矛盾ー結局ヒトはがめついー [思考・志向・試行]

人生には色々矛盾がある。

そのうちの一つは、自己利益と社会利益だろう。
倫理とはその指針になる規範のことだが、社会において自己利益といっても多面的要素を含む。

自分の利益のための行動。アダム・スミスが見えざる手といったのはミクロに見れば
このことだが、それには大前提があるのをご存知だろうか。アダム・スミスは「道徳論」の
中で、道徳を持つ人間であればこそ、自己のために遂行することは社会のためになると
述べた。要するに、聖人であれば、その欲する所の行動は、当然社会のためになるという
単純な話である。

ところが、のちの人は、この見えざる手という部分のみを誇張し、誇張を重ねてしまった。
あたかも市場原理によって社会が良くなるかのように喧伝した。大嘘である。自己の金儲け
を自己肯定するために作り出した論理に過ぎない。大きい自己欺瞞を隠蔽するための論理である。
それは、現代の経済学でも同じことだ。金儲けの本質は他者の搾取である。それ以外でも
それ以下でもない。それがしたくなければ、自己が生産する手段をもち、利益を得るしか無い。

労働の対価として利益は公平に分配されることはない。とりわけ製品や商品作成において、
ことは不可解さを増す。料理人が作った料理は価値を生み出す。その付加価値分が彼の取り分
とはならない。彼はその中の一部を手にして、残りはオーナーや雇い主の懐に入る。金儲けする
立場の人間は常に搾取するということだ。これは真であるから、覚えておくほうが良い。


さて、では個人の利益追求はどうあるべきか。
アダム・スミスは道徳の範囲において、遂行すべきだと。自分の行動が宗教に根ざした行為で
あれば、何をしてもそれは自己のためであり、かつ、社会のためになる。だが、現代はそうではない。

例えば、誰かが会社に入って商売をする。その時、商売がクリーンな場合はまだマシだろう。
だが、商売がアコギになる場合はどうだろうか。とある商品を作るのに原材料が必要だとしよう。
その原材料を買って作るならば、そのメーカーの責任はそれ以後ということになる。
だが、原材料を生み出す仕組みの企業努力とは結局、安い労働力を使うことである。
だから、資本主義社会において、原材料に近い場所で働く人々は強い搾取を受けることになる。
このとき、メーカーの従業員は搾取していることになるのだろうか?

メーカーの言い分は、「こっちはただ原材料を買っているだけだ、それもできるだけ安い所から」
と単なる企業努力の成果としてこの現象を取り扱うだけだろう。しかし搾取されている人から
みれば、彼らがもう少しまともな値段で買ってくれれば生活が楽になるのに、と思っている。

人は目の前に苦しみを提示されない限り、自己の行為の結果を理解しない。
空の上から落とした原爆の結果は、地上の苦しみをみなければわからないのだ。

メーカーの従業員は自己が搾取されながら、その搾取を維持するために、さらに弱者を搾取
していると理解すべきである。そうしたらどうするのが良いのか議論が出来る。

現状では、この部分に対する想像力は欠如し、ただのビジネス関係として議論される。
そして、この構造が維持される限りにおいて自己そしてその所属組織は利益を上げることが出来る。
よって、搾取は明に暗に肯定されているわけだ。つまり、メーカーの従業員は搾取する人である。

さて、ここで大事なのは倫理観である。搾取があからさまになった今、メーカーの従業員は、
搾取されている存在であり、搾取している存在である。ここで「人生ってのはそんなものだ」と
いうなら、それで構わない気がする。ただ私は声を大にして、指摘する。あなた方は、
他者を貪る人間であると。これは事実である。私の想像や価値観などとは無縁なことだ。
客観的な事実を述べたまでだ。

更に付け加えよう。ここからは私の価値観による。
あなた方は、悪人である。少なくとも、あなた方が肯定している価値観によって、
苦しむ人がいると。およそ、受けいれられない話だろうが。何しろ無知蒙昧なのだ、あなた方は。

自分はただ、企業に雇われて働いている健気な1日本人に過ぎないと自己規定する。
そして、今日も対して嬉しくもない仕事に勤しむ。その私のどこに否があるというのか?
そう考えるのは当然であろう。私もよくわかる。が、だからこそ無知蒙昧であると断言できる。

事実はすでに教えた。だが、あなたは自分は罪はないということだろう。まさか自分が加害
の元凶であるとは思わないだろう。あくまでしらを切るのだ。何しろ自分の行為の結果を
自分の行為の原因をしらなかったからだ。無知とは恐ろしいものである。

第三世界がなぜ未だに貧困にあえいでいるか。奴隷として多くの人間を差し出し、
その対価として僅かな酒を手に入れたような非対称な取引が存在するからである。
その取引相手の一部があなたの会社であり、あなたなのだ。

この世界は様々なものを見えなくさせている。結果的に、自分の行為がどこに由来し、どういう
影響を与えるのかが不明になった。おそらくだが、これを包括的に理解できる人はだれも
いないだろう。当然、私もだ。


では、どういうことを意識すべきなのか。それは誰しもが社会構造に責任があるという
ことである。第三国の貧困はあなたにも関係がある。要は誰かの不幸は、地続きである以上、
誰かの利益に書き換わるという事実である。それをまるごと肯定するのは実に簡単だろう。
何しろ、ほとんどの人間はそれを肯定しているし、それを肯定しないと日本では生きていけない。

この点についてちゃんと理解している人はどれくらいいるのだろう? 私には大いに疑問である。
きっと、理解するはずもないし、する気もないはずだ。人とはそういうものである。

こうして、自己の利益を増進するというテーゼは、先進国の頭脳にインストールされ、
唯一の倫理として機能している。アダムスミスの思惑とはまったく別の形において。

残念だが、そういう意味は日本社会の主要部分は狂っている。マジで言っているのだが、
これもまた通じないのだろう。自分の価値観が唯一であるとおもいこめるほど、
人とは馬鹿なのだから仕方がない。だが、その埋没した思考の結果が、多くの不幸を作り出す。
そして、自分は無実だと本気で信じている。私には信じられないのである。

「目を覚ませ」と様々な宗教家が唱えてきた。当然である。真はそこにあるのだから。
すべての宗教はそこをまず踏襲する。私は宗教家ではないので、それを声高に偉そうに
いうつもりはない。だが、絶望だけはわかる。私の言葉届く相手がいるともあまり思えない。
それくらいに習慣は根深いし、自己の考えに固執するのは仕方がないのだ。

私のいうことなど、とてもシンプルでわかる話だろう。宗教の悟りのような複雑さなど
微塵もない。だが、本当の意味で理解する人はまれだ。仮に理解したとして、それで行動を
変える人がいるはずもない。何しろ、これを読んだって、明日には仕事にでかけ、学校にいき、
いつもどおりの誰かに規定された生活を過ごすのだ。あなたは一生そうやって生きれてればいい。
それが人の性である。私にはよく分かる。

私が何度も述べたズレ、目が覚めたとは、この違いである。なに、単純なことなのだ。
世界がどうあるのかを理解すれば、否応なく行動を変えざるを得ないということだ。

あなたが一生懸命取り組んでいる仕事って、そんな価値があるのか?
その複雑怪奇な問題を解けるようになって喜ぶ学生よ、それが遊び以上の価値があるというのか?
金儲けのプロが、多大な利益を上げたとして、そこにどんな価値があるというのか?

価値観というように、価値は相対的なものだ。
自分の価値観を持つならば、それはその瞬間に他者の価値観を見つけることになる。
誰かの借り物の価値観でしか生きないならば、こんな話は無駄なのだが。

多くの人が価値がある規定したゲーム中で、そのゲームに勝利する事を人生の目標に
するというのは、おおいなる矛盾ではないか。

自己の利益とは、要は自己の価値観である。それ以外に利益など存在しない。
人が拠り所とするのは価値観であって、利益ではないからだ。その利益の増進が行動原理と
いうならば、利益とは肥大化した自己に過ぎない。いや、ただの生存の問題なのだというならば、
生存がその人の価値観である。そう自己規定したのだ。

さて、話を戻そう。
我々はいつでも、自己利益と社会利益を超克出来る。この分節の起源は誰かによって生み出された
価値観に依存するからだ。人はただ模倣する存在である。その模倣の度合いの強弱が価値を生み出す。
正確には、幻想的価値を生む。何しろ、人が欲すれば、価値がうまれるのだから。
そこに落ちている石だって、人が欲すれば価値を持つ。

生きるために何が必要なのか。大事なのは価値である。プライスではない。
プライスになった瞬間から、価値を失う。人は簡単に価値を手放す。プライスのために。
そうして、失った価値観を取り戻そうと、プライスを稼ぐ事に勤しむ。どれほど稼いでも、
価値観は取り戻せない。なぜなら関係ないからだ。この価値観にはまり込む矛盾。

価値を生み出すのは心なのだ。

心が健全であれば、第三国の人々を安易に搾取していいとは思わないはずだ。
他者を搾取したいとは思わないはずだ。他者を搾取状態にしておいて、幸福を語るのは、
偽善そのものである。そんな人で溢れかえっているのが、日本の都市である。

地方にいる多くの心が健全な人たちにこそ、私は希望があると思う。
彼らは価値を受け継いできた。それを急速に絶滅させようという勢力が都市の論理である。

日本の都市部にいると、それが世界の全てに思えてしまう。
しかし世界は広い。そして、世界はもっと幸福を生きている。価値を知っている。
プライスで価値を犠牲にしない生き方がある。

そのために何をしなくちゃいけないのか。
やはり言い方としては「目覚めよ」しかない気がする。これは昔の人から受け継がれた
優しさなのだろうと思う。
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