悪はどちらか。 [思考・志向・試行]

政治の腐敗が目に見える形で現れている。
そもそも、汚職があることは大前提である。
政治とは、そういう部分を含むものだ。

だが、それがこれだけ表面化するということは、
それを制するものもなければ、それが発覚しても、司法は動かないという事でもある。
ましてや国会と政府が一体となってしまえば、全く権力の分散化が機能しない。

三権分立という言葉が嘆かわしい。
もはや形骸化した概念である。

今、日本は、自民党と公明党、そして影の与党である維新によって、大政翼賛会が
結成されつつある。このような政治クラスターが生じれば、あとは雪だるま式に
そこに加担するものが増えていくほかない。

なぜなら、みんなが金に縛られて生きているからだ。

金が儲からなければ、身動きがとれないという思い込みと、
実際にその概念が多くの人たちをがんじがらめにしている。

そして、金を儲けるために労働者として生きるという事を
いやいやながら是認している。

その結果、金儲けのつながりが断たれる事は、大いに問題となる。
これがまさに政治汚職への道である。

間を埋めよう。
要するにこういう事だ。

政府が長期政権化した事で、生じたことは、立法の成立割合が高まるという事である。
一つの党が力を持つことで、多数決という安易な手段により、立法が成り立ちやすい
わけだ。

国の目的とはなにか。それは軍事で他国を防衛ないし侵略する事である。
決して、国民を豊かにする事ではない。そもそもが国とは、そういうことを大目的にして
成立している。よって、国の実存とは、戦争にある。

そういう意味では、ロシアの行為は、その根本でありある意味では正しい。
むろん、現代の価値観である人道性からみて、全く正しくない。否定されるべき行為である。

ともあれ、国とは戦争をする装置であるがゆえ、それ以外のことは些末なことなのだ。
そして、国を成り立たせるためには、戦争が継続する必要があるという逆説が成り立つ。

世界平和とは、国を無くすという事である。
世界平和のために、軍備を拡張して自国を守るというような思想は、
完璧におかしい。そんな事ありえるわけがない。

国が崩壊することが、最終的には平和につながるのである。

しかし、人々は強く反対を願う。国の存続を、自分の社会の存続を、そして、自分の会社の
存続を、家庭の存続をと。

それは植え付けられた妄想ゆえであるが、多くの人は自覚できない上に、
まともな思想こそ、異常だと考えてしまうのである。よって、この洗脳を解かなければ、
平和など一度も訪れることなく、人類という種は滅亡を迎えるだろう。
しかし、それもやむを得ないとも言える。

国が何をいましているのか。戦後に傷ついた人的資源を再生するために、
うめやふやせやというブームがきて、経済成長が行われた。そして、市民教育が
実施され、国民主権という態度を習うことになった。

現代的な国は、国民主権があって、国の執政は我々の代わりに動くという事になっている。
しかし、そんなものはお題目である。本質は、かつての権力者たちが相変わらずのさばり、
その権力者たちに、一部の庶民がすり寄るという形で国というものが維持されている。

そして、警察と司法という暴力装置により、人々の行動を規制する。
人々は、学校という場で洗脳され、行動を制約される。

こうして、国は労働者という兵士を作り、国というシステムを維持するために動く。
それはアリたちが、アリのコロニーを維持するために行動することに等しい。

およそ、各アリたちは、自分がコロニー維持という目的のために行動しているつもりはない
だろう。それぞれが自分の置かれた状況に依拠して、行動しているにすぎない。

これと同様である。人もまた、アリみたいなものだ。国の維持という大きな目的のために、
行動する。それも、気がついたらそうなっているという形において。

別段、それでも、なにも困らない。
個人というものからみれば、一人の人生がそこにあるだけだからだ。

あたかも、自分が社会から想定される行為を続けていくだけなのだ。
むろん、その行動の殆どは、洗脳の結果である。

ともあれ、このマトリクス世界において、人々がやるべきは金を稼ぐことだと学ぶ。
そして、否応にも働けという圧力がかかる。

働かない自由、国を無視する自由。本来的には、税金だって払わなくて良いし、
犯罪というような行為すらしてもよい。なぜなら、それが可能だからだ。
誰にも、それを縛る権限はない。

けれども、国はそういうわけにはいかない。国を総体として機能させるという自己目的化が、
本来の、人間が幸福であるためという目的とは乖離しても、人々は国を維持するという
事に寄りかかっているのである。

国が権限を集約するこの世界であるならば、国という組織を動かす人間に、
便宜をはかってもらおうとするのは、わかりやすい行動である。

現実問題として、国の権力から逃れるすべは、日本においてはかなり困難なことだ。
なぜなら、ほとんどの人は、国民から生まれてくるからであり、国は戸籍に乗らない
人間を許さないからである。

周りが国民だらけの世界で、無国籍で生きるのはタフである。
生存ということを考えると結局、国に組み込まれたほうが楽なのだ。
それは、家畜の方が長生きをする豚と同じである。

同じ豚なら、できるだけうまい汁を吸いたい。そう願う人も少なくない。
そういう人たちは仕組みを利用する。この国には、様々な仕組みがあり、
金で金を買うという事ができる。これを使えば、労働力に頼って賃金を得ている
者たちから、金を巻き上げることが可能となる。

こうした金を資本として、ものを作ったり、ものを運んだりすることで、
金を得ていく。この仕組みを作り上げれば、巨額の資本を手にすることができる。

この仕組の一端は、国の仕組みを利用する。だからこそ、利権がある企業は、
政府に便宜を図ることになる。そして、政府はその便宜を最大化することを
目的化する。

国という仕組みは、腐敗を必然とするのである。
賄賂や収賄は、必然なのである。

選挙制度を変更した事で、多くの死に票が生まれた。
庶民は分断されたのである。

多数決であれば、49対51である。極端なことをいえば、現代の政治体制とは、
半分がいやいや従う政治体制である。反発は当然なのだ。

ところが、半分が物事を推進する権限を得ているならば、
それに反発して何になろう?

不本意でも従っておく事で、損をしないならば、そうする他ないではないか。

国は、立法という権限とちらつかせながら、その自らの存続を願う。
大目的である戦争を維持しようとする。そのために何をするのか。
そのために、他者を利用するのである。

この2つが合わされば、必然的に、サントリーは桜の会に酒を供与することになる。
企業が税金をあげてほしくなければ、国に働きかけるのは必然である。

多くの企業が情けないくらいに国に従うのは、首根っこを押さえられているからである。
メディアは、放映の権利を人質にされているのだ。

あらゆる企業活動に、国が手を入れているがゆえに、企業は天下りを受け入れる。
国という権力が企業と癒着するのは、国の側の論理であり、また、自らの権限を維持する
という企業側の論理でもある。これは、共依存状態といって良い。

互いに相手がいないと困ってしまう。国は、他国がなければ困ってしまう。
戦争がなければ困ってしまう。そういう事なのだ。

国が税を取り立てられるのは、暴力装置があるからだ。
最終的に、資産を差し押さえという手段をもつ国に、逆らうのは厳しいからだ。
国民となって国に生まれ落ちた我々の運命である。

だが、国もいよいよ愚かなのは、自分たちが目の前の利益を維持し続けようとする
行為を継続するほどに、国が弱体化するという現実から目を逸している事だろう。

企業も同じである。経済を考えれば、庶民の可処分所得が減れば、
儲けが減るという当たり前の論理をすっかり忘れている。

そうして、給与を増やさない事で、会社組織を維持してきたのだが、
それがうまくいかなくなったとき、彼らは国に頼ることにした。
ますます国に依存するのである。

では、国の実態とはなにか。それは、国民である。国民の税によって、
一部企業が延命を図っている。それを是としていいのか。

あらゆるいいわけによって、労働者の対価を減らしてきた。
そうすることで、なんとか会社を維持してきた。日本の経済を維持してきた。

そのつけは、国債となり、無益なアベノミクスになった。
株価高を国の金で行い、資本家を太らせた。その金は、労働者には巡っては来ない。

結果、労働者は疲弊した。働きアリはものすごい勢いで数を減らしている。
それは当然の結果なのだ。なぜなら、そこには金が回らないからだ。

政治は何を考えているのかわからん。はっきりいって、アホなんだろうと思う。
今の日本の知性は結局、その程度ということなんだと思う。

人口動態からいえば、少子は必然である。
ベビーブームだった、団塊ジュニアが社会へのはしごを外されてから、
子供は減る一方である。つまり、労働者が減り、それは国としての力が減ることだ。

国は国の存続が目的であったのに、それを目指さないことに決めたらしい。
その一方で、戦争への道は諦めてないようだ。それが現在の政治の動きである。

どうせ、滅ぶなら、そのまえにどんぱちしてしまえとでも思っているんだろう。

国同士は、どこかで戦争を望んでいる。当たり前である。それが国意義だからだ。
人は他国と争う他ないのである。

これは所有という概念の問題となるのだが、それについてはまた次回にしようと思う。

結局、人は国民であれば、争いをせざるをえないのである。
そして、人道的な人間から死んでいくのである。

ダーウィンの適者生存が正しいならば、人類は血の気の多い人間が残り続け、
最後は互いに抹殺しあうという愚かな動物になるのかもしれない。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。