スポーツの弊害 [雑学]

スポーツは好きである。実直に言えば、得意な方である。
平均から常にできる側にいた。

だが、スポーツにまつわる人々は大嫌いである。
大抵の指導者はクソであった。

なぜにも、こんなに乖離があるのか、私にはわからない。

少年の頃に、スイミングとサッカーと剣道をやっていた。
だが、どれもこれも嫌いなのは指導者たちであった。
そうして、すべて嫌になって、今の趣味はギターになった。
むろん、音楽の指導者も嫌いである。

技能系の指導者はたいてい、怒鳴り、脅す。
選手を追い詰めて、苦しさを与え、それを克服することで、強くなると思っている。

ある側面では正しい。人は自力で自分の限界を超えるのは
難しいからだ。だが、コーチが選手を脅すことで限界を超えるような
ことをやっても、最後に待つのは破滅である。

かりに競技中には、良い成績をだすかもしれない。
だが、その後の人生において与える心の損傷は戻ることはない。
多くのスポーツ選手が過剰なトレーニングによって、力を得る一方で、
精神的には脆弱になる。

本当のトッププロたちは、そんな形での指導で生まれた試しはない。
大抵のプロたちは、褒められて伸びたのであり、負けず嫌いによって駆動された
努力によって才能を発揮するのようになったのであって、指導者が怒鳴ったからでも
なければ、脅したからでもない。

そもそもにおいて、脅されて発揮される力など、ただのバカみたいな体力程度のものだ。
体力が拮抗したら、スポーツで上回るのは知力である。そして、知力をもっとも阻害するの
脅しである。

これは脳科学的に証明済みである。脅しによって駆動される闘争か逃走かという衝動は、
大脳の活動ではない。皮質下の興奮に強く左右される。パニック状態の人々は力こそ
発揮するが、知性的ではない。これだけで説明は十分であろう。

よって、脅しが通じるのは体力で上回れる場合だけである。
日本のスポーツでは、指導者に気に入られるのは、結局、ガタイが良い選手になりがちだ。
ガタイが良いとは体力で、相手を上回れるからである。そしてコーチという愚昧な指導者たちは
体力増強にしか能力がないが故に、ガタイを良い選手を欲するのである。

ガタイの良さに頭の良さが加わった時始めて、強さを発揮できる。
スポーツの種類によっては、ガタイよりも知性がものをいうスポーツも少なくない。

一流になるには、ガタイと知性が必要なのである。
そして、日本の大抵の指導者たちは、ガタイだけにアプローチして、知性にアプローチが
出来ないのである。

むろん、まれにはそういう指導者はいる。駅伝の原監督がなぜヒョロヒョロの青学の
メンバーで勝てるのか。それは戦術であり知性を使うからであろう。

日本の体育の背後には戦争がある。
戦後に、職にあぶれた将校たちは、学校の先生になったのだ。
そこで一体どんな事が行われたのかは、想像するだけで十分であろう。

そうやっていじめられた人々が、今度は指導者となり、選手をいじめている。
いじめる=指導という人の尊厳をつぶすことを繰り返している。

いじめとなるかどうかは、最終的には指導者と選手たちの間にある信頼感であろう。
だが、年端が離れた子どもたちと指導者の間に、そんなものは発生しない。
だから、つねにいじめ指導が前面化されてしまうのだ。

私には、嫌いな指導者が必ずいた。彼らは口で説明しようとしない。
いえばわかる事をいわない。態度で強制する人々であった。
今ならわかる。彼らは単なるハラスメントをする人々であったわけだ。

スポーツ業界には少なくないハラッサーがいる。
そうして、私はそのようなものを帯びる人間たちを憎んでいる。

日本社会は、体育会系の集まりに近い。
ホモでマゾな社会である。なぜこれが正当化されたのか。

こちらも、「ガタイ」の良さのように、体力で勝負する部分がビジネスにあったからである。
ホモマゾな人々は、質より量で業績をだしてきた。だから、質を疎かにする。
つまり知性をバカにしてきたのである。

結果、日本はどうなったか。知性を働かせなければならない情報ビジネスにおいて
明らかに負けた。スポーツと全く同じである。

今回のオリンピックで、良い成績をとっているのは、どういう人間たちか。
それを見ればわかるだろう。それはおよそ若い選手達である。
ベテランは、劣勢に立っている。なぜなら、体力で勝負する癖があるからだ。
体力が同等であれば、差がつくのは知性である。

日本の若い選手たちは合理的なトレーニングをしてきた人々である。
一昔前の根性トレーニングではない。だからこそ、接戦となった時に、
知性で勝負ができるのである。体力だけで勝てるものではないのだ。

また、メンタルの問題も大きい。

コーチに脅されてきた人々が、どうして試合において、積極性を出すプレイを
するだろうか。当たり前だが、脳という観点から見ても、矛盾がひどい。

指導者の個人的なストレス解消が、選手の能力向上になるのは途中の段階までで
あって、その後は、選手の気持ちが問題なのである。

創造性は管理とは正反対なのだ。選手を管理しておいて、勝とうだなんて虫が良すぎるのである。

結局、力を発揮している人々は、過剰なストレスに晒されていない人々である。
それはスポーツでも、ビジネスでも同じことだ。

アメリカの体操選手がメンタルを理由に棄権をした。
私には賢明な判断だと思う。

自分が好きでやってきたことが、いつしか、他者を喜ばすための義務になってしまった。
大会が立派なるほどに、他者からの期待は増えていく。それを自覚するほど、動きは
固くなる。固くなった動きを意識すればなお、身体は固くなる。それは小さなミスを
呼び、全体のパフォーマンスを落とすだろうう。

オリンピックに出ている選手のどれくらいが、能動的に頑張ってきたのだろうか。
他者からのプレッシャーがどれほどあっただろうか。
そういうものがない人間ほど、プレイは楽になる。若さとは、そういう集中力を後押しする。
視野の狭さがかえってストレスをシャットアウトする。

実力があって無名な人が良いパフォーマンスをするのだ。

一方で、社会的なストレスを受け止めてしまうと、大変である。
ましてや、勝たなければならないと力むと、身体は萎縮する。
失敗が許されないと思うと、失敗してしまう。身体はそういうものである。

愚昧なコーチはこの失敗をなじる。
その指導に意味はない。無意味である。ただの儀式に過ぎない。
だが、その儀式が大好きなのが体育会系なのだ。

そうやってストレスを生み出しておいて、「社会は厳しい」などとのたまう。
厳しいんじゃない、愚昧なのである。私は断言できる。
社会は厳しいという言葉は、思考停止の愚昧さから発生している。
「甘ったれるな」という言葉をいう大人を信用してはならない。
それは、立場の違いであって、中身など無い。

あらゆる活動は、ただうまくいくかいかないかである。
うまくいかないのにはそれなりに理由がある。それを正すかどうか、それだけだ。
それは、甘いとか厳しいとか、そういうこととは無関係である。

スポーツの競争には意味はない。私はそう思う。
それは楽しむものであって、競争すべきものではない。
競争が発生したことで、あらゆる精神的トラブルが発生している。

それはまた、金銭で競争する資本主義でも同じである。
争いを奨励する仕組みなどクソくらえだ。
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