不幸せを求めて [雑学]
人は、幸せを求めて生きる。実に明快だ。
でも、それは正しいのだろうか? まっとうな考えだろうか?
ここで転倒してみる。そうだ、不幸を求めたらどうだろう?
不幸ってなんだろう。幸福の反対であるが、一様ではない。
およそ、借金とかDVとかハラスメントとか、そういった事柄だろう。
ここで考えたい不幸とはそういう事ではない。
幸せを求めるということは、必然的に不幸を求めるということじゃないかという
漫然とした気持ちである。
多くの人は、誰かとの幸福「だけ」を願いすぎている。
そんな気がする。
だから、ちょっとでも、思い描いた幸福が傷つけられたら、激怒して批判しあう。
でも、人との関わりって常に、良し悪しがある。この悪しについて考えたいのだ。
誰かと暮せば必ず、不満が出てくる。
その不満を相手のせいにして、罵りあう。
その心のそこには、自分は悪くない、相手が悪いのだという他罰性が横たわっている。
どうやら、その自己中心的な損得勘定が問題を大きくする。
そうではなくて、その不幸もまた自分の生活の一部なんだと
受け入れたらどうだろう? 不幸を自分は選び取ったのだと。
積極的に不幸をとるなら、どんな不幸なら許容できるだろうか。
流石に、借金まみれとか、病気がひどいとか、人間関係トラブルとかは許容しがたい。
けれど、日々のちょっとした不満なら、まだマシじゃないだろうか。
すべてがパーフェクトではないのだから、どこかを我慢せざるを得ない。
その我慢としての、不幸なら、それをもひっくるめて人生と言えるんじゃないか。
ならば、自分が好きな「不幸」を探そう。
この不幸なら、自分は受け入れられる。
きっと、幸福な人とは、そういう風に不幸を取り込んだ人なんじゃないか。
なによりも、損や得ではなく、自分が思うように過ごせる人なんじゃないか。
幸福とバーターにかけた不幸は、きっと我慢がならないだろう。
そうではなくて、不幸を許容することで、まるごと味わえば良い。
どうしょうもない不幸は避けるほか無いけれど、
日常の不幸を引き受けるのもまた、幸福への道なんじゃないか。
そんな風に思う。
でも、それは正しいのだろうか? まっとうな考えだろうか?
ここで転倒してみる。そうだ、不幸を求めたらどうだろう?
不幸ってなんだろう。幸福の反対であるが、一様ではない。
およそ、借金とかDVとかハラスメントとか、そういった事柄だろう。
ここで考えたい不幸とはそういう事ではない。
幸せを求めるということは、必然的に不幸を求めるということじゃないかという
漫然とした気持ちである。
多くの人は、誰かとの幸福「だけ」を願いすぎている。
そんな気がする。
だから、ちょっとでも、思い描いた幸福が傷つけられたら、激怒して批判しあう。
でも、人との関わりって常に、良し悪しがある。この悪しについて考えたいのだ。
誰かと暮せば必ず、不満が出てくる。
その不満を相手のせいにして、罵りあう。
その心のそこには、自分は悪くない、相手が悪いのだという他罰性が横たわっている。
どうやら、その自己中心的な損得勘定が問題を大きくする。
そうではなくて、その不幸もまた自分の生活の一部なんだと
受け入れたらどうだろう? 不幸を自分は選び取ったのだと。
積極的に不幸をとるなら、どんな不幸なら許容できるだろうか。
流石に、借金まみれとか、病気がひどいとか、人間関係トラブルとかは許容しがたい。
けれど、日々のちょっとした不満なら、まだマシじゃないだろうか。
すべてがパーフェクトではないのだから、どこかを我慢せざるを得ない。
その我慢としての、不幸なら、それをもひっくるめて人生と言えるんじゃないか。
ならば、自分が好きな「不幸」を探そう。
この不幸なら、自分は受け入れられる。
きっと、幸福な人とは、そういう風に不幸を取り込んだ人なんじゃないか。
なによりも、損や得ではなく、自分が思うように過ごせる人なんじゃないか。
幸福とバーターにかけた不幸は、きっと我慢がならないだろう。
そうではなくて、不幸を許容することで、まるごと味わえば良い。
どうしょうもない不幸は避けるほか無いけれど、
日常の不幸を引き受けるのもまた、幸福への道なんじゃないか。
そんな風に思う。
2021-07-16 18:02
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