ポジティブシンキングの功罪 [思考・志向・試行]

はっきり言おう。ポジティブシンキングって、しょうもない。
以上、おしまい。


いや、もう少し補足しよう。
いわゆるポジティブシンキングには、2種類あるようだ。
特定の事柄に対して、プラス面を捉えようという意味のポジティブシンキング。
もう一つは、前向きな態度という意味でのポジティブ。

後者の意味合いでいえば、それは人間的なあり方という意味だ。
物事に悲観していると運が逃げるというような形で解釈される。
とはいえ、それは単純に人間関係という気もする。機嫌の良い人は周りに助けられやすい。
そういう事が、巡って、自分の希望の方向へ進みやすいという事ではないかと思う。

ポジティブシンキングの前者は、単純に「ものは考えよう」という立場になる。
どんな事柄にも良い面を見出すことは可能だ。しかし、それも程々にしないとだめだ。

例えば、社畜で働くサラリーマン。良い面だけ見るなら、雇用が確保されていて、
仕事ができる事は幸福と言える。立場は守られ、状況的には安泰だ。毎月給与が振り込まれる
なんて素晴らしいといえる。

一方で、その内実は惨めだったりする。やりたくもない業務を続ける日々。
一体この日々がいつまで続くのかと思うとうんざりしている。ましてや、
サービス残業が続いて、生活が犠牲になっている状態。これは果たして幸福なのか?と
問うことになる。

同様なのは、やりがい搾取だろう。憧れの職業についたとして、
その職業がろくに稼げないものだとしたらどうだろうか。
たとえば、〇〇ランドでのダンサーになった。けれども、アルバイト・パート契約であり、
社会的に保障はない。けれども、夢にみた職業である。ならば、そこで働くことに
自己満足がある。とはいえ、そこで働けるかどうか、その対価については会社側の
胸先三寸で決まってしまう。人気の職という事で倍率も高いのに、その対価は低く、
その分を、心理的な面で補うことになってしまう。やりがいがある職なのだから、
給与は低くていいよねと。本人たちも、やりがいがあるのだからと不本意ながら、
状況を受け入れてしまう。

これらは、要するにこの資本主義社会の矛盾によって生じている事。
そして、ポジティブシンキングとは、この矛盾を自分の考えで、自己矛盾を解消せよという
クソロジックだということだ。

社会と個人の関係についての考察はここに詳しい。
https://www.daiwashobo.co.jp/web/html/kizawa/12.html

そもそも考えてみて欲しい。ポジティブシンキングという概念自体が、欺瞞的である。
人生を楽に過ごしているならば、ポジティブシンキングという概念自体が生まれないのだ。

ポジティブシンキングを必要としている人は、状況がネガティブという前提がある。
要するに何らかの待遇上の不安や疑問があるのだ。それは分不相応な要求という事も
あろうが、大抵の場合はそんなことはなく、周りと比較した際のごく普通の疑問である。

そして、その不安や疑問を払拭するために、ポジティブシンキングが発動される。
すごく平たくいえば、「自分は今のままで問題ない」と言い聞かすという事である。
もしくは未来は明るいと自己洗脳したいという事だろう。

もちろん、そういう態度でいる事で事態が好転することもあると思う。
とはいえ、そんな風に考えなくては自分の心を支えられないという事実が変ではないか?
私はそう考える。そして、その状況に対して、はたして本人に責任があるのか?とも。

この社会がクソだとまず認識すべきではないか。その状況に疑問をもち、将来に不安を
もつのは、当然なのだと思う。その不安に打ち勝つために、社会的競争を乗り越えるという
のが、この世界での成功だというなら、そんなものに価値はないと思う。だが、それを
した人間たちは、その社会を維持しようと必死である。そして、事実彼らは自分たちに
有利な社会制度を日々、確固たるものにし続けている。

一方で、後から来たもの、おくれてきたものたちは、その仕組からあぶれる。
当然である。あぶれさせるための仕組みを作ってきたのだから。そうしておいて、
「お前らは試験にパスしなかったのだから、自己責任なのだ。」といい、
「努力が足りないのだ」と暴言を吐く。

これは全く不当である。およそ能力が同等であっても、後から来たもの、つまり、
世代が下の者や、諸外国から来たもの、もっとローカルにいえば、田舎から来たものに
対して門戸を狭くして、セレクションをかけるのは、既得権を持つ人間が必ずやる行為である。
それに対して、努力うんぬんは、ただの言いがかりに過ぎない。既得権を持つ人間は、
その横暴をこれっぽちも、反省しない。むしろ、そのような連中に囲まれて育つがゆえ、
ますますつけあがるのだ。

私はメリトクラシーなど、机上の空論だと思う。実際には、既得権益の分配構造があり、
それは人のコネクションの世界である。縁故であったり、血筋であったり、本人の能力そのもの
だけでは決まらないファクターで決まる。

ダブルスタンダードなのだ。みかけ上、努力すれば誰でも良い社会的地位に立てるかのようだ。
だが、内実はセレクションされる。その根本的な基準は「彼らにとって都合が良い人間」という
だけの事である。それは組織にとってと言い換えても良い。

日本という国であれば、国の維持に役立つという人間は優遇されるというだけのことだ。
会社であれば、会社組織にとって役立つという事だ。

どうしても暗い視点になってしまう。そもそも、我々はなんのために生まれたのか?
自分の存在性とはなにか? 多くの人がその実存にうろたえている。

確かに自分が工場につとめて、何らかの部品を作り続けて生きるとして、
一体なんのためなのだと思うのは当然であろう。
家族を養うためなら仕方がない。そういう部分で納得できる人も多いのかも知れない。
それを美徳とする人もいるのかもしれない。

果たしてそれは、事実なのか? 運命なのか?
私には多くの欺瞞でしかないと思う。

この欺瞞に気がついてしまうのは、私は不幸だとも思う。
そんなことに気をとられることなく、社会が提示する価値観にどっぷりと浸かるほうが
人生は圧倒的に楽だ。そして、そういう人間がまた、現状の社会維持に役立つ。

その一方で、そんなものはくだらないと世俗を離れる人もいる。
過去にも現在にもいる。幸運にも、それでも生きていける人もいれば、そうでない人もいる。

2つの道で引き裂かれてしまう。ひとつは社会に適応してどっぷりと生きること。
もうひとつは、社会と距離をとってひっそりと生きること。

私にはどちらもあまり良いものに思えない。その間をとるべきじゃないか。
そう直感する。少なくとも、現状の社会制度は国の維持にほかならない。
その社会で生かされている。家畜なのだ。

自覚した家畜。そこから逃れる事は、幸福か?
観測事象からいえば、家畜化したほうが圧倒的に楽である。
それは損得的にも心理的にもだ。そして、社会的競争を勝ち抜けたのならなおさらだろう。

このどうしょうもなさ。といって、一介の庶民に何ができるのか。
今日もその疑問を悶々と抱えて生きている。
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