幸福への道ー扁桃体システムー [思考・志向・試行]

さて、先に幸福への道は、些細でも自分に巡ってきた幸運を自覚せよと述べた。
そして能動的にそれを増やす活動は、一般的に「自己実現」と呼ばれている。

おそらくマズロー的の弁が有効なのだろう。
衣食住に問題がない時、人が目指すべきは「自己実現」であるとマズローは説いた。
では、自己実現のための方法は何があるのだろうか? マズローはそこについては
後人に任せるとし、深く言及していない。自己実現を類型化して、活動を記述すると
そこから自己実現の要素が失われるからだろう。禅問答っぽくて申し訳ないが、
形式が提示されることで本質が失われる事はままあることなのだ。


ただヒントはある。自己実現の代わりに、イノベーションを考えてみる。
つまり、何か既知のものではない価値を生み出す事である。価値とは何か。
私の解釈は、幸福感である。ユーダイモニア的幸福感である。小さな幸福の事であり、
それは持続可能な幸福である。

あなたが誰かに笑顔で挨拶をするとしよう。それを受け取った人がノーマルな人であれば、
おそらく「小さな幸福」を感じたはずだ。そして、運がよければあなたはその返礼としての
「笑顔の挨拶」を受けられるはずである。これは自己実現的仕事のミニマルな形である。

仕事とは誰かに価値を提供すること。その対価として金を受け取る。ここでいう金は、
本質的はサービスへの満足度を反映する。つまり金が小さな幸福の見える形で現れたもの
として解釈出来る。よって、本質的良い仕事をしている人は、金を得ることが出来る。
これが昨今では歪んでしまって、どんな仕事であっても、仕事をすれば金を得られると
考える人が普通になってしまった。だから仕事の中身をつぶさに考えることがない。
書類をワードやエクセルで作成してまとめる事は一体、どんな価値をうんでいるのか、
考えることがない。ここに問題がある。その仕事の遂行者は幸福を感じられにくいわけだ。

また大金を動かして、大金を得たからといって幸福度は上がらない。金を使ったときに
始めて、ヘドニア的幸福を得られる。金をどう使うのかが幸福度に関係する。ユーダイモニア的
幸福を向上させるために金を使うことも出来る。サービスを受けるために金を使えば、
快楽が得られるだろう。一方で、寄付をしたり、投資をしたり、つまり誰かを応援するために
金をつかえば、そこから自分だけではなく、その周りにも、小さな幸福が増えるだろう。
自らのためだけに金をつかうというのが如何に陳腐なのかはすぐに理解されるだろう。

日本社会において苦しい感じがするのは、対価である金を一定にしようという作為が
あるからだ。他者がどう小さな満足を感じるかはコントロール不能である。それなのに、
コントロール可能であるかのように振る舞う。いや、事実コントロールしようとする。
無茶苦茶であろう。金を払う人間に、お前らこんだけ満足しろと要求するわけだから。
サービスに対する満足度は実はまちまちであろう。珈琲に500円を出す時、とある
人にとっては、それは安いと思われる事である一方で、誰かにとっては高いと思うだろう。
だが、現代社会はそれを一律で取る。結果として、満足度は金に現れないために、仕事は
形骸化する。何をしても同じじゃないかとなる。仕事の価値を増大させても、金に
現れないなら、無駄だとなってしまう。同じならサボってもいいじゃないかと、仕事の
クオリティは最底辺へと動いてゆくだろう。だが、そんな事で自己実現は得られない。

すると仕事は途端に苦しくなる。ではなぜ対価つまり給料を一定にしたいのか。それは
生活を維持するためである。生活を維持するには、一定の金がいる。正確には、いると
思い込んでいる。そのために苦しくなる。金を必要とする人々は、金を目的に働く。
それは小さな幸福とは無縁の動機である。小さな価値をGiveすることで、小さな幸福を
得る蓋然性を高めるはずの仕事が、ただの金のやり取りに成り下がるわけだ。そりゃ苦しい。

ましやて、生活維持に直結する場合、そんな事にかまけている場合じゃない。とにかく
金がいる。そういう事になってしまう。では、なぜ生活に金がいると思いこんでいるのか。
それは、社会の要求である。日本社会では、普通が要求されている。これがなかなか達成
困難である。いや、困難なように普通が設定されていると考えるべきか。この社会的圧力
を乗り越えようとするエートスによって、社会が駆動されている。その最末端が過労死であろう。
社会的圧力は決して小さくない。では、なぜそんなに社会的圧力に屈してしまうのか。

一つには、社会からの脅しがある。不安や恐怖を駆動させる仕組みだ。それは社会の
枠組みでもある。ネトウヨたちは排外主義を訴えるが、あれは心に恐怖があるからだ。
彼らは弱い人間たちである。不安や恐怖に怯えているからこそ、執拗に他者を敵とみなしたがる。
それは資産を持つものの宿命でもある。手元に何かを保持していると自己認識している人間は、
それを失うことに恐怖感じるのである。

同様に、普通の人も、生活の基盤を失うことに恐怖する。不安になる。現代社会はそういう
心理的不安や恐怖につけこむような仕事も少なくない。本来の仕事は価値の提供であった。
人々を不安に陥れておいて、それを救うためのサービスを提供する。俗に言うマッチポンプである。
たとえば、食品添加物などを駆使して、加工されたカロリー高めの食品を売っておいて、
それがために崩れた健康バランスは病気を誘発する。それを医療によって救うというプロセスが
ある。仕事において、デスクにしばりつけておいて、運動不足を解消するためのサービスを
提供する。仕事の提供の出処は違うものの、社会全体が不可解な事になっている。そして、
背後には、人々に金がなければ、不幸になるというテーゼがある。それを社会が刷り込んでいる。

このような心理不安を社会がつくり出す一方で、それを解消する手段を提出する流れ。
これが大いなる失敗であることは紛れもないことだ。この問題解決には心理不安を減らすこと
だろう。それが解決への道だろう。だが、多くの場合は、その心理不安を減らす新しいサービスを
提供することを是とする。これが人の愚かさなのだろう。

マズローが5つの欲求の話をしたのは、要するにこのような心理不安が残っている人は、
その心性のために、自己実現にむけて十全に活動出来ないということを意味している。
心に余裕がない人は、行動がおかしくなるという事だ。それは自己利益誘導的であり、
その活動は他者を「敵化」する。敵とみなされた人々は、それに抵抗するだろう。それが
的である事を決定づけてしまう。それは、そもそも自己利益を拡大した人間の責任であるが、
そこは隠蔽されてしまっている。

さらに言えば、ドラッガーはいう。不安や恐怖を感じる人はイノベーションが出来ないと。
価値を提供するには、不安や恐怖という感情は阻害要因になる。


さて、ここまでくれば、これを逆に回せば良いことに気がつくだろう。
人々から、なるべく不安や恐怖という感情を減らせばいい。そういう仕組を確保すればいい。
そのためにはどうすればいいか。社会が生存を確保するというのは一つの手段である。
生活保護はそのためにある。また、社会のエートスとして不安や恐怖を煽る事はやめることだ。
メディアなどで、ニュースを見た時、多くの場合はネガティブニュースである。人々はどう
感じるだろうか。明らかに不安や恐怖を煽られているだろう。このような情報は疑うべきだ。
他者に恐怖を感じるように仕向けるニュースは害である。根本的に害といえる。

先にも述べたが、敵とみなされた人はそれを解消しようとする。その抵抗を「攻撃」とみなす
愚かしい人々こそが元凶である。そのような人々は不安や恐怖に苛まれて生きているに違いない。
そんな人間を減らすことが現代的には求められるのだろう。それは結局、生理的システムの
充足なのだと思う。ひとまずは、衣食住が足りる状況を作り出す。それを金に依存せずに出来れば
最高である。

安富氏は、この実現に対してコミュニケーションの重要性を説く。内田氏は、受け手の成熟度
をあげるための教育を思案する。結局、個々人のまっとうさこそが、社会のまともさにつながる。

不安や恐怖を感じることを減らす事。これがむしろ、仕事における価値を増大させる。
心が不安定な人は、価値を提供できないのだ。だからこそ、自分に得があるかどうかだけが
行動原理になってしまうのだ。そして現代は、その不安や恐怖を取り除くためには、金が
いるという喧伝が行われている。実は嘘だ。金が増えて嬉しいのは「ヒト」である。

だが、ヒトはサルでもある。生物学的な「サル」の満足は、衣食住の満足と、他者関係である。
良い仲間がいること、良く眠れる場所を確保すること、食えること。金はそういう事から外れている。
先にも述べたが、金は使いようである。昨今では、不安や恐怖の解消のために金を使う人だらけ
である。余裕があるとヘドニア的幸福につぎ込む。だが、サルとしての人間の満足度は、
ユーダイモニア的幸福に金を使うことである。高い税金を払うのは、インフラやサービスなど
地域社会が安定化するからだ。それは他者から小さな幸福が得られる可能性を高めてくれる。
かつては、大金を地域に投入してくれる人を篤志家と呼んで、有難がった。いまや、1億円を
ばらまくサルみたいな人しかいない。使い方がおかしいのである。法人は、地域に貢献すべき
なのに法人税を上げると逃げようとする。話が真逆ではないか。法人が維持できるのは、良き
市民が生活出来るからであろう。ここにも給与一定の歪みが発生している。

脳を眺めれば、扁桃体は恐怖や不安を感じる中枢である。この部分の活動を下げることが
現代には求められている。そのためには、金に依存しない社会的生活の満足度を向上させる
事だ。金がなくても不安にならないこと。でなければ、誰が挑戦するだろうか。イノベーションは
不安や恐怖を排除して始めて成り立つ。

個々人がやることは、単純である。仕事において提供する価値を増大させることだ。それが
ひいては、自分だけではなく社会のためにつながる。心置きなく仕事が出来る事。そちらに
向かうべく努力をする必要があるのだろう。







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幸福への道ー幸福の要素ー [思考・志向・試行]

幸福論は様々な切り口がある。

近年の研究から分かっている事は、幸福とは積分的だという事だ。
どういう事か。多くの人は金持ちになったり、健康状態が良くなったり、好きなことが
出来るという状態を幸福とみなすことだろう。なんなら、ヨーロッパ旅行に行けたり、
リゾート地に避暑にでかけたり、そういう旅行が出来ることを幸福というかも知れない。
また、幸せな結婚をしたり、恋人と仲睦まじく過ごせることを幸福というだろう。

これらは、人は忘れっぽい生き物だという事を忘れている。つまり一過性の幸福ヘドニアに
心囚われてしまっている。ヘドニア的なものはとかく派手である。イベントや旅行など、
非日常的な営みであるから、特別な感じがする。その特別な事を生きられる状況に満足する。
確かに、これも幸福な事である。しかし、その実感は長続きはしない。なぜか。

人は生き物である。生き物にはホメオスタシスがある。恒常性とは、外れた状態を
元の安定的な状態に戻すことだ。そうやって健康を保持するメカニズムが人間にもある。
これは非常に示唆的だ。非日常的な行為によって、人の状態は興奮状態や快楽状態に移行する。
だが、その状態は長続きはしない。次第に元に戻るのである。

また、生物には適応力がある。人も例外ではない。どんな状況でも人は慣れてくる。
生存が脅かされるような戦場下でも、自殺に追い込まれても不思議ではない職場でも、
人はそれを日常として受け止められる。その程度の適応力が人にはある。

さて、ときに非日常に生きる人間もいる。頻繁に旅行し、頻繁に高級品を購買しグルメに勤しむ。
これはかつて貴族と呼ばれた人間たちの日々のようなものだろう。だが、興奮状態はやがて
やんでくる。なぜか。それは上記に書いた2つの能力による。一つは恒常性で、もう一つは
適応力である。毎日、豪華な食事を食べていれば、それは非日常から、日常になる。ヘドニアは
失われるのだ。また一過性の快楽は、徐々に忘却されてゆく。そして元の人に戻るのである。

こう考えてみると、ヘドニア的幸福は持続しないとわかる。もちろん、これはこれで大事である。
日々の労働の鬱憤を「祭り」で開放する。そういう事がある事で、人生に彩りが生まれる。
それは間違えない。私もヘドニア的幸福は好きである。それを否定するものではない。

だが、特別な事とは、例外である。例外的な事は稀なことである。つまり、半年に一度程度
でなければ、特別ではない。この辺りは個人の感じ方に依存するだろうが、やはり頻度は
多く出来ない。つまりヘドニア的幸福は稀にしか効果がないと言える。

一方で、ユーダイモニア的幸福がある。これはマズロー的にいえば「自己実現」である。
何かの目標に向かって活動し、その前進が報酬として機能するような状況である。
多くの幸福論では、これを目指す。なぜか。それは一過性ではなく持続的だからである。


人は忘れっぽい。ヘドニア的な快楽は半年も経てば消えてなくなる。また繰り返せば、
準日常化する。一方で、ユーダイモニア的な喜びは、毎日でも得られる。忘れても、すぐさま
感じられる幸福なのだ。

よって、実は幸福はそこかしこにある。例えば、行きつけのコンビニで可愛い店員さんに
接客される。いつも滞る信号をスムーズに抜けてゆく。いつもより深く睡眠がとれ、スッキリ
起きられる。ヘドニア的な事に比べれば、実に些細かも知れない。でも、その些細な事の
積み重ねは、幸福感を増大させる。これが幸福が積分的という話である。

それを明示的にする方法がある。それは「感謝」である。宗教ではしばしば言われてきたことだ。
実は科学的にもこれは正しいのである。日々の中の出来事に感謝をする。つまり、自分が些細な
幸福にあふれている事を自覚する。実に合理的な行動である。どんな絶望的状況でも、感謝を
きっかけに人は自分の幸福に気がつくことができる。平穏な一日しかないという人がいる。
ならば、平穏に過ごせたことを感謝出来るではないか。今日もご飯が食べられた。それは感謝
すべき事である。感謝する事で、人は些細な幸福的出来事に気がつける。これが感謝の効能で
ある。

留意することは、感謝という行為そのものが形骸化したら意味はない。お祈りも形式では
意味はない。本質は感謝という言葉が表すことではなく、自分に幸福的出来事が起こっていると
自覚する事にある。感謝すれば幸福になるというのは、多くの誤解を招く表現である。ましてや
感謝の印として、つぼをかったり、御札をかったりする事は幸福とは無関係である。

この日々の幸福的出来事を持続的に増やす方法が、先の「自己実現」である。
仕事において、幸福的出来事を半ば意図的に組み込む事。これができたら、どれほどか幸福だろうか。
仕事を通じて幸福的出来事を増やせる人は、毎日良い夢を見るだろう。実に豊かな生活である。

農業など一次産業は、割合とそれを感じやすいだろう。自然の恵みをいただくことを自覚出来る。
自分が恩恵に浴していると日々感じられれば、幸福度は増加する。一方で、サービス業において
他者に喜びを与える職業もまた幸福度が増加する。イギリスの調査では、満足度が一番高い職は
ガーデナーである。自然の恩恵を感じつつ、それを用いて他者に喜びを与えている。なるほど
であろう。

最悪なのは、ただ金を儲けようという作業になっているような職だろう。デイトレードは、
その行為自体が、誰かの資産をゲームを通じて得るというヒリヒリとしたものだ。そこでは、
仮に儲けたとしても、喜びは小さい。なぜならその行為は自分の営為の結果だからだ。誰かが
トレーダーに恩恵をもたらすわけではない。(厳密はルーザーがもたらすのだが、、、)自覚
的な幸福的出来事が仕事を通じて得られるだろうか。ギャンブラー的に一時の快楽はあるかも
しれない。それは先も述べたように、すぐに忘れされてゆく。そしてそれはたまにしか
起こらないのである。日々の幸福度はさして高くないことは明確だろう。

では、そういう人がどういう行動をするのか。それはヘドニア的世界へ逃避する事だ。旅に
でかけたり、高級なものを購買したり、自らまた特別を探し求めるのである。金があれば
確かにそれは可能である。だが、特別感は慰めに過ぎない。繰り返すが、私もこれらは好き
である。ヘドニア的幸福を否定しているわけではない。だが、それは幸福の総量からいえば、
ごく一部に過ぎないということだ。

仕事において幸福度をあげられない人(つまり感謝を見いだせない人)は、儲けた金をつかって
ヘドニア的幸福で穴埋めをするという事だ。だが、それは持続出来ない幸福なのだ。

さて、かなり繰り返して述べた。もう理解されたことだろう。
持続的幸福のためには、日々の生活に小さくとも大量の嬉しさを見いだせるかなのだ。
それはヘドニア的ではありえない。ユーダイモニア的幸福を目指すことである。

おそらくどんな仕事でも可能なのだ。これは心がけの問題でもある。ただ特定の仕事では
それが感じられやすく、特定の仕事では感じにくいという事になろう。詐欺を働いておいて、
幸福であると感じるのは、よほどヘドニア的幸福を用いないと穴埋めできないのではないか?

日々を振り返り、小さくとも自分に巡ってきた幸運を自覚する事。これがまずは、
幸福への道なのだ。
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