若者の閉塞感ー大人達の苛立ち [思考・志向・試行]

どうも、日本の生活、とりわけ都市部の生活は窮屈だ。
その理由を養老氏は端的に「都市化」と言った。

因果性の下、全てが計画的に動く社会。そんなものを漠然と目指す。
なぜなら、人は過度に不安を生じる動物であり、その不安を解消するべく行動するからだ。

多くの人は、環境というと自分とは切り離された自然のことだと思うらしい。
だが、我々にとっての環境とは脳の産物である。

外界をそのまま認識できないといったのはイギリス経験主義の哲学者だった。
事実、我々にとってのあらゆる感覚とは符号化された情報である。それはありのままの
世界ではなく、我々の内部で構成される概念である。そして概念は世界そのものを構成する。

これはすぐさま翻って、環境とは脳内現象という事になる。
脳内現象であるからには、それに対する我々自身の行動はある意味で「独り相撲」である。

どんな環境を頭に作り出すのかは、本人と周囲との関係おいて決定する。
周囲とは、親、兄弟、から友達、先生、上司、部下、ともかく関わり合う人間たちである。
加えてカール・ポパーが述べた第3世界からの影響がある。現代であればそれはネットであろう。

こういうものからの影響を受けて、我々は現実を「作り出す」。
ゆえに、個々の現実において客観というものは存在し得ない。

ではいわゆる客観とは、他者とコンセンサスが得られるという程度の事柄である。

小学校で6年間、中学をいれて3年間、子どもたちは閉じ込められて教育を受ける。
その教育における意味は、社会適応であろう。つまりコンセンサスを無理やり作り出す。
多くの人を特定の考えに浸せば、それだけ、客観的なゾーンは増えていく。

同様に、大人たちが用いる常識もまた、客観を作り出す。
だが、その客観はただ一つの亜流に過ぎないものだ。

特定集団における客観がこうして出来上がる。この中にしばしば問題の種が混在する。
それは本質的に人間の本性から離れている事柄だ。だが、非常に強力に人々の頭の中に
刷り込まれる。

例えば、学力の競争。他者より優位な立場にたつには学力的優勢を要求される。
もしくは、政治的闘争。組織内では、多数を牛耳ることにより、自分たちの利を拡大する。
こういう事柄は、すべての争いの根本となる。

能力で給与が違う。それを是とするのは現代の常識である。その理由の源泉は、
およそ争いに勝つという事に由来する。あらゆる歴史は常に戦いの歴史であり、
勝者が覇権を握る様を教え込まれる。そして、その戦いに参戦せよと周囲がささやくのである。

こうして出来上がった常識は、本来的にはただの脳内現象であり、思い込みに過ぎないが、
同じ常識を共有する他者の存在により、その現実が強化されるのだ。

現代の常識は、努力して優れたものが地位を得るという考えと、
世襲制により情報を囲い込み、権力を握る人々が富を得るという形で進行する。
このこと自体を問題できるには、高度な知恵がいるので、多くの人々はこの世界観からの
影響を避けられず、強く劣等感を味わうことになる。

大人たちの多くは、若者を搾取する。
社会構造がそうなっている。その大人たちは、若者を管理する。部下を管理する。
そして自分も管理される。そう、実のところ、大人たちも管理され搾取されている。

だから、搾取から逃れている人間をみるとずるいという。
これが福祉が進まぬ理由である。根本は、自分が辛い思いをしているのに、
それをしなくて良いという他者は大変危険なのだ。なぜなら、自分の辛さが否定される
からである。

自分の辛さの本質は、脳内現象の歪みにすぎない。
だが、脳内現象の歪みは矯正される事はほぼない。結局、老人になり強制力が外部から
働かなるまで、不自由が続く。そして、いざ辛さから離れてみると、自分の身の置き場が
無いことに気がつく。多くの男性は定年後に居場所を失うのだ。それは、歪んだ世界観
から生じているのだが、気がつくものは少ない。仮に気がついても、もはや体力も気力も
ないのである。

脳内現象となった社会。多くの人は過剰に適応をしている。
そして、そのルールの上で、勝者と敗者を生み出している。
勝者はそのルールの徹底を好み、敗者は自ら落ちぶれていく。

自分が管理されるように、子供らを管理する。そういう社会構造が勝者のルールである。
勝者は他者を操って良いというルールなのだ。明示的には言われないが、金という
ルールにおいては、そういう事になる。

かつてリチャード・ドーキンスは我々をして、遺伝子の乗り物といった。
現代人の私なら、こういう。我々は、金の乗り物だと。

金とはまさに脳内現象である。紙幣や貨幣とは幻を具現化した対象物に過ぎない。
脳内現象である金ならば、すぐにでも破棄できそうであるが、そうはいかない。

我々は国という暴力装置を背負っている。税金を収めなければならない。
これが現代の不安の根源である。追いかけてくる強制的徴税がゆえに、
我々は働かなければならない。

加えて、社会ルールが徹底しているがゆえ、金がなければ、食うに困ってしまうのだ。
また、常識が圧力をかける。一定の金を得なければ、社会常識が推し進められないと
思わされている。では、その金を得ようとするならば、勝者になるほかない。

正社員になるべく、勉強をするという事が目的化する。
なるべく勉強の効率を上げることが若者たちの合理的行動になる。
そして、なるべく周りの足をひっぱることも合理的な行動である。

同じく、社員になりリストラにあいたくなければ、成績を残すほかない。
どうやって、利益に絡むのか。それが会社生活での合理的な行動になる。
正攻法でうまくいかなければ、足を引っ張ることも合理的な行動になる。

またメディアは宣伝する。なるべく考えさせない方法をだ。
思考力がつけば、ものが売れなくなる可能性がある。スポンサーに怒られてしまう。
単純なことを繰り返し垂れ流すことで、半ば呆れさせ、半ば現実逃避をさせる。
思考の単純化が進められたがゆえに、日本人は単純化した。

こうして、互いに牽制しあい、足を引っ張ることで、日本は確実にレベルを下げる事に成功した。
互いに競争をすることで実力を上げるはずだったのだが、それが裏目に出たのである。
なぜなら、評価すべき関数が決まれば、それに対して適応するに決まっているからである。

全体として、一部の過剰適応な秀才と、多くの凡人と、一部の落ちこぼれという形で、
社会は構成されるようになる。わざとこうしているともいえる。国の支配というものは
自分たちより優れたものは不要だと考えるからだ。

個々が周りに影響を与え、周りが個に影響を与える。そして世界を作り出す。
その世界が、人間性の本来性から遠ざかるほど、人々は苦しむことになる。
それが事実、多くの人々の心を攻撃している。

パノプティコンなど持ち出さなくても、我々がいかに他者の目を気にしているか。
そして、その目に怯えていることか。でなければ、こんなに自殺など発生するはずがない。

自己のあるべき姿から離れすぎたものは、自らを滅ぼそうとする。
生物には自ら自殺する機能が備わっている。およそ、人にあっても、似ているのだろう。

人を絶望させるような社会に未来はない。自殺を実行する人は一部でしかない。
その10倍や100倍もの人が同様の絶望を味わっている事だろう。

時代の空気はそれを如実に表している。

心が弱いから自殺をするのではない。身の置き場がないからなのだ。
そして身の置き場を社会から排除することが、現代日本の第一命題なのだ。
要するに、日本という社会全体が身の置き場がなくなってきているという事である。

一部の人間達が、絶望し黄泉の世界へといってしまう。
それを意に介さず、自分たちの「現実」の中で、都合よくルールを作り変えるものたちがのさばる。
こんな国に生まれたことを後悔する人がいても全く不思議ではない。

社会の小さくない問題は、全体の問題なのだ。社会とは繋がりで作られている。
誰かの横暴は、誰かの不幸につながる。誰かの富は、誰かの貧困につながる。
それを考えようともしないし、考えられなくなった。それが現代の日本なのだ。

およそ、一度崩壊する他なさそうなのだが、その時が何十年後だろうか。
閉塞感しかない社会に転がり落ちそうな今。まだ何かできそうな気がするがゆえに
このような記事を書く。

実際、一部の人々はもう行動を始めている。それはかつての現実から抜け出る事。
そして、よりヒトらしい価値観に生きることだ。それ以外に道はない。
それには若者たちが、愚かしい老人たちの政治などスルーして、本質的な考えに
立ち返る必要がある。

ちょっとの常識を働かせて、我々は元来の世界を取り戻す必要があるのだ。
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