投資って。 [思考・志向・試行]

個人的には、金をハンドルする事を考えるのはあまり好きではない。
そういう意味では、古臭い価値観の一人だと思う。

ところが、投資がもっとも効率が良い稼ぎ方になっている。
それが現実的なところだ。

今の銀行金利はどの程度だろうか。
0.01%あるのだろうか?

https://hoken-all.co.jp/media/netbank-kinri/
ネット銀行では、0.001%程度らしい。

ほとんど、利子はなしというのが銀行である。

一方で、投資信託はどうだろうか。
少なくとも、数%はある。場合によってはもっとだ。
つまり、銀行に預ける(投資する)より、ずっと効率的である。

また、昨今ではデジタル通貨の取引や、NFTという個人通貨というべきものまで
出来てきて、投資が加速している。

加えて、証券会社などは少しでも投資をする人間を増やしたいのか、
アプリなどを使った少額投資サービスを始めている。

NISAやiDeCoなどもそうだが、金融業界全体が、とにかく投資を激しく勧めている。


現代の社会的体制は、利子を許容する。
かつての社会は利子を認めないところも多かった。ユダヤ教徒は利子は禁止であったし、
イスラム教もまた利子が禁止されている。ユダヤ人は高利貸しというイメージがあるが、
あれは、教徒外との取引において許容された利子である。

宗教がわざわざ利子を抑制しているということは、そこに強い意味合いがあることは
間違えないだろう。それは単に人民の救済というだけではなく、社会保護の意味がある。


私が思うになんか流行っているらしいから、
投資をしようというのは、思考停止も甚だしい事だ。
およそ、投資の実態を知らないから、そういう事が言える。

本質的に考えるべきは、投資の利子を一体誰が払っているのか? という事である。

資本があるのだから利ざやを狙うのは当然とか、
投資はありふれたことで、それをするのが資本主義じゃないかとか、
様々な言い分はあるだろう。しかし、中身を知っているのだろうか?

金の本質は「負債」である。あれはプラスの存在ではなく、マイナスの存在である。
貨幣がどうして金になるのか。それは負債だからなのだ。金があるということは、
誰かがその背後で労働を約束したという事である。

資本投下によって、利子を稼げるとしたら、その分を誰かが補填している事になる。

もちろん、借金が悪いというわけではない。
むしろ、借金という形式があるがゆえに、経済が回っている。

だが、利子は別だ。利子には本質的な合理性はない。利子が生じる根本的な理屈など無い。
あるというなら、教えてほしいくらいだ。金は腐らない。それゆえ価値が目減りすることもない。
ならば、なぜ金利が発生するのか。本来であれば、そんなものは生じるはずがないのだ。
多くの人が、利子を当たり前だと思っているがゆえに、それがまかり通っているに過ぎない。

では、利子を補填しているのは誰かといえば、借金をしている人である。
本来借りた金以上の額を返済せねばならない。それは労働の搾取である。

本来的に生じる労働による価値よりも、低く抑えた賃金があるがゆえに、
労働は搾取される。それが利益だ。その利益によって利子は返済される。
それが借りた本人でも、会社などの組織であっても、ミクロまで落とし込めば、
労働搾取の結果が、利子を生み出しているといえる。

短絡すれば、投資の利益は、誰かが過剰に働いた結果なのである。
それは労働の搾取である。

ここにきて、投資は急にグレーな存在になった。
つまり、投資をして利得を得ようという行為は、労働を搾取するということと同義である。

今の時代は、自分が労働を搾取されているので、自分もまた誰かを搾取してやろうという
事になったのである。そして、恐ろしいのはそのさきである。

他者から搾取されているのだから、自分も搾取しなければ均衡がとれない。
そう、投資をしないと損することになるのだ。得をしたいわけでなくても、
投資をせざるを得ないという事になる。

現代生活では、パソコンやスマホが不可欠になった。それはただのテクノロジーで、
使うか使わないかは、本人の自由であったはずだ。だが、今やテクノロジーの利用は
ほぼ義務化されてしまったようなものである。それが出来なければ、不利なことになる
のだ。

ならば、使えばいいじゃないか。という暴論が出てくる。
使うと得をするという話から、使わないと損をするというフェーズはかなり違う。
それは、端的にいえば暴力である。使わざるを得ないというのは暴力の一形態といえる。

これを類比するのであれば、投資もほぼそれになった。
つまり、投資をしなければ、損をしてしまうという社会になりつつあるという事である。
そして、儲かるのだからやればいいじゃないか、という暴論が出てくる事になる。


私が投資に躊躇するのは、増えた利子は誰が補填したのかが気になるからである。
誰を搾取したのだろうか。むろん、見知らぬ労働者である。
労働を搾取した人々がいて、その利益の一部が利子として還流する。
ようするに、投資で儲けたという事は、誰かを利用したという事と同義である。

金融業とは、いかにもシンプルな金貸しの話に聞こえるが、
本質は、労働搾取構造の一部に過ぎないというわけだ。
そして、このご時世では、一億総投資社会への移行が進んでいるというわけだ。

互いが、互いを搾取しあう社会の到来である。

互いが搾取するなら、おあいこだろうという人もいるかもしれない。
それは違う。お互い搾取するなら、その搾取の分をやめればいいだけではないか。

搾取の対象とは労働のことだ。人生の労働時間が、増加しても利益の増大は頭打ちになる。
その増えた労働時間の一部は、ただお互いに労働をしあって搾取しあっているがゆえである。

諸条件を同じであると仮定しよう。
誰かが8時間働いたとして、そのうちの1時間はまるまる搾取されるとして、
他の誰かもまた、1時間はまるまる搾取される。それを互いに相殺しているとしたら、
その1時間は果たして意味があるのだろうか? 労働者には仕事が増えるだけなのだが、
それで良いというのだろうか?

投資が増えて利率があがるとしたら、その利率分を稼ぐために、労働がハードになる。
そうして、なんとか稼いだ金を投資に回したとして、そこで生じる利子は、自らが
働くことで埋め合わせることになるのだ。

なんとも皮肉である。


この事実に目をむけると、安易に投資などと口にはできまい。
なんで仕事がハードなのか。それは投資するからである。
人生を労働にくいつぶされても良いのであれば、バンバン投資すれば良い。

むろん私は、それには反対である。だから、投資を両手をあげて行う気にはならないのだ。
損をしたくないからする。そういう後ろ向きな事でしかないのである。
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