日本人の心情と資本主義の矛盾 [思考・志向・試行]

日本社会がうまく回らない理由はなにか。
様々な問題が絡んでいて、結局、一言では言い表せない。
けれども、確かなのは、人々が資本主義に侵されていて、
金がなければ生活できないという社会にますます改変しているという事だ。

マルクスは労働が疎外されていると言ったわけだが、
我々は金によって、社会的な疎外を受けている。

そもそもにおいて資本主義とはかなり変な仕組みである。
非人間的なのだ。その起こりは、ギャンブルである。
大航海時代に、その冒険の資金集めが必要であった。
失敗する可能性があった貿易に出資してもらうには、仕組みが必要だったわけだ。
それが株式会社の起こりである。多く人が出資すれば、資本が集めやすい上に、
集めた資本の責任も減る。とりわけ有限責任という概念はこの仕組みを発展させた。

現代では、資本主義がよいものだと思っている人がほとんどだろう。
共産主義や社会主義を積極的に支持する理由はないと思い込んでいる。

だが、資本主義とは本質的に「ギャンブル」である。
株の売買は、ギャンブルじゃないという人がいるが、私には意味がわからない。
商売というのは予想できない利潤があるかもしれないという所にかける行動そのものだ。
それを普通はギャンブルというのではないか。

様々な仕組みによって、ギャンブル性を下げようという努力の結果が今の状態であって、
その本質はギャンブル以外の何物でもない。

あなたがどこかの企業に務めているなら、わかるだろう。
商品・サービスが売れるか売れないかは、ギャンブルである。
確実に売れるものなど存在しない。だからこそ、売るための努力をする。
宣伝・営業、それ自体が仕事であるという事が、ギャンブルを意味している。

ギャンブルという言い方が嫌な人がいるなら、それは不確定性という言い方でも良い。

現実が不確定性によって支配されているのだから、うまくいくかどうかは運の要素が
かならずある。

すると、資本主義に生きるということは、運が必要ということである。
運がよければ、儲かる。悪ければ、文無しになる。ただそれだけなのだ。

だとすると、資本主義で成功したければ、ギャンブルする他無い。
ここが肝心なことだ。ギャンブルするしかない。他に選択肢などないという事である。
人生を賭けに出すしかないのである。

賭けに勝った人が生まれ、負ける人が出てくる。当然なのである。
そして、勝った人は儲けた分でさらに賭けに出る。それを繰り返していくと、
突出した富豪がうまれるという事になる。

さて、ここで問題だ。
メリトクラシーの論理でいえば、勝った人はうまくやったのだから、その利益を享受する
権利があるというだろう。一方で、負けた人は自業自得だからと切り捨てられる。

資本主義とは、人生を賭けに使うというゲームである。
これ、良いものだろうか? 少なくとも全面的に肯定するような制度ではない。

しかしだ。日本に生まれたら、これに巻き込まれる。
そういう時代なのだ。

この時代に適合して生きるには、資本主義の生活スタイルにどっぷり浸かるほか無い。


これを知った若者は、なるべく良い立場を得るために、学歴を得ようと努力し、
株式会社の論理に迎合するようになる。そのほうが生き延びやすいのだ。
そして、そのように適合した若者たちが、社会をまた構成していく。

かつてのムラから脱出し、経済成長によって都市に出た人々が多くいた。
そこに裕福な暮らしがあると思ったからであり、彼らの考えによれば、それは裕福な
暮らしであった。

このような社会に遅れて生まれてきた、今の若者たち。
彼らは、全面的に煽りを受けている。

資本主義というゲームでは、個人はパーツとしての優秀さをアピールする場になった。
そして既存の社会に受け入れられる事が一大事になる。

既存の社会にいる老人たちは、使える人間を求めた。能力があり、従順で、便利な
道具としての人である。しかし、自分たちより能力があると困るのだ。

組織のマンパワーは縮小再生産される。でなければ、自分たちが組織から追い出される
からである。結果として、能力あるものは、身をひそめるか、バカバカしくて、独立する
事になる。一方で、能力がやや低いが従順なものが組織を運営するようになる。

こうして、大企業のような官僚組織は、次第に脆弱になる。

日本の根幹問題は、身の保身と組織の拡充というアンビバレントな状況において、
身の保身を優先させた事であろう。

株式会社はギャンブル組織である。そのギャンブル組織がギャンブルをしなくなったら、
終わるのは当然である。そのエネルギーはもっぱら若者たちから供給されるのに、
彼らを蔑ろにする仕組みを作り上げ、そうして社会全体を停滞させたのである。

東芝、シャープなど、名だたる企業が傾いた。当たり前なのだ。

問題は、国は傾いた企業に税金でテコ入れする事である。
資本主義の根幹は、ギャンブルに負けたものは、文無しになる理屈である。
だが、それが政治の力で歪められていく。

既得権益とは、ビジネスを関所化して、儲けの確実性をあげた状態のことだ。
本質的に儲からないので、いつ終わるかなのだが、それを延命するために、
あらゆることをしようとする。

例えば、リストラ。非正規雇用。政府による年金をつかった株価操作。

もう既存システムは終わっている。ラディカルな改革が必要な段階だが、
それは、多くの人々の犠牲によって延命している段階である。
そう、労働者たちである。

労働者たちは不当に給与を減らされている。
既得権益が利益を得るために、労働対価が減っている。

労働対価が減れば、生活に使える金が減る。生活に使える金が減れば、
社会の経済が滞る。当然だが、不景気になる。

現代は、2層構造になっていて、上部では金が余っていて、金が回っている。
下部では、金が不足していて、停滞している。

多くの人は下部に属するので、不景気を生きている。
一方で、上部の人々は金があまっているので、不労所得で生きられるようになる。

私は、この不公平はやはり是正されるべきだと思う。
もちろん、既得権益者たちがそれを許すはずはない。
国会に、この不公平を是正しようという人を送り込めば良いだけだが、
そんな人は当選しないのだ。制度上は、本気であればできるのだけど、
それを求める人は少ない。

なぜなら、みんな洗脳済みだからである。システムを自分たちで変えられるとは
信じていないからだ。本当はできるのに。というか、多くの人は、その可能性すら
1ミリも検討してないのだろう。

庶民は、仕方がないので、労働によって生きようとする。
目の前の暮らしを良くできればそれで幸いなのだと、半径5メートルだけを考えて生きる。
そうして、労働を搾取されていく。資本家が投下した資金で生み出された産業にわずかな
金で労働を使われていく。その労働者たちは子供を産み、彼らをまた労働者にしていく。

奴隷が奴隷を生産するのである。


それで幸せなら、それで良いのだろう。
こうして、庶民は常に使われていく。その対価をピンはねされていく。

この資本主義の原理からいえば、金持ちとはどこかでピンはねして搾取した人間である。
その人ではなく、祖先かもしれないが。資本主義の中で賭けに勝ったという事実は、
労働をうまく搾取できたという事になる。

現代の労働者が、子供を減らし続けているのは、決して偶然ではない。
マクロな意味でいえば、資本主義への抵抗である。原理的な作用である。
少子高齢社会とは、資本主義による当然の結論であって、問題ですらない。
当たり前なのだ。資本主義はかならず、少子高齢化させる。
原因は資本主義にあるのであって、人々にあるわけではない。

現代は、この問題を第三国の人々をつかって、補填している。
だからこその南北問題であり、そこから派生する政治問題なのだ。
人から搾取しなければ、資本主義は成り立たない。だから、他国の人々を搾取するのである。

経済格差をつかって、彼らを搾取する事で、先進国は国を維持している。
我々は、国という単位でみれば、搾取する側の人間である。
悲しいかな、労働者として日本で生きつつ、第三国の労働者を搾取している。

逆に見れば、うまいこと利益をあげるため、他者を利用しているという事でもある。
多くの人はこれを良しとしている。そこになんに疑問もない。


さてどうだろう。現状にて、なんとか普通にやれている人々は多い。
だから、別段、何も現状が問題だとは思ってない。人には慣れるという作用があるし、
我慢ならない状況においても、むりやり耐えるというだけのマゾさがある。
ならば、現状を維持さえできればいいのだと思っているかもしれない。

だが、これもまた幻想である。資本主義はギャンブルだ。しつこいだろうが、
繰り返そう。ギャンブルなのだから、常に、ギャンブルをする他無い。
そして勝ち続けるように努力する他無い。

もちろん、それは無理なのだ。必ず負ける。成功したら、負けが決まったようなものだ。
永続的な勝ちなどありえないのも、また資本主義である。だから、勝ち組たちは、連合して
勝ち続けるために仲間を形成する。俗に言う貴族である。現代社会にも貴族はいる。
みえにくいけれども、貴族たちは確かにいて、勝ち組同士で資本を回している。

庶民の目標は一体なんだろう?
現実の論理に従えば、貴族の仲間入りを果たす事が現世利益の最大化なのだろう。
だが、それは本当に必要なことなのだろうか。

勝ち組になった連中は、政治を買収する。そうして自分たちにとって都合が良いように
社会システムをいじっていく。こうして、力をつけた企業体には、多くの人が迎合する。

このシステムを登っていくには、かなり大変だ。だから、その抜け道を探る事になる。
いわゆる新しい分野である。それは現代でいえば、グーグルやアマゾンやアップルの事だ。
既存の人々の傘下に入らずに、経済活動を繰り広げることで、新しい搾取構造を作り出す。

その尻馬に乗りたい人々が、彼らに迎合していく。


さてどうだろう、そろそろ虚しくならないか?
既存のシステムにうまく入り込んだ労働者たちは、それなりに満足しているはずだ。
一方で、そのシステムに入れず、搾取される労働にしか就けない人々がごまんといる。
彼らの幸せはどこにあるのだろうか。

経済的なことではない形で、彼らは幸せを定義するだろう。
仲間や家族、地域性であろうか。

手先が器用で、力持ちであれば、ゼネコンで経済活動に組み込まれるだろうし、
地方であれば、車産業が彼らの生活基盤である。

親が土地を持たず、労働者で、財がない子どもたちの中で、知的能力がなければ、
かなり機械的な労働に従事することになろう。彼らの幸福はどこにあるのだろうか。

いや、そんなことは私には不明である。むしろ、全くの余計なお世話だろう。
彼らの幸福は、およそ担保されているのだと信じよう。

ともすれば、現状になんの問題もない事になる。
主観的に見れば、殆どの人にとって、システムの不備など、気にしても仕方がない事
なのかもしれない。私とて、理解したところで、どうにもならないのだ。
あとは、知った上で、自分がどのように振る舞うかである。


とはいえ、資本主義の根幹であるギャンブルは変わらない。
そして、それがゆえに常に変化を引き起こす。現状維持など不可能である。
これは理念でもなければ、理論でもない。ただの事実である。

日本人は現状維持という幻想を生きているのである。
だから、変化が訪れると、変化がなかったかのように振る舞う。
トラブルを否認するのである。しかし、それは不可能である。

現状維持をしたい日本人の心情と、資本主義は絶対的に矛盾する。
ここまで書いて、私が言いたいことはどうもそういう事だったらしい。
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