤る、壊れているのに動かすなどは論外として、正常に使用していても、
  なんらかのトラブルは大いにあり得るだろう。

  プリウスはハイブリッド車であり、電子化が進んだ車である。技術者が想定していない
  稀なケースにおいて、バイワイヤが狂い、アクセル開度が戻らないということはあり得ることだ。


  今回は、EDR(レコーダー)において、アクセルが押されブレーキの挙動がなかったと
  伝えられている。だが、果たして運転手本人が、それをしていなかったかどうかは、この
  ログからは明らかではない。機械がそのように動いていたというのがこのログだからだ。

  このログにあるような挙動を運転手がとっていたのかが問題になる。しかし、その情報はない。
  本人は「アクセルが戻らなかった」と言った。

  https://www.sentaku.co.jp/articles/view/17594

  この記事にあるように、衝突回避システムが搭載されていても、そもそも車がその通りに
  挙動しなければ無意味である。ましてや、システムがあるのに制御されていない。これは
  大問題である。

  また今回の池袋の事故では、運転手や同乗者が「危ない」「あー、どうしたんだろうね」
  と言ってたと記事にはある。これが車の挙動がおかしくて、どうしたんだろう?という事で、
  かつ、アクセルが事実戻らなかったのならば、これは車の不調を指し示す。いくら高齢だから
  といって、ヒューマンエラーの原因に帰するのは無理があるのではないか。


結局、断定できることは何もない。事故原因は結局、ヒューマンエラーで片付けられるのだろう。
だが、この事件は、車の異常な挙動という可能性が拭えないのだ。絶対に起こらないとは言えない。
それが、バイワイヤシステムのメリットとデメリットなのだから。


  私の類推では、他の事故も鑑みるに、プリウスなどバイワイヤシステムの車には、事故の
  恐れがあるといえる。それは機械の設計上仕方がない事だ。その可能性は恐ろしく低いの
  だろう。だが、車は何十万台も売られたわけだ。そしてあらゆる状況で走っている。その
  中の何台かに不慮な事が起こっても不思議ではない。今回は、条件が重なった結果として、
  車の異常発進が発生したのではないか。私は運転手だけに責任があるとは思えない。


  よって、トヨタはこの件についてあえて、リコールなどで全車検査をすべきなのだ。
  そして、安全であることを再度証明すればいい。もし、なんらかのトラブルが極稀に
  発生することを隠蔽しているなどでなければ、堂々と検査すればいいのだ。


  昨今では大企業が検査不正や燃費不正など、過当競争の煽りを受けて、消費者を騙す事が
  続いている。よもや、トヨタがそのような会社だとは思いたくない。ならば、積極的に
  情報を開示して、対策があるなら施せばいいのだ。


4.報道をみて

  今回の事件では、どうやら運転手は逮捕されないらしい。事故後は入院したという事もあり、
  事情聴取が難しいのかと思っていたのだが、どうやら事故後に息子に電話が出来たいたらしい
  事や、この運転手は元官僚だという事が明らかになってきた。

  通常、過大な事故を起こした人は、故意でも過失でも起訴されるのが通例だろう。
  たとえば、群馬の高速バス事故:https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0102J_R00C12A5000000/

  少なくとも今回も残念ながら死傷者が出たわけで、当然、自動車運転過失死傷で逮捕される
  のが当たり前だろうと思われる。この例をみれば本人が怪我をしていても関係はない。

  そして、裁判を通じて、プリウスの問題なのか本人の技量の問題なのかを明らかにして、
  相応の責務を果たす事になるはずだ。

  
  しかし、どうも逮捕されないという話になってきたらしい。それが真実なら一体、法とは
  なんなのか。全ての司法に関わる人間に問いたい。人を裁く根拠は何かと。そして、そこに
  例外を作る行為は、越権的行為であるはずだ。
  
  万が一にも、逮捕されないというのであれば、法を履行する意味がなくなる。元官僚なら
  逃げられるというならば、それは庶民を愚弄しているといえる。これは事故とは無関係に
  議論すべき問題である。


追記 税金の無駄使いについて

    プリウスと言う車は存在自体がおかしい所がある。国策車でもあるからだ。
    エコカーといきなり言われ始めたのを覚えているだろうか。あれは、環境に良いという
    宣伝の元、ハイブリッドという新しい車の形を過剰に宣伝していた。

    そもそもプリウスは高い。普通の車にモーターがつき、制御回路が積まれるのだ。
    そりゃ高いだろう。だから、そんなに売れるはずがない。そこで政治だ。環境に配慮
    という馬鹿みたいな標語を掲げることで、トヨタは税金の抑制を確保した。現在でも
    35万円ほど、コンシューマーは安く買える。(自動車取得税、自動車重量税、グリーン化
    特例、そしてCEV補助金)特に欺瞞なのが、最後のCEV補助金であろう。内訳は20万
    である。
    
    CEV補助金とはクリーンエネルギー自動車導入事業費補助金の略である。これは
    次世代自動車振興センターによって管理されている国の補助金である。

    ようは、誰かがプリウスを買うと、他のみんなから集めた金で負けてやろうという話。
    20万円を使うのだ。その金はトヨタを始めEV車系の会社の利益になる。税金の横流し
    と言えるだろう。その大義は、CO2の排出量削減である。だが、完全なEVでもなく、
    EVだとしても、その電気は誰がどうやって作っているというのか。石油を燃やして電気
    を作るのだとしたら、どこがエコだというのか。一番のエコは車をやめることだろう。

    プリウスはその代表格である。見る度にうんざりする。消費者は安く買えるからいいやと
    思い、かつ先進的な車にのれ、環境に優しいなら、多少高くても満足できると考える。
    それが本当に目的に適うかを考えていない愚昧さが私には大いに気なるのだ。それを
    確信犯でやる行政と自動車会社にも不信感が半端ない。
    
    またプリウスは売るほどに赤字になるという噂がある。おそらく、それをペイする形に
    しているのが公金の投入であり、減税なのだと思われる。

    そうまでして売ろうとしている車に欠陥があるとは、口が裂けても言わないだろうことは
    明らかだろう。プリウスには急発進の可能性があり得るとひとまず認識しておく必要がある。
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親鸞聖人ー歎異抄の思想ー [思考・志向・試行]

親鸞聖人について、弟子である唯円が書いたものが「歎異抄」である。

この中で驚くべきことは2箇所ある。一つは有名な悪人正機である。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」だ。

善人ですら、極楽浄土に行けるのであれば、悪人はなおさら極楽浄土にいくであろう。
そういう意味だ。常識的な言説でいえば、まるで逆に見える。しかし、これで正しいのである。

まず大前提でいえば、この言葉の前には阿弥陀様の本願に対して、念仏を唱える事。
これがある。ここが案外落とし穴かもしれない。ここに出てくる善人や悪人はともにすでに
念仏「南無阿弥陀仏」を唱えているものとするのだ。

阿弥陀様は全ての人々をお救いになるという願をかけて祈る仏である。
それは他力本願と呼ばれ、その願にすがるというのが浄土真宗の信仰である。
本願するのは阿弥陀様であって、我々ではない。これもまた見落としがちだろう。

その上で、大きく取り違えがちなのは、この悪人という意味だろう。
宗教者は自己を悪人とみなすのだ。日常生活において、我々は善人で居続けられない。
状況によって生き延びるために悪事をはたらく事がある。人を恨んだり、だましたり、
無用な殺生をしたり、争いをしたり、ウソをついたり様々な悪事がある。苦悩する
我々は決して善人ではなく悪人であろう。その我々こそ、阿弥陀様の本願におすがり
することで、極楽浄土にいくのである。

一方で、善人とは、自ら善を行い、その善行を誇り、それが故に極楽浄土に
行こうとするもの。するとおのれの力に頼って、阿弥陀様の本願にすがることを
良しとしない。そのような自力の心を捨てる事で、極楽浄土につれていくという
阿弥陀様の本願とは相容れないものとなる。つまり阿弥陀様の本願に対する資格がない。
しかし、そのような善人も、自力をすて、他力に頼る事で浄土に行けるという。

ならば、悪人は当然、極楽浄土にいくであろう。これが「悪人正機」の理路である。


普通は、善いことをしたら極楽へ、悪いことをしたら地獄へと発想であろう。
だから、善いことをすべきなのだと続く。多くの宗教はこの良い事の中に、宗教への信仰の
証として寄進を求めた。寄進することが善き事であり、そうすることで極楽へ行けると。

では、すでに悪事をしてしまった人はどうすればよいのか。また、そもそも善きこと
が出来ない生活に縛られている庶民はどうすればいいのか。ここに阿弥陀様が現れる。
ただ念仏さえ唱えれば、悪人こそ極楽浄土へ行けるという教えなのだ。これは実に救い
であったはずだ。法然、親鸞と続く念仏行は、こうして庶民に広がってゆくのである。

このロジックのポイントは、どうあろうとも、念仏を唱えるしかないという事になる点だ。
そこにこの宗教の宗教らしさがある。念仏を強制する仕組みになっているのだ。


では、その念仏を唯円はどう思っていたのか。歎異抄の2つ目の驚きはここである。
唯円は師匠である親鸞に問う。「私は念仏を唱えても、ちっとも嬉しいとは思えない。
それはどうした事でしょう?」と。それに親鸞は答えて言う。「実は私も念仏を唱えても
喜ばしいとは思えないのだ。しかし、その喜べない事こそ煩悩の証。そして、そのような
煩悩をもつという事は、極楽浄土へと救おうとする阿弥陀様の本願に適う事。ならば
安心して良いのだ。むしろ、念仏を唱えることに喜びがあるならば、かえって本願から
はずれ、極楽浄土が遠ざかるというもの」と答えている。

またもや逆説である。普通の信仰では、祈ることが信仰の証であり、それをサボる事や
それを疎ましく思うのは信仰が足りないと考えるだろう。しかし、浄土真宗の教えは、
むしろ、そのように念仏に深い感慨がないからこそ、極楽浄土への道が開けるという。
なんと不思議な宗教だろう。そして、理路が確かにある。

他力本願という思想は、実によく練られた思想であると思う。
逆説的に物事を捉えることで、ポジティブな思考回路を形成できるわけだ。

だが、当然の危惧はある。悪人が救われるという意味を、悪事をしてもよいと捉える事
である。どんな悪事をしても、念仏さえ唱えれば救われるというのでは、元も子もない。
そこに道徳性をもたらさないのである。だからこの悪人正機は、安易に知らしめるもの
ではないのだ。念仏行に疑問を持つものにこそ、悪人正機はふさわしい。
だからこそ唯円は最後にかく。「外見あるべからず」むやみに見せてはいけない書であったのだ。

ちなみにこの「歎異抄」が有名になったのは、清沢満之らによるものだ。


政治や社会が混乱した時代。その時代にすがるものは、このような宗教だったのだろう。
生死が身近にあるとき、人はなにかに頼りたくものだ。それは幼少期の母と子の関連性
でもある。我々は親という存在関係を、宗教に投影する。自己を庇護してくれる存在とは
幻想としての母であり、母とはつまり神なのだろう。念仏はそのような混乱期に人々の
心を救う作用があったに違いない。


逆説的な宗教性が現実に開かれた例はまさしく現代の資本主義である。
資本主義は宗教といえる。金という神を信奉する。金に頼めば、なんでも手に入るという
宗教だ。この宗教は、キリスト教という伴奏者がいる。プロテスタントによる宗教的
バックグランドが、金儲けを宗教的な善とした。そこに金儲けが肯定されるのである。

ユダヤ教やイスラム教では利子はご法度である。ユダヤ人は利子を取るがそれは他宗教者
からである。その意味ではキリスト教者は、考えが異なる。

イギリスから迫害され海を渡ったカルヴァン派の人々は、アメリカにおいて領地を
ネイティブ・アメリカンから暴力で奪い、そこで産業を起こした。彼らの商売でなぜ
金銭を儲けることが肯定されたのか。

それは世俗的禁欲という思考法である。
禁欲なのに金儲けとはこれ如何に?

キリスト教者である人々は、修道士のように暮らすわけではない。とはいえ世俗にいきる人々
もまた最後の審判で天国にいきたいと思う。そのために何をするのか。それが禁欲である。
節約して金をためて寄付をする。それ以外に何をするのか。金を投資に回すのである。
無益に使わず、節約して投資に回す。これが世俗的禁欲である。その結果として、彼らは
金持ちになってゆく。それは善行の恩恵というわけである。

宗教に忠実であるほどに、儲かってゆく。それは善とみなされるのだ。
なぜなら、その金は教会を支える資金になり、権力となるからである。
金儲けにどこか抵抗がある日本人とはエライ違いである。


現代日本は、資本主義の形式だけが導入された。その結果として、金儲けを是とする
一方で、金は汚いものという感性が残り続けた。そして金儲けに主眼をおく行動を
する人をみると、あの人は小汚いというように評価する。一方で、社会の仕組みはそれを
是とする。矛盾の社会になってしまった。

いつの世の若者も、矛盾を解消しようとするもの。若者たちはどちらかに寄り添ってしまう。
一方で多数はの金は汚いもの派。もう一方の少数派として、金は尊いもの派である。

現代に親鸞が生きていたら、どういうだろうか。金儲けを否定はしないだろう。
儲けるも、儲けないも、どちらでも念仏さえ唱えれば、阿弥陀様は極楽浄土へつれていく
というだろう。儲けたことが他者の搾取であるならば、それは悪人であろう。悪人と
自覚出来るものはすべからく極楽へと行けるのだ。

しかし、搾取を当然と肯定し、自らを善人とする人は、自力であり、阿弥陀様の本願から
外れてしまうだろう。金をただ儲けるという事を是とする人は、肯定されないかもしれない。


話を戻そう。親鸞や唯円は、逆説的な言説により、念仏を肯定した。
歎異抄は、実にシンプルなロジックである。我々はこれから混乱する時代に対して、
念仏のような救いを求めるようになるだろうか。そうした時、念仏行のような仕組みは、
人々を救うのかもしれない。
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いわさきちひろー純粋さと自由ー [思考・志向・試行]

いわさきちひろ絵本美術館に行ってきた。

あの絵本の人である。最近の人だとずっと思っていたら、
1918年生まれであった。そういう視点で見直すととてもモダンだと思う。
子どもたちの絵が多いが、彼らの服装などは、決して古くない。
髪型も、どこかしらオシャレである。きっと、岩崎氏の視点は少女のようで、
大人でもあったのだ。

岩崎ちひろ氏の息子である松本猛氏の著作「いわさきちひろ」を読んだ。

そこに気なる事柄を見つけた。それは岩崎氏の受けた教育のことであり、
彼女の波乱万丈の人生である。

高等学校には、丸山丈作という第六高等学校(現三田高等学校)の校長がいた。

彼の教育方針は先進的で、管理するのではなく、生徒たちを重んじていた。
得点化をやめ、4段階でのみ評価し、定期試験も止めた。不要な劣等感や競争心を
煽る事が教育の本懐ではないという判断である。そして、現代では軽視しがちな
体力増強に力を注いだ。また通知表もやめた。それが知りたい親がいたら、事前に
連絡するようにという仕組みである。

また、今では当然のように行われる修学旅行も、大胆に10日以上に渡る旅行であった。
それは当時の女学生が卒業後に遠出する機会が少なかったせいである。つまり、生徒の
現状を慮って物事が決められていたという事なのだ。本来的に、教育者とはかくあるべき
だろう。現代の教育者は逆に、彼らのために生徒がいるようなものである。生徒の成績は
先生の業績とみなされる。このような馬鹿げた仕組みが教育の荒廃を招くことは明らか
だろう。強制された勉学など誰がやりたいものだろうか。

http://www.wakaba-kai.org/pdf/maruyama.pdf

さて、丸山氏のような校長がいたためか、自由な雰囲気で岩崎氏は絵画に励んだらしい。
学校の成績をさして気にしなくても良かったためだ。この時に岡田氏に師事しデッサン等を
重ねた。これが、いわさきちひろ作品の基礎なのだと思われる。

岩崎氏の絵は今も多くの人々を魅了し、人々に影響を与えている。その人が生まれたのは、
シゴキのように絵を書かされたからではなく、能動的に自ら絵を書き、喜びをもっていた
からだ。現代の仕組みは、やはり創造性という点においても、かなり異常事態なのだと思う。
芸大などに入る子たちは、十分に技法がある。では、その技法がその後アートとして花開く
のか。私には疑問が大いにある。

一方で、いわさきちひろには、つらい経験がある。それは戦争だ。その戦争にまつわる
出来事は、彼女に大きな影を作る。彼女の両親は共働きであり金銭的に裕福であった。
また、親戚筋などにコネがあった。それがため、岩崎氏は戦時下においても、恵まれた
状況に身をおくことができた。しかし、それがために、果たしてこのままでいいのかという
疑問や、悲惨な満州での出来事が彼女を苦しめたに違いない。

自発的に思考し、それが純粋であったからこそ、戦後において彼女は共産党になった。
二度とあの戦争を繰り返さないようにと。その一方で、絵本がリリースされ、絵の仕事も
増えた。母となり、家族が生まれた。それは喜びに満ちたことだったのだろう。自らの
喜びと今もどこかで誰かが苦しんでいるという事実。このアンビバレントな状況に彼女の
創作の核があるのだと思う。


岩崎氏は主に子供を描いていた。とてもかわいらしい絵だ。しかし、そこに込められた
思いは戦争反対であり、苦い経験であったはずだ。どこか物憂げでもある子どもたち。
あなた方は、この子どもたちをまだ争いに巻き込むつもりなのか?と岩崎氏は問うている。

純朴な目でこちらをみつめる子どもたちの顔は、まさに岩崎氏なのである。
そして、なぜこのような存在を踏みにじるのかと。大事にすべきもの、愛すべきものを
ひたすらに絵にしたのだろう。私にはそう思えて仕方がなかった。
岩崎氏の核に備わった自由さは、時代に踏みにじられ、そこから絵画として回復したのである。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

蛇足ながら、つけ加えたい。負い目という感情の事だ。岩崎氏は明らかに自らに負い目を
感じていたと思う。他者が苦労しているのに、自分は比較的恵まれていた事、また自由さへの
意志があることが、どうにも出来ない状況にいる他者の存在への負い目になったのだろう。

ノブリス・オブリージュとは、高貴の義務であるが、岩崎氏の行動にはそういう思想性を
感じる。みんなが苦労し困っているのに、私は果たして、このままでいいのかという思い。
むしろ恵まれている事がかえって足かせのようになっている。作品を創作する事は、その
思いを払拭する事でもあったのではないか。共産党への入党も、このような思想的背景を
感じるのである。

きっと純粋だったのだと思う。高貴な魂をもつものは、自己犠牲をもって、他者の救済を
求めるものだ。それが貧しいものからみれば、鼻につく行為に見えるだろう。だが、どう
にもならなさは、お互い様なのだ。裕福であることもまたどうにもならない事である。

個人的見解からいえば、裕福なのにただそれを笠に着て、脳天気に暮らすのはただの
バカなのだと思う。成金とは心の貧しい人が金を抱えている事である。金持ち一家に生まれ、
放蕩する事もまた愚昧なことだ。なぜなら、どうしてその金が手もとにあるのかを考えた
事もなく、自分の当然の権利のように振る舞うからだ。裕福であるとは、どこかで搾取を
引き起こしたのだ。不当に利益を得たのである。

マルクスの基本定理から、利潤とは搾取である。他者の取り分を’合法的’に自分が得たからこそ、
金持ちになったのだ。自分がやらずとも、家族が祖先が、誰かがやったのだ。胸に手をあてて
何もやましい事がないといえる人は裕福ではないのだ。所有とはそういう仕組である。元来、
誰のものでもない土地や森を我がものだと我欲を突き通した結果である。当然、合法的であると
言い訳するのは分かっている。その法とは、組織における掟であろう。では掟は誰がきめるのか。
その起源はなにか。他者を支配する道具であろう。法とは他者の行動抑制のためにあるのだ。
その法に従って、利潤を得た何が悪い?とのたまうのが、金持ちの常である。

その一方で、金持ちにも苦労はある。金を保持し続けるという事だが、それもまたおかしな
事だ。イラぬことで苦労している。金など使ってしまえばいいのである。金があると人心は
狂う。権力欲が騒ぐのだ。よって金があると不要な苦労を背負い込むことでもある。物事は
一長一短である。

アメリカの誕生史には、入植者たちに配偶者をあてがう目的で、売春宿から多くの女性を
アメリカに送り込んだ事実がある。これをどう思うか。ひどいと思ったか、それとも、
売春婦なのだから仕方がないというのだろうか。二重の意味で酷い事である。社会的に迫害
されたものは、アメリカに行かざるを得なかった。また、ヒトがそこで望んだものは、
結局サル的なものであり、それを満たすために人が利用された。

生きるために否応なく、酷いことを受け入れざるを得ない事がある。金に操られる現代人は、
一生を金のために過ごす。言い換えれば、他者を操って生きる。多くの人を操れるほど、エライ
と言われるのが現代である。だが、それは猿としてのヒトの幸福とは無関係である。

経済的徴兵制は、生きるために人を殺すことである。生存を脅かすなら、他者を殺しても良い。
これを国が保証する仕組みである。一方で、権力者を殺したとしたら、死罪は免れないだろう。
それもまた国が保証する仕組みである。正義とはなんだろうか。危うい状況に佇んでいるのが
現代の我々である。国など信用してはならないのである。

さて、先のアメリカの話をなぜ取り上げたのか。実は日本も同じことをしたのである。
先の戦争において、満州国への移住者を日本は募った。美辞麗句をならべ、それが如何に
大変であるか、貧しいことであることを隠してである。

岩崎氏の母親は、満州国への移住斡旋をする組織にいた。そしてまた、岩崎氏とその友人たちも
満州へと移住したのである。その内実はなにか。それは同じく開拓団として、満州へ入植した
青年たちに嫁をあてがうためである。国が歌う希望には注意しなくてはならないのだ。

開拓団の帰国が見える数ヶ月前になると、強制的に見合いをさせられ、そこで伴侶を選ぶ
ほかなかった。何十分か前に始めて知り合ったような人と結婚したのである。そして更には、
戦争に負けたあと、日本に戻れなかった人は、生活のため中国人に嫁いだのだった。

生きるために自由を奪われた人たち。生きるとは、それほど必死なのである。
社会にがんじがらめになっても、なお人は生きてゆく。戦争は人のエゴをむき出しにする。
そのエゴに対して、身も蓋もない行動をとるのが人なのだ。理念などどこ吹く風である。

現代において、権利を主張できるのは、生きるために仕方なく人殺しをした人々の歴史が
あるからだ。そのような非道を繰り返さないよう、人々のエゴを調整する必要があるのだ。

満州国というものを現代日本ではまともに反省していない。だが、満州にいった岩崎氏は
確かにそこで人々のエゴを見たはずだ。そんなものにどうして、子どもたちを巻き込むのか。
その怒りと、哀れみが彼女の書いたたくさんの子供達からの訴えである。

私は思うのだ。結局、人はエゴでしか動かない。その時代の一番流行りの手法で、エゴを
主張するのである。釈迦はそれを捨てろと言った。確かにそれを捨てられるのであれば、
問題は解決してゆく。だが、人は愚かにも強欲である。そして、そのような強欲を強化し
続けた。強欲に終わりはない。だから資本主義は成り立つ。しかし、資源には限りがある。
全員が同じ様に強欲を満たせるはずはない。この不公平さが争う心を生み出す。公平な
リソースの分配が、争いを減じる手段である。いやむしろ、この不公平さが資本主義を
回す駆動力である。


資本主義が正常に動くには、強欲である必要がある。そして不公平がまかり通る社会で
ある必要がある。不公平を是正しようと<努力>するものがいるから、金が動き、金が
増え、労働量が増えるのだ。増えた労働量によって、資本主義的な意味での経済的な
豊かさが決まる。そして、既存の組織は、<努力>しようとするものからさらなる搾取を
行ってますます大きくなる。これを”社会的成功”という。

一般な人は、社会的成功を是とするだろう。だが、歴史的にみて資本主義的な意味での
社会的成功は、なんの成功でもない。それは搾取の成功であって、幸福の実現とは違う。
また、その成功は既存組織への貢献度で測られる。つまり奴隷としての優秀さである。
それが良いとされる社会で、それから逃れるのは不可能と言える。実際に逃れた人は、
生物学的な危機に瀕する。日本人として戸籍が登録されている者は、海外に出る以外には
この支配から逃れられない。番号のついた豚や牛のようなものといえる。

若者はこのようなエートスに敏感である。だから失敗を恐れる。現代のように個人が
問題となる社会では、いざとなると誰も助けてくれない。その結果として、自助努力が
生きる手段と思われてしまう。その仕組が用意されていて、その仕組の攻略者こそが
生存権を得られると。

それが国がばらまくデマコギーであると若者には理解されないのだ。何しろ、周りの大人も
また豚や牛であるからだ。そして、大人たちは自らがそういう社会を作り上げたことを無自覚
なのである。若い頃と現代がまるで変わったことに無知なのである。大人とは所詮そんなもの
だ。だから若者は自らが正しいと思う事を優先し、行動しなくはならない。大人の言うことを
真に受けていたら、それこそ生存を脅かされてしまうのだ。

現に、多くの若者が自殺をする。それは社会のせいである。だが、大人は自己のエゴを
むき出しにして、その事を否定する。金を十分に得るには勉強が必要で、上司にペコペコし、
従順に生きる事を求められる。それが人生と教える大人が多いからだ。そして、その仕組から
こぼれ落ちたと思うと、若者は絶望してしまうのである。それくらいこのデマコギーは強い。
なぜなら、国はその思想によって秩序立つからだ。それを失うような思想を恐れている。

本当の事を知る。現代に置いてはそれが一番重要なのだ。
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分かったことーその先へー [思考・志向・試行]

色々、調べてみておおよその動向は掴んだ気がする。

政治的なことは石井紘基氏をベースに、小室直樹氏や森嶋通夫氏、安冨歩氏などを参照。
結局、価値というものは主観であって、市場で決まるものではないという事や、
価格という形では、価値は測れない事が分かった。加えて、均衡価格という概念は
ウソだと理解した。つまり現在のマクロ経済学は基本的に正しくない。

大学で数学を学ぶと、如何に仮定が多いか分かる。数理的な正しさとは、条件だらけに
なった時に始めて解が求まる。それを現実問題に適応すると、計算上の正しさは、
現実を捉える事に失敗する。数学的な正しさを担保するとはつまり、形而上学的なモデル
を構築する事にほかならない。その数学的帰結から、現実問題に対処するとはほとんど
無知蒙昧である。よって、経済学は、学である事における正しさはあるが、現実には無力で
あり、無意味であると結論できる。

そもそも数理的なものを現実化するとは、数字を入れ込まねばならない。常に流動的な
現実情報をどう反映させれば良いのか、そもそも統計的な数字の胡散臭さをどうやって
乗り越えろというのか。腐ったデータからは、腐った結論しか出てこないだろう。

また、価格の観点からいって、マルクスの基本定理が成り立つのであれば、
それはやはり再考を必要とする考えであろう。マルクスの基本定理とは、端的にいえば、
利潤の発生には労働の搾取が存在するという事だ。
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_fmt.html

労働者諸君、搾取されてますよ。だからどうしたって感じだが、資本主義社会に生きる
人間に最低限必要なバックグラウンドだと思う。あらゆる労働者が知るべき事実である。

貨幣経済については、アダム・スミスやリカード、ホッブスなどから、帰納的に思考した。
最終的な貨幣に対する見解は、とどのつまり金とはみんなが欲しがる財の一つであり、
それが担保されるのは、金が他者を操るための負債であるという事だ。金とは言い換えれば、
他者をいいなりにさせる手段である。

ここに絡むのは、奴隷制である。他者に何かをさせるという、もっとも原始的な手段は、
むち打ちであった。痛みを避けるために労働する他ない。しかし、それはもっとも効率が
悪い手段でもある。生かすためのコストや、労働生産性を伸ばすための手段は、鞭打ちが
増えると言うだけである。

奴隷が労働者に置き換わったのは、要は金が、ムチ打ちの代わりになるとわかったからだ。
奴隷制が終わったのは決して人道的な意味ではない。むち打ちよりも有効な金という手段を
発明したからである。人々が金を欲しがるようにシステムを作れば、奴隷よりも有効に人を
利用できるのである。近年では、人は金のためなら死ぬまで働くことすらある事を我々は
知っている。金の他者に対する負債という機能は存分に利用されている。


社会体制については、柄谷行人氏をベースに、文化人類学系譜である、レヴィ=ストロースを
はじめとした構造主義を検討した。橋爪大三郎氏の解説などを参照し、フロイトを調べた。
その過程で、ユングやアドラーについても検討した。

これらの思想に埋め込まれた概念をたどると、アリストテレスまで行き着く。形相因、目的因、
作用因、質料因と4つの原因を仮定したわけだが、現代科学は、このうちの形相因と目的因を
作用因と質料因に閉じ込めることにした。すなわち、内在的な起因を可能な限り削ったのだ。

この指向性によって、社会というものを構成するものもまた、作用因や質量因で語ることになる。
社会科学や心理学において科学的手法を取り込んだ人々は、これらの2因による説明を試みる。
それは結局、因果関係をさだめる事であり、その関係性を内部化した系で物事を説明する事である。
そして解析の結果、構造が現れるがために、構造主義と呼ばれた。関係性で物事を論じると
こうなるのだろう。そして、それは一定の成果をもたらした。

現代社会を俯瞰する際にも、同じ思考原理が利用される。その根本はなにか。プリミティブで
はあるが、因果思考である。しかし、デヴィッド・ヒュームが指摘したように、我々には真なる
因果関係は知りえない。いや知る必要などないのである。人の脳の能力は、2つの出来事を
つなぎ合わせるという事。そしてそこにPならばQという因果の法則を観測事実として積み上げる
事であった。このルールが現実社会および、社会普遍的に成り立つ時、それは知恵や知識となって
後続に引き継がれる。これを十把一絡げに文化と呼ぶ。


文化的考察では、縄文時代の考察や、仏教、キリスト教などを大澤真幸氏をベースに、社会科学を
参照した。哲学的ではデカルトの方法序説や、カントの純粋理性批判等を考慮した。ヒュームなど、
イギリス経験主義はとても役立つように思われる。

結局、この2000年の間、人々は生存のための適応的戦略を様々に行ってきた。その急先鋒が、
500年前から始まった大航海時代である。2000年ほど前から、宗教がスタートし、その宗教の
示す事柄の真実性が問題となって、16世紀に科学がスタートする。天が回るのではなく、地が
動く事、宇宙の理解、物質の理解が進み、それは原発まで到達した。すでに人はコントロール
不能なエネルギーを生み出せるまでになった。宗教は廃れる一方で、経済が発展し、その経済的
反映のために、科学が進展した。人は生物として環境適応するよりも、環境を変更する事に力を
注いだのだ。

18万年まえに出アフリカをした人類は、その後猛烈に地球上に広がる。人の脳に変化が起きた
あとはあっという間であった。1万年程度昔、人は気がつく。他者から奪えば良いと。徒党を
組んで他者から奪えば、自分たちはよけいな事をしなくても生きていけると。この思想が是と
された瞬間から、我々は今もその思想を保持し続けている。その根底にあるのは、嫉妬や妬み
であり、他者の欲望のコピーである。人の能力は、他者をうまく利用するために発達した。

言葉についてその構造を知る事をソシュールなどで参照した。しかし、事の本質は言語構造では
ない。言語のもっとも重要な役割は、眼前にないものを指し示すことである。これが可能となった
ヒトという種族は、この能力を生活内で存分に利用し始める。そして、言葉もまた他者を操る
ために有効である事に気が付いた。眼前にないものを指し示すという作用は、また、他者への
働きかけに有効となったのだ。

人類は5000年前くらいに資源としての他者に気が付いた。それは十分に食料が増やせるように
なった事に関連する。ここが解釈の難しいところである。農業の起こりは、思想の変化である。
思想の変化とは、資源としての他者というところにある。人の脳は他者というリソースを有効
利用するために発展した。そこがポイントなのだ。

5000年前にはヒトはすでに農業が可能である事に気が付いていた。だが、それは効率が悪い
事であった。なぜなら食い物は自然の恵みとしてそこかしこにある。知恵を使えば、農業など
不要であった。縄文人は栗を栽培している。つまり農業である。なぜ栗を栽培したのか。
それは備えであったはずだ。栗は蓄えられる。その貯蔵性こそが、人が人を利用するための
契機である。

十分に蓄えられる手段が見つかるまでは良かった。集落ではどこかに保存したはずだ。
そして、その保存ということの発見こそが、奪うことへの動機となった。奪うことの正当化は
社会的ステータスが利用された。

共有であった保存財が、邪な、いや賢い個体によって奪われたのである。その根拠を担保した
のは何であったのか。チンパンジーにはステータスがある。それは集団生活する動物では
当たり前のことだ。その存在理由は、同種内争いを最小化することである。階級を作り出すとは
社会的コストの低下であり、種族の存続性を高める手段である。仲間集団内で争って、傷つけあい
体力を落としてしまえば、外側の集団にやられてしまう。結果として、内部的には暴力の強度が
他者を圧倒するために利用され、その序列性によって、群れの存続が担保されるようになった。

仲間内で発揮される暴力とは、つまり他者を操るということだ。そしてこれが先の言葉の
話と、経済問題、そしてマルクスの基本定理へとつながってゆく。もうおわかりだろう。

人はホモ・サピエンスである。ラテン語で知恵ある人を意味する。その知恵とはなんであったか。
それは「他者を自己のために利用する事」であった。これがトドのつまり、本質である。

様々な生物的欲求を満たす手段がある。その欲求をどうやってみたすのか。それは
他者を利用して、である。これを文化と呼ぶことが可能である。他者とは資源である。その
資源をどうやって効率的に使うのか。これが人類の文化史である。

かつての人々は、暴力に訴えた。ころすぞとおどせば、否応なく従う。むち打ちに合うくらいなら
否応なく従う。そういうものだった。その長い歴史のあとに、金というものが生まれた。金は
変形した暴力である。ものすごいマイルドな暴力と言える。金をやるから、これをしろと命令する。
金をやるから、サービスを提供しろと。利潤があるところに搾取あり、マルクスの基本定理は、
暴力をきちんと証明した。

日本人であれば、基本的に金を得る他ない。生きているだけで税金はふりかかる。その税金は
庶民から集められる。国は法というルールによって人々から金をせしめる。このルールもまた
暴力である。ルールを拒否することはできない。そのルールを拒否すると、暴力に晒される。
牢屋に入ったり、課税が増える。とにかく国は、金を巻き上げようとする。

まきあげた金に直接手をつけると、法にひっかかる。だから、他者の手を迂回して手に入れる。
これが安倍政権がやっている事だ。大企業からリベートをもらう。助成金として金を得る。税金の
一部を友人にくばる。すると道路が下関に出来上がり、加計学園が出来上がる。その一部がまた
リベートして政治家の懐に跳ね返る。選挙の費用であったり、ゴルフ代であったりするわけだ。

大企業は政治家や官僚と癒着する事で、仕事を作り出す。原発事業や、高速道路、IT産業、
これらの企業は、国から仕事を受注する。そして、中抜きをなんどもして、末端の業者が
実作業をする。他者を利用して、金を得る。それが国という仕組みであり、税という仕組みだ。

歴史的に一時は、庶民のために税金をつかう必要があった。でなければ票がとれなかったからだ。
だが、ソ連が解体し、社会主義・共産主義思想が衰退すると、社会福祉に力をかける理由がなく
なった。大企業はアメリカの真似をはじめ、アメリカ企業の参入のための法改正をすすめながら、
自分たちもその尻馬にのった。だから、社会保障など、国にとっては余計な出費であり、それを
減らした官僚は出世をする。当然である。国とは、支配者であり、搾取母体だからだ。その行動
原理の本質は、「自己生存のために他者を有効に利用せよ」である。


左派がどんなに人権や人道性を訴えても、そんなものは、目の前の金に対して無力である。
理念では、人は動かない。それだけ人間は動物であり、その動機は自己の拡張である。欲望
である。

欲望に関連して、生理現象を脳科学をベースに考察した。欲望には大きく二種類がある。
一つは生理的欲求だ。性欲・食欲・睡眠欲とはよくいったものだ。その他に、権力欲がある。
他者を使うというあれだ。それはチンパンジーにもみられる。つまり備え付けなのだろう。

権力欲を満たすために、金があり、言葉がある。そして、他の欲求と異なるのは、それが
満たされることがない欲である事だ。これについてはもっと詳細を調べなければ分からない。
だが、満たされることのない権力欲は、無尽蔵の金儲けにつながるだろう。

SNSの流行りは、言葉の流布であるが、それは要するに権力欲の発揮である。言葉を用いる
理由は、他者を操ることだからだ。私がこうやって記事をかくのも、とどのつまりは権力欲
である。言葉をつかって他者を説得しているといえるわけだ。

権力欲にはキリがない。資本主義はここに依存した社会である。金ではないのだ。
金を増やしたいのは、権力を拡張したいのだし、その権力を誇示するために、でかい家、
高い車を保持しようとする。

仏教では欲望を抑制せよという。それはもともと生理的なものではなかったのだろう。
あらゆる争いの元にある、権力欲を抑えること。そして、そんなものにさしたる価値はないと
みなす文化を形成する事だったのだろう。実際問題、人が生きる上で、権力欲の効果はもはや
ないと言える。


権力欲が必要だったのは、性欲の充足である。チンパンジーには序列がある。序列が低いもの
はセックスの機会を奪われる。抑制されるのだ。その性欲の抑制が翻って、権力欲をもたらす。

権力を得ようとする行動、つまり体力や知力に優れるという性淘汰があった。個体としての
優秀さは、権力欲の充足につながっていた。メスは権力をもつものと交尾をして子供を作る。
それは子供生育環境の保全であり、社会的ステータスの継承である。

時代が流れ、現代日本人は一夫一婦制を採用した。権力欲は、家の格の保持へと向かった。
一昔前の人々が家の格に拘るのは、権力欲の表れである。しかし、資本主義は家を解体した。
解体された人々の権力欲は、今はもっぱら金に移動した。だからこそのホリエモンであり、
ゾゾタウンの前澤氏になる。


現代社会のルールは、金を得る事。権力欲を満たすために金を得るという実に動物的な
行為にみんなが耽っているというのが私の現代社会考察である。

既得権益者は、金づるを失わないように、権力にはたらきかけて続けている。そして、時代遅れの
事業がのさばり、日本はそれが重しとなって若者の肩にのしかかっている。いずれ潰れるだろう。
私はそう予言せざるを得ない。それから、老人たちが急速に減り始める40年後まで待つか。


今更、権力欲を抑制せよとは、通じるとは思えない。一方の極には、強欲がのさばり、
もう一方の極は、日々の金に苦労する大勢の人々。これを是正するには、金持ちへの金を減らし、
庶民に配分するものを増やす他ない。だが、それも制度上かなわないだろう。

希望があるとしたら、まずは生き延びることだ。若者はとにかく生き延びろ。
そして強かに生きるのだ。社会は、お前も強欲教の信者になれとせまる。つまり労働者になれと。
生産手段をもたぬ労働者は、人生を搾取され、その一部が経営者のものとなる。企業だと、
上司のものになる。それは構造上仕方がないのだ。

今の30代、40代は上部への移行を楽しみに耐えている。そして、手ぐすねを引いて、若者が
この仕組に参加する事を待っている。50代60代は、このレースの逃げ切りを図っている。

だが、そんなことがうまくいくはずがない。川下りの先に滝があるのに、それを見ずに、
振り返り、過去の栄光と、うまくいっていたはずの事業を再び繰り返す。それが中高年の
努力である。どうにか筏を川岸へ運び状態を維持するなど、これっぽっちも考えていない。

若者はそんな連中の言説に埋没してはならない。考えよ。そのさきを。私もそのさきを
考えたいのだ。




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交友試行錯誤ー決裂ー [その他]

ここではあまりプライベートなことは書かない方針だ。
だが、今回は一つのエポックだったので、備忘録として、そして一つの事例として
書いておこうと思う。


元職場の人で、彼とはある意味で’戦友’のようなものだった。
職場の状況の問題点を指摘し、それを互いに確認できる相手だった。
私は職を辞してからも、彼とはときおり関わりを持っていた。

その彼と決裂したのだ。理由は私の心境の変化である。
彼は何も変わっていない。一方、私は変わってしまったのだ。

もともと彼の処遇はあまり良いものとは言えず、しばしば、それの相談を受け、
そして、その改善を彼は願っていた。そこで私は彼の置かれた状況でも可能な何かを
提案し続けた。私は、彼に職場の不本意な事について愚痴を言う。そんな感じであった。

すぐにどうこうなるものではない。だから、じっと待っていたが、状況は何も変わらない。
そして、次回にも同様の話をする。彼は不遇を嘆き、私はそれを聞いて提案する。私は
不本意な職場の状況に文句言う。

次回も、次次回も、話す事は少しずつ変わるものの、何も変化ない。簡単に言えば、
愚痴の言い合いである。

私は、職場にてできることはしてみた。同僚たちに話しかけ、仕事上のトラブルを
解決していった。しかし、不本意さはかわらない。その原因は、上司の作り出す職場の
規律や、方針なのだと気が付いた。決して悪い人ではない。だが、そのやり方が生産性に
つながる事など無かった。むしろ、同僚たちは内心では毛嫌いし、できるだけ仕事が
回ってこないように、非協力的に過ごしていた。上司はマイクロマネジメントばかり
していて、仕事の意義や大きな方針など、何一つ言わない。同僚たちは、仕事が単なる
こなすべき作業と化していた。私はこれを不本意に思っていた。

さて、その同僚のうちの一人である彼だが、彼はまた違った形で不本意であった。
彼は低い役職につき、その上の役職になるには、上司から認められることが必要だった。
言われていることは、結果がでたら昇進させるという事で。しかし、彼の実力は客観的にみて、
やや厳しく思えた。そこで、私は彼に仕事を教え、結果が出るようにと促した。しかし、
彼は積極的ではない。ここで私はひっかかりを覚えることになる。

自分の状況に不満があり、そして改善手段がある。ならばそれをするだけじゃないかと
私は思う。しかし彼は一向に何もしない。本人聞くと、それでも精一杯やっているという。
それならば仕方ないだろう。

だが、彼と話をする度に、出てくるのは自分の不遇であり、かつてが如何に素晴らしかったか
それだけなのだ。彼には<今ここ>をみる事がすっぽりと抜けていたのだ。そして<これから>
について考えるということが。

彼はどこか自己卑下的である。要するに自信がない。とりわけ仕事に対して。だから、
自分の処遇に不満はあるものの、いざ昇進したら、うまくできるかどうかに自信がない。
そして、それを無理だと思っているがために、今の状況に甘んじている。

私はどんな努力も報われるとか、どんな人もできるようになるとは考えない。だから、
彼が無理だと思い、それが達成されないのだと自己判断するなら、それでもいいと思う。
何も問題はない。だが、問題があるのは、それを受け入れきれないことだ。

彼は多少、年齢がいっている。それがためにプライドがある。この自己イメージと、
自分の実力不足が乖離し、どっちつかずになっているのだった。そして、もっと自分が
若かったら、やり直せたら実力不足が解消できるのにと思っている。

つまり、プライド(自己評価) vs 実力問題ー過去 である。

そして、彼はこの認知的不協和を乗り越えるために、哲学を援用して、自己武装する。
諦めることをなんとか自分に言い聞かしているのだ。自分のプライドをなんとか引き下げ、
実際のものに近づけようと努力をするのだ。その際に、出てくるのが自己卑下である。

自らのプライドを押し下げるという奇っ怪な手段は彼の特徴であるが、いじらしくもある。
一方でアホらしくもある。実力をあげればいいじゃないかと思うからだ。

そして、プライドを切り捨てようとする際に、どうしても自己卑下という愚痴がこぼれる。
それはそうだろう。誰しも自分を低く見積もろうと努力などしない。そうなってしまうか、
そうさせてしまうか、そういう類の話に対して、彼は自ら進んで、そちらに行こうとする。

更にそこから裏返り、その事を自慢してくるのである。「俺は自分のプライドを低くする
という忍耐力があるのだ」と。もはや泥沼化してきているのかもしれない。その事に
なんの意味もないと分からなくなっているのだ。手段に溺れて目的を見失っているのだ。

ややこしく見える彼の問題点。だが、紐解けば実にシンプルである。要するに現状の
自分を認められないのである。自分はこんなもんじゃないという観念と、一方で、
現状の自分は評価されないのだという事実。ただ、それを受け止められない。

彼は止まった時を生きている。




私は、彼の苦しさを理解しようと試みた。そして、次第に彼を疎ましく思った。
実を言えば、彼は苦しさを糧に生きているからなのだ。些か理解に苦しむが、
私が理解したのは、彼は苦しいから生きて行けるのである。だから、苦しみから開放されて
はいけないのだった。だから、私の助言など、どうでも良かったのである。

アドラーは言う。人の行動には<目的>があるのだと。因果律を逆にみるアドラーの視点
からみれば、彼はすなわち苦しみたいから、現状に固執しているのだといえる。
普通に考えたら、バカみたいだろう。だが、そういう人もいるのだ。

もっとも俗っぽく考えれば、苦しみを自分に与えることで、悲劇のヒーローになれる
からだ。自分が特別になれる。もっと同情的にみれば、苦しさをもっている事で、
現状を肯定できるからだ。それが希望になっている可能性がある。もっと病的にみれば、
置かれている状況に依存しているとも言えるだろう。

そして、理解しようとしてくれる他者には現状の悪さを訴え、自分の置かれた状態を肯定
して貰おうと試みる。その事で悲劇の主役になれる。一方で、自分を理解しない人は、
あいつらは、分かってないと一蹴する。そして見下す事で、心のバランスを保つのだ。

だから、私が状況を解決する手段として、仕事のやり方を教えても、何も変わらず、
また、対人関係の悪さについて、ひとまず挨拶でもすれば良いと、言っても行動を
変えないのだ。それは、すべからく彼が本心では望む結果ではないからだ。

彼は自分の実力不足が露呈し、真の意味で彼が求めたものが手に入らないことを恐れている。
だから、状況が動くことが困るのである。

様々な形で彼をサポートしてきたつもりだった。それは私の長所でもあり短所であるが、
頼まれるとつい助けてしまうのである。きっと良い顔をしたい人間なのだ。優しさの
証明をしたくなるのだ。自分にはそういうこすい所がある。

私は結局、その職場を離れた。自分の生きる目的にそぐわなかったからだ。
だが、彼の事を気にしていた。おそらくどこか似ている部分があるのだろう。
離職後も彼との関係は続いていた。


いざ離れてみると、彼と共有していた組織の悪状況など、どうでも良くなり、
ましてや元上司についても、私にはもうほとんど関係がない。だが、彼と会う度に、
その部分に話がフォーカスされ、うんざりし、同時に、彼からの自己卑下にどうにも
賛同できなくなってきたのだ。

状態を変えるために行動した私と、現状に固執し続ける彼。

そろそろ無理なんじゃないか。そう思えてきたのだ。
数年間も何も変わらない彼の言動にどうして、私が毎回、同情せねばならないのか。
同じ職場にいたときは、互いに愚痴をいうという形で依存していた。だが、今となっては
関わる動機を失いつつある。

彼の現状を良くする方法は明確であろう。一つはまず自分の現状を認めることだ。
実力不足も、それがために評価されないことも。そして、哲学的による自己防衛をやめる
ことだ。現状の自分を防備するために、理論武装した所で、その現状に不満があるのは、
彼自身ではないか。それを分かっていないのだ。

その上で、できる職能を伸ばせばいい。できることを増やしていけばいい。
もう実力は伴ないのかも知れないが、それは日々の喜びになる。そして、それがいずれ
評価につながるかもしれない。別に優れた人になれとかそういうことではない。毎日、
できることをやれば、それで十分じゃないか。そういう態度を示していけば、周りは
自ずと手伝ってくれる。頑張っている人を応援したいのは誰もが同じなのだ。たとえ、
それが昇進につながらなくても、できることが増える事、理解が増すことは、楽しい
ことであろう。

実力不足から目をそむけ、その不足の原因を過去に求める。そうして理屈で、現状に
固執する。ようは現状否認なのだ。認めたくないのだ。正確には、部分的に認めた上で、
「所詮、俺なんて・・・」と嘯くのだった。私にそれをいう事で、彼は何を求めていた
のか。彼の現状肯定の手伝いをする事だったろうか。それも分かる。そういう気分になる
歳なのしれないし、そういう事で自分を慰めたいのだろう。

人は弱いものだ。だから楽な方へと流れる。その流れに身を任せるという現状肯定。
それが彼の言い分だった。

だが、私は彼がもっと健全な方がよいとつくづく思っていた。端的にいえば、彼のやっている、
プライドをすり潰す事と、自己卑下するという事、実力不足から目を逸らすという事、
これらに全く賛同できなくなっていた。

強くあれなんて言わない。ただ、出来ることをやればいい。それ以外に何が出来るという
のか。弱さというものを肯定して、虚無に生きようとする。それを強さと勘違いしている。
全くもって駄目じゃないか。ダメな奴が言いそうな事をただ、高尚にみせているだけじゃないか。

もっと別の考えもある。職場では仕事の出来ない自分でもいい。プライベートで何か、
自分らしさを発揮できれば、それでも構わないだろう。だが、彼にはなにもない。
一体なにがしたいんだろう? もっと強かに生きればいい。それがロートルの知恵ではないか。

そういうものを期待していた私はただ、ひたすらにがっかりしたのだった。
結局、何も分かっていないのだ、この人は。


私は気持ちをぶつけることにしたのだ。だが、それを失敗したのだった。

今まで、ちいさな助言を繰り返したが、彼はそもそも変えたくないのだった。
アドラーを引用すれば、<可愛そうな私>や<悪い相手>の話に終始していた。
一番肝心なのは<これからどうするか>である。だから、これからどうするかに向かう
ために、まずは、彼の固執した考えを否定する他ない。

だが、ふと思ったのである。なんで私が頑張って彼の更生を考えているのか?
友人だと思っていたからであったが、果たして彼は友人なのだろうか。ただ愚痴を言い合うだけ
の元同僚じゃないのか? そう感じた瞬間に、わけもわからない感情が湧いたのだ。


今まで、彼から聞いてきた愚痴や自己卑下に対して、怒りが出てきたのだ。
これがどういう事か分からない。だが、猛烈に彼に対して、怒りという感情が湧いた。

彼の情けなさに、彼の変わらなさに、彼のもどかしさに。私の単なる言いがかりなのだろうか。
自分の行為が全て不毛だと思った時、人はこのような怒りを抱くのか。

お前、馬鹿じゃないか?と思い切りぶつけてしまった。


もちろん、それが決定的である事は分かっていた。だが、彼への同情はいつの間にか
怒りに転化したのだった。そして、なんどかのメールのやり取りの後、絶交状態になった。

やり取りの最中に考え直して、酷いことを言った事を詫た。だが、また怒りにまかせた
メールを送ったりしてしまった。

冷静に考えてみれば、私の独りよがりである。彼はただ自分を守るために必死であり、
その心情を私に吐露しただけだった。それを今まで、ただ受け流してきたつもりだった。

自分の中の悪が輪郭をもった瞬間であった。
押し付けの親切、お節介は空回りし、その不満足感は彼に対する怒りに転化した。

大事なことなので、私も逃げずにもう一歩つめてみたい。


結局、私は善意という名のもとに、彼に対して優位に立ちたかっただけなのではないか?
そういう側面は否めない。そして、自分の優しさを確認したかっただけではないか。
そのために彼を利用しようとした。だが、失敗した。彼は何も変わらなかったのだ。
だから、彼のせいにして、彼に怒りをぶつけたのではないか? 酷いのは私ではないか。

ハラスメント行為だったのではないか。そんな疑念があるのだ。

恐ろしいのは、善意がお節介に変わり、それがハラスメントに発展した事だ。
動機はきっと正しい。そして道筋も正しい。そしてハラスメントも正しい。いや正しくない。


一方で、彼の責はあるのか。彼の行動を考え直す。すると、とある事に気がつく。
彼の自己卑下的言動、同情を誘う行為、これらは本質的には攻撃ではないか?と。

相手に可哀相とか同情をかう行為は、こちらを疲弊させる。何かを彼は吸い取っている。
その現れである見かけとは裏腹に、彼は私に「攻撃」をし続けていたのだ。私の善意から
彼は同情心を吸い取っていた。そのようにして、我々は関係性を築いていた。彼は私を
利用していたのだ。自己肯定のために。


つまり、一方の善意という優性立場の確保の欲求と、自己防衛として他者利用の欲求が
噛み合っている時は、一見するとまともなコミュニケーションが起こっているような錯覚に
なるという事だ。そして、状況が変化した途端に、それはどちらかがどちらかを利用する
というアンバランスさが露呈するのだ。

そしてこれはハラスメントの一要因となりえる。潜在的な構造に由来するのがハラスメント
なのかもしれない。そうだとしたら、人が関係するとハラスメントは生じ得るという事だ。

ここまで来て、私ははっきりと自覚した。つまり彼は私は利用していたのだ。
それがどうやら限界にきたという事である。職を離れた私にとって、彼はもはや利用する
点がなくなりつつあり、彼は変わらず私を利用しようとしていたのだろう。

それを無意識に察したのだ。彼に対して急激にもやもやしたのは、彼が私を利用している
と感じたことなのだ。私が怒りを覚えたのは、自分を守るための行動だったのだ。

酷いという自己嫌悪は、私のライフスタイルなのだろう。人には親切にしろというのが、
私のアイデンティティなのだ。それに逆らうのだ、自分の心が動揺するはずなのだ。
親切は無償が基本だ。そこに見返りは求めない。彼に対する小さなアドバイスはそうやって
なされたものだ。仕事の手伝いも。損得などどうでもいいではないか。彼がそれで助かるので
あれば。

だが、違った。彼は何も私の言うことなど聞いていないし、何も変わらなかった。
なにも変わらないことをむしろ誇りにしていた。可哀相な私、それが彼の居場所だったのだ。
そして、そのために私の善意は利用されていた。それでも良いという事も出来る。だが、
何か一線を超えたのだ。私は、もはや彼に利用されることに耐えられなかった。それは
怒りとして彼に向かった。彼の態度を全面的に否定した。彼はきっと狼狽しただろう。
突如として私は怒ったのだ。


私は猛烈に彼の考えを否定した。そして行動を変えろと迫った。彼がする自己卑下を
変えろと。それが原因だと思っていたからだ。自分に自信をもてと。でなければ、いつも
自己卑下思考で生きることになるぞと。そんな事、出来ないと分かっているのにだ。

どうせ最後なのだから、彼に言いたいことをいおうと決意し、言いたいことをおよそ
言い切った。最後のお節介である。

見返りを求めたかもしれない。親切が役立つと。それをないがしろにされたことに腹を
立てた面はあるのだろう。だが、そもそもの原因は、我々の関係がややおかしかったのだ。
変な形で、互いに依存する部分があったのだろう。そして、それが今や解消されたのだ。

おそらく彼に会うことはなかろう。何か縁がない限りは。とても残念に思う。
もっと健全な形で友人関係を築きたかった。彼はそれに値する人だったと思うのだ。
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