非難とはハラスメントの事 [思考・志向・試行]

今日はとても蒸し暑い。昨晩はあまり眠れなかった。
そして、ふと気持ち悪いことを思い出した。
それは非難についてだ。

恐ろしいのは、自分が何げなく行為したことが、相手の琴線に触れて激怒される事である。
相手が全くの知らない人であれば、しまったなで終わる所だ。
しかし、ある程度仲良くなった相手からこれをやられると結構キツイ。

私は完璧ではない。当たり前である。人は不完全である。
よって、時に非難を受ける行為をするのは当然である。
それが人によっては不愉快にさせてしまうこともあるだろう。

問題は、不愉快に感じた相手がどういう反応をするかである。
不快なら不快を表現してもらえば良い。けれども、感情にまかせて、
人格否定をするのは問題がある。ただの言葉の暴力である。

もう少し細かくいえば、
・私が気づいてない事を理解していて、なおかつ、
 実は相手にとってのヴァイオレーションをしているという非難ををする事だ。
・場合によっては、相手がこちらの考えや意図を自分勝手に解釈し、それを
 断罪しているケース。
・そして、最後に私が悪いという罪悪感を押し付けることである。

実に意地悪である。このような非難はハラスメントである。


まず言える事は、そもそもこの非難を避けるのは絶対的に不可能である事だ。
原理上、不可能なのである。

実際に何か問題が起こり、それに対して相手からのフィードバックがない時、
本人は気づくことは困難である。分からないからこそやってしまうし、
気がついてないからこそ継続する。結果的に、そのヴァイオレーションは、繰り返される。
よって、事後的にそれを非難するのは、たちが悪いだけである。

次に言えるのは、あとからいくらでも罪を作り出せることだ。
その時に本当に何か問題があったのかどうかに無関係に、
今の時点で、過去を問題であったと解釈する事ができる。
ならば、どうして相手が悪いと言えるのだろうか。
問題がなかったことが、今となって問題になってしまうのだから。

加えていえば、相手の言動を悪く解釈するという事が起これば、
いくらでも非難の原因を作り出せる。

京都にはイケズという文化がある。
褒めてけなすというやり口の事だ。
言っていることと意味が違うというのがポイントである。

同様に、相手を非難する際にも、相手の言動を悪く取れば、
非難は可能となる。

すると、このような非難はとても不当であろう。
少なくとも、状態を良くしたいからしているというよりも、
非難がしたいから、しているというのが実情に近いのだろう。

難しいのは、こちらの非が明確な場合と、単に相手の基準が違うから生じている
価値観の違いなのかは、そこまで明瞭に分けることは出来ない。

ただ言えるのは、この場合の非難の目的はただ一つ。
相手に罪悪感を植え付けるという事だけである。

そこに改善もなければ、関係を良好にしようという意思も見当たらない。
そこあるのは相手に対する復讐である。

この手の行為は、およそ誰かにしかけられたがゆえに生じている気がする。
ハラスメントは連鎖する。私に対するハラスメントもまた誰かからの
ハラスメントの結果だと思う。




こう書くと、些か問題があるかもしれないのだが、今までの経験では女性からだけ、
こういう仕打ちを受けた。

男は気に入らない時は、その場で叱りつけるなどのアクションをとる。
一方、女性はそれを表面化することを避ける傾向がある。
きっと、それがゆえに、上記のようなハラスメントをある日突然に発動させる。

私はそれに驚き、戸惑い、悲しみにくれた。
こちらが悪いかのような主張は、しっかと考えてみれば、些かおかしいのだ。
そう思うのはこちらの問題ではなく、相手の問題であり、それを解消するには、
私に罪悪感を抱かせるのではなく、私を説得するほかないからだ。もしくは、
自分が変わるかである。

それが嫌なら、関係性が終わるだけである。

私が思うに女性がハラスメントを発動したということは、実は確信犯であると睨んでいる。
つまり、関係性が切れても良いと腹をくくったという事である。
そして最後に、今まで生じた不愉快を、相手にぶつけて、不満を解消しようとしている
のではないか。

私には、この事後的に自体を再解釈して、関係性を断つという論理が不可解で仕方がない。
しかし、そのような考えで、自体を推し進める人がいるのも事実である。



私は誰かが発揮する高コントロールなメッセージが嫌いである。
不満があるなら、説得する他無いのに、空気を読めとか、普通は気がつくだろうと
言いがかりをつける。その行為はひたすらに醜悪である。ハラスメントを駆使して、
相手に罪悪感を作り出すことで、他者を支配しようとしているわけで、
その根幹にあるのは、「私のいうことをきけ」という主張である。

時に特定の女性たちは、自分にとって都合の良い男を求めているかのようだ。
そして自分にとってのルールを絶対として、そのルール違反を責め立てる。
それは親しくなるほどに、顕著なのかもしれない。

そして、ときおり地雷を踏むことを繰り返すと、こちらも身構えるようになる。
どうにも、女性の不可解さとはこのあたりから生じている。そして、これは
ミソジニーの原因ではないかとも思われる。

特定の女性たちは本当に意地が悪い。どうしてそうなったのかは男にも原因があるはずだ。
男性の扱いにより女性たちは心に復讐を秘め、男を蹴散らし、男どもはミソジニーを発動する。
それを受けた女性たちは憤り復讐を、、、と繰り返されているのではないか?


私の中には、ハラスメントのトラウマがあるようだ。
そのトラウマが対人関係に影響を与えることがある。
「いうことを聞かないと、生存を脅かすぞ」という脅しの観念の事だ。
そして、その脅しを受けたときは、背筋が凍る。そういう軛が自分にある。
精神的な去勢感がある。

そして一時は、その関係性に屈しても、のちになると、強烈な復讐心が立ち上がる。
およそ、幼児期・児童期に与えられたハラスメントが、おとなになっても影響を
与えているのだと思う。この復讐が本人たちへと向かうのではなく、新しく関係を
もった他者に向かう時、ハラスメントは連鎖していく。

悲しいかな、上記の出来事は、私にとってミソジニー的傾向を強める出来事であった。
つまり反発である。でも、それは一般化されるべきではないのだ。

非難という些細な事柄が、社会的な傾向にまで向かう。
その根幹を断たなければ、いつまでも、人間関係の対立は進むのだろう。


追記;
 なんだかあまり嬉しくない事を書いてしまったなと思う。
 希望としてあり得るのは、どこかで連鎖を食い止めることなのだと思う。
 じゃあ、誰がそれをするのか?

 現在進行系で、ホモソーシャルな世界があるなかで、ミソジニーやそれに対する
 自己嫌悪による非難は、どうしても打ち消せそうもない気がしてしまう。
 けれども、この分野で有名な上野千鶴子氏によれば、それでもかつてよりかは
 マシになっているという。

 ならば、急激には変われなくても、徐々に変えていけば良いと思う。
 分かり合えない溝があっても、そこを架橋できると信じるほか無い。

 もどかしいけれど、女性たちが声をあげ、それを受けて男の振る舞いが徐々に変われば
 良いのだろう。男どもは、かつての常識ではなく、これからの常識を身に着けていく
 必要がある。簡単ではないけれど、徐々に気をつけるほか無いのだろう。
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