何でも答える事は、本当はおかしい。 [思考・志向・試行]

当たり前だが、人には限界がある。
だから、分からないことがあるのは当然である。

一方で推測することはできる。だから、答えらしきものを作り出すことは可能である。
そして、それは常に可能なので、小賢しい人はあらゆる事に答えを出せると思っている。
そんな事はありえないのにだ。

そういう意味で、知りもしないのにそれに答えようとする人は信頼はおけない。

例えば、コロナについて。
当たり前だが、コロナは新しいウィルスである。であれば、その性質について
正確なことを言える人は誰もいない。だから、コロナに関する事、例えばその起源や、
感染経路やその病気の強さ・持続性・後遺症その他もろもろを正しく知り得るはずはない。
ましてや、何が効果的な対策なのかもわかるはずがない。

それなのに、なぜかコロナをわかったかのように解説する人々がいる。
そして対策を話す人間たちがいる。
それに対して、疑問ももたずにそれらの言説を信じ込む人間たちもいる。

おかしい話だろう。

これは些細なことでも同じである。
例えば、音楽家でもないのに、音楽を語る場合に、どれほどの見識を期待できるだろうか?
音楽論をたれるその行為は、果たしてどんな意味があるというのか。
世の中の言説をよく見ると、その手の行為にあふれている。

別にそれらの批評なりが無意味であるとは言わない。
しかし、それらは一人の個人の意見に過ぎないと理解されなければならない。
私達はついぞ、見識を期待する人に様々なことを聞いてしまうが、
それはそれであろう。

ビートたけしは凄い人であるとは思う。そして見識もきちんとあると思う。
けれども、彼に政治を語ってもらうことやコロナの対策の意見を聞くことに
どれほど妥当性があるのかは別問題であろう。

更に加えていえば、ビートたけしがお笑いを語るとしても、その見解が唯一無二になるわけではない。
異なる意見がでてくるのは当然であって、その違う意見をねじ伏せたりすることは、行為がおかしい
のだ。

とはいえ、みんな自分が可愛いし、プライドがあるのだろう。
自分と違う意見を受け止められるほど器量が大きい人は多くない。
そして、くだらないことを咎めて、うだうだと批判するのである。

また、どんなに大物でも、全てを理解するわけではない。
ビートたけしがお笑いの全てを語れるわけでもない。
だからこそ、わかることとわからないことを明示することには意味がある。

「わからない」と言わない人は、自己を守るのに必死なのだと思う。
そして、可哀想な人なのだろう。

私の周りにいる知性化の権化たち(大学の教授や研究者)は、ボロをださないように
話す事を商売としている。自分は何でも知っているという態度をとる。知性化の慣れはてだ。

そして、自分の見解とは違うあさってな事をいう人間を、見下す態度をとる。
極めて傲慢な態度の人間がいる。それは表面に見えないことが多いうえ、相手によって
態度が違うので、必ずしもコンセンサスはとれないが、実に人間性を喪失している。

正直にいってそこに心休まる世界はない。彼らがその名声とは裏腹に不幸な人間であることは
よく知っている。自分で築いた垣根を超えてこないものは駄目と烙印し、超えてきたものも、
自分を超えてはならぬと押さえつける。そうやって権威を作り上げていく。

安富氏が「東大話法」という本をだしていたが、まさにそのような作法を身に着けた人が
教授をやっている。それははっきりいって、幸福への道ではない。それは処世術に過ぎないのだ。

学問的な知とは、言語を振り回し、体系化した世界は、極めて抽象的であり、その本質は
「自分」に過ぎない。脳機能のあり方を明示的に外側へ表現しているにすぎない。そして、それを
共有化するには、結局、定式化する他無く、その定式化の作法をみにつけた人間がそれを理解して
いるだけだ。その狭い世界で楽しんでいるというのが、知的な世界である。

だからなんだというのだろう。それは自分たちのこさえた垣根の話である。
その垣根の中を色々耕したという事だ。それに興味を持とうが持つまいが他人の勝手である。
だが、知性化の権化たちは、それに興味をもたぬものを見込みなしとして排除する。

これは知性化に限らない。職人という人間たちにもいるのだろう。
そして、自分たちにとっての思考のお作法をみにつけた同士で仲良しこよしを繰り返している。
私には、それは趣味の問題であって、本質の問題ではないと思う。要は勝手にやっていれば
良い。とだけ思う。

私が憧れる知性とは、ネイティブ・アメリカンや縄文人や先住民たちの自然に寄り添った知である。
デルス・ウザーラという黒澤の映画を知っているだろうか。デルスは森に住む猟師だ。
彼の知恵は自然を生きるためにある。このような知性に対して、抽象化の慣れはての知性の
なんとも乏しいものか。自然の知からは、静と動が共存した大きなダイナミクスを生じる。
一方で、人の脳で生み出された知とは、なんとまあ線の細いものしか生じないのか。

話を戻そう。
ともかくも、何でも答えられるという態度はおかしい。ましてやそれを基準に他者を
評価する態度はもっとおかしい。他者が仮に間違えていようとも、他者を評価するに足る
人間など誰もいない。誰もいないのだ。

そして、私はこの本来的に不可能な事をしているからこそ、人間組織はつねに争いが続くのだと思う。
その争いに勝つために「なんでも答えられる」という態度を身につける。はっきりいって、
洗脳された可哀想な人々であるが、それは自覚不能なのだ。そこに自分のアイデンティティが
あるのだから。

人間はそんなことをしなくても生きていけるうえ、そんなことをしないほうがまともである。
どんなに素晴らしい成果をだす知性も、その知性を権威にすげ替えるのであれば、無いほうが
マシである。私の価値観はそういうものだ。

身の回りに知性化の権化がいる人は多くないだろうが、そういう人にあったら、
上記のことを気にするといい。プライドが邪魔で「わからない」といえない人種は
不幸そのものだ。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。