物事のオモテウラ [雑学]

物事にはオモテウラがある。

良いことがあれば、およそ悪いことがある。
結局、片方だけをみる事こそが、「良いこと」であり、「悪いこと」である。

これで言いたいことは全てなのだが、続けてみよう。

金を儲けて嬉しい。そういうこともあろう。
だが、その金を巻き上げた事で、誰かが犠牲になっていないだろうか?
誰かの労働を搾取したからこそ、大儲けになったのではないか?

金とは負債である。よって、誰かの負債を多く手にいれたことになる。
ならば、その負債を抱えた人はどこで何をしているというのか。
およそ、働いているのだろう、その金のために。

もちろん、仕事に罪はない。むしろ、仕事にこそ我々は意義を見いだせる。
私達は他者に貢献するほかないサダメである。これを否定はできない。
社会的動物であるヒトは他者との関わりを抜きに幸福を目指すことはできない。

その他者との明示的関わりが仕事である。

その一方で、金が対価として発生する。本来は仕事に対するお礼として金であった。
その意味は、「この御恩は、この価格の分、私が労働する事でお返しします。」である。
金を受け取った人は、その金で、返礼を受けることが出来るという事であった。

だが、今や金の意味が倒錯してしまった。完全なる転倒である。
コペルニクス的転回とでも言えるほどの転換だ。
金は、労働の対価として手に入れると、皆が思うようになった。
そして、それが当然の権利にかのように。

金の意味が変わったために、人々は金を退蔵するようになった。
本来は、人が生きるために必要であった仕事が、無駄な事をするための仕事に変わった。
こうして、人々は多くの無意味な仕事を始めた。無意味なので、考え込むと危ない。
本当の教養も危ない。なぜなら、多くの仕事が無意味としれてしまうからである。

ともかくも、こうして、金を稼ぐことは「良いこと」になった。
そして、それはオモテウラを持っている。つまり「悪いこと」になった。

良いと強調されるほどに、悪さが存在する事を教えてくれる。

世の中に喧伝される良いこととは、悪さを帯びている事が多い。
本当の良さとは、結局、中道である。だが、この時代に中道など古臭くていけない。

多く人々が無駄と知りながら、金を多く稼ぐことで人生を潰していく。
私は、人生とはそんなものだと認識している。そして、人が時折、その中に、
良さを発見する。そう、人生を無駄に染めるという「悪いこと」の中に、
「良いこと」が見いだせるのだ。

結局のところ、物事は本質的に中立的である。そこに意味を与えるのは、
事物ではなく、私達自身である。私達がそこに意味を付与するのである。

ならば、我々はあらゆる事を、良きこととして認めることもできる。
また、あらゆる事をわるきこととして非難・罵倒することもできる。
これは価値観に過ぎない。

こう、前置きをして、私は批判を続ける。
なぜなら、私には価値観が存在するからである。その表明に関して、他者の許しは
いらない。私には私の考えがある。それは唯一無二である一方で、普遍的事象である。

自分軸で発言を繰り返す。そこには歴然と、良し悪しが織り込まれる。
それで良いのである。そうなって然るべきなのだ。

これが私の意見である。

物事にはオモテウラがある。私はそれを知っている。だからこそ、私は言葉を紡ぐ。
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