自己利益最大化のはてに [雑学]

桜を見る会の問題点は、ごく単純に日本国の首相が票を買収しているという点だ。
これをちゃんと報道しているところはあるのだろうか?

ともかく、選挙の法律は票を買収することを禁じている。
これが建前である。だが、おそらく多くの候補者は手を変え品を変え、
有権者を買収してきたのだろう。だからこそ、今回の問題も、問題にならないのだ。
そして、時にこれを弱みにつけこんで、行動を制約したりするのだろう。
トップの流れに逆らうような行動をすると、ホコリを晒すという具合にだ。
脅しのネタということなのだ。

現代政治の根幹は「擬貴族主義」である。要するに能力とは無関係に、
親やオジなどが政治家だったから、自分も政治家であるという事だ。
これが徹底的に民主主義をスポイルした。結局、利権構造が数十年のうちに出来上がり、
そこから逸脱すると迷惑がかかるという事で、いつまで経ってもまともな議論は
行われなくなる。まともな事をいう事自体が問題視されてしまうのだ。

とにかく日本では民主主義など役立った試しは殆どない。
2008年、せっかく民主党政権が出来て、状態が変わるかとおもいきや変わらなかった。
それどころか、抵抗勢力である学閥によって、メディアをつかった政治家叩きが起こった。
鳩山氏や管氏や小沢氏に対するひどい言明は覚えがあろう。

なぜ民主党政権が潰されたか。それは、民主党が推し進めようとしていた政策が、
既得権益層の不利益になるからだ。ごく単純な話である。

そもそも、国民国家とはおおよそ「富国強兵」のために明治に確立したものだ。
その心は国民を兵士にし、総力戦を試みる事だ。ところが戦争に負けてからも、
この体制は維持された。それがために日本は”成功”したのである。エンクロージャーによって
都市部に集められた労働者とはつまり、経済戦争のための兵士であり、彼らの頑張りによって
日本は高度成長を果たした。アメリカによって誘導された社会システムは結局なんにも機能せず、
日本は社会主義で有り続けたのだ。それは全体主義によって駆動されたわけだ。

日本における同調圧力は、結局、この明治期に作られた概念セットである。
江戸時代は、幕府の支配があったわけだが、諸国は諸国に過ぎなかった。その日本が外国から
きた国民国家に対抗するために、自ら国民国家になったのだ。その時必要だったのは、
命令が一律に行き渡るという事であり、命令に従順な人間の製造であり、長をたてるマインド
セットである。まあ、奴隷のようなものだ。

これは実にうまく機能し、実際の心根はともかく行動として、反発する人間は殆どいなかった。
裸足のゲンではこのような抵抗を試みる描写が少なくない。理念によって不利益を受けるなら、
理念を簡単に捨てるのが人間なのだ。人は弱いものだとわかる。

結局、この従順さは戦後も発揮され、今の今まで来てしまったわけだ。
そして、平和時代にはそぐわないシステムがいよいよ崩壊しかかっている。

この崩壊を自民党がもとに戻すのではないかと思った人々がたくさんいた。
そして、安倍がそのパペットに任命された。彼らの正義は、経団連と官僚、そしてアメリカの利権
拡大である。それは巡って庶民の生活の圧迫になる。多くの規制が既得権益つまり学閥に締められて
いるためだ。政府はとにかく金が動くところに顔をだす。安倍政権は、あまりにも正直なので、
まんま行動する。それで何が問題か?と開き直っている。雨乞いのような政策をし、国家の金を
友達に優遇する。そういう人間だと分かった学閥人間たちはこぞって、彼らの後ろに並んだわけだ。
そして、そのおこぼれを貰うことを是として生きている。

では、なぜ多くの人がそういう事になるのか。それは国民国家という明治期に作られたシステムが
すでに崩壊しかかっているからだ。それは毎年積み上がる国債をみれば明らかだろう。石井紘基氏が
調べたように、日本国民はおおよそが国の金に依存して生きている。国の金がなければ、こまる
事業がたくさんある。それは、官僚たちが作り出した天下りポストのせいであり、規制のせいである。
この国に本質的な競争など無い。あるのは学歴エリートが自分の事だけを考え、国から金を絞りだす
仕組みを省庁上げて構築しているというだけである。誰も国のことなど考えちゃいないのだ。

国が傾く。その時、頼れるのはなにか。既得権益はそのパイプにすがるだろう。経団連は
政府にすがるのだ。官僚はその立場を利用して国システムから金を奪いに行く。その周りには、
大企業を始め、さまざまな中小企業がまとわりつく。こうして、国が借金をしないと回らない
事になっていく。むろん、借金は利子が発生するためにこれはもうオワッタ。もう日本は破綻する。
もとに戻せる自体ではない。あとはそれがいつ来るのかという事だけだ。

結局、ピンチを感じるほど、既存のシステムや過去の栄光にすがる。まさにパニックである。
それが今の日本なのだ。だから、安倍政権は支持される。なにしろ時代錯誤の政策を推し進める
のだから。日本の実態にそぐわないことをやろうとするからだ。かつて国民国家としての成長期に
やった事柄を再生産するというアホな事に注力しているからだ。だからこそ、企業のトップは
政府のケツを舐めるということだ。

学歴エリートたちが沈みゆく日本経済において元をとろうして、日本が傾くのを加速させている、
そう見ることもできる。社会保障システムの崩壊は近い。そもそも、国の借金がひどい。保証など
していられないわけだ。その借金は国民にむけてばらまかれた。残念ながら、その流れは特定の
場所、つまり友達か、金融業など資本をもつ人間に向かってしか流れないのだが。。庶民はきっと
20年後に騙されたと嘆くのだろう。いざ自分が老人になったとき、年金がないという自体は
起こり得ると思ったほうが良い。

こんな社会でマトモに働く方がどうかしていると私は思う。
そして、多くの人が薄々感じているように正社員におさまった人間の行動原理は、
「なるべく仕事をしない」である。給与に対して競争原理のない立場では、たくさん働くほうが
損をするからだ。当然である。そのしわ寄せが若者にのしかかる。非正規社員として若者が
使い捨てにされる社会の到来だ。様々な分野で、社会が人的資源を使い捨てている。

このように眺めた時、若者の、とりわけエリートが愚かにも安倍政権支持化するのは理解できる。
彼らはたまたま能力を持って生まれた。それはこの学歴差別社会では有利な資質である。それを
フルに活用して、自分の地位を安定化することがリアルな現実への対処法だと理解する。すると、
受験エリートは、自分の持てる力を自分の立場を奪い取ることに全力で注ぎ込む。それは反面で
みれば、他人はどうでもいい、弱者などどうでもいいという事になる。そこまでいかずとも、
他者の痛みや苦しみは、二の次三の次になるのは当然の思考だ。

このような心性をもった若者が現代をみれば、得をするのは政権に阿っている人々であると
すぐに分かる。ならば俺もその列に並ぶのだと、勇んで勉強に励むのだ。むろん、各個人の
心境になっていえば、「どうにかしてそういう立場(つまり学歴エリート)にならないと
俺・私は終わってしまう」という激しい焦燥感である。悲しいかな、こんな気持をもった人間が
日本ではエリートとなり、組織の意思決定を担う。宮台氏の言説を借りるなら、「人間もどき」
である。彼らは失敗を最大に恐れる。なぜなら、失敗はこのエリートへの道が塞がれる事を
意味するからだ。そして、それは生存の危機だと思いこんでいるからだ。

エリートたちは正社員という既得権益に入り込んで安心し、今の社会構造が維持するように
思考し行動する。だから、自分たちにとって心地よい内容を世間に流布する。自分の人生を
全肯定するメディアである。そして、そのためにはあらゆる努力を惜しまない。そうやって
見方によっては実に惨めな人生を彩っているのである。決して、エリートは幸福とは限らないと
いえば十分だろう。

万事塞翁が馬という故事によれば、未来などわからないはず。ところが、平和とは恐ろしい。
未来予測ができると思いこむだけの時間がある。今の時代ならたっぷり20年は洗脳され続ける。
だから、その学閥エリートたちが作り出した「幸福のスタイル」を追い求める事になる。
そして、それがかなわないとなると、ヒステリーを起こすのだ。それは時に犯罪などのトラブル
を引き起こす。それでもなお、アリもしない幻想を求めて、今日も会社に出かけていく。なぜなら
未来が見えると思っているからだ。そして、その社会が押し付けてくる価値観にどっぷりと適応
する。

適応しきった人々が社会のトップで毎日意思決定している。そういう社会を想像してみれば
いい。その問題は明らかだろう。既存のシステムが崩壊したら、とっても困るのはまさに、
社会に過剰適応した人々である。彼らは生活が何たるかを知らない。今クビになったら、文字
通り路頭に迷うだろう。それが学閥エリートの行く末である。だから、現代のシステムが崩壊
しないために様々な手を尽くそうとする。安倍政権の政策はすべてそのためにあると言っても良い。
現状維持。これがすべてなのだ。少子化問題や高齢問題も、現状が維持されるためには、、という
接頭句によって、全て説明できる。官僚が頭がいいなんて幻想であって、彼らは実に安直である。

過去の記事で体制と非体制の話を書いた。安富氏による分類である。
この体制側人間というのは、学閥人間の言い換えでもある。彼らは社会のどこに広がるのか。
国だけじゃない。大企業にも、医者や弁護士にも、社会的ステータスのある場には、およそ
学閥人間がいる。彼らはその個々の場で、自分の立場を堅固にするために日々努力しているのだ。

ではそうではない人はどうか。その人々はある意味では幸福である。学閥エリートたちに
くっついていれば、おこぼれが貰えるグループである。従順で、単純。要はいい人である。
簡単に騙されてくれるので、人々を動員したい人たちには大人気である。これが流行っていると
宣伝すれば、すぐに追随し、テレビをダラダラと鑑賞する。半径五メートルくらいが世界で
あって、それ以上のことは考えないし、考えられない。自動機械的でもある。だが、彼らの
内面は学閥エリートよりは幸福かもしれない。努力などしなくても良い仕事をとにかく、
日々こなしていれば、それなりの給与が振り込まれる。むろん相当に低いのだが、所詮そんなもの
だと諦めているがために、その状態は一生変わらない。でも、変な精神的な負担は少ない。
同じような人たちと結婚したり、つるんだりして、働きアリのように生きるのだ。そうして、
彼らは同じ労働者を再生産する。

自分の意思を持たない人々といってもいい。誰かの言説に簡単に騙される。人の類型はここに
ある。残念ながら、彼らは自分の存在を懐疑しないので、不幸であるがゆえに幸福である。

現代は恐ろしいことに、この2つがまだ混ざってはいるが、明らかに分離局面を迎えていて、
もうそんなに遠くない未来に、別の生き物となるかもしれない。労働に生きる人間と、支配する
人間とに。極端にいえばそういう事になる。そして、そのような状態に生物的に最適化する。
その結果、双方幸福度は高まるのかもしれない。

このような時代に、何をすべきなのか。
少なくとも、あと50年もこの社会のままのはずはない。つまり社会諸制度が変革される
可能性が高い。よって、今も子どもたちは既存の思考に染まらないことだ。どうすればいいかは
私だってわからない。ただ、今の子供達がおとなになって、その時に彼らが社会のありようを
決定してくるはずだ。その時、我々大人は邪魔かもしれない。とにかく、子供たちには、
生きるための本質的なことを身に着けさせるほか無い。それはどうやって衣食住を金という
システムに強く依存せずに確保するかという知恵である。金が危険なのはもう何度も言ってきた。
その証拠に、現政府は預金口座と背番号をタグ付けようとしている。いよいよ預金封鎖の
仕組み構築に手をだしてきたというわけだ。

次に大事なのは、システムへの過剰適応をやめることだ。むろん、脳の可塑性には限度がある。
残念なことに、30代以上は既存の価値観から逃れられない。変わる可能性はほぼ皆無である。
多くの人が洗脳されきった社会エートスの中で、自己を見つめるのは不可能だろう。
よって、おっさん、おばさんは諦めてもらおう。そして次の世代のためにも、早めにコロッと
おなくなりになるのが良いのだ。とはいっても、社会システムで食えなくなれば、簡単に
変わるのだろう。敗戦後にがらっと思想を変えたように。私が期待するのはそのくらいである。

現代の価値観を信奉するのもとにかく危険だ。その原理は自己の利益の最大化と、他者の
存在否定である。これが現代日本のまっとうな価値観である。これがインストールされていない
人は、日本社会で相当に苦しんでいる事だろう。自分勝手で、不遜なやつじゃないと立場を
守りにくい。優しい人間はこの社会では淘汰されていく。あと100年もしたら日本人の大半は
嫌なヤツになってしまうかもしれないというくらいだ。もちろん、これが可能なのは、社会
システムが盤石であるからだ。社会システムが崩れた今日、むしろ、カウンターの優しい奴
じゃないと辛い時代になるかもしれない。

他者の存在を気にかけ、自己利益の最大化だけではない価値観をもつ人間。そういう人間が
大事なのだ。つまり、友達に優しく、家族にやさしく、周りを考えられる人間だ。いうは
簡単だが、実行は難しい。なぜなら、人は自己利益最大化のために生きているようなものだ
からだ。

ひとつ注釈をするならば、自己利益最大化とは、自分が良ければ他者がどうでもよいという
事だけではない。他者の喜びが自己利益となる人だっている。アダム・スミスがいったように
道徳的人間ならば、まさに自己利益だけを追い求める事が善である。自分の価値観が、他者との
協力の上にある幸福を目指すならば、まさに自己利益最大化は社会貢献となるわけだ。これは
正しい。だが、現代日本ではそういう意味ではなく、自分の利益とは金銭であり立場であり、
それを確保するためなら、他人を蹴落としても良いという価値観の事だ。

こうして考えてみると、知識社会では、学歴がものをいう。その彼らの能力は、親から譲られた
ものだ。つまり本質的には本人の努力ではない。そういう資質を自分のためだけに使うという
セコイ人間を日本は奨励している。そりゃ、日本社会が傾くに決まっている。セコイ人間になれ
と言われて、それを全肯定する社会だ。他人に優しいはずがない。自分の脳力を自分でせしめ、
あわよくば他人の能力をも自己利益最大化に利用する。これが資本主義社会だ。この枠組で
世間が喧伝する幸福に到達できるのは、ごく一部だろう。エリートはそれを目指して日々奮闘し、
庶民は、日々が楽しきゃそれでいいと過ごす。これが実態である。

かつては社会全体がパイを増やしていた。だから庶民も生活が豊かになることを実感できた。
ところが、20年停滞した。日本はもう抜本的な事がない限り、立ち上がることはない。
その時に煽りを食うのは、庶民である。学歴エリートは庶民から巻き上げた金を国からボロっと
手にするので、どうでもよいのだ。そして、そんな人間たちが社会システムを維持している。
そりゃ、庶民の暮らしは苦しくなる。当然の帰結である。

今更、社会全体のパイを増やす、つまり人口増加を果たすという事ができるのか。少なくとも、
今の現状では無理。ただし、方法がある。それは「戦争」である。

戦争が起これば、日本の金は価値を失う。そして、全てではないが、かなりの既得権益の枠組みが
崩壊する。まあ、リセットのようなものだ。戦争は人口を減らすために、急激な人口増が
見込まれる。そのフェーズになれば、発展という社会に生きることができよう。だが、現実的
だろうか?

昨今の戦争は背後に核がある。現場ではサイバー攻撃やドローン攻撃だ。人間の出る幕ではない。
こんな時代に壊滅的な戦争があるだろうか。起こったらある意味で世界の破滅だろうに。

となれば、結局未来はディストピアである。
日本の庶民は愚民化し、その枠組で幸福追求がなされる。
一方で、エリート、とくに若い世代のエリートは英語や中国語を駆使して、海外に出ていく。
日本というアイデンティティではなく地球人というアイデンティティに生きるだろう。
そうしてマトモな意見が徐々に通る社会になっていく。知能も格段に増すだろう。

ダーウィンは物理的隔離や性淘汰による進化を想定した。
だが、現代はミーム的に人間たちが組織化しつつある。いずれ、この2つは階級となり、
差別化されていくのかもしれない。事実、社会的隔離によってユダヤ人の一部は知能を
亢進させた。同様に生存圧によって、脳が退化するグループと、進化するグループが出てきても
不思議はないのだ。

考えてみれば、この時代に、自己利益最大化をやめろと訴えたって、
自己の生存圧によって妨げられている。要するに沈みゆく船では、他者を貶めても罪に問われない
ということだ。果たして本当にカウンターはあり得ないのか。

人というサルは一人では生きられない。どんなに金を積んで有料老人ホームに入っても、
狂った介護者に殺されてしまうかもしれない。そういう時代だ。他者を助けるという能力を
もう一度回復するしか道はないのではないか。それ以外に何があるというのか。私はそう思うのだが、
どうだろうか。

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