イントゥ・ザ・ワイルドを観て [その他]

あまり映画については語らないのだけど、10年ぶりくらいに見返したので、
感想をかいてみる。ネタバレがあるので、読みたくない人は避けてください。


知っての通り、実話である。

この話のストーリーは単純で、親の関係性により自分の拠り所がみつからないまま、
大学を卒業した若者が、アラスカという大地を目指すロードムービー。そして、
アラスカで、運悪く命を落としてしまう。

表面だけをさらえば、自分探しの旅にでた若者が、結局、荒野で戻らぬ人になったという
無謀な話に聞こえるだろう。

しかし、中身をじっくり吟味すればそれは単純すぎるといえる。

映画ではテーマがある。
この場合のテーマは、愛なのだと思う。そして許しだ。

主人公は苦悩する若者である。
両親によって傷ついた男である。彼は、何かを求めて旅にでた。
そこにいわゆる自分探しがあったとは私は思わない。
むしろ、知りたかったのは生きるとはなにか?という問いだったのだろう。
そして、彼の行き着いたシンプルな解は「幸福とはシェアすることだ」という事実だ。
このセンテンスを知るだけでもこの映画の価値はあると思う。私も、この1つの答えに賛同する。

何かを知ったら、それを誰かに知らせたくなる。
それは非常にシンプルな行為だと思う。喜びだと思う。
そして、実をいえば、人の存在意義はそのあたりにしかないのかもしれない。

行為として単純化してしまえば、ジーンとミームを残すこと。
我々がこの世界に残せるのはこれらだけだ。あとは土に還るのみである。
人生に意味を求めると、究極的にはこの2つに収斂する。

人体を維持するためにある生理的欲求。
それを除けば、我々には性欲しかない。性欲を満たすことは快楽であるが、
その欲求の結果は、ジーンとミームである。生命とはそういう風にできている。

この映画の主役であったクリスは、何を残したのか。
あのバスの中で、大きな後悔を味わっていたのだろうか。
それとも、荒野生活にたどり着くまでに得た多くの経験に満足したのだろうか。
雪解けで渡れないほどに広くなった川。食糧難になるという計算外。
食べるものを見つけようともがいた末に、毒性のものを食べてしまうという失敗。
決して、成功とはいえない結末だったのではないか。

なぜアラスカなんて目指したのだろう? 父や母をどうして許せなかったのだろう?
強い自問自答があったはずだ。そして、こういう結果になってしまったことをどう
受け止めたのだろうか。いや、そんなことを考えられないくらい病気は苦しかった
だろうか。

初めてこの映画を観た時に感じたのは大きな絶望感だった。
彼の行為に一体どんな意味があったのだろうか。死んでしまったら元も子もないじゃないか。
こんな風に生きては駄目だと思った。それが正直な感想だった。

ところが今、自分はそれだけではないと感じてきている。
いや、実のところ彼の人生は無意味なんかではなかった。
少なくとも、彼の生き方が書籍になり、映画になった。
そして、遠く離れた島国に住む私に影響を及ぼしている。

そう、彼の残したミームは確かに伝搬したのだ。

彼の行動に賛同できない人も多いだろう。けれども、彼の行動に対して感じるなにかは
決して看過できないのだ。自由への憧れ。いや、およそ彼に絡みつく様々な社会的な事から
彼は逃れ、人間になりたかったのだろう。そのために一人で何ができるのか、人生の意義を
探していたのだろう。誰かが作り上げた道をそのまま歩く人生を否定して。

この映画をただの自分探しの旅とみるのは、およそ変だ。
彼が探していたのは自分ではない。人生を探していたのだから。
自分に張り付いている社会的なものを剥ぎ取ろうとしていたのだから。

彼の結末から、気がつくのが遅かったとか、未熟であったとか、
金持ちの息子の無謀さとか、中二病などと批評する人々がいるのは理解できる。
だが、そんなものは薄っぺらな感想である。何も映画を見ちゃいないからこそ、
そういう批判が出てくる。

いや、むしろそのように批判することで、自分が如何に文明社会の日常に埋没し、
人間関係に嫌気がさしながらも、自分を無理やり納得させ、人生こんなものだと嘯いている
自分を肯定しようとしているだけなのだ。自分のあり方に明確にNOと突きつけれらた
人間こそが、上記のような感想を抱くのである。その意味ではこの映画はおそろしいのだ。
未熟な人間こそがあぶり出される。

人は生きて死ぬ存在である。現代人らしく生きると、すぐに自殺でもしろということになる。
人生を効率的に生きるとは要するに生まれてすぐに死ぬことだからだ。それでも死ねないなら
ば、合理的で効率的な生き方を否定しているのだろう。それは、クリスと全く同じではないか。

成熟した人は、この映画にひとつの生き様を確認するだろう。
良いとか悪いとかではない。一人の人間が自分に正直に生きたという事なのだ。
結末の残念さは、我々が抱くクリスへの愛情なのだ。彼に生きていてほしかったと
望むのは我々なのだから。その思いが生まれるのに十分なほど、クリスの生き方は
美しい。そして儚かったのである。

もう一度、ジーンとミームを考えてみる。
人生の意義はジーンとミームなのだろうか。違うと私は思った。
生きがいを求める心は理解できるが、それすらも、本質的は人生の意義ではない。
そう思ったほうが「人生が楽になる」という話なのだ。

幸福は誰かと共有した時に本物になる。クリスはそう書いた。

だが、必ずしも「誰かと共有しなければ幸福ではない」という事ではないだろう。
私は、ジーンやミームを残す事という考え自体も1つの思想に過ぎないと思う。

命は存続を願う。太古の昔から人々は命の永続を望んできた。
生命とはそう宿命されたものだ。その方向性に向かって進むように設計されている。
それが延長されて、ジーンやミームとなる。自己の肉体は滅びても、世界に何かを
残したい。それが可能なのは、ジーンやミームである。

でもこれは、実は命の欲求ではなく、意識の欲求にほかならない。
ましてや、自己意識の存続を願うというだけにほかならない。
一種の文化ではないのかとすら思う。

確かな自己。それを信仰しているからこそ、自己の喪失が怖いのだ。
かつての社会に現代ほどの自己などあったのだろうか?

自己の存続という観念の中に、どこか、功利主義が混ざり込んでいる。
残さなければ損であるというような観念である。死んでしまえば、どうでも良いことなのに、
残さないことに未練を感じてしまう。それは何か? 本来的に生命が志向することなのか。

我々は生かされている。この厳然たる事実をうっかりすると忘れてしまう。
何かの力によって生かされているのであって、自意識的に生きているわけではない。
それがいつの間にか、生きている事が自分の権利かのように考えるようになる。

そして、生きているという事を棚に上げて、社会的なことに熱を上げる。
社会的な事が人を幸福にすると信じているからだろう。
他者が自分を幸せにすると信じているからだろう。

答えはもう出ている。
我々は、生きているだけで良いのだ。身体が存在するのは世界に望まれているからだ。
世界に許容されているから存在できるのだ。ならば、それ以上の理由など何が必要
なのだ? 我々はそこからスタートできる。その上に、社会が生み出す幸福が存在するのだ。

クリスの言葉はスタートだったのだ。私はそう思う。
Happiness only real when shared.
この文を、人間関係に限定するべきではないと思う。これは世界とのあり方を述べたのだ。
それこそが、クリスの信念ではなかったのか。

人は一人では生きられないという意味ではない。
命あるものは、すべからくシェアしているのだという事なのだと私は解釈する。

Life only real when shared.

私にはこう聞こえたのである。
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