なぜ管理をしたがるか? [思考・志向・試行]

それは、責任を逃れたいからだ。
そのもっと背後にあるのは、他者を信用しないという態度である。


他者を信用しない者は、他者を管理しようとする。
管理される側は、管理するものを憎む。恨む。
これは自然な感情である。
だから動物園の動物はしばしば飼育員を殺しにかかるのだ。

よって、部下は上司を憎む・恨むのが普通である。
経営者は投資家を、生徒は先生をだ。

一方で、話はこじれる理由がある。
恨み・憎しみの対象としての上司は、自分の社会的「生殺与奪権」を握っている。
いまや、現代人においてはそれは「殺人」に等しいほどの権限である。

社会的な痛手を被るくらいなら、従った方がいい。これくらいの知恵はヒトにはある。

この認知的不協和の解消は、おかしな方向へ向かう。
それは、「上司を素晴らしい」とみなす方向へとだ。

なぜ、自分がこの人のいうことを聞かねばならないのか。
この合理的な判断は、「聞く必要などない」である。
だが、首根っこを掴まれている人間にとっては、それは出来ない。

すると不協和の解消のため、上司を素晴らしいものに変えれば良い。
上司は素晴らしいから従うと考えれば、辻褄があう。


結果的に、上司は自分より優れていると思い込む事によって、
そもそもの感情に蓋をすることができる。

そのうちにこう思う。自分も上司のようになるのだと。
本来、嫌うべき存在に、自らなろうというのだ。
そのようにして自己を守らねばならないという事がどういうことか。

このような合理化はおよそ無意識的に生じるのだろう。

これは、かつて、親に対して行ったこと事と同じかもしれない。
多くの親は、子供を支配する。支配される子供もまた同じ心的過程を抜けていく。

内側にある恨み・憎しみは、表には現れず、むしろ、その対象に同化することで
事態をやり過ごすことになる。気がついた頃には、自分がその上司になっているわけだ。

このような過程を経ているがゆえに、
万が一にも、部下が自然な感情をあらわにすると激怒する。

激怒の仕方はいろいろだ。グチグチとなじる上司もいれば、怒鳴りつける上司もいるだろう。
もっと陰湿な形でいじめる上司もいるかもしれない。

なぜそこまで上司が怒るのか。それは、自分が抑圧してきた自然な感情を見出すからだ。
それを抑圧する事で、耐えてきたのに、それを他者がやらない事に不満があるのだ。
不満というより、激しい嫉妬というべきかもしれない。自分が出来ないことをする奴を
嫉妬するのはしばしば生じる事だ。

攻撃とは、つねに「守り」である。

この場合は、自分の自然な感情を無視ないしは抑圧してきたという思想を踏みにじられた
という事に対する「守り」が、怒りとなって噴出しているのである。

人はプライドを持っている。プライドを踏みにじられたと感じた人間は恐ろしい行動をとる。
問題は、そのプライドの源泉となる価値観の歪みなのだが、それは文化的に規定される
ことであり、本人の責任とまでは言えない。

とはいえ、許容することは可能である。
自分の世界観が確固としている人ほど、怒りっぽくなる。それは守るべき世界観を意味する。
必要以上に世界観にこだわることは、許容を狭めてしまうだろう。

結局、因果応報なのだ。
人は文化に遅れて登場する。文化にはひどい偏見や暴力が内在している。
そのようなものから自由な人間は誰一人としていない。だが、その偏見や暴力への対処は
変えられるものである。

所詮、人は人ができる事しかできない。空を飛んだり、海に潜ったり、宇宙を移動するのは
無理だ。同じように、文化に浴さずに生存を確保するのは無理なのだ。

とはいえ、価値観は変えられる。不本意かもしれないが、
自分の部下には、自然な感情を許せば良いのだ。

同じく、経営者にも、生徒にも、子供にもだ。

これに耐えられる大人は殆いない。
殆どいないがゆえに、同じような価値観の人々が毎日毎日生成されていく。
人類とはそういう種族である。

物事を理解しても尚、自分の中に巣食う根深い文化には抗えないものだ。

こうして、我々はまた争いを、戦争を、テロリズムを繰り返す。
こうして我々は、専制政治を、ファシズムを、独裁国家を作り出していく。

その根幹は、他者から支配されたという感情の隠蔽に由来する。

かつて戦争がない時期があった。狩猟採集時代には大きな争いはなかった。
人類が争うのは、およそ食料確保の知恵と、その所有とによる。
つまり、資源の奪い合いである。人が多すぎるのだ。

多すぎる人がなんとかやっていくために、国による支配が生まれた。
暴力を背景として、人を従わせる方法だ。

そう、国はまた、他者支配される人間を作り出す。
その人間たちは、支配からの脱却を求めて、争いを始める。

エンドレスである。

およそ、人類という種は、どこかで共に争い滅びる運命かもしれない。
他者支配という文化から、脱却するしか、争いの芽をつむことは出来ない。

だが、他者支配こそが、どうにか多くなりすぎた人類のバランスをとる仕組みなのだ。


毎日が苦しいのは、常に、人生を生きる間ずっっっっっっっと、他者支配下にあるからだ。
少なくとも日本に生まれたものは、他者支配を生きる。

ここから少しでも脱出しようとするならば、金に支配されない程度に経済的余裕をもつか、
ホームレスにでもなって、実質社会から外れてしまうかであろう。

本来自由のはずの人生は、他者支配により、苦しいものになる。


他者支配が苦しいだけか?
実は、そういうわけでもない。人は支配されたいと思う存在でもある。
それは、責任回避である。最初に戻ってきた。

人は自分で何かを決定することを厭うからだが、この話はまたいずれにて。
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