幸福への道ー幸福の要素ー [思考・志向・試行]

幸福論は様々な切り口がある。

近年の研究から分かっている事は、幸福とは積分的だという事だ。
どういう事か。多くの人は金持ちになったり、健康状態が良くなったり、好きなことが
出来るという状態を幸福とみなすことだろう。なんなら、ヨーロッパ旅行に行けたり、
リゾート地に避暑にでかけたり、そういう旅行が出来ることを幸福というかも知れない。
また、幸せな結婚をしたり、恋人と仲睦まじく過ごせることを幸福というだろう。

これらは、人は忘れっぽい生き物だという事を忘れている。つまり一過性の幸福ヘドニアに
心囚われてしまっている。ヘドニア的なものはとかく派手である。イベントや旅行など、
非日常的な営みであるから、特別な感じがする。その特別な事を生きられる状況に満足する。
確かに、これも幸福な事である。しかし、その実感は長続きはしない。なぜか。

人は生き物である。生き物にはホメオスタシスがある。恒常性とは、外れた状態を
元の安定的な状態に戻すことだ。そうやって健康を保持するメカニズムが人間にもある。
これは非常に示唆的だ。非日常的な行為によって、人の状態は興奮状態や快楽状態に移行する。
だが、その状態は長続きはしない。次第に元に戻るのである。

また、生物には適応力がある。人も例外ではない。どんな状況でも人は慣れてくる。
生存が脅かされるような戦場下でも、自殺に追い込まれても不思議ではない職場でも、
人はそれを日常として受け止められる。その程度の適応力が人にはある。

さて、ときに非日常に生きる人間もいる。頻繁に旅行し、頻繁に高級品を購買しグルメに勤しむ。
これはかつて貴族と呼ばれた人間たちの日々のようなものだろう。だが、興奮状態はやがて
やんでくる。なぜか。それは上記に書いた2つの能力による。一つは恒常性で、もう一つは
適応力である。毎日、豪華な食事を食べていれば、それは非日常から、日常になる。ヘドニアは
失われるのだ。また一過性の快楽は、徐々に忘却されてゆく。そして元の人に戻るのである。

こう考えてみると、ヘドニア的幸福は持続しないとわかる。もちろん、これはこれで大事である。
日々の労働の鬱憤を「祭り」で開放する。そういう事がある事で、人生に彩りが生まれる。
それは間違えない。私もヘドニア的幸福は好きである。それを否定するものではない。

だが、特別な事とは、例外である。例外的な事は稀なことである。つまり、半年に一度程度
でなければ、特別ではない。この辺りは個人の感じ方に依存するだろうが、やはり頻度は
多く出来ない。つまりヘドニア的幸福は稀にしか効果がないと言える。

一方で、ユーダイモニア的幸福がある。これはマズロー的にいえば「自己実現」である。
何かの目標に向かって活動し、その前進が報酬として機能するような状況である。
多くの幸福論では、これを目指す。なぜか。それは一過性ではなく持続的だからである。


人は忘れっぽい。ヘドニア的な快楽は半年も経てば消えてなくなる。また繰り返せば、
準日常化する。一方で、ユーダイモニア的な喜びは、毎日でも得られる。忘れても、すぐさま
感じられる幸福なのだ。

よって、実は幸福はそこかしこにある。例えば、行きつけのコンビニで可愛い店員さんに
接客される。いつも滞る信号をスムーズに抜けてゆく。いつもより深く睡眠がとれ、スッキリ
起きられる。ヘドニア的な事に比べれば、実に些細かも知れない。でも、その些細な事の
積み重ねは、幸福感を増大させる。これが幸福が積分的という話である。

それを明示的にする方法がある。それは「感謝」である。宗教ではしばしば言われてきたことだ。
実は科学的にもこれは正しいのである。日々の中の出来事に感謝をする。つまり、自分が些細な
幸福にあふれている事を自覚する。実に合理的な行動である。どんな絶望的状況でも、感謝を
きっかけに人は自分の幸福に気がつくことができる。平穏な一日しかないという人がいる。
ならば、平穏に過ごせたことを感謝出来るではないか。今日もご飯が食べられた。それは感謝
すべき事である。感謝する事で、人は些細な幸福的出来事に気がつける。これが感謝の効能で
ある。

留意することは、感謝という行為そのものが形骸化したら意味はない。お祈りも形式では
意味はない。本質は感謝という言葉が表すことではなく、自分に幸福的出来事が起こっていると
自覚する事にある。感謝すれば幸福になるというのは、多くの誤解を招く表現である。ましてや
感謝の印として、つぼをかったり、御札をかったりする事は幸福とは無関係である。

この日々の幸福的出来事を持続的に増やす方法が、先の「自己実現」である。
仕事において、幸福的出来事を半ば意図的に組み込む事。これができたら、どれほどか幸福だろうか。
仕事を通じて幸福的出来事を増やせる人は、毎日良い夢を見るだろう。実に豊かな生活である。

農業など一次産業は、割合とそれを感じやすいだろう。自然の恵みをいただくことを自覚出来る。
自分が恩恵に浴していると日々感じられれば、幸福度は増加する。一方で、サービス業において
他者に喜びを与える職業もまた幸福度が増加する。イギリスの調査では、満足度が一番高い職は
ガーデナーである。自然の恩恵を感じつつ、それを用いて他者に喜びを与えている。なるほど
であろう。

最悪なのは、ただ金を儲けようという作業になっているような職だろう。デイトレードは、
その行為自体が、誰かの資産をゲームを通じて得るというヒリヒリとしたものだ。そこでは、
仮に儲けたとしても、喜びは小さい。なぜならその行為は自分の営為の結果だからだ。誰かが
トレーダーに恩恵をもたらすわけではない。(厳密はルーザーがもたらすのだが、、、)自覚
的な幸福的出来事が仕事を通じて得られるだろうか。ギャンブラー的に一時の快楽はあるかも
しれない。それは先も述べたように、すぐに忘れされてゆく。そしてそれはたまにしか
起こらないのである。日々の幸福度はさして高くないことは明確だろう。

では、そういう人がどういう行動をするのか。それはヘドニア的世界へ逃避する事だ。旅に
でかけたり、高級なものを購買したり、自らまた特別を探し求めるのである。金があれば
確かにそれは可能である。だが、特別感は慰めに過ぎない。繰り返すが、私もこれらは好き
である。ヘドニア的幸福を否定しているわけではない。だが、それは幸福の総量からいえば、
ごく一部に過ぎないということだ。

仕事において幸福度をあげられない人(つまり感謝を見いだせない人)は、儲けた金をつかって
ヘドニア的幸福で穴埋めをするという事だ。だが、それは持続出来ない幸福なのだ。

さて、かなり繰り返して述べた。もう理解されたことだろう。
持続的幸福のためには、日々の生活に小さくとも大量の嬉しさを見いだせるかなのだ。
それはヘドニア的ではありえない。ユーダイモニア的幸福を目指すことである。

おそらくどんな仕事でも可能なのだ。これは心がけの問題でもある。ただ特定の仕事では
それが感じられやすく、特定の仕事では感じにくいという事になろう。詐欺を働いておいて、
幸福であると感じるのは、よほどヘドニア的幸福を用いないと穴埋めできないのではないか?

日々を振り返り、小さくとも自分に巡ってきた幸運を自覚する事。これがまずは、
幸福への道なのだ。
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