地名の表記変更の意図とは? [思考・志向・試行]

https://sakisiru.jp/24663
https://www.fnn.jp/articles/-/340210
https://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000249968.html

キエフはキーフと表記すると、”国会”が決めたらしい。
法的には変更がないので、メディア先行である。

我々にとっては、あらゆる媒体での呼称問題になるわけだから、
呼称変更はそれ相応の意味を必要とする。

だが、どうも国は、単に他国がそうしているから、という程度の理由らしい。
はあ? となる。

国は本当にアホなんだなと思う。相手国つまりウクライナから国際的な要請があるなど、
求められ、なおかつ、国会で議論された上で、法整備によって変更するというなら、
まだしも、ロシアがウクライナに侵攻したというだけの事で、呼称を変更するのは、
正直いかがなものかと思う。

現実的な部分では、チェルノブイリが、チョルノービリになるなど、原発事故のシンボルが
名称変更されるなど、影響が多い。また、ウクライナの半数はロシア語を話す。つまり、
元々の呼称で、困ることはさほどない。変更によって困る事はあってもだ。

つまり、これはものすごく政治的な事柄という事である。

呼称を変更するという事で、もたらされるのは、単に表記が変わるという事ではない。
政府が政治的意図をもって、固有名を変更可能だという権力問題である。
それも、国会という我々の代表を通じてので変更ではなく、一部の政治家や防衛省といった
団体の意向によって変更されている。これが大問題である。

メディアは一斉に変更した。この意義は簡単だ。
メディアは国の犬であるという事である。

実質的な問題がないのだから、わざわざ波風立てなくても良いという判断。
だが、こういう事が様々な場面に及ぶとどうなるのか。それがかつての戦争ではなかったか。

私とて、実際上、この呼称変更でこまることはとても少ない。
だが、逆に言えば、ロシア語の音を使うことも、支障はない。
積極的に変える意味が見いだせない。

キエフはキエフだ。チェルノブイリはチェルノブイリである。
ウクライナが頼んでもいないなら、既存のままで良い。

政治的なものが言語に影響を及ぼすというのは、歴史上常に生じてきた。
そして、大嘘が蔓延した過去がある。

今の日本であれ、大嘘がまかりとっている。アホノミクスとか円安とか、株価とかGDPとか
ちょっと調べりゃ、全部が全部、ハリボテだと分かる。そして、政府統計を弄り倒している。
虚偽を承知で、ごまかしている。

果たして、現代の大変危険な状態を理解している人はどれくらいいるのだろう?

政治家に文句をつけても、どこ吹く風であり、
長いものに自己同一化する精神的奴隷たちは、金で魂を売り払ってしまっている。
それがまともと言われるのだから、社会は末期であろう。実際に問題が噴出してから
では立て直すのはかなり困難なのだが、殆どに人は意に介さない。

この10年間、政治的なものは、とかくキモチ悪いのだ。
自民党政治が生理的に気持ち悪くて仕方がない。
それは、日本の醜悪を固めて煎じ詰めたようなものだからだろう。
すべての汚職が行われている。むろん、司法や検察も懐柔されてしまったがゆえ、
それが断罪されることはない。ルールを破れば罰せられる。この当たり前を
政治は踏みにじる。その一方で、庶民には過剰なルールを適用してくるのだ。

国のルールは守るだけバカバカしいものになってしまった。
それは、ルールを守らぬ人々が政治をやっているせいだろう。
全く最低である。

話を戻そう。今回の呼称変更は、政治でしか無い。
その意図は、敵を創出することである。

当たり前だが、ロシア人は悪くない。
もっと正確に言えば、ほとんどのロシア人に罪はない。
問題があるのは、行政を司る一部の人間と軍部のトップたちである。
また、背後にいる資本家たちであろう。

これがゆえに、ウクライナのロシア語表記に目くじらを立てるのは愚かしいと分かるだろう。
誰が、このような自体を作り出したのか。常にごく僅かな人間たちの欲望の結果だろう。
それに我々が与する理由などない。

個人レベルでみれば、悪い人間などいるはずもない。
いるのは、愚かしい人間である。また愚かな行為を美辞麗句で脚色する人間たちである。

誰かを救うと叫んで、罪もない人々を惨殺する。
この何処に正義などあろうか。歴史はこれを繰り返してきた。

残念だが、21世紀にこれを超克できそうもない。
人類が理性的になれる日は遠い未来にもないのかもしれない。

そのうちに、人類の一部が進化して、既存の人類を駆逐するのかもしれない。
それが有機体とは限らないのだ。

どれほど警告しても、ムダだった。
円安になる? 当たり前ではないか。
金の量をふやせば、価値は下がるに決まっている。
加えて、金を量を増やす、つまり量的緩和がある限り、利上げができない円は、世界から
取り残されるに決まっているだろうが。

すべてが取り繕いから生じている。象徴的にいえば安倍というごまかしの権化による。
そして、なおも、そのごまかしでメディアを歪め続けている。

私は、世界の片隅で警告を出し続けてきた。それが私にできるせいぜいだからである。

なんだか下らないなとも、思うこの頃。
デタラメをデタラメだと口にする他無いが、あまりにもデタラメが大手を振って歩き過ぎた。

庶民たちはデタラメを本当と思いたいのだ。結局、そういう事なのだ。
自分の生活をまともに考えもしないのだ。本当に自分の生活を考えたら
政治的にならざるを得ないのだから。年金が減ったりする。消費税が増え続ける。
日々の問題そのものなのに、それに疑問すら持たない事が危険なのだ。
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何のため? 意味についての論考 [思考・志向・試行]

意味ってなんだろう。実は難しいのだ。
哲学を紐解けば、一冊や2冊になってしまうほど。

それでも、意味なんて言葉を、使ってしまう。
これほど中身が決まらない言葉も他にはないかもしれない。

さて、何のため?という問いに対して、我々は意味を付与しようとする。

意味はつねに自己肯定感と結びつく。
価値といってもいいかもしれない。

そして、その意味を喪失すると、いわゆるニヒリズムに陥る。

ところがだ、ほとんどの人は、自分の意味を盲目的に信じている。
というより、およそ考えるだけ無意味な問いとわかっている。
なぜなら、意味合いを見出そうが見いださなくても、生きることには変わりないからだ。

かくいう私も、他者の盲目さを批判しながら、自己の人生意味については、
盲目的に信じている。だからこそ、今もこうしてブログを書いているといえる。

要するに生かされているのである。その事に対してどんな解釈を与えようとも、
生かされているという事実には変わりはない。そして、そこに究極的な意味を見出すのは
不可能とわかる。誰もが、気がついたら人生をスタートさせていたのだから。

人生に意味をもたせるために、大樹に寄りかかろうとする人々は少なくない。
もしくは、身の回りに人々とのつながりにそれを求める人も少なくない。

例えば、国家、会社、家庭、地域などと自分を同一視することで、自己に意味を見出す人がいる。
そもそも意味は分からないのに、そのような行為をすることで心の安寧を図るわけだ。
人生の意味はわからないという状態から脱却したいから、方便を利用するということだ。

私は家族がいる。子供がいる。彼らの幸福のための行為が私の人生の意義だ。

多くの人はこのような意味づけを肯定するだろう。
だが、それもまた、一つの方便に過ぎない。

そして、この方便によりかかるがゆえに、世間に多くの問題が噴出する。

国と国の対立。それは、同一視した自分への攻撃。そんなふうに考えてしまう。
何が非道徳的行為があっても、私には家族がいる という言明が優先され、
その言明のもとに、非人道的な行為が正当化される。

これはおとぎ話ではない。そういう盲信のために実際に人が死んでいる。
暴力が生まれている。我々の祖先もまたそのような行為に及んできた。

人生の意義を外部に求めるとき、人はどれほどでも残酷になれる。
これが真実である。そして、それはあなたの中にも存在している。
とはいえ、ほとんどの人はものすごくナイーブに自分を棚に上げてくるのである。

では、意味とは何か? 自分にとっての意味とは。
答えは繰り返しだが、不明である。これが本質的な答えだ。

ならば、我々に出来ることはなにか。人生の無意味性を内包しながらも、
目の前の人生を自分の思うがままに生きることにほかならない。

大きなものにしがみつきたい人は、そうすれば良いと思う。
だが、周りに迷惑をかけるのは止めてもらいたい所である。

私は、幻想を知った。そこから逃亡した。
そして、逃亡が良かったのかどうかを逡巡している。

幻想を幻想と知りつつ、生きる事も可能だったのではないか。
そんなふうにも思う事がある。

私はそれを潔しとしない程度に、潔癖だったのかもしれない。
そして、幻想はやっぱり幻想だなと思う次第である。

なぜ、生活が重要だと認識するのか。
幻想との対比だからだと思う。

生活重視という話題は、なんどもブログで取り上げた。
その意味は結局、日々のまさにこの瞬間にしか、人生は存在しないからだ。
そして、人とは、生活する実態であって、大きなモノに命を捧げるような
存在ではないと確信するからである。

美味しいもの食べたい。
好きな人と一緒にいたい。
安心して眠りたい。

およそここからスタートする他あるまい。

ある種の文化性に価値を見出すというアカデミズムの盲点は、
まさに、人間であるという点から目を逸している事だろう。

ロマンがなければ、無味乾燥した人生じゃないかという。
だが、そこに生じる快楽は一瞬すぎないのだ。

意味にとらわれることなく、意味を見出す。
そしてまた、無意味に帰る。

ニヒリズム化せずに、このゆらぎの中を漂うほかあるまい。
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一体なんのために? [思考・志向・試行]

一体なんのために、そんな仕事をしているのか?

ウクライナ侵攻によって、喜んでいる人達がいる。
軍産複合体と金融業界である。戦争は武器と金貸しの暗躍する所である。

そうまでして金をほしいのか?と私なら思う。そして恥に思う。
だが、彼らはこういうだろう。「身を守るための用意の何が悪い」と。
いくらでも言い訳はするし、そうやって欺瞞を封じ込める事で
自分たちは利益を確保する。最終的には買うほうが悪いというだろう。

結局、ヨーロッパの文明は金融と武器と労働搾取でしか維持できない。
そんな彼らが蓄財した結果生まれた文化を有難がる日本人。
ルーツを知るほどに、華美なる世界がもつ腐臭が気になるはずだ。

大航海時代より以前から、社会構造上、侵略以外の手段をもたないのが大国である。
人が集まると、常に格差が生じる。そしてそのかき集めた資金を投資して、
収奪を繰り返すのである。

かつてローマ帝国は軍拡以外の手がなかった。なぜなら、格差が生じた人々が
望んだのは、生活のための侵略だったからだ。貴族たちは税として取り上げられる
事を拒み、庶民たちは仕事がないと叫ぶ。この状況における打破の手段こそが、
戦争である。

貴族たちは投資として軍や軍産複合体に出資する。貧乏人たちの一部は、軍人になって
生活基盤を作ろうとする。そうして侵略が成功すれば、それらの土地の富を収奪できる。
それはまた投資をした貴族たちの懐へと還流する。

この21世紀になっても、まるで変わっていないのだ。
人類とはかくも頭が悪いらしい。事を起こせば、状況が悪化するとわかっていても、
何もしないという選択はできず、自分で使えきれないほどの金を溜め込んでもなお、
富を得ようとする。そんな事は幸福度とは関係ないというのにだ。

現代日本では、年収200万もあれば、普通の暮らしができる。
もっと生活を見直せば、100万もかからず暮らせるだろう。
にもかかわらず、人々はもっとくれとせがむのだ。

一方で、国は毎年毎年、どうやって国民から金を巻き上げるかを考え、それを実行する。
そうして、この30年、日本は貧乏になってきた。せっかく、豊かに暮らせるチャンス
があったのにだ。それを放逐し、目先の利益を望むことで、未来を食いつぶしてきた。
はっきりと、これは施政者たちの失敗である。そして現在進行系で失敗を続けている。
だが、大抵の国民はこの事実から目を逸して生きる。近視眼的に生きる。

社会を変えることはほとんど無理かもしれないが、
一方で、ごく単純なことで人はなびくものだ。それも滑稽なほどだ。

戦争という犠牲は、結局、軍産複合体を解体することはなかった。
むしろ、増殖の一途を辿っている。一体、どこに人間性があるというのか。
ヒトデナシにならないと、現代では行きていけないのか。

根本原理は単純である。
資本主義という、いや、主義ですらない、商売慣行は利子を徴収する。
結果として、絶対に資産が巻き上げられる。絶対である。そうして、富が特定の人々の
間に渡ると、経済は停滞する。これは必然である。

経済が停滞すると、人々は、金をある人たちを厚遇するだろう。正確には金を動かす
権限を持つものたちだ。だから政治家や官僚たちが暗躍する余地が生まれる。
また大企業の連中たちが政府と癒着するのである。そして、産業界に有利なように
政府を動かし、政府はまたキックバックを受ける。こうやって金によって権力は
動いていく。

経済が苦しいと、金を持つものに従属するようになる。
労働者の人々は、会社にしがみつき、会社は労働者をこきつかうようになる。
そうして、労働者全体が精神的・肉体的疲労に追い込まれていく。社会は暗くなる。

そんな社会では、子どもたちは生まれてこない。経済的な問題は一番の原因である。
老人が相対的に増え、社会の負担となっている。

ならば、経済が発展すればいいという考えをもつ人々がいる。浅はかである。
今は、発展した結果を過ごしているのだ。すでに発展したのである。経済成長が
まだ続くと思っているのは、ただの幻想である。なぜなら、資本主義は必ず景気
悪化をするもので、それは必然なのだから。

搾取すべき労働者の数が限界を向かえると、資本主義は傾く。
ねずみ講としてシステムが成り立っているために、カモが増えない限り、
システムはしぼむのである。カモとは我々労働者のことだ。生まれた時から、
カモである。

自由などない世界。カモとして生まれたのだから。それが資本主義社会に生きるものの
宿命である。

アメリカやヨーロッパ諸国は経済発展しているじゃないかという主張があろう。
それは単に、労働者を他国から入れているからにすぎない。搾取する人間を確保している。
ただそれだけだ。

日本は移民を拒む文化なので、うまく機能してないだけである。むろん、
一部、アジア圏からの労働者を受け入れるが、それは移民ではないのだ。
使い捨ての道具として、日本は彼らの労力を搾取する。そして、なんとか
日本を動かし続けている。

資本主義に未来はない。持続するはずがないのだ。
それは原理なので、避けようがない。せいぜい修正に次ぐ修正で、ごまかす他無い。

多くの労働者は、サービス業界に生きる。
サービス業の本質は、客の消費である。それは水物だ。

あの手、この手で消費を煽る。それ以外にやることがないかのようだ。
生産力がある段階まで勧めば、あとは消費を煽るしかない。もしくは消費者を
作り出すほかない。

その一つが輸出である。消費者を地球に求めるのだ。
もう一つは、人々の借金をさせることだ。

諸外国に金を貸す。支援というなの借金をさせるのだ。そこに輸出する。
金を貸しておいて、消費させるのである。貸した金の利子分と消費が繋がるというわけだ。

個人でいえば、カード精算にする。分割する。サブスクリプションにする。
とにかく支払いを先延ばしにさせることで、見かけ上の購買力を高めさせる。
この究極系が、サブプライムローンだった。金のない人間たちに金をかして、
家を買わせたわけだから。

そして、もっとも人々が期待しているのが国の借金である。
国が国債を発行して、その金で財政投融資をする事を期待している。
というか、国からの仕事でもって、現代の日本のかなりの部分の産業が成り立っている。
だから、この構造にメスを入れた民主党はあっという間にいなくなった。
理屈は簡単で、既得権益にふれると選挙で勝てないということ。また昨今の
自民党の広島などにおける事件をみてわかるように、金を配る事で票を買収している
という事実である。

日本も気がついたら、汚職まみれの腐敗政治になっていたといわけだ。
誰も口にしないのが恐ろしいとさえ私は思うのだけど。それを報道できないほどに
メディアは政府に首根っこを掴まれているのだろう。
中央集権化とは、プーチンのような支配者を生み出すだけなのだが、
それを望む人間たちがいるということは知っておくべきだ。

資本主義の修正とは、結局、借金をしてでも、消費を続けろという事であり、
それは最終的に破綻するだけという事である。

その仕組の一端に、戦争がある。戦争という事態は国の行為の一部である。
そして国のそもそもの存在意義は、戦争なので、戦争のない国にすると、
国という組織はほとんど要らなくなる。要するに暴力装置としての国なのだ。

その暴力は他国へ向かうどころか、自国民へも向く。実際的に、軍は自国民を
殺すためにあるといってもいいデータすらある。

自国民を特定の行動内に制約し、家畜となって生産・消費をする存在にさせる。
国は国民から税を巻き上げて、暴力装置を維持し、みかじめ料を取り続ける。
そのために国は一部の国民たちと結託する。

端的にいえば、そういうシステムに我々は生きている。

冷めた視点でみれば、このシステムに貢献する事など、どうでも良いではないか。
そもそも、自分が生きる意味は、このシステムを維持することですらない。

ところが、多くの人は、このシステムの価値観を内面化している。
そして、あたかも自ら進んで、このシステムに飛び込むのである。


違う角度もある。

生活という視点だ。一人の人生を生活という方からみれば、もっと違うイメージに
生きることになる。およそ、多くの人は、この視点に埋没している。
自分にとって功利が最大化するように行動するのだ。
できるだけ楽に仕事をして、大きな金を得て、家族を養い、趣味に生きる。
労働者は必ずそうなる。なぜなら、生殺与奪権を譲渡しているからだ。
クビにされない程度に反抗するかもしれないが、それ以上は難しい。

ブラック企業でもなければ、一応の生活はある。
家族をもち、時に休みにレジャーにでかけ、家族団らんを過ごす。
友人たちと語らう時間も年に数回はある。

趣味のスポーツや音楽などに生きる人々もいる。
旅行が趣味で、長期休みに海外へ出かける人もいる。

そんなふうに過ごす事ができているならば、特段の不満などない。
自分なりに仕事はできると思っているし、その対価をもらっているのだ。
だから、不満を声高に叫んでいるサヨクなど、いい迷惑だとおもう。
そんな要求するなら、自分達でまずなんとかしろと感じる。

大事なのは、今度のプロジェクトがうまくいくか、営業成績がだせるかだ。
会社が続く限りは別段、困ることはないのである。

安倍政権になって株価が押し上がる。NISAを始めたばかりとしてはありがたい。
お小遣いが増えるし。自民党支持で現状はひとまず儲けられればいい。


小市民はせいぜいこんなところだろう。
自分が良ければ、それでいい。家族と仲間の関係が良ければ。

実際に、日々の生活とは仕事における人間関係と家族との関係でしかない。
直接的な利害関係は、そこにしかないのだ。それ以上の事を考えてどうなる?

リアルな所、そんなものだ。

じゃあ、システムはその隙に何をしているか。すでに述べたように、
人々から税を巻き上げている。所得税や消費税だけじゃない。あらゆる場面で
我々は日本に金を取られている。世界的にみてもかなりの重税国家なのだ。

そうしてじわじわと生活が苦しくなる。
今年もボーナスは雀の涙。昇給もほぼ横ばい。
仕方がないから、利殖だと、株や投資信託などに手をだす。

一体何がしたいのか?

十分に給与が得られるなら、投資などに突っ込まなくてもいい。
社会福祉がちゃんとしているなら、老後の心配や家族の心配もいらない。
そもそも、社会がまっとうなら、こんなに長時間働かなくてもいい。
もっと、プライベートな時間を持てるはずだ。

機嫌が悪いのは直接的には、家族と揉めたことや、仕事で揉めたことかもしれない。
だが、その揉めた理由はなにか? それは金ではないのか?

だが、給与は増えるはずがない。なぜなら、それが資本主義だからである。
かならず労働者は買い叩かれる。そして、政府はそれを助長している。
そう、国というシステムは、労働者を苦しめている。だが、多くの人は、
上記のように考えているために、全く意に介さないのだ。


何も知らないのか、知っていてなお、目先の利益を優先する。
人とはそういうものだ。ましてや全体のことなど考えもしない。
いや、考えている場合じゃないのだ。日々の銭勘定に忙しいのだから。

本当に、一体、何をしたいのか? と私は問いたい。

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持つということについて [思考・志向・試行]

E・フロムの「生きるということ」を読み直している。

所有とは何か?

アメリカには、アーミッシュと呼ばれるキリスト教と共同体に忠実である厳格な規則のある
一派が暮らしている。彼らの所有とは、「自分が責任をもって扱える」という意味だと
考えられている。

ネイティブ・アメリカンのとある一族では、富める者とは財を分配できるものの事を指す。
祭り時に、自分のもつ所有物をみんなに分け与えてしまうのだ。その後、彼は無一文に
なってしまうのだが、周りが再度、生活に必要なものを持ち寄る。そして、財をなした才覚
によってまた財産を作り出していくのだ。

伝統的社会では、常に所有にはある種の価値観が与えられていた。
それは、過剰な蓄財を制約することだ。

当然ながら、資源は一定量しか無い。
ならば、多くのものをもつことは、他者のものをも専有するという事を意味する。
その本質はただの欲望にすぎない。
そしてそれは低い自尊心を補強にすぎない。


所有を促すことは、資本主義社会では有効である。
マスプロダクトによって、現代社会は構成されたし、そのために、人が育成された。
その人格形成は軍隊化ないしはロボット化であり、規格生成された人間を増やした。

結果として、感じない人間・考えない人間がふえ、社会から人間性が失われた。
つまり、理性の衰退である。

しかし、理性の衰退こそが、資本酒主義にはふさわしい。
私は現代社会は人々の知性を減弱させるシステムであると解釈している。

あらゆる場面において、まっとうな反応をしめすのは、毒されてない人々である。
そして、生命を側に感じて生きている人間だけである。だからこそ、女性や子供は、
資本主義社会にそぐわない事が多い。彼らはより自然に近いのだ。そして、男は
社会の奴隷になっていく。うまく奴隷化されない人々は、社会からはじかれている。

所有の欲望もまた、自然からは遠い。
本来、人は多くをもつと、分けたくなる存在である。
分けることで、自分の尊厳を保つことができる。それ以外に手段はないと言ってもいい。

自分が持てるものを分ける。これが愛の原理である。私は愛という言葉はよく
わからないので、慈悲や仁などと言いたくなる。

イケメンや美女は、じつは分けている。その姿をみせることで、他者に喜びを与えている。
一方で、ヒューマニズムのある人もまた分けている。文字通り、優しさを分けている。
やり方は違えど、他者に自分がもてるものを分けているのである。だからこそ、自分を
尊重できるのだ。

より広く分けるには、知恵がいる。知識がいる。だから我々は勉強をする。
勉強することとは、社会的地位を得る事につながるわけだが、それはよりよく分ける事が
可能なためだ。

私がこのブログを書くのも、私が得た知識や知恵を他者に分けるためだ。
それが誰かにとって有益であれば、私の行為は意味を持つ。そしてこれは私の愛の一つの形
といえる。

ともあれ、自分が持てるものを分ける事こそが、人生を豊かにする。

更に加えていえば、多くを持つ人はそこに責務が発生する。
多くを持つということは、それをどう扱うかについて責任が生じるのである。


ところで、組織が大きくなると、権限も大きくなるが、その人間の行為は果たして
分けることにつながっていると言えるだろうか? およそ否だ。

大企業の長たちがやっていることは、みんなの財を自分たちの都合で分けるという作業
である。これは国も同じである。組織が多くなるほど、その財に自分の分の割合は小さくなる。
国という単位になれば、ほとんど無視できるほどだろう。そのような財に対して人は
責務を負うことができない。

だからこそ無責任な財の運用が行われるのである。税金だと思っているから、
官僚たちや政治家たちは適当に金を使うのである。自分のものではないがゆえに、
全く無責任なのだ。他人のものを無責任に使うことを可能にしたのが、組織であり、
国である。そして、これらは常に愛の逆を行く。他者から奪うことであり、自分のために
使うこと。これが大問題なのだ。

分けることを知らない大きな組織の人間たちがいくら何を言おうとも、そこに人間的
豊かさなど存在しない。欺瞞に過ぎない。あたかも社会を豊かにしているかのような
プロパガンダで溢れているのは、そうやって自分も他人も騙さないと人生が惨めだと
わかってしまうからだ。立派な組織ほど、イメージづくりに励むのだ。

本質は単純である。自己の持てるものを分けよ。
この原則に生きていない人は、人生の豊かさを知らない。
現代日本では結構な人が、この状況からあぶれているのではないか。
私はそう思う。

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