悪について [思考・志向・試行]

姜尚中氏の「悪の力」を読んだ。

悪とは何かを考察している。
決定的な主要因について、明示化されないが、
根本原因の一つを「世界との自我とのミゾ」と表現していた。


悪が生じるのは、正義と正義の戦いの時だ。実をいえば、どちらも正義である。
視点の違いが、立場の違いをして、他者を悪と呼ぶ。それが悪である。

だが、大抵の場合、アンチが発生するだけの理由が存在する。
なぜ革命を叫ぶ集団が現れるのか。それはイデオロギーではない。
感情の問題である。イデオロギーはただの大義名分に過ぎない。

ではどういう感情か。
それが、姜氏がいう世界と自我の分断から生じている感情である。

恐怖、不安、憎しみ、恨み、嫉妬、怒り。

これらの感情こそが悪を形成する。
正確に言えば、アンチ正義を形成する。

例えば、公民権運動を始めとする、黒人解放運動は、
既存の社会に対するアンチ正義として発生した。
その根幹にある感情は、怒りであろう。

何に対する怒りかといえば、社会からの排除である。社会システムから排除され
虐げられた人々は、怒りをもつ。その怒りが、アンチ正義となって人々を動かす。

これはアンチ正義に利があると認められるケースである。

一方で、同じように社会からの断絶は、いわゆる悪を形成する。
中東におけるISを始め、あらゆるテロ行為は、悪となる。

ちなみに多くの人々が全く勘違いしているのは、
デモとテロの違いである。これは全く違う。ミャンマーに広がる民主化のデモは、
テロではない。デモとは既存の社会体制の上における主張である。アンチではない。

一方で、テロは明確なアンチである。既存社会の破壊を試みているからだ。
その意味では、クーデターを起こしたミャンマーの軍事政権は悪である。
ちなみに現在の日本は、この悪について黙認中である。腰抜けであろう。


さて、悪が生じる根幹を考えよう。

我々は、祝福されて生まれてきたはずだ。
むろん、想定であって事実ではない。祝福されて生まれたはずが、
世界から拒絶をうけることはしばしば起こる。

例えば、現代社会のルールは、他者排除の論理である。
世界は、すべての人に椅子を用意はしない。だから、椅子を求めて競い合い、
それを奪うことが是とされる。そう出来ない人間は、自己責任という意味不明な
論理によって、排斥され、その行為は肯定される。

どんな子供だって、始めから排除されたかったわけではない。
社会のありようが、人を排除するのである。本人の努力不足ともいえない。
能力に差があるのは当然である。それはもともと折り込み済みなのだ。

ならば、社会は特定の能力のない人は別の能力において、
社会的役割を付与すべきなのだ。

だが、現代は、工業化された社会である。
工業化された社会では、規格化された人間が重宝される。
結果として、人間性を廃した歯車人間がもっとも利用価値が高いとして、
そのような人間がのさばる社会となった。

人間が社会から疎外されているのである。
マルクスは世界と自我のミゾを、疎外と呼んだのである。

疎外は結局、悪を生み出す。
悪の本質は、世界への同一化の叫びであり、それが拒絶されると、
世界自体を作り変えようという復讐が生まれる。そこに悪が発生する。

俺を受け入れないなら、破壊してやる。
そういう事だ。

悪事とは、結局、社会からの排斥に対するあがきであり、叫びである。

犯罪という観点で言えば、
過剰な自己肯定感や、自我肥大による。
これは、裏返しである。

社会から否定された個人は、自己の存在意義を失う。
この時、自己を作り変える。多くの人は、ここで社会が肯定する人間になるべく、
自己改造を行う。それによって、ペルソナを形成し、その仮面において
社会へと迎合する。社会はそれを大人とか成長などというが、それによって、
その個人を社会へ迎え入れる。

この強制力を強く受けた個人は当然ながら社会に恨みをもつ。
世にある小さな犯罪群は、この矯正に対する恨みから生じている。

こまった事に、矯正を強くうける個人とは、結局、未成熟な親による、
不当な扱いを受けた人々である。スポイルされた児童は過大な自我を
育てる。その程度が強ければナルシシズムや自己愛性の障害を帯びるだろう。
そして、幼児的全能性を発揮しようとする。当然、社会とぶつかるが故に、
強く矯正を受けるだろう。

その恨みを身近な形で解消しようとすると、いじめが発生する。
いじめとは、未熟な人間、不健全な人間が引き起こす、全能性を否定された
恨みに依拠している。

一方で、自己の存在意義を失った個人のうち、いじめも出来ず、
自己改造にも失敗すると、いよいよ存在性が希薄になる。
そのような自我が、生き延びるために、不可解な事件を引き起こす。

自己の存在意義を自分で賄うと、自我が肥大し、自己を神のように扱う。
自分は治外法権を得たと考えることで、自己の存在意義を作り出す。
この発想の極致は、殺人である。そこにあるのは、社会という世界の
破壊でもあり、自己の存在意義を作り出すという行為である。

このスケールであれば、大した事がない悪ではある。

ところが、全能性を否定され、恨みをもった個人が政治的な権力を得ると、
大変に怖いことが起こる。歴史的事例では、ヒトラーであろう。
ヒトラーは、父に虐待され、母に見放されて育った。
なんとか社会に受け入れられようと、画家を目指すが、それも美術学校の
不合格という憂き目に合う。こうして、世界からの否定を強く意識する
事になる。

世界と自我のミゾから、強烈な悪が発生したのである。
ヒトラーは自己の存在を肯定するがために、過剰な演出をし、
その演出にふさわしい大義名分を作り出し、自分の存在をルーツによって
補強するがため、民族という概念をこねくり回した。そこから純血という
発想と、その反動としてのユダヤ排斥という行為が生まれたのである。

ヒトラーが美術学校に入っていたら、あの惨事は違う形になったのだろう。

それほどに人は、世界との折り合いを求めている。

大抵の人は多かれ少なかれ、社会に恨みをもつ。
なぜなら、現代社会は個人のうちの一部だけを認めるという社会だからだ。
工業化された社会において有益な能力だけが肯定されている。

この圧力を意識して、うまく逃れるか、それとも迎合するか。
ともあれ、社会は個人を祝福するよりも、むしろ、査定し評価する。
そして、無能とみるや、社会から排除する。それを「自己責任」とよぶのが
21世紀の流儀である。

大問題なのは、社会が有用とする能力が、自己中心性であり、貪欲というどうしょうもない
性質という事である。そして、社会が否定するのは、協力や相互性や、愛情である。
なぜなら、現代社会は貨幣に支配されていて、貨幣はこれらの性質からは発生しないから
である。助け合いは、貨幣を媒介しない社会活動だからである。

こうして、社会はクソな人間たちを肯定し、マトモな人間を否定する。
平均的な日本人は、ここに妥協する。

家庭という役割において、男はクソな人間になることを求められる。
女はマトモさを担保する圧力を受ける事になる。だが、社会全体が資本主義という
クソな論理で駆動しているのに、マトモさを保持するのはなかなか困難である。

また、しょうもない男の相手を家庭で相手をする女性たちが男を見限るのは、
ある意味でまっとうである。

すでにこの世界において、マゾでホモな男社会はオワコンである。
けれども、そのようにしか考えられず、そのようにしか暮らす手段がわからない男どもは、
これを継続するために、右往左往する。幸か不幸か、権限は男の手にあるのだ。

逆説的言えば、男どももまた不幸なのである。
自己存在を世界に留めるために、自己改造したペルソナにおいてのみ生きる。
それが如何に破綻していようとも、それ以外に手段がない。

エヴァンゲリオンのシンジ君は、この社会への参加を拒否していた。
シンジは、むしろ能力はあったのだ。特殊な能力が。だが、その能力があることと、
その社会への参加を求めるかは別問題である。

日本に数いる引きこもりは、ペルソナを身につけるほど図太くなく、
といって、自己存在を求めて社会に復習するほどの怒りもない。
ただ拒否だけが、彼らの意思の発動である。それはある意味でマトモである。
けれど、それがマトモというのは、この社会のクソたる所以であろう。

既存の権力者たちは、世界との間にうまれた悪を、暴力装置によって抑え込もうとする。
権限をもつ人間たちは、この社会に適応した人間たちであり、その社会維持に勤しむ。
むろん、そのような人々に本質的な幸福などありはしないのだが、経済的に裕福である
事で、たくさんごまかせるのである。

社会を総じてみて、何が問題かは明らかである。
それは、生まれくる子どもたちを祝福する用意が社会に無いという事だ。
そして、社会は子どもたちの能力の一部分だけを利用しようとする。
その非人道的な行為は、当然、人の心を歪めていく。

歪みから漏れ出るのが、不平や不満であり、エスカレートすれば、犯罪となる。
それは社会に対する恨みをはらす行為である。

悪を社会維持に対するアンチと定義づけるならば、社会が個人に要請する圧力も
また悪であろう。最初に人々を悪へと誘うのは、社会そのものである。
そして、社会の影響を内面化した親たちである。

残念ではあるが、この社会を構成している人々が内面化した価値観が、
悪の本質である。人間がそれに気がついて、個々人がそれを修正することなど、
全く期待できない。ならば、時代が動き、今現在の人間たちが死に絶え、
新しい人々が、まっとうな人間になる事を期待する他無いわけだ。

悪は、世界とのミゾである。そのような狭間は、人生のあらゆる場面に現れる。
そして人を悪へと誘う。その意味では悪は必然である。

世界との切り離しは、人類特有でもある。それは自我である。
自我の発達とは、人の優位性であり、人の大いなる欠点である。
世界との切り離しを自我が担うのだから。

人は常に、悪と隣合わせに生きる。それが自我をもつ我々の運命といえよう。
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