シンプルだが複雑な問題ー評価とはー [思考・志向・試行]

例えば小林秀雄をどう思うか? 個人的な感想でいえば「わかりにくい」であり、
わかろうとする事が虚しい作家の一人である。端的に言えば結論がないからである。
逆に言えば、分かるという事を拒否した文章に思われるのだ。このようなものは、
多くの文学書評や、芸術書評に現れる。ただ、このような文章を情報伝達ではなく、
ひとつの「作品」とみるのであれば、その意味で理解できる。

こんな区分自体が無意味ではあるが、理系の私としては文章はロジックで語るものであり、
その第一使命は、内容を伝えることにある。だから、内容が伝わらない文章は失格であり、
内容がないのと変わらない事になる。理系の文章が無味乾燥になりがちなのは、結局の所、
情報の伝達という面を強くしている事だ。

ところが残念なことに、人間は物語こそ理解できる。つまり自分の経験の類比に落とし込む
作業である。理系の文章でも、分かりにくいものとわかりやすいものがある。それは、結局
その論理構造に親しみがあるかどうかにかかっている。それを持たぬものがその文章を読むと
実に骨が折れることだろう。思考の型というものが間違えなく存在するのだ。

その意味で、私は書評を読むという型を持たぬ。それが故に、それらを理解するのは骨が
折れるのだと思ってきた。そして、その理解を不要として生きてきた。おそらくこれからも
そのような努力をする気にはならないだろう。

そのような門外漢があえて、言及したいのは、物事の良し悪しについてである。特に作品に
対する評価についてだ。私の立場はシンプルで、好きか嫌いかである。人の好き嫌いは変化
すると私は知っている。子供の頃は嫌いだった食べ物も大人の今となってはうまいと思う。
一方で、子供の頃に大好きだった鶏皮は、今はぶよぶよしてまずいという思う。おそらく、
こういう変化はこれからも起こる。よって、私の立場は、作品の評価は、その時において
好きか嫌いか、である。過去のことや、これからの事は別に保証しないのだ。これは生物と
して生きる人間においてはアタリマエのことだ。

さて、このような立場なので、私が好きなものを他人が嫌いでも構わないと思う。まあ、
考え方や経験が異なれば感じ方もまた変わるものだから。だが、時にファッショな人間たちが
いる。それが書評や批評で感じることだ。なぜかわからないが、大衆芸術のようなものを
「くだらない」と一蹴し、骨董のようなもの、西洋由来のものを大いに取り上げる。そして、
自分たちのセンスが理解できないものは駄目だと主張する。非常に排他的なのだ。

人はそんなに違わない。だから、多くの人が良いと思うものにはやはり何か良さが含まれている。
こう考えるのが理系的マインドである。それはある種の法則がそこにあると思われるからだ。
一方で、批評的マインドでは、ありきたりのつまらないものは、評価に値しないという。そして
俗人には理解できないものを理解できる私達は素晴らしいとでも考えるのか、正直不可解なもの
を良いという。もちろん、それでもまるで構わないのだが、それを他者に押し付けてくる乃至は、
それを理解できないのは駄目という主張に私は賛同できないのである。

すこし分解して考えてみたい。1.批評の立場問題 2.「簡単アレルギー」 3.逆俗物主義
こんな風に分けて、彼ら排他的な人々を’批評’したいのだ。

1.批評の立場問題

批評家も社会的な立場がある。だから自分の寄って立つ場所の価値観から無縁ではありえない。
その価値観が排他的な人々に共有されたものである限り、そこから逃れることはない。よって、
大衆芸術のなんかを褒めたら、立場を失うということがあるのだろう。私にはそれこそ、本末
転倒だと思うのだが、どうも何かに詳しい人というのは、見栄っ張りに見えるのだ。それは
一種の権威主義ではないかと思う。どちらがどれくらい細かいことを知っているのかを争うのは
オタクであるが、それは批評でもなければ、作品の評価でもない。

2.「簡単アレルギー」

簡単に理解されるものを馬鹿にする風潮がある。まあ、ある面では致し方ない部分がある。
それは単純に「退屈」を誘発するからだ。だが、対象物が簡単だから「退屈」というのは、
非常に傲慢に聞こえる。それは単に修練が足りないのではないか? 実に石ころ一つにあれば、
退屈などしなくても済むはずなのだ。それを退屈というのは自己の能力不足の現れである。
簡単なものをわかった気になるというのは怠惰な行為であり、「退屈」さはその人間の限界
でもある。ちなみに私はクラシックを聞くとその単調さに「退屈」する。しかし、専門家から
言わせれば、そんなのはド素人だというだろう。結局、深く理解するというのは、その肌理を
感じるということであり、それにはある程度の経験が必要なのだと思う。その意味で、優れた
批評家は、簡単だとか安易なものだからといって、価値がないとは判断しないはずなのだ。
むしろ、どんなものにでも価値を見いだせるというのが、批評家の価値であろう。「簡単」を
見下すやつはド素人である。

3.逆俗物主義

大衆が評価するものを否定できる私はセンスがあって「エライ」と思う人がいる。これを
逆俗物主義と呼ぼう。大衆の俗物さと、この人の俗物さはまるで同じである。だが、それを
自己認識出来ないのは、悲しいかな、俗物な人々と何も変わっていない。思春期によくある
奴である。自分が他者と違わないと存在感がないと感じ、人と違うことにフォーカスする。
その上、自分に自信がないために、他者を見下す事によって、自分の立場を確保しようとする。
よくきくセリフは「あいつはダサい」「センスがない」などであろう。自分のセンスがすごい
事に自信があるなら、そんなことを言う必要はないのだ。





かつて、誰かがビートルズかストーンズの話をしていて、友人が「ピンクフロイド」がいいと
言ったら、「いやあ、センスないよー」と言われてた。なぜ、そんなことが言えるのか、
私にはまるでわからず、むしろ、友人に代わってかなり憤りを感じたのだった。誰が何を
好きかはその人の好みであって、お前になぜジャッジされる必要があるのだ?という怒りが
湧いたのだ。詳しい人がどう判断するかに関しては、多少の聞く耳を持つ。だが、素人同士で
ジャッジしあうことほど、馬鹿げた事はあるまい。むしろ、私はピンクフロイドに親しみが
なかったので、どういうところが好きなのかを聞きたいと思ったくらいだ。

さきほども書いたが、優れた批評家はどんなものにでも価値を見出すだろう。それが難しい
のは、中途半端な評価軸しか持たぬからであろう。抽象度が高いとは、そういう事だ。だが、
そもそも、私が思うに、そんなものが必要なのか?という点である。それが飯の種になると
いう人はともかくも、大抵の人には不要な事である。誰が何を好きかは、その人を表す一つの
指標である。私はそれでいいのではないかと思う。わざわざ、それを「そんなの好きなの?」
と主張するのは、かなり踏み越えた言明ではなかろうか。

4.マウンティング(軽蔑)

昨今流行りの言葉だ。個人的には大嫌いな行為である。その理由は簡単だ、それは人間関係を
簡単に破壊するからである。私の経験では、中学校の時に、もっぱら行われた行為であった。
自意識過剰な人々が、他者承認を得るために、一つの評価軸を作り、そこからはみ出るものを
差別するという態度である。これには徒党を組む必要があるのだが、またその徒党も、同じく
自分に自信のない人間達の集まりに過ぎない。そこで作り出された評価軸で生きているのを
脇目にみて過ごした私としては、なんでそんなにこの小さな団体の中でのヒエラルキーに拘る
のかまるで不明であった。

だが、それは要するに、自分の居場所を確保するという行為である。自分の居場所を確保する
ために、誰かをいじめたり、相手を蔑んでみたりする。マウンティングとはそういう行為である。
正直言って、人として未熟だとしか思えないのだ。未熟な人間する事がこの軽蔑という態度である。

選好に関して、排他的な人々はまさにマウンティングに見える。批評そのものが問題なのでは
なく、批評に同意しないものに対する軽蔑が問題である。つまり自分の作り出した評価軸に対して
賛同しないものは、そのヒエラルキーにおいては差別されるものとして規定されるわけだ。私は
そもそもその評価軸自体が、実に個人的なものであり、だからこそ、別の軸の存在を信じている。
他の軸があるならば、それがどんなものを志向しているのかを理解するのは好奇心として面白い
と思う。だが、だからといって、その軸と同化するつもりはない。

しかし、多くの人はそこまで気がまわらないし、回すつもりもない。自己中心的だからである。
自己中心的であるからこそ、自分の軸を他者に押し付けるのだ。そして、それを正義と思うのである。
私は、それを是としない。これは究極的には原理主義問題にいきつくだろう。私の軸は、他者の軸
よりも優れていると言われたら、大抵の人は「ん??」となるだろう。ましてやそれを強要するなら
ば、強要された人は自分の感性と、常に乖離したものを良いと言わざるを得なくなる。

5.批評における、俗人の反応

小林秀雄に限らず、誰かが世論や本や作品に批評を与える。それは「目利き」としての役割だろう。
それを否定する気はない。だが、目利きは複数いて、複数の解釈があるはずだ。ならば、特定の
批評に肩入れする理由はない。しかしながら、目利きの意見と、自分の感性が乖離した時、一体
我々はなんというのだろう? 俗人は見栄を発揮する。自分の感性に正直でないばかりに、批評家
の評価を受け売りする。それほど醜いことはない。自分の感性こそが信じられるものであって、
他者の感性など二の次、三の次である。何も物理法則の真偽を問うてるわけではないのだ。アート
の鑑賞など生きるも死ぬもないような事である。ならば、なぜ自己の感性を一番に信じないのか。

自分の感性を信じても良いという文化が必要なのではないか。それが生活の問題を含まないので
あれば。(昨今問題なのは、この考えを政治や経済に持ち込んだ事であろう。それは自分勝手で
はままならないのである。しかし、現政権や官僚たちは、自分たちの論理が全てと言わんばかりに
やりたい放題である。それは実に問題である。)


自分がどう感じたかを正直にいうと、すぐに「それはセンスがない」とか「素人はさ」みたいな
言明に行き着く。私にはわからないのは、そんな批評の無意味性だ。むしろ、あなたがどう
思ったのかを書けば良い。言えばよいではないか。他者の批評を批判する暇があるなら、自分が
どう感じたのかをのべて、その他者との違いを愉しめばいいのだ。

多くの批評家は、なぜか、それを楽しめない。楽しもうとしない。違いがあるから意見を交わすと
思っていない。むしろ、自分に同調しろといっているのだ。そして同調しないものを排除するのだ。
それは、人としておかしいだろう。他者を排除して、満足を得るというのは、かなり狂った発想
である。その狂った発想が昨今では世間を騒がせている気がするのだ。(これもまた、政治などに
絡むと話が変わる。生活に直結している事は、主張する他ないからだ。他者との違いを楽しむ
ものではない。)


マウントする他者に対して、我々は無視を決め込むのが良い。「可哀相に他者を否定して自分を
保っているのだ」と心で拝むしかない。そんなことを指摘すると藪蛇である。プライドのど真ん中
をえぐってはいけないのだ。

しかし、そう思うとなんだか損な気がしてきた。自分の軸を他者に押し付けない人々と、押し付ける
人々がいると、押し付ける人々の勢力は増えるだろう。すると、自分の軸の仲間は減る。押し付ける
人々が王道のように見えてくる。だが、自分は他者の軸もまた尊重する。損だな。こりゃ。

ま、ともかくも、話はシンプルである。自己の感性に正直に評価をしようという提案なのだ。
それが玄人にとって、未熟にみえようとも、そんな事は関係ない。現段階ではそう感じたという
事実を捻じ曲げるほうがどうかしている。より対象を知り、詳しくなればまた違った感想が
出てくるだろう。そういう風に評価の軸が少しずつ変化してゆくのもまた楽しめばよいではないか。

玄人に警告するのは、お節介をやいて、素人にはじめから玄人目線の良きものを押し付けないで
欲しいということだ。親切なんだろうが、素人には素人の感性がある。自由に感じる事を許容
してほしいのだ。ダビンチやフェルメールやピカソ、ポロックの作品の良さがわからなくても、
別にいいじゃないか。自分の好き嫌いを他者に押し付けるな。

選好の傾向が似通っている人たちでいることは、居心地がさぞ良いだろうが、私は徒党を組みたい
とは思わないのだ。そもそも私のセンスがあなた方と違う事はアプリオリであって、その優劣など
無意味なのである。その優劣争いは、人生の無駄なので勝手にやっていて頂きたいと思う。
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